私は僚の携帯を鳴らそうと思った。
いくらもう幼なじみも何もなくても、やはり彼が一番私のことを理解してくれている。「何かあったときには僚に限る」……それは昔から、私の中における常識だった。
早速、僚の携帯の番号をディスプレイに出そうとする。

――しかし。
ボタンを押す前に、こっちの携帯が着信音を発し始めたのだ。
誰だろうと思ってディスプレイを見ると、そこには「片山僚」の文字が。
僚……。
つい頭に「テレパシー」などという非科学的な単語が浮かぶが、結論を出せば偶然に決まっている。私は気にせずに出た。

「はい」
『真奈……』
――その暗い声を聞いた瞬間、私は僚の携帯を使って誰か別の人がかけてきたのかと思った。あの明朗快活な僚がこんな声を……少なくとも近年は記憶がない。
だが、それでもこれは僚の声だ。体格が小さいためか、騎手は男性でも声の高い人が多く、僚もその例にもれずテナーヴォイスだが、思わず聞き惚れる女性もいる(私には理解できないが)ほどのいい声をしている。
ほんの少し時間をもらえば、私にはすぐ判断がつく。電話の向こうでしょげているのは、紛れもない僚だ。
「どうしたの?」
だから私は聞いた。最初は私が沈んでいて僚に電話しようと思っていたのに、気付けばそれが逆転している。が、相手がいつもの状態でないときは、自分がどんな気持ちでも冷静になってしまう。それが私という人間だ。
と、思っていたのだが――。

『冷静に聞いてくれ。俺な……その、例の病気に、かかっちまったらしいんだ』

「何ですって!?」
――冷静では、いられなかった。
『本当なんだ。昨夜から妙に暑くて、今朝起きたら髪が真っ白だ』
「そんな……」

例の病気……それは、死の宣告にも近い病気だった。
どういうわけか、ここ3ヶ月ほどの間このトレセン周辺だけで発生している、謎の奇病。
男女で異なる症状が出るという珍しい病気だ。男性は突然髪全体が白髪に変わり、体温が徐々に低下して妙な暑さを感じるようになり、そのうち身体的な機能が衰えて、ついには生命の維持もできなくなってしまう。女性は突然髪の色が抜けて茶髪になり、体温が徐々に上昇して寒さを感じるようになるが、身体的機能に異常をきたして死に至るのは同じだ。
発病したら、どんなに長く持っても1ヶ月しか生きられない。最悪の場合、発病したその日のうちに死んでしまう。
しかも、まだ治療法はない――。

「……すぐ病院に行きなさい」
私は答えた。それ以外にどんな答え方ができるというのだろう。
しかし、僚の反応は早かった。
『ちょっと待て! それができないからお前に相談したんだ!』
「できないって……どういうことよ!」
――自分の叫びが情けないほどに悲痛だったことに、私は気付いていた。
『俺は病院には行きたくないし、行かない。お前以外の連中にも、病気のことは悟らせない。治るか死ぬかするまで、隠し通す』
「ムチャよ! だってあなた、何もしなかったら……」
『絶対治らないってんだろ。だけど、入院したところで治療法が見つからない限り結果は同じなんだ。それなら自分の好きなようにするさ』

「僚……」
……確かに、治療法がないのだから、入院したところで治るわけはない。
でも――でも、放っておくなんて、そんなこと……。

『……真奈、わかってくれ。俺は有馬を勝ちたい。親父のために、どうしても勝ちたい。その夢は譲れないんだ。だから、今度の日曜までは何が何でも隠し通して生き延びたい。隠し通すには、お前の協力が必要だ。頼む……』
僚は語った。私を納得させるには理屈が必要だと思ったのだろうか。
……確かに私は理屈にこだわる人間だが、それでも僚の気持ちくらいは無条件で理解していたつもりだ。それなのに、そんな私の心を彼はわかってくれていなかったらしい。そのことが、事実以上に深い悲しみとなって私の胸に突き刺さった。
彼が伸おじさんのために有馬を勝ちたがっている気持ちは、何よりも強い。それだってわかっている。もしかすると、私のロマネスクへの執着より遥かに強いのかもしれない、父親への敬愛の心。
親を尊敬できない私だって、僚の気持ちは理解できる。都合のいい理由かもしれないけど、私たちは幼なじみ同士なんだから。
私はずっと彼のことを、失いたくない唯一の味方と認めてきたんだから――。

「……わかったわ。私にできる限り、協力するわね」
私は答えた。彼が一番望むことを叶えてあげたい――その思いが今、すべてに優った。
『ありがとう!』
僚の声は、一気に暗闇から光の中へと飛び出してきた。単純だとは思うが、言われて悪い気はしない言葉だ。
そして、彼がいつものような素直で明るい彼に戻ったことが(例え今だけだとしても)、私には嬉しかった……。

「あなた、今、自分の部屋にいるの?」
『ああ』
「それじゃ、そこから動かないで待ってて。30分ほどで行くから」
私は、彼のために白髪染めのヘアカラーを買っていってあげようと思った。髪を染めてしまえば、ひとまず見た目で他人にバレる心配はない。それも一時しのぎにすぎないことは、充分にわかっていたが――。
『わかった』

 

 

僚との電話を切ると、私は外に出た。彼に必要な買い物をするためだ。

……しかし、外の現実的な風に当たると、私の気持ちは再び重く変わってしまった。
いくら僚が気丈に振る舞っていても、彼が謎の奇病にかかってしまった事実は曲げられない。1ヶ月持つのはきちんと入院して延命治療を受けていた場合のことで、病院のお世話にならなかった場合は、長く持って1週間という記録しかない。有馬に間に合うかどうかだって怪しい。しかも、体力を消耗すると死期が早まるというデータも出ている。あんな体で馬になんか乗ったら……。
やはり、無理を言ってでも彼を病院に押し込むべきだったのだろうか。
でも、それでは彼の思いは満たされない……。
私は今まで、どこにあるともわからない病気の正体を、これほどまでに憎んだことはなかった。

病気の正体――。
それに関しては、前々から個人的に考えていたことがあった。
「この病気の流行は人為的なものではないか」という可能性だ。

患者はこの美浦トレセン周辺に集中していて、他の地域ではまったく出ていない。しかし、患者に延命治療を施した医師や病院の看護婦などが発病しないことから、伝染の可能性は否定されている。
「地域限定」「伝染しない」……このふたつのキーワードから連想されることといえば、「何者かがその意思で自らの周辺からターゲットを選び、何らかの方法で直接感染させている」以外にない。

その考えを裏付ける――にはほど遠いが、私の中で可能性を高めている事実がひとつある。
奇病の流行が始まってから、ここのトレセンの関係者が何人も行方不明になっていることだ。
その理由としては、誰もが「病気にかかって周囲に内緒で病院に行き、そこで死んだ」という説を唱えている。普通に考えればそうだろう。
しかし、私にはどうしてもそうは思えない。何か、病気を流行らせている何者かが患者を拉致し、その病気が人体に与える影響を調べる実験でもしているのではないだろうか――そんなことを考えてしまうのだ。

行方不明になった人は、3ヶ月前あたりから今までで7人。この7人が全部奇病の患者だと仮定すると、患者全体の約3割という数字になる。
その7人の中には、私の知人がふたりいる。
ひとりは、トレセンで開業している獣医の東屋隆二先生。私の父が騎手だった頃のお師匠様・東屋雄一先生の次男で、私は幼い頃からよく知っている。なお、彼は行方不明者第1号でもある。
もうひとりは、五十嵐厩舎所属の女性騎手・谷田部弥生さん。彼女は逆に一番最近の行方不明者だ。先週の金曜日――つまり今日から見れば3日前の朝、調教場に来るはずがいつまで経っても現れず、それからは誰も彼女の姿を見ていないという。

――よほど親しい間柄だった人を除けば、彼ら行方不明者を探す人はいない。誰もが彼らを「死んだ」ととらえ、その悲しみから目をそらそうとしているのだ。「拉致監禁・人体実験説」を信じることもなく。
それではいけない、私は常々そう思っていた。人体実験だと考えれば、少なくとも彼らは生きていることになるのだ。誰かが救出すれば生きて帰ってくるし、それに――実験ならば、その黒幕はすでに治療法を編み出しているかもしれない。もちろん人体実験は許されないことだが、それでも――私は、それが真実ならいいのにと、心から思っていた……。

……。

「真奈ちゃん!」
そのとき、正面から私を呼ぶ声がした。うつむきながら歩いていた私は、顔を上げてその声の主を確認する。
美浦トレセン南ブロック担当のトラックマン・田倉翔太さんだった。厩舎情報の担当で、私たち騎手や関係者たちから情報を聞いてはそれを馬券の検討材料にしている。平日はもちろんのこと、月曜の全休日にもこうして歩きまわっている。
「今日は何か、いい情報はないかな? よければ、ゴールドロマネスクの話を聞かせてほしいんだけど」
何も知らない田倉さんは、まじめな顔でそんなことを聞いてきた。思わず言葉に詰まる。

「……何か、元気ないみたいだな。どうかしたのか?」

黙っていると、田倉さんは私の顔色を読んだのか、心配そうにたずねてきた。
彼はしっかりした大人で、いざとなったらとても頼りになる人なのだが……。

……どうしよう?

 

 

A  私は、ロマネスクを降板させられそうな話をすることにした。

B  私は、僚のことを話して田倉さんを味方につけようと思った。


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