「わかったわ。それじゃ、ちょっとお願いできる? 何か情報があったら、私の携帯を鳴らしてちょうだい」
「よし!」
僚はやる気たっぷりに答えた。……そのやる気が、逆に悲しい。
「でも約束よ。絶対に無理はしないこと。あなたがどうにかなったら……悲しむ人はあなたや伸おじさんだけじゃないのよ」
言いながら、私はジャージの上着を取った。
「じゃあね。お大事に」
そしてそれだけ残し、私はバスルームを出て、僚の部屋も出た。
……素っ気ないのは、動揺を隠すためだった。

 

 

――長瀬厩舎のサンシャインの馬房には、獣医の東屋香先生が来ていた。行方不明になった東屋先生の娘に当たる人だ。開業に向けて修業中の身だったが、父親がいなくなってからは、まだ未熟な腕(本人談)を懸命に振るって東屋診療所を動かしているそうだ。綺麗な顔と不自然なほどに長い髪が特徴的な女性だ。
香先生の隣では、サンシャインを担当する厩務員・高遠きっかさんが馬の顔を優しくなでている。暴れ馬をなだめるには、騎手でも調教師でもなく、普段から世話をしている厩務員が触れるのが一番なのだ。女性にしては少々体格が大きく、性格も大ざっぱだが、優しい人だ。
「お、真奈、やっと来たか」
私は何をしようかしら――と思っていたところへ、長瀬先生が入ってきた。手には水の入ったバケツを持っている。
「先生! サンシャインはどうしたんですか?」
「どうやらジンマシンを起こしたらしい。今、薬をやってもらった」
「私にできることは何かありますか?」
「じゃあ……俺はこれから馬主さんや関係者に報告しなきゃならないから、もうあとバケツ3杯ほど水を持ってきといてくれ。それが終わったら、万が一のときのために、そこの椅子にでも座って待機しておいてくれ」
「わかりました」
先生が答えて床にバケツを置き、大仲部屋へと駆け込んでいくと、私は外の洗い場へと飛び出した。
「ほら……おとなしくして。大丈夫だよ」
きっかさんの声が、後ろから聞こえた。

 

 

与えられた仕事を終えると、私は先生のおっしゃった通り、馬房にあった椅子に座った。
私の前では、相変わらず香先生がサンシャインの状態をチェックし、きっかさんが優しく馬に話しかけている。
私もただ座っているだけでなく、その様子をじっと見ているべきなのだろう。だが――頭の中では別のことがまわり、目の前のバタバタがとてつもなく小さなことのように思えてしまうのだった。

……僚。
どうしても、彼のことを考えずにはいられない。

一生懸命に生きようとする彼の前ではそんな素振りは見せられなかったが、やはり大きなショックだった。
治療法のない謎の奇病。
遅くても、1ヶ月後には死んでしまう――。
あの僚が。
転んで血を流しても悲しくて大泣きしても、次の日には元気に笑っていた、あの僚が……。

 

 

――携帯が鳴った。
僚だわ……。
ディスプレイを確認すると、私は心を落ち着けてから出た。

「はい。何かいいことは聞けた?」
『それより……ちょっと、落ち着いて話をしたいんだが、お前の方は手が空いてるか?』
「ええ、今は大丈夫。それより、何かあったのね?」
僚の声は暗かった。よほどのことがあったに違いない。
『ああ……。実は、泰明が消えちまったんだ』

「泰明くんも!?」

思わず大声で叫んでしまった。サンシャインの前の香先生ときっかさんが、驚いて私の方を振り返る。
城泰明くん――私と僚の同期生の騎手。五十嵐厩舎所属で、行方不明の弥生さんの後輩に当たる。私や僚とも非常に仲がいいだけに、心配事がまたひとつ増えてしまった。
『外で五十嵐先生に会って聞かされたんだ。携帯鳴らしても、コールするだけで出ないってさ。それで俺、泰明の部屋まで様子を見に来たんだ。今、やつの部屋の中にいる』
「鍵が開いてたの?」
――私の中に、暗い想像があふれる。
『ああ』
「じゃあ……泰明くんはすぐ戻ってくるつもりでその部屋を出て、それっきり……ということになるわね。彼自身も予想しえなかったことが、彼の身に起きたのかしら……」
『その件なんだが』
僚は彼なりに何かを考えていたらしく、話を始めた。
『ほら、昨日の夜、あいつの誕生日会みたいなことやっただろ?』
「ええ」
昨日は泰明くんの誕生日で、夜に五十嵐厩舎の大仲部屋で、私や僚も含めて彼と親しい何人かが集まってお祝いをしたのだ。弥生さんが行方不明になっていたことがあり、あまり盛り上がらなかったが(個人的なことを言えば、五十嵐先生にロマネスクの件を通達されたのがその席だったせいで余計に楽しめなかった)、泰明くんは「ありがとう、ありがとう」としきりに感謝していた。
『あのときのあいつは、いつも通り元気だったよな。なのに今朝から行方不明ときた。だからさ……もしあいつの行方不明が例の病気にかかったせいだとしたら、それが発病したのは昨日の夜から今朝の間だ。あいつなら病気を隠すなんてこともしそうにないし、間違いないだろ』
「そうね……待って。それじゃ、あなたと同時ってことになるじゃない」
『さすがだな。その通りだ』
僚は私をほめたが、それは純粋に私を素晴らしいと思ったからではなく、自分に気合いをつけるためだったのだろう。そんな口調だ。
そして、それが的中したのか――彼は重くつぶやいた。

『……お前、この病気は誰かが感染させてるんじゃないかって言ってただろ? もしそれが本当なら……その犯人は、昨日の夜に俺と泰明の両方に近づいたやつの可能性が高い、ってことになる』

――そうだ。
「それじゃ、昨日の夜に集まったメンバーの中に……?」
昨夜のメンバーは、私、僚、泰明くん、私たちのもうひとりの同期生で泰明くんの親友・星野レイラ、そして五十嵐先生と厩舎のスタッフたち。
『いや、そいつはちょっと……ありえないと思う』
僚は「信じたくない」気持ちでそう言ったのだろう。自分で「昨日身近にいた人間犯人説」を出しておいてから否定するあたり、そんな気がする。
そして私も、理由は違うものの、昨夜のメンバー犯人説にはうなずけなかった。
「そうね。病気を研究して流行らせて実験するには、相当の専門的知識が必要になるもの。昨日のメンバーの中にはそんなことのできそうな人はいないわ」
『だよな。でも、だとすると、やっぱりこいつは事件じゃなくて単なる流行病なのか?』
……どうしてそう、治る見込みを自分で摘み取るような推理をするのかしら。
「私はそんな結論に持っていきたかったんじゃないの。まだ疑ってみるべきよ」
ついグチっぽくなってしまい、私はいったい何をしているんだろう、と思う。
犯人がいたら必ず治療法がある、というわけじゃないのに。

「……ねえ、僚。私からひとつ頼みたいことがあるんだけど、聞いてくれるかしら」
少しして、私は小さい声で言った。もっと証拠があれば根拠のない疑いや当て推量をしなくてすむ、それに気付いたのだ。
『いいけど……何なんだ?』
「今いる泰明くんの部屋を、もう少し詳しく調べてみてほしいの。何か手がかりが残ってるかもしれないから」
『よし!』
僚は頼もしく即答してくれた。
「ありがとう。できれば、この携帯をつないだままにして、どんなものがあるかリアルタイムで教えてくれるとわかりやすくていいんだけど」
『わかった、それでいこう』
――そう返事があってから10秒ほど後、僚の声が続いた。
『真奈、まずは部屋の右側からだ。ベッドとナイトテーブルとバスルームくらいしかないが、何か妙な違和感を覚えるんだ』
「違和感があるの? それなら、今あなたの目に触れている範囲に、きっと何かがあるわ!」
『よし、調べるぞ!』
やる気満々の声が返ってきた。

『ん? ……おお、こいつだこいつだ!』
そしてさらに10秒ほどして、僚は何かを見つけたようだった。おそらくはそれが「違和感」の正体なのだろう。
「こいつって……何があったの?」
『ケーキボックスだ。ひとり分の小さなやつ』
「ケーキボックス?」
つまり、ケーキの箱ということだが……何がおかしいのだろう。
『ほら、人にケーキをプレゼントするときに使う、取っ手のついた紙の箱さ。それがナイトテーブルの上にあったんだ』
「それはわかるけど、どうしてそれが違和感の元なの? 誕生日のお祝いに誰かが持ってきただけじゃないの?」
私は聞いた。
『ああ……ちゃんと説明しないとわからないか。最初から話そう』
口調からすると、どうやら僚はそのケーキの箱を最初から知っていたらしい。詳しいことを話してもらおう。
『こいつはな、泰明が昨日、誰かにもらったやつらしいんだ。中身はショートケーキ一切れだけだったんだが、ほら……お前も知ってるだろ? あいつが甘いもん絶対食えないってこと』
「ええ……そういえばそうね」
思い出した。泰明くんは甘い物が大の苦手で、同期4人で一緒に食事に行っても、デザート類を注文したことは一度もない。昨日もバースデイケーキではなく、わざわざローストチキンにろうそくを21本立てたくらいなのだ。
しかし――。
『泰明は最初、それでも贈り主の好意に感謝して全部食おうとしたんだ。でも、一切れの半分を食うのが限界だった。で、やつは昨日の夜、俺に助けを求めてきた。自分はこれ以上食えない、でも捨てるのはあまりにも失礼だから、残りを俺が食ってくれないかってな』

「それであなた、食べたの!?」
――私は、自分が信じられないほどに取り乱した声を上げてしまった。
胸の中のあちこちに散っていた黒いものが徐々に固まって形になっていくのが、はっきりと感じ取れた。

『……どうかしたのか?』
「それより、答えて!」
『あ、ああ……もちろん俺は甘いもん好きだから、喜んでもらって食ったが』
「それだわ! きっとそれよ!」
間違いない。それで僚は発病し、泰明くんも失踪したのだ――。

『……おい、ひとりで完結するなよ。何かわかったんなら俺にも説明してくれ』
と僚。確かに彼にも説明しなければなるまい。
「だからね、こういうことよ。……例の病気は空気感染はしないけど、病原体入りの食べ物を食べたら感染するんじゃないかしらって」
『何!?』
私の推理は、彼にはよほど意外だったらしい。
『つまり、あのケーキに……!?』
「そうよ。昨日から今日にかけて、あなたと泰明くんだけをつないだものが他にある?」
『いや……ケーキをもらう前はお前らと一緒にいたし、もらって食ってからは泰明には会ってない』
「だったら間違いないわ。犯人はそのケーキの贈り主よ。ケーキに病気の元になる何かを仕込んで、泰明くんに食べるように仕向けたんだわ。犯人のターゲットは彼だったのに、あなたが半分食べたせいで、あなたも被害者になっちゃったのよ」
『なんてこった……』
僚はうめいた。彼はおそらく、自分が被害者になった不幸よりも、犯人の仕打ちに怒りを感じているのだろう。
「僚。そのケーキの箱に、何か手がかりはない? お店の名前が書いてあるとか、賞味期限の表示とか、贈り主からのカードがついてるとか」
『ちょっと待て。見てみる』
私が聞くと、僚は落ち着きを取り戻し、電話口でガサガサと音を立てた。箱を調べているらしい。
そして、返事は数秒ほどで来た。
『……ないみたいだ。店の名前も書いてないし、賞味期限だの材料名だののシールも貼ってない。メッセージカードもない』
「ない? その箱には、本当に何も書いてないのね?」
私は念を押した。そうだとすると、かなり綿密な計画的犯行の可能性が高くなる。
『ああ。おかしな話だが』
「おかしくないわ。きっとあれよ。ほら、手作りのケーキをラッピングするための箱を売ってたりするじゃない」
『え、じゃああのケーキは、ハンドメイドってことか?』
「そうとは限らないわ。ケーキはどこかのお店のでも、箱だけラッピング用に変えた可能性もあるし」
『何のためにそんな面倒なことするんだ?』
「だから、私たちみたいな人間に調べられたときに、出どころをわからなくするためよ」
『なるほど……。だとすると、相当に計画的で頭のいい犯人だな』
ようやく、言いたかったことが僚に通じた。
これで、犯人がいることと、その人物にかなりはっきりした悪意があることだけは確かになったと思う。

――待って。
だとすると……もしその犯人が僚のことを知ったら、彼も狙われる可能性があるわ!

「とにかく、そのケーキの箱が見つかっただけでも大きな収穫よ。あなたはそれを持って、もう自分の部屋に戻ってて」
私はしっかりした口調で言った。言葉こそ普段通りだったが、命令しているつもりだった。
『え? もうここは調べなくていいのか?』
「……何か、いやな予感がするのよ。あなたは私の予感なんか当てにならないって言うでしょうけど……あまり長いことその部屋にいると危ない、って気がしてしょうがないの。だから、自分の部屋でおとなしくしててちょうだい」
それは、私が初めて自分の「直感」を信じた瞬間でもあった。
『わかったよ。ありがとう』
僚は私の気持ちをわかってくれた。
「私の方の用事はもうちょっとかかりそうだけど、終わったらすぐに行くわ。それまで自分の部屋にいて、絶対にどこへも出ないでくれる?」
『約束する』
そのはっきりした返事が嬉しい。
「よかったわ。……じゃあね。また後で」
『ああ』
僚の声を耳に焼きつけてから、私は携帯を切った。

 

 

――電話を終えて数分。
サンシャインの診察を終えた香先生が帰り、きっかさんは相変わらず馬の機嫌取りを続けている。そして私は、馬が暴れたせいで少々散らかった周囲の掃除をすることになって、体を動かしていた。
しかし……体と頭は違う動きをしていた。

病原体の入ったケーキを泰明くんにプレゼントし、彼と僚を病気に冒した犯人……。
いったい、どこの誰なのだろう。

ケーキをプレゼントするというのは、女性的発想だ。
そして、甘い物が苦手な泰明くん。
結果的に「食べて」と僚に助けを求めているところから、特に親しくもない相手からのプレゼントだったら、手をつける前にそうしていたはずだ。
しかし、彼は例え半分でも無理に食べる方を選んだ。できることなら全部食べたい、という気持ちが相当強かったのだろう。
彼は、そのケーキの贈り主を慕っていたに違いない――。

――該当する人物がひとり。
彼の大親友、レイラ――。

だが、同期の私は当然知っている。
彼女は「勉強は大嫌い」というタイプだ。自ら病気を研究し、人体実験などをするような技術力が彼女にあるとは到底思えない。
また、騎手デビュー早々に厩舎を離れてフリーとなったことから、誰かの手先になって働くのもあまり好きではないようだ。

しかし、泰明くんが最も心を預けている人物は彼女だというのもまた事実――。

……私はしばし迷いと対峙し、そして思った。

 

 

A  やはり、レイラを疑うのは見当違いだ。

B  レイラを疑ってみる価値もありそうだ。


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