五十嵐厩舎は、トレセンの南ブロックにある。私は私道を南に折れ、その前まで歩いてきた。
古めかしい字で『五十嵐敏生厩舎』と書かれた看板。これが五十嵐先生の人格をも表している。
馬の管理や調教にもコンピューターが一役買うようになった現代において、この厩舎だけが、昔ながらの方法を貫き通している。父親譲りの技術を誇りに思っているらしい。……もっとも、実際にそれでロマネスクのような活躍馬を出しているのだから、その点に関しては文句は言えないが。
私は古ぼけたドアをノックした。
「はい」
年のわりにしっかりした返事が来る。
「真奈です。お時間、よろしいでしょうか」
名前だけで、おそらく五十嵐先生は私が来た理由などお見通しだろう。
「構わない。入りたまえ」
が、そこで追い返したりはしないのが五十嵐先生だ。
「失礼いたします」
私はゆっくりと引き戸を開け、大仲部屋に足を踏み入れた。

「……その顔では、どうやら私の提案をまだ受け止めてくれてはいないようだな」
「当たり前です」
私はきっぱりと答えると、持っていたバッグから、数枚の紙を取り出した。昨日、データベースから取り出してプリントアウトしたデータだ。
『篠崎真奈と篠崎真理子の勝率の比較』。
この五十嵐厩舎の馬での勝率、有馬が行われる中山競馬場での勝率、有馬の距離である芝2000mでの勝率、人気別の勝率、枠順による勝率……ありとあらゆる方面からの勝率を調べ、私と母とで比較したものだ。
「これをごらんください」
私はデータを五十嵐先生に渡した。彼はすぐにそれに視線を落とす。
「現役年数の絶対的な違いがありますから、勝利数や賞金額では無理ですが、勝率でなら比較ができます。……いかがです? すべてのデータが、母より私の方が優秀だと証明しているでしょう。しかも、ロマネスクにはデビューからずっと私が乗ってきました。私が一番彼女のことをよく知っていますし、彼女の実力を最も発揮できるのは私に他なりません。私を降板させるというのは、彼女の力を50%カットするようなものです。それでも先生は、調教師として最善を尽くしているとおっしゃるのですか」
「……君には、私の気持ちは伝わらなかったようだな」
何を言うかと思えば、五十嵐先生は重々しくそうつぶやいただけだった。
「先生のおっしゃる意味はわかります。引退が近い母にG1を勝たせたいのでしょう。しかし、競馬は結果がすべてなんですよ。まさか、先生ほどの方がそれもおわかりにならないわけはないでしょう?」
少々生意気かなと思われるほどの言い方をすると、先生は私をまっすぐに見た。それに怯むことはなかったが、温厚な彼のものとは思えないその強さが意外ではあった。
「君が来るまで私が考えていたことを、教えてあげよう」
そして彼は言った。
「君がこうして抗議に来るだろうことは、想像がついていた。そして、私は君がどんな話をするかが気になっていた。その内容と真理子の気持ち次第では、今回のプランを取り消して有馬でも君を乗せる考えはあったんだ。……だが、君が持ってきた話は、私の期待を大いに裏切るものだった。それで、はっきりと決めた。今回の有馬は、真理子がどう言おうと、彼女で行く」

「先生!」
私は情けなく叫んでいた。
「私がいったい、何をしたというんですか!」
「それがわからない君だから、G1はまかせられないんだ。少し自分で考えてみたまえ。……さあ、もうここに用はないだろう」
そう言って、五十嵐先生はまた私を、例の強い瞳でまっすぐに見た。
反論が封じられる……。
「……わかりました。失礼いたします」
私は、不本意ながら五十嵐厩舎を後にした。それしかできなかった。

 

 

……私には、五十嵐先生が言ったことを考えるつもりなど、さらさらなかった。
私は何も悪くない。レースではもちろん、普段の調教も一切手を抜かず、真剣にロマネスクに接してきた。彼女は私のベストパートナーであり、仲間であり、運命共同体だ。それなのに先生は私の努力を認めてくださらないばかりか、私から彼女を奪って母にくれてやろうとしているのだ……。
こうなったら、私にできることはただひとつ。母に直接抗議に行くことだ。G1制覇のために娘からの乗り替わりを承諾するような母だ、何をためらう必要もない。
自分の携帯を取り出し、ディスプレイの時計を見ると、午前11時を過ぎたところだ。この時間なら、どうせ最愛の夫の厩舎に入り込んで、仲よく話でもしていることだろう。
私は、北ブロックにある篠崎厩舎を目指して、北に向かって歩き出した。

さっきの中心部の私道まで戻ってきたとき、見慣れた顔と鉢合わせした。
「あら、僚」
有馬に乗れることになったにしてはどこか神妙にも見える顔の僚が、トレセン入口の方から歩いてきたのだ。
……僚は返事をする前に、私の顔をじっと見た。
な……何よ。
歯を食いしばって精一杯の抵抗をすると、僚は少しだけ笑ってたずねてきた。
「どうした、真奈。何かあったのか?」
「いいえ、特に何も」
僚は頭は悪いが、意外に鋭いところがある。が、私は首を横に振って否定した。そう簡単にこの気持ちを理解されてはたまらない。
「ごまかすなよ。力になってやるぜ」
しかし、僚は優しげな瞳で私の心に踏み込んできた。親切の押し売りは苦手だが、相手が彼ではごまかしは通用しない。
「……あなたには無理だわ」
私はそう答えた。僚にどうにかできるくらいなら、とっくに私が何とかしている。
「どうした」
「僚。有馬でのあなたとの対決は、どうも先送りになりそうなの」
「あ、先送りか……」
感情が表に出やすい僚は、気まずそうな顔になった。彼も騎手、それが「乗り替わり」を示すことは簡単にわかるだろう。
「そうよ。昨日の夜に五十嵐先生が、今度の有馬ではゴールドロマネスクに私を乗せないとおっしゃったの。しかもその理由がとんでもないのよ」
「とんでもない……?」
「来年一杯で引退する予定のどこかのお年寄りジョッキーにどうしてもG1を、ですって」
「……」
私が言うと、僚は黙ってしまった。彼にも、私の言う相手が誰だかはすぐわかったはずだ。
彼は何を考えているのだろう。皮肉だと思っているのか、哀れんでいるのか……考えるだけ無駄だ。どっちでも私は救われないのだ。
――だが、僚は少しして、ためらいながら言ったのだった。

「……今回くらい納得してやれよ。それに、そんな言い方しなくたっていいだろ」

「あなたまでそんなこと言うの?」
私は思わず声を尖らせていた。話せば僚なら味方になってくれる……心のどこかにそんな期待を抱いていた私は愚かだったのか。
「言うさ。お前のジョッキー人生はまだまだこれからだけど、おばさんにはもう先がないんだぞ。馬の1頭くらい譲ってやろうって気持ちが、お前にはないのか?」
僚の方も槍を突き出してきた。私も負けずに応戦する。
「ないわね。何十年もやってG1勝てなかったのは、下手だったからよ。要領よくて数乗せてもらってるだけに余計ね。私のミスで降ろされるなら仕方ないけど、こんな理由でなんて……絶対納得できないわ」
「お前な……もっと母親を大事にしろよ! 世界にたったひとりの存在に、なんでそんなに冷たくできるんだ!」
「娘を大事にしない母親を、どうして大事にしてやる必要があるの?」
「……」
僚は黙った。勝った、と思ったが、感じたのは虚しさだけだった。所詮、争いは虚しさしか生み出さないのだ、と今さらながら理解する。
「お母さんが私を本当に大事に思っているなら、五十嵐先生に『私はいいですから、真奈を乗せ続けてあげてください』とくらい言うはずよ。それなのにあの人は、何も言わないで先生の申し出を受けた。あの人は……自分の騎手人生を納得いく形で終わらせるために、娘を踏み台にしたんだわ」

……僚の瞳に、やるせなさのようなものが浮かぶ。
だが、それはあくまで「のようなもの」だ。母親がいない、しかも父親と非常に仲のいい彼には、親に踏み台にされる気持ちなんか絶対に理解できるわけがないのだ……。

「悪かったわね、こんなくだらない話で時間をつぶさせて。それじゃ、用事があるから」
居心地の悪さを感じ、私はそれだけ残して、本来の目的地である篠崎厩舎へと歩き出した。
「あ……」
僚が今さら後ろから声を出したが、私は振り返らなかった。

 

 

北ブロックの中央あたりにある、篠崎厩舎。
月曜日以外、つまり仕事関係でここをたずねるときは、「お父さん」ではなく「先生」と呼べ……父はそう言っている。「篠崎先生」は私にいくつも騎乗馬をくれるから、私は騎手として毎週ここを訪れているが、月曜日に来たのはデビュー以来初めてだった。理屈では今日は「お父さん」「お母さん」と呼んでいい日なのだが、父は果たしてそんな取り決めを覚えているだろうか。
それを試すために、私はノックすることも声をかけることもせず、いきなり厩舎のドアを引き開けた。騎手の立場では非常に失礼な行為だ。

……。
不用心なことに、大仲には誰もいなかった。重要書類もたくさんあるのに、産業スパイ(競馬界を「産業」と呼ぶのかどうかわからないけど)でも侵入したらどうするのかしら。
「わあ、懐かしい!」
そのとき、そんな声が厩舎の2階から聞こえた。
……母の声だ。母が2階にいる。ということは、父もいるのだろう。
一度目を閉じて深呼吸をすると、私は階段を上っていった。
足音に気付いたのか、呑気な会話が途中で止む。
私はその真っただ中に踏み込む形となった。

ふたりは、床の上に古いアルバムを広げて盛り上がっているところだった。
「あら、真奈」
先に声をかけてきたのは、母の方だった。父は顔を上げて私を見るだけにとどまっている。が、ふたりとも「なんでここに真奈が」といった目をしている。そんなことにも気付かないとは思わないでもらいたい。
「私が来た理由くらい、わかってるでしょ?」
だから私はそう言って、アルバムをはさんでふたりの前の床に座り込んだ。生半可なことじゃ動かないわよ、という自己主張でもある。
「え……何?」
が、母は不思議そうな顔で目をパチパチさせただけだった。
「とぼけるのはやめにしましょ。……単刀直入に言うわ。お母さん、ゴールドロマネスクを返して」
「ゴールドロマネスク? 返して……?」
父も不思議そうな顔になり、隣の母に視線で「どういうことだ?」と聞く。
母は首を横に振った。そして私に向き直り、口を開く。
「……ねえ、真奈。それ何の話? 私、本当にわからないわ」
私は「怒り」とは無縁の人間だ……と、自分では思う。普通の人がこういうとき怒りを積もらせる代わりに、私はどんどん冷静になるらしい。
「とぼけないでと言ったはずよ。それとも、それさえ理解できないの? わかりやすく言ってあげましょうか?」
「言ってちょうだい。何が何だか……」
「お母さんが私から奪い取った、五十嵐厩舎のゴールドロマネスクの、有馬での騎乗権。それを返してほしいの」
「私があなたから有馬の騎乗馬を奪い取ったですって!? 何かの間違いよ! そんなこと、絶対にしないわ!」
母だけでなく、父まで顔色を変えた。……ちょっと、言い方が適切じゃなかったかしら。
「お母さんが自分から奪い取ったわけじゃないけど、結果的には同じことよ。……五十嵐先生は、引退前にお母さんにどうしてもG1をとおっしゃって、今回の有馬から私を降ろしてお母さんを乗せようとしてるわ。お母さんだって、そんな理不尽な話を受けたんだもの」

「待って! そんなの初耳よ!」

……母は焦った顔で叫び、私は心の中で時間が止まったかのようだった。まるで、母に私の時間を奪われてしまったみたいに。
初耳……つまり五十嵐先生は、まだその話を母にしてなかったということなの?
「五十嵐さんは……」
父が口を開く。
「ひょっとしたら、真理子にそれを告げるのをぎりぎりまで引き延ばそうとしていたのかもしれない。そんな話、真理子が承諾するわけはないから、『後がなくて断れない』って時期まで待っていたのかも……」
「そうよ! 私はそんな話、絶対に受けないわ! 自分がG1勝てなかったのは実力不足のせいだってわかってるし、第一あなたの可能性の芽を摘んでまでなんて……!」
「取ってつけたように言わないで。お父さんに合わせて言ってるだけでしょ」
母の気持ちは信じられなかった。
「真奈!」
父が厳しい目を向けたが、私は負けなかった。
「お父さんはどこかへ行っててちょうだい! 2対1じゃ公平に話ができないわ!」
私が強く言うと、父はもっともだと思ったのか、黙って立って1階へと下りていった。
「ちょっと……剛士くん!」
こんな年になっても自分の夫を「剛士くん」などと呼ぶ母の気持ちは理解したくなかったし、ことあるごとに父を頼るのも許せなかった。
「……私が生まれてこなければ、ふたりきりでずっと仲よく暮らせてよかったのにね」
だから私は、母との間に広げられたままだったアルバムを閉じ、そう言ってやった。
「何を言うの?」
「だってそうじゃない! 何があったって、気にするのはお父さんのことばっかり! お母さんの人生に私はいないわ!」
「いるわよ! あなたは正真正銘、私の娘だもの!」
そんなことは、言われなくたってわかっている。自分の30年後を見ているかのような、よく似た顔。これがなければ、自分は拾い子だったとでも思い込んで、少しは気を紛らすこともできたかもしれないのに。
「それに、有馬の件だって、私にはあなたの馬を取るつもりなんてないわ! あとで五十嵐先生に連絡して、そんな話は取り消してもらうから、それでいいでしょ?」
「もしさっきのお父さんの『真理子はそんな話、承諾するはずない』って後押しがなかったら、お母さんはそんなことを言った?」
私は聞いた。母は言葉を止めた。
「そうでしょ。仮に本当にそう思ってたとしても、それが100%じゃないはずよ。念願のG1を勝つチャンスをもらえるなら、私を押し退けてでも……そんな気持ちが、心のどこかにはあるんだわ。お母さんは、一度だって私を大切になんかしてくれなかったものね」
「真奈……」
「……お母さんの本音がそうである限り、話し合いしたって平行線よ。私はロマネスクさえ返ってくれば問題はないけど、それですべてが解決するとは思わないことね。失礼するわ」
私は立ち上がり、部屋を出て階段を下りた。
母は、追いかけてはこなかった。

「帰るわ。お母さんとは、二度と話なんかしない」
大仲部屋の椅子に座っていた父に、そう声をかける。
「あ、真奈……」
いざというときになると言葉が途切れる父。何を思っているのかはわからないが、それも私が気にするようなことではないのだろう。
「さよなら」
構わずに父の横を通り過ぎ、私は勢いよく入口の引き戸を全開にした。

――すると。

「僚……!?」

不覚にも、驚いてしまった。
なんと、ドアのすぐ外に僚が立っていたのだ。
彼もこの厩舎の馬を何頭かまかされているから、その用事で来たのだろうか。
「……失礼するわ」
気にする必要はない。私は僚の横をすり抜けようとした。
が。
「ちょっと待て。俺はおばさんと話をしに来たんだ。お前も一緒にいろ」
僚はそう言った。
母と話を……?
ということは、絶対に有馬の件だ。僚には関係のない話だが、彼には他人の事情に首を突っ込みたがる悪い癖があるのだ。
が、どっちにしても、私も一緒にいろというのにはうなずけない。
「いやよ。さよなら」
私はそれだけ残し、僚を置いて歩き出した――つもりだった。

「待てってば!」
腕が抜けるかと思った。
それは僚の力が強いせいなのか、それとも私の「去ろうとする」勢いのためなのか……。
仕方がなく、私は振り返った。

……僚は、真剣な瞳をしていた。何が何でも残らせてやるぞ、とそこには書いてある。
まったく、お人好しというか何というか、どうしてこう、自らトラブルに飛び込むような真似をするのかしら。

そう思いながら、私は答えた。

 

 

A  「……わかったわよ」

B  「放してちょうだい!」


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