――私は、僚が感染したことを田倉さんに話した。
マスコミ関係者に話すのは、有馬まで隠し通したがっている僚に対しては、裏切り行為以外の何物でもない。
だが――それでも、私は味方が欲しかった。
田倉さんならば、必ず私たちの力になってくれる。
「……そうか。片山くんが……」
田倉さんは声を落とした。彼は北ブロックにある寺西厩舎所属の僚とは接点がないが、私がどれだけ僚と仲がいいかを知ってくれている。私の気持ちも察してくれただろう。
「それは、やっぱり病院に入れた方がいいよ」
彼がそう答えるだろうことは予測していた。彼でなくても、おそらく誰でもそう答えただろう。私だって最初はそうだったのだから。
「そうでしょうか……」
「ああ。彼が有馬に乗りたいのはよくわかる。でも……俺、実はその病気に関しては個人的に調べていたりするんだけど、無理すると死期が早まるって話は知ってるか?」
「ええ……」
「だから、レースに乗るなんてとても無理だよ。病院なら、治らないにしても多少は死期を遅らせてくれる。その間に治療法が見つかってくれることに賭けてはどうかな。2週間もすれば、治療法の研究にも進歩があると思うから」
「……そうですね」
私もそれがいいと思い直した。
さっき僚の願いを叶えてあげたいと思ったことはウソではない。でも、死んでしまってはすべてがおしまいだ。今回の有馬は乗れなくなっても、生きてさえいれば次がある。今は彼の願いを奪うとしても、生き残れば未来は無数にあるのだ。
――唐突に、そのパターンは自分にも当てはまるのだと気付いた。
引退が近い母には次はないが、若い私にはある。それならば、ロマネスクは母に譲ってもいいかしら……。
「じゃあ、俺は片山くんのために病院の手配をするよ」
「あ……お願いします。私は僚のところへ行く約束になってるんです」
「そうか。じゃ、君がいる間に救急車が着くかもな。……それじゃ、急ぐんで」
田倉さんは行ってしまった。
――やはり、胸が痛んだ。
そして――。
予定にあったヘアカラーを買うこともなく、私は若駒寮の僚のところへ直行した。
……彼の髪は、本当に真っ白だった。現実的な私でも、時には現実を突きつけられるのがつらいこともある。
「僚。……ごめんなさい」
しかし、私はそんな彼に真実を話さなければならなかった。
「どうした」
「あなたはやっぱり、病院に入るべきだわ。もうすでにそのための準備も始めちゃっているの」
「真奈! お前……」
裏切ったな、と言わないのが彼の優しさなのだろう。だが、彼がそう感じていることは間違いない。
だから私は、言った。
「……人は誰も裏切るものなのよ。そうした方が相手のためになるとわかった場合はね」
「……」
僚は、何とも言えない顔で私を見た。
怒っているのか、憎んでいるのか、それとも感謝してくれていたりするのか――。
普段は感情がすぐ顔に出る彼なのに、今に限って私には判別がつかなかった。
――そんな中、田倉さんと一緒に救急車が到着した。
僚は、無抵抗に連れていかれてしまった。
「……何だか、心苦しいですね」
病院にはついていかず若駒寮の前に残った私は、正直な気持ちを田倉さんに言った。
「仕方がないよ。……さて、俺は独自の調査を続けるかな」
「そういえば、さっきもそういうことをおっしゃってましたね。その『独自の調査』って何のことなんですか?」
私は聞いた。
「この病気騒ぎだよ。俺は、これが人為的な騒ぎ……つまり誰かが起こしている事件だという考えを個人的に持っているもんでね」
「田倉さんもですか!?」
「何、君もか?」
私たちは顔を見合わせた。
「ええ。伝染しないはずなのに患者がこの美浦周辺にしか出ていないあたりから、そう思っていました」
「それじゃ俺と同じか。君の方の考えも詳しく聞かせてほしいものだけど……」
田倉さんにそれを答えようとしたとき、ポケットの中の携帯が鳴り出した。
「あ……すみません、ちょっと失礼します」
私は彼に断り、携帯を取り出した。ディスプレイには「長瀬先生」。
月曜日にかけてくるとは、何か大変なことでもあったのだろうか――僚の病気のせいか、どうも考え方がネガティブになっている。
「はい」
ともかく、出ないことには話は始まらない。
『ああ、長瀬だ。休みの日に悪いが……お前、今トレセンの中にいるか?』
「はい。どうかなさいました?」
『実は、サンシャインが馬房で暴れているんだ。どうもどこか具合が悪いらしい』
「……えっ!」
サンシャインは長瀬厩舎の牡の6歳馬。今は障害レースを使っているが、3歳の頃には菊花賞にも出走した人気馬だ。
『それで獣医を呼んだんだが、こっちでも人手を用意しなきゃならなくてな。ちょっと厩舎まで来てくれ』
「わかりました、すぐ参ります!」
『頼むぞ』
「はい!」
「……どうしたんだ?」
携帯を切ってポケットに戻すと、田倉さんが聞いた。
「すみません、長瀬先生でした。サンシャインが具合を悪くして、獣医さんを呼んだらしいんです。私も行かなければいけません」
「そうか。仕事柄、俺も行って取材でもしたいところだが……やめておくよ。さっき言った通り、病気について調べてみることにしよう」
「よろしくお願いします」
私からも頼んだ。僚のこともあり、他人事ではいられなかった。
そして田倉さんはどこへともなく去っていき、私は長瀬厩舎へと急いだのだった。
――長瀬厩舎のサンシャインの馬房には、獣医の東屋香先生が来ていた。行方不明になった東屋先生の娘に当たる人だ。開業に向けて修業中の身だったが、父親がいなくなってからは、まだ未熟な腕(本人談)を懸命に振るって東屋診療所を動かしているそうだ。綺麗な顔と不自然なほどに長い髪が特徴的な女性だ。
香先生の隣では、サンシャインを担当する厩務員・高遠きっかさんが馬の顔を優しくなでている。暴れ馬をなだめるには、騎手でも調教師でもなく、普段から世話をしている厩務員が触れるのが一番なのだ。女性にしては少々体格が大きく、性格も大ざっぱだが、優しい人だ。
「お、真奈、やっと来たか」
私は何をしようかしら――と思っていたところへ、長瀬先生が入ってきた。手には水の入ったバケツを持っている。
「先生! サンシャインはどうしたんですか?」
「どうやらジンマシンを起こしたらしい。今、薬をやってもらった」
「私にできることは何かありますか?」
「じゃあ……俺はこれから馬主さんや関係者に報告しなきゃならないから、もうあとバケツ3杯ほど水を持ってきといてくれ。それが終わったら、万が一のときのために、そこの椅子にでも座って待機しておいてくれ」
「わかりました」
先生が答えて床にバケツを置き、大仲部屋へと駆け込んでいくと、私は外の洗い場へと飛び出した。
「ほら……おとなしくして。大丈夫だよ」
きっかさんの声が、後ろから聞こえた。
与えられた仕事を終えると、私は先生のおっしゃった通り、馬房にあった椅子に座った。
私の前では、相変わらず香先生がサンシャインの状態をチェックし、きっかさんが優しく馬に話しかけている。
私もただ座っているだけでなく、その様子をじっと見ているべきなのだろう。だが――頭の中では別のことがまわり、目の前のバタバタがとてつもなく小さなことのように思えてしまうのだった。
……僚。
どうしても、彼のことを考えずにはいられない。
病院に押し込むことで、ひとまず私にできる限りは全部やったが、やはり大きなショックだった。
治療法のない謎の奇病。
遅くても、1ヶ月後には死んでしまう――。
あの僚が。
転んで血を流しても悲しくて大泣きしても、次の日には元気に笑っていた、あの僚が……。
――携帯が鳴った。
田倉さんだわ。どうしたのかしら……。
ディスプレイを確認すると、私は心を落ち着けてから出た。
「はい」
『あ、真奈ちゃん? 実は、調べていてちょっと気になることがわかったんで、教えておこうと思って』
「気になること? どういうお話ですか?」
私がたずねると、田倉さんは周囲をはばかるように小声になって答えた。
『……どうやら、泰明くんが今朝から行方不明らしいんだ』
「泰明くんも!?」
思わず大声で叫んでしまった。サンシャインの前の香先生ときっかさんが、驚いて私の方を振り返る。
城泰明くん――私と僚の同期生の騎手。五十嵐厩舎所属で、行方不明の弥生さんの後輩に当たる。私や僚とも非常に仲がいいだけに、心配事がまたひとつ増えてしまった。
『ああ。どうも、五十嵐先生が彼の携帯を鳴らしたものの、コール音だけで一向に出なかったらしい』
「五十嵐先生、お気の毒ですね……。弥生さんに続いて、泰明くんまで行方不明なんて……」
『そうだな……。ところで、君はどう思う? 泰明くんもまた、病気にかかったと思うか?』
「それは……やはりそうでしょう。残念なことですが」
私は自分の考えをはっきり言った。人間が行方不明になるなど、普通はそうそうあることではない。今このトレセンで行方不明者が出たら、それは例の病気に関わっていると考える以外にない。
『俺もそう思うんだ。それで、これはちょっとした推理なんだが』
「推理?」
『もし泰明くんが発病したのが昨日から今朝にかけてだとすると、それは片山くんと同時ってことになるよな。確かあのふたり、若駒寮での部屋が隣り合わせだったよね』
「ええ、確かにそうです。……まさか、あの部屋の周辺に病原体でもばらまかれたというのでしょうか?」
『そういう可能性も考えなきゃいけなくなる』
――恐ろしい話だ。
『……と、じゃあ俺は、この泰明くんの件についてもっと調べてみるよ。片山くんが感染したことと何か関係がありそうだから』
田倉さんはそう言った。
私は……。