「愛」の対義語は「無関心」であって、「憎しみ」ではない――長瀬健一は、時折そんな話をする。
愛が憎しみに変わるのはきっかけさえあればあっという間だが、愛している状態から完全な無関心にはなかなかなれない。そういう理屈だそうだ。

――おそらく、それは真実なのだろう。

あたしは誇り高き高遠家の人間。
この競馬界でトップ調教師の地位に立つのは、高遠家の人間でなければならない。
ずっとそう教え込まれてきたし、それが間違いだなんて思ってない。
高遠の人間は、代々そういう意識を持って、この競馬界を生きてきた。
祖父の次は父が、そしてその次は――ひとり娘のあたしが、その立場を守らなきゃいけない。
そう思って生きてきた。

それなのに――。

……長瀬は、父の立場と使命ばかりか、命までをも奪った。
最低の男だ。
あいつのせいで、あたしはたったひとりになってしまった。
遠い昔に母を亡くした上に、父まで亡くしたあたしは、誰にも頼れなくなってしまった。

でも、そんなことで弱音吐いてちゃ、高遠の名前が泣く。
だからあたしは、計画を立てた。
長瀬を競馬界から追い落としてやる。
絶対、高遠の名前を競馬界に復活させてやる。

競馬界で地位を得るために、あたしはまず厩務員になることにした。
そこから地道に経験を積んで、いつか調教師になって「高遠厩舎」の名を復活させ、絶対に長瀬厩舎より上に行ってやるのだ。
そういう計画だった。

……それなのに、運命はあたしに意地悪だった。
今にして思えば、本当にいろんな意味で意地悪だった。

厩務員になったあたしは、長瀬厩舎に配属されることとなった。
あの最低な男の下働きとして、あいつに頭を下げながら生きていかなきゃいけないなんて。
最悪だった。
でも、負けられない。あたしは高遠の人間なんだから。
あたしはとりあえず、長瀬に好意的な女を演じることにした。それで油断させといて、いつか地獄の底までたたき落としてやる。

長瀬は当然、あたしが高遠の娘だってことを知っている。自分が死に至らしめた男の娘だってことを。
それだけに、調教師と厩務員として初対面を果たしたときあいつがどう思うかは、重要な問題だった。やばいと感じるか、いとわしく思うか、それともそんなこと意識もしないのか――まあ、どれであってもあたしは納得なんかしないんだけどね。
だけど――長瀬は妙な男だった。あたしを見るなり、こんなようなことを言ったのだ。
「お前が来てくれてよかったぜ。俺は人間関係があんまり得意じゃないから、知っているやつだとほっとするんだ。……俺は、調教師だからって威張り散らすようなことはしない。仲間として平等に全員を見ていく。だから……お前も、俺を師匠じゃなくて運命共同体だと思ってくれると嬉しい」
「はい、そういたします!」
あたしはそう答えていた。
……当然、演技だ。演技に決まってる。

そしてあたしは、長瀬厩舎で働き始めた。
おそらく……っていうか絶対、厩舎の馬が勝ったとき心の底で文句を言うのなんて、あたしだけだった。
でも、やっぱり自分の担当馬が勝ってくれたりすると、嬉しかった。
長瀬の管理馬なのに嬉しくなるなんて許せない――高遠のプライドがあるなら、そう思わなきゃいけないのに。

働くうちに、外から見てただけじゃわからなかった、長瀬の意外な一面も見えてきた。
とにかくこいつは、ひとりじゃ身のまわりのことが何もできない。
ずっと独身通してきたんだから料理なんかお手の物なのかと思ったら、ただひたすら外食ばっかり。
着ている物は洗剤の香りがすごく強くて、結構清潔好きなのかと思ってたのに、実は洗剤の分量を量らずにたくさん使って適当に手洗いして、おまけにすすぎがいいかげんだから、それで香ってただけだって始末。
こんなズボラじゃ、お嫁の来手がないのだって当たり前だ。
だからあたしは、よく長瀬に料理を作ってやったり、洗濯してやったりするようになった。そうやって恩を着せておけば、あいつだって少しでもあたしに対する負い目を感じるようになるかもしれない。それが狙いだった。
「お前が家庭的な女で助かるぜ。俺じゃそんなところまで気はまわらないからな。いつもありがとう」
長瀬はよくそんなことを言ってあたしに笑いかける。
あたしが家庭的なんじゃなくて、あんたがズボラすぎるのよ――立場的に、また将来の計画のために言えないセリフを飲み込んで、あたしはそんなとき、さも嬉しそうに笑ってみせるのだ。

でも――。
4年前の秋、この厩舎にひとりの若い女が研修生としてやってきた。
篠崎真奈。
小さくてかわいくて、ちょっと生意気で――それが長瀬の「タイプ」だったのかどうかはわからない。
とにかくあいつは、真奈が来てから、彼女のことばっかり気にするようになった。
もちろんあたしはそんなこと面と向かって聞いたりしないけど、仮に聞いたところで、長瀬が答えることはわかってる。
真奈は、自分の同期生同士が結婚して、それで生まれた娘だ。やっぱりちょっと特別なんだろう。
あと、あたしは厩務員だけど、真奈はジョッキーだから、自分の若い頃を思い出すみたいなところもあるのかもしれない。
そのへんの気持ちは、わからないわけじゃない。
……だけど、あたしが厩舎に来たときの「全員を平等に見ていく」ってあのセリフは何だったの?
長瀬は、絶対真奈だけを特別扱いしている。
あたしが料理だの洗濯だのをどんなに心を込めてやったって、真奈がほんのちょっとあいつに笑顔を向けたときほどは喜んでくれない。
まるで、あたしは使用人で、真奈は自分の娘って感じだ。

娘――。
もし真奈が長瀬の娘だったら、あたしはこれほどまでにもどかしくはなかっただろう。
あたしは今の自分を育ててくれた家族が大好きだ。死んじゃってこの世にいなくても、その気持ちは変わらない。
だから、真奈が長瀬の娘なら、どんなにあいつが彼女を大事にしようと、あたしは何とも思わない。

だけど、やっぱり長瀬と真奈は他人なのだ。
年こそ30近くも離れてるけど、その気になれば結婚できる関係。
その立場はあたしだって変わらないはずなのに。
人を見る目はみんな平等だって、あれほど言ってたのに……。
だから、余計に理不尽だと思う。

実は真奈は、長瀬と篠崎真理子が不倫して生まれた子供だった……なんてシナリオはないものかな。
最近、どういうわけかあたしは、よくそんな想像をするようになった。

――そんな中で、不意にこんな気持ちになることがある。

できることならば、「高遠」の名前なんかもう棄ててしまいたい。
「長瀬」にはなれないとしても、プライドも栄光も必要ない世界の人間になりたい――。

でも、それはできない。
高遠の家に生まれ、唯一の生き残りとなったあたしには、この没落した状態から一刻も早く脱出するべく努力する義務があるのだ。

一刻も早く――。

あたしは、本当は何から脱出したいんだろう。

……胸が苦しい。
何がこんなにつらいんだろう。
何にこんなに迷ってるんだろう。

長瀬を追い落としたことで失うものなんか、ひとつだってないはずなのに――。

 

 

ジレンマ

(隠しシナリオ No.11)


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