少し違う視点から考えてみようと思った私は、被害馬の管理調教師に話を聞いてみることにした。
午後になって、まずはレイラの騎乗馬・アイスバーンを管理していた五十嵐先生の厩舎にやってきた。五十嵐先生にはロマネスクの乗り替わりを考え直してもらう交渉もしなければならないのだが、今回はその話は控えておこう。

「あっ、真奈ちゃん」
五十嵐厩舎の前で私を出迎えたのは、掃除をしていた泰明くんだった。彼はここの所属騎手なのだ。
「こんにちは」
「さっきはどうも。ぼくに用?」
「ううん。ちょっと、レイラが言っていた落馬事故の件を調べているの。それで、アイスバーンについて五十嵐先生に聞こうと思って来たんだけど……いらっしゃるかしら」
私が聞くと、泰明くんは表情を曇らせた。
「いらっしゃるけど……ぼくの気持ちを言うと、あんまりその話はしてほしくないな。やっぱり、その……アイスバーンを死なせたことで調教師として責任を感じてらっしゃるから」
さすがに五十嵐先生だわ、と私は思った。
五十嵐先生はとにかく「昔ながら」を大事になさる方で、調教から話し方まであらゆる面が今の時代にそぐわない。サラブレッドは経済動物でしかないから、故障しようが死のうが責任を感じる必要はない――それが現代の常識なのに、先生の中ではまだそれは「常識」ではないらしい。
だが、それでも先生は周囲から好かれる。この泰明くんみたいに、若い人でも彼を弁護するのだ。そして私も、何だかんだ思いながらも彼の人間性は尊敬しているのだった。
「……まあ、いいかな。君は『五十嵐先生には責任がない』ことを証明しようとしてるわけだから」
泰明くんはそう言い直した。
「ありがとう。なるべく気をつけて話をするね」
「そうしてくれるかな。じゃ、入って」
泰明くんは厩舎のドアを開けてくれた。私は一礼して中に入った。

「こんにちは。失礼いたします」
「おお、真奈か」
……五十嵐先生とあいさつを交わしながらも、私は大仲部屋に入った直後から、そのちぐはぐなインテリアに気を取られてしまっていた。
「机」と言った方が正しいような木製のテーブルの上には、豪華な花が花瓶3つ分も生けてある。山積みになったダンボール箱のすぐ横には、真新しいテディベア。食器棚には使い古された湯飲みと高級ティーカップが並べて置かれ、片目が入ったダルマにはブランド物の男性用の帽子がかぶせられている。他にもいろいろだ。この前に来たときはこんなじゃなかったのに、どうしたのかしら。
「ああ、やっぱり君も気になるか?」
五十嵐先生もこの奇妙なインテリアは自覚しているらしく、私の視線を追って笑った。
「え、ええ……失礼ながら」
「先週から今日にかけてここに届いた物を飾ってあるんだ。弥生と泰明の誕生日が立て続けにあったものだから、馬主さんとかファンの人とか、結構いろんな人がプレゼントをくれてな。感謝の気持ちを込めて、変なのは承知で私が飾ったんだよ」
五十嵐厩舎には泰明くんの他に、彼の先輩に当たる谷田部弥生さんという騎手も所属している。今年で7年めになる女性騎手だ。彼女の誕生日は先週の14日で、泰明くんは昨日、つまり17日。
「そうなんですか」
答えながら、私は何となくだけどわかった気がしていた。ひょっとしたら五十嵐先生は、大仲部屋をおもしろおかしく飾ることで、アイスバーンを亡くしたショックを少しでもやわらげようとしているのかもしれない。彼は、落ち込んだときにはにぎやかさを求めるタイプなのだ。
彼は25年前、伸おじさんとまったく同じ理由で奥さんを亡くした。しかもおじさんと違って子供も助からなかったため、現在も家族はいない。彼は弟子やスタッフはもちろん、私のような他の厩舎の若手騎手も大切にしてくださるが、それはやはり寂しいからだろうと周囲は噂をする。

「ところで、ここへ来た目的は? ロマネスクの件なら、今のところ撤回する予定はないぞ」
「違います。あの、ちょっと申し上げにくいんですが……」
用件を聞いてくださった五十嵐先生に、ためらいながらも話をしようと思ったとき……入口のドアが開き、泰明くんが入ってきた。
「先生、掃除終わりました」
「お疲れ様」
弟子が相手でも「ご苦労様」ではなく「お疲れ様」と言うところが五十嵐先生らしい、と評する人もいる。
「あら、真奈ちゃん。お久しぶり」
先生の答えと重なるようなタイミングで、今度は洗面所の方から弥生さんがやってきた。どこかで見たような手提げ袋を持っている。
「お久しぶりです。こんにちは」
弥生さんは温和で優しく、そして家庭的な女性だ。その微笑みは周囲を穏やかにさせる。
だが、それは騎手としては必ずしもメリットではないようだ。現に、顔を合わせるのが「お久しぶり」なのは、なかなか自分を売り込みに行けない引っ込み思案な性格が災いしたのか、昨日も一昨日も彼女には騎乗馬がなかったからなのだ。このところ彼女は平地のレースとはすっかり疎遠になり、ほとんど障害専門の騎手になりつつある。
本当のことを言うと、アイスバーンは彼女がずっと乗っていた馬だった。ところが、なぜか五十嵐先生は一昨日のレースで、彼女を降板させてレイラを乗せたのだった。……このへんがどうも腑に落ちない。弥生さんを降板させたなら、同じく弟子で障害にも騎乗する泰明くんにチャンスをあげればいいものを、なぜレイラなのか。私のロマネスクにしろ弥生さんのアイスバーンにしろ、最近の五十嵐先生にはこういうことが多い。
「泰明くん、お洗濯終わったわよ」
「あ、ありがとうございます」
弥生さんは手提げ袋を泰明くんに渡した。その言葉と行動で、私はその袋をどこで見たかを思い出した。さっき病院から帰るとき、泰明くんが「洗濯してくる」と言ってレイラから預かった彼女の服――それが入っていた袋だ。彼女はこの近辺に親戚がいない上に、どこにも所属していないフリー騎手なので帰る厩舎もなく、それで一番親しい泰明くんが引き受けたのだ。
しかし……。
「ちょっと泰明くん、自分で引き受けておいて弥生さんにお洗濯させてるの?」
私でなくてもそう思うだろう。
「しょうがないじゃないか。だって、下……いやその、男は見ちゃいけない物だって入ってるし」
言われてみればその通りだ。それなら最初から引き受けなければ、とは思うが、そんな理屈を考える前に承諾してしまうのが泰明くんなのだ。
「と……とにかく、ぼくはもう一度病院までこれを届けに行ってくるから。それじゃ」
顔を真っ赤にして、泰明くんは大仲部屋から飛び出していった。
「行っておいで」
「行ってらっしゃい」
泰明くんには届かなかっただろうが、五十嵐先生も弥生さんもそう言って手を振った。この雰囲気は素晴らしいと、私も思っていた。

……あれこれあって本題に入るのが遅くなったが、私はようやく「アイスバーンの件で聞きたいことがあるから来た」と五十嵐先生に伝えた。
「アイスバーンか……かわいそうなことをした」
先生は悲しみを隠そうともせずにうつむいた。
「レイラもかわいそうに……。どうせなら、私が落馬でケガをすればよかった」
弥生さんはまったくの無関係のはずなのに、先生以上に自分を責めているように、私には見えた。
「弥生、そんなことは言うもんじゃない。レイラには悪いが、ケガをしたのがお前でなくてよかったと考える気持ちを、私は否定できないんだ」
「先生こそ、そんなことをおっしゃらないでください。大切にしていただいても、私には先生のご恩にお応えすることはできそうにありません……」
「弥生……」
彼らの間には、彼らだけの絆があるのだろう。が、私はドラマを見るためにここにいるのではない。
「……ともかく先生、お話をお聞かせください。私は、障害レースにおける故障の多発に疑問を感じて、少し調べてまわっているのです。アイスバーンなんですが、もともと脚が弱かったというようなことはないのでしょうか」
私が聞くと、五十嵐先生は顔を上げ、ひとりの調教師に戻って答えてくださった。
「確かにそういう部分はあった。過去にも骨折をして、手術を受けたからな」
「手術のことは存じております。東屋先生によるものだそうですね」
「そうだ。うちの厩舎の馬はみんな、彼の世話になっている」
「具体的には、どんな手術を受けたんでしょうか」
「左前脚にボルトを2本。一昨日のレースで折ったのと同じ箇所だ……」
「ボルト……同じ箇所……」
骨折歴のある馬が同じ箇所をまた折ってしまうのはよくある話だが、何か引っかかるものを感じた。
もしその手術のとき、東屋先生がアイスバーンの脚に何か細工をしていたとしたら?
どうしても、そう考えてしまう。

それを確かめるには、どうすればいいだろう。
私は考えた。

 

 

A  東屋診療所の手術室にビデオカメラを隠しておき、次の手術の様子を探ってみよう。

B  東屋先生の手術を受けた中で、近々障害レースを使う予定のある馬を調べてみよう。


読むのをやめる