私は寮の1階ホールに下りてきた。
ここはリビングルームのようになっていて、大きなソファーにテーブルにテレビ、本棚などが置かれている。休みの日ならば、ここに来れば必ず誰かがいると言っていい。それは今日も例外ではなく、ソファーでは4人の騎手仲間たちが明るく楽しく話を弾ませていた。
一番右には僚。整った顔をいつもながら情けなく歪めて大笑いしている。
右から2番めは、私の1年後輩の浅霧花梨ちゃん。肩の下あたりまでの髪をピンクのリボンで結び、顔は綺麗にメイクされているが――実は、中身は「浅霧直哉」という名前の男性(自称ニューハーフ)だ。デビューしたばかりの頃は「気味が悪い」などという偏見もあったが、今ではすっかり「頼りになる女性ジョッキー」として扱われている。それは「彼女」の実力と気づかいと努力のためで、私はそういうあたりが大好きだ。
左から2番めは、私と僚の同期生の男性、城泰明くん。あまり自己主張をしない控えめな性格で、男性としては少々迫力に欠ける点があるものの、とても人や馬に優しく、多くの人に慕われている。
一番左は、やはり私と僚の同期生の女性、星野レイラ。栗色の髪としっかりした顔立ちは、アメリカ人の母親の影響を受けているそうだ。はっきり物を言うので敵も多いが、気のいいお姉さんタイプの彼女を頼りにする人も多い。性格は正反対ながら、泰明くんとは実はとても仲がいい。
「よう、真奈!」
僚から声がかかった。私は彼ら4人の方へと向かった。
「真奈さん……? 顔色よくないですよ」
と、花梨ちゃんが私の顔を見る。……わかるものなのかしら。
「ちょっとね」
私は僚の隣、全員の一番右に座りながら答えた。これだけの人がいても、どうしても乗り気でない返事になってしまう。
「どうしたの」
「どうしたもこうしたもないわよ。自分に何の非もないのにお手馬を別の人に取られたら、あなたたちならどう思う?」
聞いてきたレイラに答える形で、私は全員に自分の思いをぶつけた。
「取られたら……って」
いざというときには言葉少なになる僚。
「どの馬を取られたのさ」
とレイラ。
「ゴールドロマネスクよ」
――その直後、誰も何も言わなかったが、空気の流れが一瞬だけ変わった。
私がロマネスクで有馬に参戦することは、みんなが「当たり前のこととして」知っていた。それが覆ったのはみんな意外だろうし、当然私だって受け入れられない。
「そ、そんな……五十嵐先生は、誰に何を言われたって、意味もなくジョッキーを替えたりはなさらないはずだよ」
五十嵐厩舎所属騎手の泰明くんが、彼をかばうようにためらいがちな声を出す。
「もちろん、意味はあるのよ。ただ、私がそれに納得いかないだけ」
「意味って、なんだ」
相変わらず、僚は細かいところを気にする。
「……先生はおっしゃったわ。私にはまだ未来があるから、今回は、もう未来のない騎手にチャンスをあげてくれって」
――また空気の流れが変わる。
細かいことを説明しなくても理解してもらえるのはいいが、肝心の話の内容がどうしても暗い。やはり五十嵐先生に抗議してロマネスクを返してもらうべきね――と思った矢先のことだった。
鋭くけたたましい音。それまで形をとどめていた物の崩壊――。
玄関のガラスドアが突然破壊され、そこから数人の武装集団が飛び込んできたのだ!
「動くな!!」
先頭に立つリーダー格のサングラスの男が大声で叫び、その両脇に立つスキンヘッドの男とリーゼントの男が――銃で私たちを牽制する。そのさらに後ろには、巨大なバッグを肩から下げてマシンガンを構えた女がいる……。
「ど……どどどどど、どうなってるのよ!?」
「何なの……」
取り乱す花梨ちゃんを見たためか、この状況では不自然なほどに落ち着いた声が出てしまった私。
「質問は許さん!」
サングラスが叫び、何かの合図を出す。
――リーゼントが、天井に向けて銃を発砲した。
音だけではなかった。煙と実弾が現実のすごみを引き出す。
……。
無言になるしかない。下手な一言だけで、全員の命が危険にさらされるのだ……。
「よせ!」
外から叫びが飛んだ。ちらりと見ると、叫んだのはトレセンの入口にいるガードマン数人だった。トレセンを守るのが役目の彼らが外から「よせ」とは、どうにも頼りない。
「ここは我々が占拠した! 中の連中は人質だ! 競馬の売上金10億円と逃走用のヘリを要求する! 早く施行団体の責任者をここへ呼べ!」
サングラスがガードマンたちの方に振り返り、自分たちの要求を叫んだ。……レベルの低い目的だ。そんなことのためになぜ私たちが……。
「人質!? 冗談じゃないよ!」
私の思いと同じことを、レイラが犯人グループに聞こえない程度にささやいた。
何をさせるつもりなのかサングラスは、リーゼントは2階へ、女は裏口へ行くように命じた。
サングラスは武器らしき物を持っていないが、その代わりにスキンヘッドが私たちに銃を突きつけ続けている。さすがに手抜かりはないらしい。
……5分ほどして、20人余りの後ろに隠れるようにして、リーゼントが私たちのいる玄関ホールの階段から下りてきた。
彼らは上の階やこの建物の別の場所にいた人間たちだ。なるほど、ひとまず全員を集めておこうというわけだ。
「それで全員だな?」
とサングラス。
「ああ。もういない」
リーゼントが答えたところへ、今度は裏口の方から女が単身戻ってきた。
「設置は完了したわ」
「よし」
設置……何の設置だろう。
よく見ると、女が下げていたバッグがない。あの中に入っていた何かを裏口の方に設置してきたということか……。
「やれ」
考えは、サングラスの命令によって中断された。
何をするつもりなのかしら――。
――私たち人質は、男女別に分けられた。
全員で26人。男性17人と、女性(+花梨ちゃん)9人に分かれている。どうやら犯人グループは、花梨ちゃんの正体には気付かなかったらしい。
人質を男女に分けるのは、一般的には女性だけを解放したりする場合にやることだ。それだけでは何の解決にもならないが、私は身勝手にもほっとしてしまった。所詮人間とは、極限状態まで追い詰められればこの程度なのだ。
しかし、サングラスが口にした言葉は――。
「男どもは外に出ろ。解放してやる」
「解放するなら女性を解放しろ!」
なぜ? ……と思うより先に、泰明くんが勇敢にも叫んだ。こういうときに一番度胸が据わっているのは、彼なのかもしれない。
「泰明!」
「黙れ! 体に風穴空けられたいか!」
彼の親友のレイラが焦って叫び返すと、スキンヘッドは彼女の叫びをかき消すような大声を上げ、銃を彼に突きつけた。
「……威勢のいい坊やもいるようだな。だが、人質は女だけの方がいいからな。早く出ろ。逆らうな」
サングラスは腕組みをしながら、あごで男性グループを玄関の方へ追いやる仕草をした。
――男性たちの反応は様々だった。情けなく飛び出す人もいれば、私たち女性に心を残しながら申し訳なさそうに出ていく人もいる。銃とマシンガンに脅えて震え、転びそうになる人もいれば、こんなときなのにガラスの破片を踏まないように神経質になる人も。
15人が外に出た。残ったのは僚と泰明くん。
「真奈……」
僚が名前を呼びながら私を見つめる。それ以上言葉を続けることはなかったが、彼の瞳を見れば察しはついた。「ごめんな、何とか耐えてくれよ」とでも言いたかったのだろう。私はうなずいたが、彼はそれを見る前に、私に背中を向けて外に出ていった。
ところが――最後のひとりは、動こうともしない。
「泰明、何してる! 早く出てこい!」
外から僚が叫んだが、泰明くんは出ていくどころか、サングラスをきっとにらみつけて叫んだ。
「ぼくはここに残らせてくれ! ひとりくらいなら男がいたっていいだろう!」
「バカ! 逃げなよ! 自分から危険に飛び込むことないよ!」
レイラが泣きそうな顔で叫ぶと、サングラスは不敵に笑った。
「そこのお嬢ちゃんの言う通りだ、坊や。我々を怒らせないうちに退散するんだな」
「いやだ!」
それでも泰明くんは拒む。男性として、女性だけを置いて逃げることなどできない――そう考えているのかもしれない。
「……お前には理屈が必要か。安心しろ、我々の望みは殺人じゃないんだ。このお嬢ちゃんたちも、余計な真似をしない限りは建物の中を自由に歩かせてやるつもりだからな。もちろん、逃げられないような手段は取らせてもらったがな」
サングラスがゆっくりと説明する。
確かに、この犯人たちは殺人狂集団ではなさそうだ。施行団体がやつらの要求を受け入れて競馬の売上金や逃走用ヘリを提供すれば(その確率がどれほどのものか少々怪しいが)、私たちには危害は及ばない。
しかし――それにしても、私たちが自由に建物の内部を歩いてもいいとはどういうことだろう。女だけなら不意打ちでやられることもないと判断したのだろうか。それとも、やつの言う「逃げられないような手段」というのが相当に徹底したものなのか――。
おそらく後者だろうと私は判断した。少なくともその正体がわかるまでは、おとなしくしているべきかもしれない。
「わかった……。レイラ、そして他の人も、どうか無事で」
泰明くんもついに折れ、言葉と心をこの場に残して、ゆっくりと玄関から出ていった……。
「さてと。お嬢ちゃん方に説明をしておこうか」
女性(花梨ちゃん含む)ばかり9人になった私たちに、リーダーのサングラスは偉そうに言った。
「さっきも言った通り、お前たちはこの建物の中ならどこでも自由に移動していい。だがな、逃げることはできないと思え。超高性能のセンサーを取りつけさせたからな」
超高性能センサーを取りつけた――さっき女が「設置してきた」と言っていたあれのことだろう。
「建物の周囲を完全に囲んだ。どんな些細な物にでも反応して大音響のアラームが鳴る。つまり、我々の目の届かない窓から逃げようとしたってお見通しってわけだ。あいにくだが携帯の電波にも反応するからな。外に助けを求めたり中の状況を教えたりもできないぞ。もしアラームが鳴ったら……即座に全員の命を奪う」
――軽々しくない本気の勢いを感じる。悔しいが、やつらの言う通り抵抗はできそうにない。
「わかったな。それじゃ、今から自由行動だ。ここにいるもよし、自分の部屋に戻るもよし。好きにしろ」
サングラスが言うと、人質のうち数人が即座にホールの階段を駆け上がっていった。部屋に閉じこもってバリケードでも造るつもりなのだろう。
スキンヘッドはホールの階段に腰かけ、リーゼントと女は裏口がある方へ歩いていく。
……さて、私はどうしようかしら……。
A ひとまず自分の部屋に戻って、どうするべきかをゆっくり考えよう。
B 内部を歩きまわれることを利用して、いろいろと調べておこう。