馬を使って、何らかの実験をしているのでは……。
私はそう考えた。
しかし――。
仮にそうだとすると、犯人は獣医ということになるが、このトレセンにそんなことをしそうな獣医がいるだろうか?

……怪しいという部分だけを見れば、香先生あたりか。

東屋香先生は、このトレセンで開業に向けて修業中の獣医だ。父親の東屋隆二先生も獣医としてトレセンで働いており、そのさらに父親の東屋雄一先生は調教師で私の父のお師匠様だったが、その前はやはり獣医をしていた。早い話が東屋家は代々獣医の家系なのだ。
そして、彼らはみんな、研究や実験のためには手段を選ばないような部分がある。中でも香先生はその傾向が強い。
彼女ならば、馬を実験台にもしかねない……。

――推理と呼ぶにはあまりにもお粗末な疑いだ。
いくら私でも、これだけの根拠で調査を開始するわけにはいかない。
それに、考えてみれば、私が陰謀の有無を調べる必要などない。
納得がいかないと言ったのはレイラなのだ。彼女なら、ケガが治った時点で疑いが晴れていなければ、自分で行動を起こすだろう。

 

 

だが――。
レイラのお見舞いから帰ってきてひとりになると、私の足はつい東屋診療所の方へと向かってしまった。
一度疑いに近いものを抱いたら最後、それが晴れるまで何もせずにはいられない――それが私なのだ。

診療所は、当然月曜日でも開いている。
その隣には、東屋先生と香先生がふたりで暮らす小さな家。

……?
私は、その家の方から、バニラのような香ばしい匂いが漂っているのに気付いた。
バニラに似た香りの薬品なんてあったかしら。アーモンドに似た香りなら心当たりもあるけど……。
不思議に思いながら、一歩ずつ家の方へ近づいていく。

――そのとき。

「誰かいるの?」
鋭い声とともに、目の前の窓が一気に引き開けられた。一瞬だけ背筋が凍る。
そこから出た顔は――想像していた通りの、香先生だった。

「あら、篠崎さんじゃないの。どうかしたの?」
「いえ……いい匂いがしたものですから、ついふらふらと。すみません」
立場的に居心地は悪いが、少なくともそれは言い訳やごまかしではない。
すると――予想外の一言が返ってきた。
「いい匂い? まあ、嬉しいわ。実はケーキを焼いていたの」
「ケーキ……ですか!?」
「ずいぶん意外そうね。獣医やってたら休日も研究やお勉強だと思ってた? 私だって、プライベートではこういうこともするわよ」
「ごめんなさい」
謝ったが、やはり意外だった。
趣味らしい趣味がないあたり、香先生は私に似ていると私は思っていた。何をしても楽しみなど感じられない私に、どうして趣味など持てようか。
しかし、そうではなかった。香先生には立派な趣味があったのだ。
そして私には――自分が今ここに存在することが、どうしようもなく恥ずかしく思えてきた。研究のためならば何でもしそうだから、というだけで安易に疑いをかけるのは、やはり軽率すぎた。

「ねえ、お暇だったらちょっと上がって、一緒にやってみない?」
すると香先生は、私の失礼など気にもせずににっこり笑ってそう誘った。
「え……私ですか? でも、私は……」
「楽しいわよ。張りつめて生きていたっておもしろくないじゃない。たまには新しい刺激もいいものよ」
――そうかもしれない、と私は思った。
どっちみち今日は、予定はないのだ。それならばここで時間を過ごすのもいいかもしれない。
それに――まだこう考えてしまうのだが――彼女と一緒に何かをすれば、もし彼女に不審な点があった場合、それに気付けるかもしれない。
「わかりました。それじゃ……お邪魔してよろしいでしょうか」
「ええ。そっちの玄関から入ってきて。開いてるから」
私は素直にそれに従った。

 

 

香先生は来週のクリスマスに関係者たちにケーキを焼いて配る予定を立てていて、そのための練習をしていたのだそうだ。
実はもうひとりくらい人手が欲しかったの、と彼女は笑った。
私はそれに乗せられ、今日だけでなく、来週もケーキ作りに駆り出されることになってしまった。

が――やってみると結構楽しいものだ。
中学の頃、家庭科の授業では、与えられたレシピ通りにきっちり作らないといい点がもらえず、楽しい要素など少しもなかった。だが、ここではそんなノルマはない。少し卵を多めにしてみようとか、油と砂糖は少なくしようとか、自由に決められる。

香先生の手ほどきで、一口サイズのシフォンケーキが2個完成した。
「おもしろいでしょう?」
「ええ。来週もお手伝いしに来ますね」
自分で作ったうちのひとつを試食しながら、私は笑顔で香先生と話していた。彼女の方も自分で作ったケーキを頬張っている。
「ありがとう」

「……ところで、このもうひとつはどうしましょうか」
私は、もうひとつの自作のシフォンをちらりと見た。
「そっちは誰か仲のいい人にあげたらどう? ラッピング用のボックスをあげるわ」
「え……大丈夫なんですか?」
「自信ないの?」
……そう言われると、どうしても肯定したくないのが私の性格だ。
「いえ、そういうわけじゃないんですが、初めてですし」
「平気平気。手作りっていうのは、とりあえずそれだけでプラス30点よ。例えあなたの自己採点が40点くらいでも、人にあげれば70点になるわ」
「そういうものなんですか?」
「ええ。ちなみに男性が相手なら、さらにプラス20点。……その気になった?」
「え……はい」
香先生に押し切られる形で、私はついうなずいてしまった。
彼女は私の返事を聞くと安心したのか、キッチンの椅子から立ち上がって、平たくなった状態で棚に入っているラッピング用の箱を選び始めた。
私は私で、その箱と中身を贈る相手を、頭の中で選び始めていた。

……まず、両親は却下だ。女らしくなったと言われるのは嫌いじゃないけど、それが親だとどうしても抵抗がある。
長瀬先生を初めとする調教師関係もやめておいた方がいい。手作りケーキでご機嫌取りなんて思われたら困るもの。
そうすると、やはり騎手仲間かしら。
泰明くんは甘い物が苦手だから省くとして……お見舞いとしてレイラにあげるか、理由はないけど僚に……。

少しだけ迷い、私は決めた。

 

 

A  レイラにあげることにしよう。

B  ……僚にあげることにしよう。


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