久しぶりに実家に顔を出した俺を、ひとり暮らしの親父は快く迎えてくれた。
トレセン近くのマンションの一室。俺が生まれ育った場所。
競馬学校に入る前までここで暮らしていた。ジョッキーとしてデビューし、寮に入るか実家に住むかの選択を迫られたとき前者を選んだことには、俺を知る連中のほとんど全員が驚いたものだった。
だが、俺だって、親父をひとりで置いていくような意味でそうしたわけじゃない。
親父は「優しすぎる人間」だと俺は思う。俺が一緒にいる限り、親父は俺に気をつかい続け、安らぎのひとつも得られないんじゃないか。
それよりは、早めに独立して元気に頑張っている姿でも見せた方がいい。
そう思った末のことだったのだ。

俺はキッチンの椅子に座り、親父が用意してくれたトーストとコーヒーを前にしていた。そのさらに前には、誇り高き親父。
昔から、このキッチンには椅子がふたつしかない。物心ついた頃からある年代物の椅子だってことを考えると、おそらく俺が生まれる前はお袋がここに座っていたんだろう。
……俺は、親父の前ではお袋の話はしないことにしている。悲しむとわかっている話が、どうしてできるものか。

「……まあ、そんなわけだ。拾ったチャンスだけど、一生懸命頑張って勝ってみせるさ。見てろよ」
俺は親父に、有馬に乗れるようになったいきさつを細かく話した。
喜んでくれるかと思った。……が、そうではなかった。親父は持っていたコーヒーカップをテーブルに置くと、その手で白髪混じりの頭を押さえながら、絞り出すように返してきたのだった。
「……お前はいったい、誰のために頑張るんだ?」
「決まってるじゃないか。親父のためさ」
「そんなことは、言うな……」
「……親父?」
親父は苦しそうだった。俺はその意味を測りかねて、苦労が染みついた顔をのぞき込んだ。
「お前は、お前のために頑張ればいいんだ。もう人生の舞台から下りた俺のためになんか……」
なるほど。何かあるとすぐ自分を犠牲にしたがる親父の特技だ。だが、俺にも俺の特技がある。
「水くさいなあ……。親父、俺と親父はたったふたりだけの家族なんだぜ。その相手のために頑張りたいと思ったって、おかしくはないだろ?」

「……お前は、沙穂を家族だとは思っていないのか?」

予測不可能な反撃だった。
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
「……無理もないか。話したこともないわけだし、顔すら知らないんだからな」
そうだった。俺はお袋の顔を知らない。俺は親父に「お袋の顔を教えろ」とねだったことはないし、親父の方も俺にそれを教えようとはしなかった。俺がお袋に関して知っているのは「沙穂」という名前、親父より年上だったこと、そして自分の性格はどうやらお袋譲りらしいということだけだ。
「……どうだ。沙穂の写真、見るか?」
親父は不意にそう言った。
「お袋の写真を……」
俺は一瞬だけ揺れたが、結局こう答えた。
「ああ」
それが俺の意思だったのか、それとも親父が見せたがっているのを察知したためかは、わからない。
俺が考える間に、親父はさっと椅子を立って隣の部屋へ行き、何やらがさがさと音を立て始めた。
……1分と経たずに、親父は戻ってきた。探したのではなく、しまってあったのを出しただけといった時間だ。それは親父が今でも変わらずにお袋を愛し続けていることの証でもあり、俺は嬉しくなった。
そして俺は、親父が差し出したものを受け取って、見た。

それは、結婚披露宴の集合写真だった。下に「片山家・北村家」と書いてあり、参列者全員の名前のキャプションがついている。
中央のタキシードが親父。その隣のウェディングドレスが……北村沙穂、お袋だ。
第一印象は「大人びていて美人だな」ということだった。親父よりひとつだけ年上のはずだが、5つくらい上に見える。
……そうか、これが親父に愛され、親父を愛し、自分の命と引き換えに俺をこの世に送り出した女か……。
感傷に浸りながら、俺は周囲の人間にも目を配った。
真奈の両親・篠崎先生と真理子おばさんがいる。写真のキャプションは「桂木真理子」だから、まだ結婚前だ。
真奈の師匠の長瀬健一先生もいる。彼もまた篠崎先生や真理子おばさんと同様に、ジョッキー時代の親父の同期生で親友。いて当たり前だ。
他には……若き日の寺西先生やその父親などの姿も見える。競馬界が「人馬ともに血縁関係の世界」と呼ばれるゆえんだ。

……真奈。
篠崎先生と真理子おばさんのふたりは、やはりその存在を思い起こさせた。
真奈は自分の母親を嫌っている。人間って奴は自分と同性の親を本能的に嫌うもんだ、なんて説もあるが(俺は例外らしい)、それにしたってあの嫌い方は尋常じゃない。物心ついた頃から真奈を知っている俺でさえ、あいつが母親と仲よく話をしてるところの1回も見たことがないのだ。あいつはおばさんがそばに来ると、まるで悪魔でも避けるかのように、さっとどこかへ行ってしまう。
あいつには、両親がともに健在であることのありがたさがわからないらしい。それが俺にはどうにも不満だったりする。親父大好きの俺でも、お袋がいないのは寂しいと思ったことが何度もある。思ったところでどうにもならないのだが、それでも思うのだ。
大は小を兼ねるが、逆は叶わない。それなら有も無を兼ね、逆が叶わないのだろうか。
きっとそうなんだろうと俺は思う。だから、真奈の態度は俺には目に余る。一度、もっと親を大事にしろとでも言ってやるべきだろうか。

「僚……」
親父の呼ぶ声で、俺は現実に戻ってきた。
「……ああ、悪い」
「どうだ、沙穂に会った感想は」
会った、という言いまわしを聞いて、俺は「実は全然違うことを考えていた」事実を飲み込んだ。親父には、そんなことは言えない。
「いや……綺麗だよな。なんで俺、お袋に似なかったんだろ」
もちろんジョークだ。俺は親父似のこの顔に誇りを持っているし、親父自身も俺のそんな気持ちを知っている。
だが、親父は。
「……正直、お前が沙穂に似ないでよかったと思う。もしお前が沙穂に生き写しだったら、俺は……毎日泣いてばかりだったかもしれない」

……俺は、これ以上余計なことを言うのはやめようと思った。ここで親父を救うために的確な言葉をかけるには、きっと俺はまだ若すぎるんだ。
何年経っても、親父は俺の親父で、俺は親父の息子。だから、親父の気持ちがはっきりわかるその日まで、見守るだけにしておこう……。

 

 

昼近くなって、俺は実家を出た。
特に行きたいところはない。今日は休みなんだから、自分の部屋にでも帰ってゆっくりしようか。
そう思いながら、トレセン中心部の私道を歩いていたときだった。
「あら、僚」
南の厩舎エリアの方から、真奈がやってきたのだ。
真理子おばさんの若い頃にそっくりのかわいらしい顔からは、いつも通り、愛想のひとつも感じ取れない。周囲のあらゆるものから自分を守るように、表情を固めたままだ。
……それにしても、今日はちょっとその度合いが強いみたいだな。
俺はそれに気付いた。真奈は表情が乏しく、俺はそうではないが「俺の感情を読もう」なんて気が向こうにはこれっぽっちもない、と条件的には悪いのだが、俺たちは長いつきあいだから、顔を合わせれば互いの気分くらいはそれなりにわかる。
「どうした、真奈。何かあったのか?」
「いいえ、特に何も」
明るさの意味で半ば笑いながらたずねた俺に、真奈はそう言って首を重く横に振った。
真奈が「ううん」とか「そうじゃないの」ではなく「いいえ」と他人行儀に否定したときには、大抵その言葉とは反対の思いを胸に宿している。俺はそんなことも知っていた。こいつの感情を知る数少ない手がかりだ。
「ごまかすなよ。力になってやるぜ」
「……あなたには無理だわ」
俺がさらに押すと、真奈は簡単に前言を撤回し、自分に不満があることを打ち明けた。こいつはプライドこそ高いが、感情が稀薄な分、強情さもあまりないのだ。唯一、真理子おばさんにだけはものすごく対抗心が強いのだが。
「どうした」
「僚。有馬でのあなたとの対決は、どうも先送りになりそうなの」
「あ、先送りか……」
真奈には悪いが、俺は妙に納得してしまった。
対決が先送りになりそう……その言葉の意味は、ジョッキーなら簡単にわかる。いわゆる「乗り替わり」という奴だ。
乗り替わりってのは、それまで乗せていたジョッキーをクビにして、次のレースから別のジョッキーを乗せることだ。だいたいにおいては、絶対勝ちたいレースを前に、鞍上をより能力の高い奴に替えることをそう呼ぶ。他にもレースでとんでもないミスをしでかした罰とか、調教師とジョッキーの間の単なる確執とかいろいろ理由はあるが、今回の真奈の場合はまず最初のパターンに違いない。何しろ相手は、ダービー・ジャパンカップ・天皇賞と並んで「誰もが是非勝ちたいレース」に数えられる有馬だ。いくら重賞を何勝もしてたって、真奈は所詮、デビュー3年未満の減量ジョッキー(俺も同じ立場だが)。ゴールドロマネスクを管理する五十嵐先生の目からも、有馬の舞台ではちょっと頼りなく見えたんだろう。
……しかし。
「そうよ。昨日の夜に五十嵐先生が、今度の有馬ではゴールドロマネスクに私を乗せないとおっしゃったの。しかもその理由がとんでもないのよ」
「とんでもない……?」
「来年一杯で引退する予定のどこかのお年寄りジョッキーにどうしてもG1を、ですって」

「……」

その痛烈な言いまわしに、俺は言葉を失った。
真奈の言う相手は、真理子おばさんに他ならない。
親父の話によると、おばさんは若い頃から「50歳まで現役を続ける」のが夢だったらしい。来年の4月にその目標を達成し、そして来年一杯で現役を退く。それが、彼女が何十年も前から描いていた人生設計だという。
今年で現役生活30周年を迎えた彼女には確か10ほどの重賞勝ちがあるが、G1勝利はまだない。加えて彼女は、かつて五十嵐先生の父親の厩舎に所属し、腕を磨いた経験の持ち主だ。先生だって彼女に思い入れがあるだろう。残り1年の現役生活の間に是非有力馬でG1を、と考える気持ちはよくわかる。
それなのに、真奈の奴……。
「……今回くらい納得してやれよ。それに、そんな言い方しなくたっていいだろ」
「あなたまでそんなこと言うの?」
ようやく出した俺の言葉に、真奈は柳眉を逆立てた。半ば本気で怒っているようだ。
だが。
「言うさ。お前のジョッキー人生はまだまだこれからだけど、おばさんにはもう先がないんだぞ。馬の1頭くらい譲ってやろうって気持ちが、お前にはないのか?」
俺の方も、半ば本気で怒り始めていた。いくら嫌いったって、相手は実の母親だ。思いやりがないにもほどがある。
「ないわね。何十年もやってG1勝てなかったのは、下手だったからよ。要領よくて数乗せてもらってるだけに余計ね。私のミスで降ろされるなら仕方ないけど、こんな理由でなんて……絶対納得できないわ」
「お前な……もっと母親を大事にしろよ! 世界にたったひとりの存在に、なんでそんなに冷たくできるんだ!」
俺は、実家で思った通りのことを真奈にぶつけた。それはある意味では怒り、ある意味ではジェラシーだった。俺がいくら望んでも決して得られない存在をこいつは持っている。しかもそれを大事にするどころか、障害物扱いしているのだ。叫ばない方がどうかしている。

「娘を大事にしない母親を、どうして大事にしてやる必要があるの?」

「……」
しかし、俺の叫びはその静かな言葉に押し込められてしまった。
「お母さんが私を本当に大事に思っているなら、五十嵐先生に『私はいいですから、真奈を乗せ続けてあげてください』とくらい言うはずよ。それなのにあの人は、何も言わないで先生の申し出を受けた。あの人は……自分の騎手人生を納得いく形で終わらせるために、娘を踏み台にしたんだわ」
……反論はできなかった。
真奈の胸の内を支配するものは、暗い悲しみだ。本人は気付いてないだろうし、指摘したところで認めるわけないとは思うが、こいつは有馬の舞台から降ろされたことそのものより、自分から馬を奪った相手が実の母親だったことに傷ついているのだ……。
「悪かったわね、こんなくだらない話で時間をつぶさせて。それじゃ、用事があるから」
真奈は不意に顔を背け、それだけ言って、今度は北の厩舎エリアの方へと素早く去っていった。
「あ……」

俺は、しばらくその場に立ち止まったままで考えていた。
真奈は、感情がないわけじゃない。それを表面に出すこと、他人に悟られることを恐れているだけだ……と、思う。だから、逃げたんだろう。
それなら、当然追わない方がいい。ひとりにしてやろう。
……しかし、真奈の有馬降板問題か……。
放ってはおけなかった。それは、自分の感情だけで「母親を大事にしろ」だ何だと言っちまったことが負い目になって残っていたせいかもしれないし、理由なんかなかったのかもしれない。あるいは、相手があいつだったからか。
よし、決めた。
俺は真奈の味方だ。真理子おばさんのG1への思いにも心は動くが、その犠牲になるのが娘の真奈ってのはあまりにもひどすぎる。俺の力でどこまで動かせるかはわからなくても、とにかく行動を起こそう。
そう思うが早いか、俺はさっきまで真奈がいたらしい南エリアへと向かって歩き出した。目指すは五十嵐厩舎だ。

 

 

五十嵐厩舎は、外観といい内装といい調教法といい、すべてが古くさいと俺は思っていた。きっと先生の頭の中身も古くて、それで真奈の気持ちを理解できないんだろうな。
その古くさいドアをノックし、中からの返事を待つ。
「はい」
「片山僚です。ちょっとお話があります」
「入りたまえ」
この言い方も古くさい。俺は半ば呆れながら「失礼します」と答え、引き戸を開けた。

「用件はだいたいわかっている。ロマネスクの鞍上のことだろう」
遥か昔の大衆食堂みたいな殺風景な大仲。そこの椅子に俺が座ると、五十嵐先生はいきなりそう言った。
「え? ……あ、はい。しかし、なぜ?」
「たったさっきまで、真奈もここにいたんだ」
「あ、そうだったんですか」
なるほど。さっきこっちのエリアから出てきたのは、ここへ抗議に来ていたからだったんだな。
「ああ。それで、君は彼女に会って話を聞いて、それが放っておけなくなってここへ来たんじゃないか……と私は推理してみたわけだが」
「……お見事です」
俺は苦笑いした。五十嵐先生は、いろんな意味で俺の親父と共通点が多い。だから、話題がどんなものであれ、こんな風に心が通じると何となく嬉しいのだ。

「まあいい。それで真奈のことなんだが……まあ、これを見てくれたまえよ」
そう言って先生は、ガタが来ている木製のテーブルの上から数枚の紙を取って、俺に差し出した。
……それは、パソコンのプリンターを使って打ち出したデータだった。タイトルは『篠崎真奈と篠崎真理子の勝率の比較』。
内容は、その名の通り真奈と真理子おばさんの勝率の比較だった。有馬の舞台になる中山芝2000での勝率だの、人気別の勝率だの、五十嵐厩舎の馬での勝率だの……とにかくいろんな方面からの勝率が細かく記され、比較されている。データに間違いや偽りがなければ(真奈に限って絶対ないだろう)、誰もに「真奈の方がジョッキーとしては真理子おばさんより優れている」と認めさせられる内容だった。
「これは……真奈が調べて持ってきたんでしょう。それで、自分の方が優れているのになぜ降板させるのか、と理屈を並べ立てて抗議したんじゃないですか? あいつのやりそうなことです」
「その通りだ」
五十嵐先生はテーブルに頬杖をついた。ガタン、と床が音を立てる。それに勇気を奮い起こしてもらったかのように、俺は話を始めた。

「しかし先生。失礼ながら、俺は真奈の味方をさせていただきます。昔から真理子おばさんをよくご存じの先生が、彼女にG1をと考える気持ちはわかるんです。でも、そのしわ寄せを食らうのがあいつってのは、あんまりじゃないですか」
「君は、なぜ真奈をかばうのかね? 君にはウィローズブランチという、ロマネスクと肩を並べられるパートナーができたんだろう。今さら彼女の騎乗馬についての問題に首を突っ込んだところで、何の得もないはずだ」
「損得の問題じゃないです! 俺はただ……あいつが気の毒で、それで何とかできないかと思っただけなのに!」
火照る顔を強い口調でごまかしながら叫ぶと、五十嵐先生は頬杖をやめて、俺をまっすぐに見た。
「ああ、悪い。ちょっと君の気持ちを試したかったんだ」
「試したかった……?」
どういうことなんだ。
「誰が何を言おうと、私は今回、ロマネスクには真理子を乗せる。その考えは変わらない。だが、君の気持ちは偉いと思う」
「俺が、偉い……?」
「最近の競馬界人は、優しい心を忘れかけている。自分が一番大切になってきてるんだな。それは真奈も同じだと、私は判断した。ロマネスクの乗り替わりを決めたのには、真理子のG1だけじゃなく、そういった理由もある」
五十嵐先生はどこか寂しそうにそう語ると、テーブルの上の例のデータ表を手にした。
「私は気にした。この通告を受けた真奈が、どういう行動に出るか。私としては、快く母親に譲ってほしかった。……ところは実際はどうだ。せっかくの有力馬を手放してなるものか、とそればかり考えて、こんなデータまでひっぱり出して抗議に来ただけじゃないか」
「……」
無言になるしかなかった。真奈と五十嵐先生と、どっちの味方をするのが正しいのか、今の俺には判断がつかない。
「……君の言う通り、私は昔から真理子のことをよく知っている。彼女は情愛豊かな明るくて優しい女性だ。真奈は親父さん似なのかおとなしい子だが、それでも、昔はあそこまで『自分のことしか考えられない子』じゃなかったはずだ。それは君が一番よくわかっているだろう」
「はい」

……俺は、思い出していた。
俺や真奈がほんのガキだった頃、俺の親父は「専業主夫」をしていた。今でこそ寺西厩舎の調教助手として働いているが、その頃は毎日俺の相手ばかり。しかも申し訳ないことに、俺はとんでもなく手のかかるガキで「おとなしいのは寝てるときだけ」だったとか。
ところが「給料をもらう仕事をしてない奴」ってのは世間から見ると単なる「暇人」でしかないようで、親父はよく近所の人からも子守を頼まれていた。お人好しの親父は断ることもせず、そのためうちは一時期託児所状態で、家の中には大抵俺以外のガキがいた。
そう。その「俺以外のガキ」として一番記憶に鮮明に残っているのが、真奈だった。
篠崎先生も真理子おばさんも現役ジョッキーで忙しかった頃、真奈はよくうちに預けられていた。お袋を亡くした俺にとっては、きっと今までに一番多く顔を見た女はあいつだろう。
あの頃の真奈は、よく笑っていた。一緒に本を読んでは笑い、外で走りまわっては笑い……そして俺は、その笑顔が見たくてあいつと遊んだ。
それなのに……いつから、ああなってしまったんだろう。
ほとんど毎日顔を合わせていたのに、俺にはその境目がわからなかった。

「……自分以外の人間を大事にするのは、大切なことだ。人間には、ひとりじゃできないがふたりならできることというのがたくさんあるからな」
そのとき五十嵐先生は、哲学的につぶやいた。
「言葉を交わすこと、手を握ること、自分の心をわかってもらうこと……」
「人を愛することも、そうですね」
思わず出た言葉に俺はハッとしたが、照れ隠しや訂正はしなかった。
「ああ……」
先生は苦しそうに顔をしかめた。……それが今朝の親父を連想させ、さらに彼と親父の共通点を思い起こさせた。
彼も、親父と同じく出産で妻を亡くした過去を持つ。だが、親父にはまだ俺がいるが、彼の方は子供も助からなかったらしい。天使のような顔で眠っていた娘を思い出すと、今でも涙があふれて仕方がない……いつだったか、そんな話を聞かせてくれた。
俺は考えた。
突然、誰もいないところにたったひとりで放り出されたら、俺ならどんな気持ちになるだろう……。
調教師になってから何人もの弟子を取り、弟子でなくても多くのジョッキーに騎乗依頼をし、スタッフを大事にし……彼が優しさや人間同士のつながりを人一倍重視するのは、そういう気持ちを知っているからかもしれない。
今回の真奈の乗り替わり騒動はその弊害なんだろうが、それでも……多くの人間を本当の家族のように愛する彼を、どうして責められようか。

「……わかりました。俺は、もう帰ります」
俺は椅子を立った。
俺がどう言おうと、五十嵐先生はゴールドロマネスクに真奈を乗せ続けてはくれなそうだ。これ以上ここにいても、俺が感傷的になるだけで意味はないだろう。
「おや、帰るのかね」
「はい。……そうだ。最後にひとつ、聞いてもいいですか」
「ああ、何だ?」
「先生は、一度おつきあいした人とは絶対縁を切らない方です。……それは、真奈に対しても例外ではありませんね?」
「もちろんだ。彼女は傷ついているだろうからな。近いうちに必ずいい馬をまわすと約束するよ。機会があれば伝えておいてくれ」
「はい」
俺は、ほっとした気持ちで五十嵐厩舎を出た。

 

 

……外に出て冷たい空気に触れながら、俺はこの後どうしようかを考えた。

 

 

A  真理子おばさんは真奈をどう思っているのだろうか。篠崎厩舎へ行って聞いてみよう。

B  五十嵐先生の話を聞いていたら、また親父が心配になってきた。今なら寺西厩舎かな。


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