自分の生まれる前の世界を見られたら――それは、俺の密かな夢だった。
尊敬する親父の若い頃を、この目で見てみたかったのだ。
親父がジョッキーとしてデビューした年――30年前の、今の時期のこのトレセンへ。
そう念じながら、俺はタイムゲートに身をまかせた。
……気がつくと、俺はまだ林の中にいた。
見たところ、何の変化もないようだが……まあ、林の中なんて30年くらいじゃ何も変わらないだろう。
外へ出てみれば、自分が本当に30年のタイムスリップに成功したかどうかわかる。
そう思って、俺は林の外へと歩き出した。
林を抜けた瞬間、見慣れているはずなのに違和感のある光景が目に飛び込んできた。それで、本当に時間を飛び越えたんだという実感が湧く。
が――その第一印象は、思ってたのとはだいぶ違っていた。
30年前ということでボロいトレセンを想像していたのに、全然そうじゃない。むしろ、俺の時代より新しい建物の方が圧倒的に多い。
どうなってんだ……?
俺は不思議に思ったが、少し考えて、それは当たり前だと気付いた。建物は時間とともに古くなっていく。この時代に真新しかった建物が、俺の時代ではそろそろガタが来てるってわけだ。
それでも、やっぱり古い建物や見たこともない建物はあった。それらは、俺の時代までに建て直されるか取り壊されるかの運命にあるのだ……。
妙にしんみりもするが、そんな気分になるために来たんじゃない。
俺はせつなさに鍵をかけ、歩き出した。
俺はトレセンの外に出て、そこにある厩舎配置図を見た。
親父が所属していたのは、寺西先生の父親の厩舎だ。まずはそこを探す。
……あった。現代の寺西厩舎に近い位置、北ブロックの中央あたりに「寺西徹次厩舎」の表示。
俺は持っていた手帳を開き、その位置をメモした。
さらに、あちこちをチェックしていく。
寺西徹次厩舎のすぐそばに「東屋雄一厩舎」があった。ここは真奈の親父さんの篠崎先生が、引退までずっと所属し続けた厩舎だ。東屋先生は調教師になる前は獣医だったらしく、ふたりいる息子さんは、調教師ではなく両方ともそっちの道へ入った。現代では、その兄弟の弟の東屋隆二先生が、このトレセンで獣医として開業している。
チェックを南ブロックに移す。
「五十嵐雅生厩舎」があった。確か、真理子おばさんがここの所属でデビューしたはずだ。有馬で真奈が乗ることになるゴールドロマネスクを管理する五十嵐先生の父親に当たる人だが、現代ではもう亡くなって10年ほどになる。こういうのを見ると、時の流れは残酷だなと痛感する。
その近くに「高遠敏久厩舎」を見つけた。真奈の師匠・長瀬健一先生が学んだ厩舎だ。ここはこの時代、毎年リーディング争いを繰り広げる名門だったらしい。長瀬先生のジョッキーとしての成功も、そんな厩舎のバックアップがあったからこそだと言えよう。
俺は、それら3つの厩舎の位置もメモした。
その他にも、見覚えのある名字がいくつもあった。だが、ほとんどは下の名前が違う。現代の競馬関係者の血縁関係者だ。こうして見てみると、この競馬界がいかに内輪で固まった世界かがわかる。
下の名前まで同じ厩舎は、この時代から現代まで続いているところだ。そして、そういう厩舎の表示はプレートが新しい。開業して間もない証だ。
30年ってのは長いもんだな……俺はそれを実感した。
とにかく、そろそろ動こう。
まずは、この寺西徹次厩舎をのぞいてみたい。行ってみよう。
……しかし、そう意気込んで再びトレセンに入り、中心部のイチョウ並木の通りを歩いていたときにふと気付いた。
俺はよく年配のトレセン関係者から「若い頃の親父にそっくり」と言われる。……ってことは、この時代の親父を知る人間に出くわすと、ちょっとやばいわけだ。
まいったな……それじゃ、ほとんど何もできないのと同じじゃないか。
ストーカーにでもなった気分で、影からこっそり見るか?
半ばジョークでそう考えたが、どうも本当にそれしかなさそうだった。
――タイムスリップも意外に不自由なもんだな、と苦笑しながら歩き出そうとしたそのときに、それは起きた。
「片山くん!」
前から歩いてきた女が、俺をそう呼んだのだ。どうやら、早速間違えられたらしい。
まいったな、と思いながらその女を見て――。
……真奈!
冷静に考えればそんなわけはないのに、俺は驚くしかなかった。
真奈にそっくりだ!
だが、結論が出るまでにそれほどの時間は要しなかった。
この人は真理子おばさんだ。
真奈もよく、おばさんの若い頃に似ていると言われる。あいつはそれを嫌うが、何人もの関係者が言うんだから間違いないだろうと思っていた。
そしてそれは、この目ではっきり確認した。見事だ。
正直、表情が明るい分、真奈よりかわいい。
「片山くん?」
真理子おばさんは、俺の顔をのぞき込んだ。仕方ない、ここは親父になりきるしか逃げ道はなさそうだ。
「あ……別に何でもないさ、真理子ちゃん」
親父はいつも、真理子おばさんを「真理子ちゃん」と親しげに呼ぶ。きっと今くらいの時期からだろう。そう思って俺は、とりあえず返事をした。
「あら、髪、切ったのね」
「あ……だからそれは、その、気分転換さ」
俺はしどろもどろに答えた。おばさんは好奇心が強いタイプだと聞いていたが、本当にその通りだ。
……まったく、あんまり細かいところをチェックしないでほしい。もし俺の髪がこの時代の親父より長かったら、とんでもないことになってたぞ。
「あ! それより、あなたにどうしても聞いてほしかった話があるの!」
真理子おばさんは、突然顔を輝かせた。真奈とそっくりなだけにかわいい。あいつもこんな風に笑ってくれればいいのにな。
「ああ、なんだ?」
俺も笑顔を作って返す。
「今度のクリスマス・イブ、篠崎くんが私とふたりだけで過ごしてくれるって!」
「お、それはよかったな! おめでとう!」
俺は大げさすぎるほど大げさに喜んだ。「篠崎くん」とは真奈の親父さんだ。俺が下手に介入したせいで真奈が生まれなかった……なんてことになったら取り返しがつかない。ここは、思いっきりふたりをあおってやるのが正解だろう。
「ありがとう! あなたのおかげよ!」
「……え? 俺、何かやったか?」
またしても矛盾が出つつある。
俺はだんだん不安になってきた。本当に、この時代の親父を演じきれるのか?
「ほら、先週言ってくれたじゃない。いいかげん自分や長瀬くんと一緒のおつきあいはやめて、ふたりっきりで過ごす時間を作れって。それで私、イブにはふたりだけでいてって彼に頼んでみたのよ」
「ああ、そうだったな。とにかく、よかったよかった」
答えながら、俺は苦笑いした。不安もどこかへ飛んでいく。
親父はやっぱり、根っからの世話好きだな。こういう人間味のあるところが、俺は大好きだ。
「それでね、私……思いきって告白してみようって思うんだけど、片山くん、どう思う?」
「どう思うって、もちろんいいんじゃないか?」
「早すぎたり……しないよね?」
「大丈夫、大丈夫。両想いだ、上手くいくに決まってるさ」
結末を知ってるってのは、こういうときには役に立つ。
「両想い……かな」
「そうだって、絶対」
いずれ結婚するんだから、という言葉がうっかり出そうになり、慌てて飲み込む。
「ありがとう。本当に感謝してるわ」
真理子おばさんは、真奈にはない笑顔でにっこり笑った。……やっぱり、かわいい。
「……片山くん?」
その呼びかけで、我に返る。
やばいやばい。何か言ってごまかさないと……。
こんなとき、親父ならどんな言葉が出る?
俺は必死に考え、そして言った。