私は、ロマネスクの件を話すことにした。
沈んでいる本当の理由――僚のことが話せない以上、せめてそっちを話して納得してもらうしかないだろう。
「……ゴールドロマネスク、娘から母に乗り替わり、と」
田倉さんは、わざわざ人の神経を逆なですることを言いながらメモを取った。……メモを取るときに内容を口にするのは彼の癖だから悪気はないのだろうが、余計に心が曇ってしまった。感情的になることに慣れていない私にとっては、悲しみと怒りの同居状態など耐えられたものではない。
「まだ『乗り替わりの可能性あり』にしておいてください。いずれ五十嵐先生には抗議に行くつもりですので」
「わかった。俺は君の味方のつもりだから、なるべく控えめな記事にしておくよ」
「よろしくお願いします。……では、今ちょっと急いでますので」
私は田倉さんに頭を下げると、トレセンの外に向かって足早に歩き出した。
頼りになる人も、場合によっては時間をロスさせる存在にしかなりえない。そんなことを今さらながら学んでしまった。
トレセンの外の店でヘアカラーを手に入れ、私は再び若駒寮へと戻ってきた。
彼との約束通り30分ほどで、2階の僚の部屋の前まで来ることができた。
「私よ」
ノックしながらそう呼ぶと、室内で物音がして、やがて鍵が外れてドアが開いた――。
「僚……!」
私はヘアカラーの袋を廊下に落としてしまった。
――覚悟はしていたものの、やはりショックは隠せなかった。
昨日までは自然な黒だった僚の髪が、屋根に積もった雪のように真っ白に変わっている。
たった1日で――なんと無情なものだろう。
「……あ、ごめんなさい」
だが、私は驚いてはいけないのだ。それは僚を傷つける結果となってしまう。
私はさっと袋を拾い、頭を下げながら僚の部屋に入ると、誰かが廊下を通らないうちにドアを閉めて鍵をかけた。
「来てくれたな。味方になってくれて、感謝するぜ」
僚は脳天気に笑っていた。
「いいのよ。……それより、体の調子の方は? どこかおかしくない?」
「ちょっと動くのが面倒かなってあたりだ。今まで横になってた」
「そう……」
私は、ベッドのそばに投げ出されていた座布団を借りて腰を下ろした。僚はそのベッドに座る。
「他には?」
「相変わらず暑くてたまらない。この部屋、お前には寒いだろうが、勘弁してくれ。エアコンなんかつけたら、やってられないんだ」
言われて、ようやく私はエアコンが切れていたことに気付いた。歩きまわったためか、暖房がなくても問題はない。
だが、それは私に限ったことだ。いくら本人が暑いと言っていても、病気のせいで体温が低下している僚をさらに冷やすような真似はできない。
私は僚の右腕を握った。
「冷たい! あなた、これは暖めないとだめよ!」
――彼の腕は、私の想像よりも遥かに冷たかった。私は彼の意見を聞くこともなく、テーブルの上のリモコンを取ってエアコンをつけた。
そしてそれがすむと、私は紙袋の中身を出そうと手を突っ込んだ。
「そういや、それは何なんだ?」
僚はエアコンをつけたことに文句も言わず、袋の方を気にした。
「ヘアカラーよ。今買ってきたの。その頭じゃどこへも出られないでしょう。これで髪を染めれば少しは自由が利くと思って」
「お、サンキュー!」
私の言葉を聞くやいなやベッドから立ち上がり、おやつをねだる子供のように手を伸ばす僚。……どうしてこう単純なのかしら。
「……でも、忘れないでね。本当は安静にしているのが一番だっていうこと。体力を消耗すると、それだけ……あ、ううん、何でもない」
体力が消耗した結果については、僚も知っているだろう。今さら私が言ったところで、精神的に打撃を与える効果しかない。
「わかった、わかった」
相も変わらず、僚は呑気に笑った。
そして私は部屋のバスルームに僚と一緒に入り、彼を鏡の前に座らせて、髪を染めてあげた。
――砕けやすいガラスのようにも見える彼の白い髪に、ブラシを通す。
男性にしては細くて柔らかい髪だ。私は逆に女にしては固い髪なので、よく彼と「髪が逆ならよかったのにね」といった話をする。
それとは違う意味で、私は今も同じことを思った。
髪に異常をきたしたのが――病気にかかったのが彼でなく私なら、どんなによかっただろう。
なぜ、納得のいかない理由で有馬に乗れなくなりそうな惨めな私ではなく、やる気と希望に満ちあふれている彼が選ばれてしまったんだろう――。
運命の意地悪さに負け、下手な励ましもできないままに、私は鏡の中の僚を見た。
いつも通りの顔が、そこにある。
「……僚って、いざとなると意外に精神力強いのね」
思わず、私はつぶやいていた。
「俺が?」
「ええ。……こんなこと言っていいかどうかわからないけど、ちっとも怖がってるように見えないもの」
私がどんなに悲しくても、彼の悲しみは常にそれ以上のはずだ。それなのに、普段はすぐ感情を顔に出す彼が、今は悲しみも恐怖心も表に出していない。それが気になっていたのだ。
すると――僚は、ゆっくりと口を開いた。
「……怖いさ。死ぬのは怖い。だけど、どうせ死ぬ未来しかないなら、そのときまで自分らしく生きたいんだ。今の俺の『自分らしさ』ってのは、有馬への夢と希望。それを棄てるわけにはいかない。……病気にかかってなくたって同じさ。人は誰も永遠には生きられない。だから、生きてるうちにとことん自分らしく生きとかなきゃ、後悔するぜ。俺の場合、ただその期間が突然短くなったってだけだ……」
――何も言えなかった。
僚はいつでも一生懸命に生きている。見ている私の方が疲れるほどに、自分の力を目一杯出して行動してしまう。
私は彼のそんな生き方を愚かだと思っていた。いつも一生懸命すぎると倒れてしまうから、適当に力を抜いて賢く生きるべきだと思っていた。
でも――それは間違っていたらしい。
こんな状態になっても、僚は何ひとつ変わることなく、運命が自分の命を奪うその瞬間まで一生懸命に生きようとしているのだ。
人生を適当に流している人間には、そんなことは到底できまい。病気がわかった時点で、今までしてきたことがすべて無意味になるのを恐れ、取り乱すしかできなくなるに違いない。
私も含めて……。
単なる「精神力の強さ」だけではない。「性格が大人」なだけでもない。僚には、僚にしかない強さがあるのだ。
……そんな素晴らしい彼を、どうして放っておくことができようか。
自分の何を投げ出してでも、少しでも彼が助かる確率の高い方へと事態を流す。
それが、私にできるすべてだ――。
「……ねえ、僚。ちょっと重い話なんだけど、聞いてくれる?」
私は、かねてから思っていた「あの話」をすることにした。
「ああ、何でも言えよ」
「実はね、私、この一連の奇病騒ぎに関して前々から考えていたことがあるの」
「おう、なんだ?」
「……もしかしたら、この病気の流行は人為的なものなんじゃないかって」
「人為的……?」
人を疑わない僚にとっては、さぞ意外な一言だっただろう。
「ええ」
「つまり、どこかの誰かが流行らせてる、ってのか?」
確認するようにたずねてきた僚に私はうなずき、話し出した。
「この病気は、患者と一緒にいた人が感染した例がほとんどないことから、空気感染はしないとされているわ。それなのに、流行はこの美浦、それもトレセンを中心とした一部の地域に限られている。……これを、どう思う?」
「どうって……」
やはり基本的に陰謀説は信じたくないのだろう、言葉を詰まらせる僚。
「だから、この病気は注射か何かで病原体を投与すると感染するもので、それをやっている犯人が近くにいるのかもしれないって考えたの。きっとそいつは病気の研究者で、大がかりな人体実験を行っているんだわ」
「何だって……」
「僚、あなた、最近注射を受けたり、薬品関係のものにお世話になったりした?」
「いや、そんなのは全然ない」
「じゃあ、不審な人物に会ったとかは?」
「コンタクトを取る人間はある程度決まってるからな……待てよ。ってことは、犯人はその中にいるってのか?」
鏡の中で、僚の顔色が変わった。知人を疑う――それは、彼にとっては地獄にも等しいことなのだろう。
「もちろん、犯人がいるかもなんていうのは私の当て推量でしかないわ。ただ、誰かの陰謀だといいなと思ったのよ」
「陰謀だといい? なんでだ?」
「だって……」
髪を染める手を止めると、私は自分の気持ちを言った。
「……犯人がいるなら、そいつは治療法を知っているかもしれないじゃない」
「そうか!」
僚はようやく私の思いを理解してくれ、うつむき気味だった体勢を元に戻した。
「だから私、決めたの。どんなことでも、僚が助かる可能性があるなら、それに賭けようって」
「真奈……」
鏡の中の僚は私の名前を呼び、そして――言った。
「お前、いい女だな。お前がいてくれてよかった」
「やだ……そんなこと言わないでちょうだい。私たち、幼なじみ同士じゃないの」
顔の火照りを感じ、私はそれが鏡に映らないように顔を背けた。
――そのとき、私の携帯が鳴った。
ヘアカラーをいじるに当たり、私は着ていたジャージの上着を脱いで僚の横に置いていたが、運の悪いことに携帯はそのポケットの中だった。
「あらやだ……ちょっと、手がこれじゃ出られないわ。僚、取ってくれる?」
「よし」
僚は私の携帯を取り出し、ディスプレイをちらりと見た。
「真奈、長瀬先生だ」
長瀬先生なら無視するわけにはいかない。どうしようかと一瞬戸惑った間に、僚は通話ボタンを押してから手を懸命に伸ばし、携帯を私の口のところまで持ってきてくれた。
「ありがとう。……はい」
私は僚の好意に感謝して、彼に携帯を持ってもらったまま話を始めた。
『ああ、長瀬だ。休みの日に悪いが……お前、今トレセンの中にいるか?』
「はい。どうかなさいました?」
『実は、サンシャインが馬房で暴れているんだ。どうもどこか具合が悪いらしい』
「……えっ!」
サンシャインは長瀬厩舎の牡の6歳馬。今は障害レースを使っているが、3歳の頃には菊花賞にも出走した人気馬だ。
『それで獣医を呼んだんだが、こっちでも人手を用意しなきゃならなくてな。ちょっと厩舎まで来てくれ』
「しかし、今ちょっと手が……」
『頼む。スタッフのほとんどがトレセンの外まで出かけちまってるんだ』
「……はい、わかりました。申し訳ございません。すぐ参ります。それでは……」
『すまない。待ってるぞ』
長瀬先生の方から電話が切れると、私は僚の前にまわって手を洗い始めた。僚は携帯を耳に当て、それから切る。
「どうしたんだ? 何か驚いてたみたいだが」
やはり気になるらしい。携帯を私のジャージのポケットに突っ込みながら、僚はたずねる。
「厩舎の馬がどこか体を悪くしたみたいで、馬房で暴れているんですって。人手が足りないから来てくれって、私も呼び出されちゃった。ごめんなさい、まだ途中なのに」
「いや、いいんだ。あとは自分で何とかするさ。……そうだ」
僚は手を1回たたくと、元気な口調で言った。
「真奈、出歩けるようになったら、よければこのへんのやつらに聞き込みでもしとこうか? この病気に関して何か情報がないかとか、怪しいやつを見なかったかとか」
……私は考えてしまった。
彼の病気の状態を考えると、あまり動きまわらせるわけにはいかない。
しかし、彼は「このへんのやつら」と言っている。体を気づかって行動範囲を自ら制限する意思があるのだ。彼にまかせたい気持ちもある。
そして、結論は出た。