俺は、競馬学校の入試の日へ行ってみることに決めた。
その年月日と場所を詳しく念じながら、空間の歪みに手を伸ばす。
あっという間に、俺はその中に飲み込まれていった――。
――俺と真奈の同期に、星野レイラと城泰明というふたりのジョッキーがいる。
レイラは日本人の父親とアメリカ人の母親との間に生まれたハーフで、荒っぽくて勝ち気な女。泰明は見るからに日本人で、性格もおとなしくて目立たない男。ジョッキーだってこと以外には何の共通点もないふたりだ。
普通、こういう男と女が一緒にいても、男は女の騒がしさにうんざりし、女は男の優柔不断さにキレるだけで、絶対親しくなんかなれない。
ところが、だ。このふたりは異様に仲がいい。恋愛関係ではなく「男女間の友情」といった感じだが、競馬学校の体験入学で初めて会ったときには、すでにふたりだけの世界に入っていた。俺と真奈みたいに幼なじみ同士だったりするのかとも思ったが、聞くとそうではないらしかった。
じゃあ、なんでそこまで仲がいいのか?
俺は、何度となくふたりにそうたずねた。ところがやつらは、「きっかけは入試の第一次試験の日」とは言うものの、その詳しい内容をどうしても話してくれないのだ。
もっとも、「仲が悪い」のなら理由を聞いて仲介するという目的も出るが、「仲がいい」んだから気にするだけ野暮ってもんかもしれない。
だが――それでも、気になって仕方がない。いいエピソードなんだろうから、話して俺まで幸せ気分にしてくれたっていいのにな。
話してくれないなら、この目で見るまでだ。
そう思って、俺は入試の日へ行こうと決めたのだった。
競馬学校の騎手課程は志願者が多く、第一次試験はA日程とB日程の2日間を設けて、その大量の受験生をさばいている。俺と真奈はA日程だったが、話ではレイラと泰明はB日程だったらしい。そこで、俺はB日程の日の競馬学校へと向かっていた。
過去の世界では、俺は一切物事に手出しをしないと決めた。下手に何かをして未来が変わってしまうのを防ぐためだ。あくまで傍観者を貫き、知りたいことを知ったらすぐ帰る。
……気がつくと、俺はなんと、トイレの中にいた。
なんだこりゃ? 間違えたか?
一瞬そう思ったものの、開けっぱなしになっていた窓から外を見て、その不安は飛んだ。
雲ひとつない空の鮮やかな青さは、10月頃のものだ。中庭にそびえ立つポプラは競馬学校の象徴。そしてその周囲に、制服姿の中学生とその付き添いの親が何組も見える。
ここは、確かに入試の日の競馬学校だ……。
さて、そうすると、まずは外に出てレイラか泰明を探すか。
……?
そう思って振り返ったとき、俺は妙な違和感を覚えた。
少し考えて、それは自分の肩が視界に入ってこなかったせいだとわかった。どうなってんだ、と俺は改めて自分の体を見て――。
「……うわっ!!」
驚いたなんてもんじゃなかった。
なんと、俺の体は透明になっていたのだ!
試しに、トイレ内の鏡をのぞき込んでみる。見事に誰も映らない。
どういうことなんだ。物事に手出ししない、と念じながら来たためか、それとも歴史に矛盾を起こさないように勝手にこうなったのか。
……だが、都合がいいのも事実だ。
日程が違うから過去の俺や真奈と鉢合わせする心配はないが、受験生や教官に顔を覚えられると困るからな。
よし、じゃあ行こうか。
俺は、誰もいないトイレから出た。
俺がいたのは、2階東側の男子トイレらしい。
とりあえず1階に下りようかと思って、階段のある方へと向かう。廊下を歩いていくうちに、何人もの受験生とすれ違った(当然向こうは俺には気付かない)。親は別室で待機らしい。当たり前かもしれないが、このへんは俺のときと同じだ。
廊下の角が近づいてきたとき、突然、後ろからバタバタという音とともに風が吹いてきた。
誰かが走ってきたんだろうと振り向くと、それはレイラだった。あの栗色の髪、日本人離れした綺麗な顔。間違いない。
レイラは俺の横を猛スピードで通り過ぎる。よし、とやつを追って再び角の方を振り向いたとき、それは起こった。
……!!
マンガの演出のごとく本当に火花が散ったかと思える勢いで、レイラは角の向こうから来た人物と正面衝突した。
そしてその相手は――紛れもない、泰明だったのだ。
ふたりはともに派手に転び、レイラの方はしたたか打った額を右手で押さえている。
「あ……す、すみません!」
さっき見た空のような明るい青のブレザー(一応、中学の制服らしい)を着た泰明は、起き上がりながら謝った。それとほとんど同時に、レイラも制服の赤いチェックのスカートを揺らしながら起き上がる。
……。
まさか、これが最初の出会いとか?
俺は拍子抜けした。今時、ドラマでも使わないネタだ。
でもまあ、これがこいつらにとって意味を持つ瞬間ならいいだろう。俺がどうこう思うことじゃない。
――ところが、事態は俺の思ってもみなかった方向へと流れた。
「……邪魔だよ! どきな!」
なんとレイラは、あの泰明をそう罵倒し、やつを強引に押しのけて再び走っていってしまったのだ。
信じられなかった。俺の前じゃ、一度だってレイラは泰明にこんな態度なんか取ったことはない。口ゲンカさえしないんだから。
残された泰明は、傷ついたような表情で(俺にはそう見えた)、レイラが去っていった方を見やっている。
ふたりが別れ別れになったが……俺の体はひとつだ。
さて、どっちについて行動するか?