無責任な俺はあっさり掃除をあきらめ、寮の1階ホールに下りてきた。
1階ホールはリビングのようになっていて、いくつかあるソファーに気の合う者同士で座り、しゃべったりすることが多い。
俺が下りてきたとき、ソファーでは3人のジョッキー仲間たちが話をしていた。
一番左が、俺の同期の星野レイラ。美人で強気で荒っぽい女だ。母親がアメリカ人で、顔の造りは日本人離れしている。出身地のサンフランシスコ仕込みの英語を武器に、来年には武者修行のためにアメリカへ長期遠征するプランもあるそうだ。
真ん中が、やっぱり俺の同期の城泰明。レイラの一番の親友だが、やつとはまるでタイプが違う。穏やかで争いを好まず、人に抵抗することもせず、何でも素直に引き受けてしまう。そのせいで貧乏くじを引かされることもしょっちゅうだが、本人はまったく気にしてないようだ。
そして、L字型のソファーの角度を変えて一番右に座るのが、俺たちの1年後輩に当たる浅霧花梨。長い髪の後ろでピンクのリボンが揺れている。
……断っておくが、こいつは女じゃない。ニューハーフだ。日本の競馬の歴史が始まってから今まで、多くのジョッキーがデビューしては引退していったが、ニューハーフ宣言をしたのはこいつが初めてになる。
ジョッキーという体力が必要な仕事柄、体のどこかをいじったりホルモン注射なんかはしてないらしく、そこから見れば単なる「女装趣味」の気もするが、本人がニューハーフと言い張るんだからそう呼んでやるのがベストだろう。
本名は「浅霧直哉」で、ジョッキーのライセンスもそれで登録されている(というか、そうするしかない)のだが、本人はあくまで「花梨」と呼んでもらいたがる。その努力は少しずつ実を結び、今では競馬専門紙ばかりか主催団体のレーシングプログラムにもその名前で載せてもらえるようになった。
なお、性格は細やかでよく気がつくタイプだ。そのへんの女よりよっぽど優しい。こいつが受け入れられたのは「中身」が伴っていたからだろうな、と俺は思っている。
俺は花梨の隣に座り、3人の話の輪に加わった。
俺たちはジョッキーであり、また同時に「今時の若者」でもある。だから、話題は馬の話、そして今流行のものの話になりがちだ。どこそこの厩舎のどの馬は将来走りそうだとか、今週最終回を迎えるあのドラマはどんな結末になるかとか、そういった話がとりとめもなく続く。
そうして話題が5つほど移ったあたりで、真奈が下りてきた。
「よう、真奈!」
俺が声をかけると、真奈は例によって笑うこともなくこっちへやってきた。
……それにしても、今日はいつにも増して表情が冴えない。どうかしたんだろうか。
「真奈さん……? 顔色よくないですよ」
「ちょっとね」
花梨の気づかいに、真奈は俺の隣に座りながら一言だけ答えた。……なるほど。何かあって、今回はそれを誰かに話したいんだな。
長いつきあいの俺にはすぐわかった。こいつの場合、誰にも言いたくないときは無視して素通りする。
「どうしたの」
真奈から一番遠い場所に座るレイラが聞く。
「どうしたもこうしたもないわよ。自分に何の非もないのにお手馬を別の人に取られたら、あなたたちならどう思う?」
「取られたら……って」
俺の頭には、瞬時に数人の先輩ジョッキーの顔が浮かんだ。残念なことだが、いい馬だと見るやいなや調教師を上手いことおだてて自分のお手馬にしちまうジョッキーが、この競馬界には何人かいるのだ。取られた方の気持ちなんか、考えちゃいない。
何をされてもまず感情を爆発させたりしない真奈は、格好のターゲットだったんだろう。その真奈がここまで不機嫌になるとは、相当のことをされたに違いない。口に出すと余計にあおることになるだろうから、俺は「気の毒に」と、心の中だけでつぶやいた。
「どの馬を取られたのさ」
レイラはたずねた。真奈は答えた。
「ゴールドロマネスクよ」
――聞いた全員が驚いた。
ゴールドロマネスク……こいつの有馬でのパートナー。いったいどこのどいつが、そんな大事な馬を奪ったってんだ?
「そ、そんな……五十嵐先生は、誰に何を言われたって、意味もなくジョッキーを替えたりはなさらないはずだよ」
その五十嵐厩舎に所属する泰明が、念を押すように真奈にたずねた。本来なら真奈じゃなくてこいつが最初っからゴールドロマネスクの鞍上に指名されるべき立場だが、通算勝利数がまだ31勝に満たないため、G1に騎乗する権利がないのだ。それによる悔しさもあるはずなのに、そんなことは顔にも声にも出さず、なおも五十嵐先生をかばうこいつは、実に人がいいというか何というか。
「もちろん、意味はあるのよ。ただ、私がそれに納得いかないだけ」
「意味って、なんだ」
真奈を楽にしてやろうとしたのと、単純に自分の疑問をはっきりさせたいのとで、俺はたずねた。
「……先生はおっしゃったわ。私にはまだ未来があるから、今回は、もう未来のない騎手にチャンスをあげてくれって」
――全員、その言葉だけで事情を理解したようだった。
未来のない騎手とは、50歳での引退を表明している真理子おばさんだろう。おばさんと真奈が対立関係にあることは、このトレセンの中じゃ有名な話だ。俺はもちろん、もっと仲よくしてほしいなどと他人ながら思っているが、真奈いわく「生まれ変わらない限り無理」。
それでも、何か言ってやるべきだろうか――そう思って言葉を探していたときに、それは起こった。
――突然、寮の入口のガラスドアがぶち破られたかと思うと、数人の見慣れない野郎どもが乱入してきたのだ!
「動くな!!」
先頭に立っているサングラスの男がでかい声で叫んだ。同時に――両脇のスキンヘッドの男とリーゼントの男が、俺たちの方へ銃を向ける!
程度の大小はあるが、もうとっくに全員がパニックに陥っていた。こんな状態で冷静になんかなってられるわけがない。
「ど……どどどどど、どうなってるのよ!?」
中でも特にひどい花梨は、口を手で押さえながら震えている。
「何なの……」
意外に弱々しい声で真奈がたずねたとき、サングラスの後ろからひとりの女が現れた。何が入ってるのか、肩からでかいバッグをぶら下げている。そして男どもより数段やばそうなマシンガンを構え、獣のような目で俺たちの方をじっとうかがっている……。
「質問は許さん!」
リーダー格のサングラスが合図すると、リーゼントが天井に向けて1発ズドン、とやった。
――銃口から煙が上がり、天井には焦げた穴が空いた。
本物だ……。
それがわかると、俺たちは瞬時におとなしくなった。なるしかなかった。こんな野郎どもの言いなりになるのは悔しいが、命あっての物種だ。
「よせ!」
外には、早くも続々と野次馬が集まってきている。その中にトレセンの入口を守っているはずのガードマンが数人いて、こっちに向かって懸命に叫んでいた。彼らも、突然トレセンに乱入してきたこいつらを止められなかったんだろう。こんな、日本には存在しないはずの凶器を持ち出されては仕方あるまい。
サングラスは入口の方を振り返り、叫び返した。
「ここは我々が占拠した! 中の連中は人質だ! 競馬の売上金10億円と逃走用のヘリを要求する! 早く施行団体の責任者をここへ呼べ!」
「人質!? 冗談じゃないよ!」
レイラが俺たちにささやいた。……が、誰もそれには答えなかった。そんな余裕があるわけもない。
俺は……この寮にいるやつらは、いったいどうなっちまうんだ!?
サングラスの合図で、女が裏口の方へ、リーゼントがホールの階段から2階へ、それぞれ走っていった。残ったスキンヘッドは俺たちの方に銃を向け続けているので、うかつなことはできない。
サングラスは見たところ手ぶらだが、だからといって武器を何ひとつ持ってないわけはないだろう。おとなしくしている方が正解だ。
……しばらくすると、リーゼントは20人ほどの人間を盾にして下りてきた。みんな俺の知っている顔ばっかりだ。この寮にいた他の連中だろう。
普段威張ってばっかりいる先輩は恐怖で半泣きになり、後輩の女は他の人間に両側を支えられてようやく立っている。それが、いかに今が非常事態かを明確に示していた――。
「それで全員だな?」
サングラスがリーゼントに聞く。
「ああ。もういない」
そこへ、女も戻ってきた。あのでかいバッグがなくなっている。
「設置は完了したわ」
「よし」
サングラスは短く答えると、続けた。
「やれ」
何をだ……!?
俺が青くなっていると、リーゼントとスキンヘッドは、俺たち人質をふたつに分け始めた。
――総勢26人の俺たち人質は、男と女に分けられた。
俺たち男グループが17人、女グループは9人だ。なお、花梨はニューハーフだということに気付かれず、女グループに入れられている。
何をされるのか、とビクビクしながら待っていると、リーダーのサングラスは言った。
「男どもは外に出ろ。解放してやる」
「解放するなら女性を解放しろ!」
意外なほどの素早さと声の大きさで叫んだのは、泰明だった。
「泰明!」
「黙れ! 体に風穴空けられたいか!」
レイラが女グループの方から叫び返したのと、スキンヘッドが銃を泰明に突きつけたのが同時だった。
「……威勢のいい坊やもいるようだな。だが、人質は女だけの方がいいからな。早く出ろ。逆らうな」
腕組みをして不敵に笑うサングラス。なおもふたつの銃とひとつのマシンガンに狙われている俺たち……。
従うしかなかった。
男たちがひとり、またひとりと、ぶち破られた正面玄関から出ていく。
残るは、俺と泰明だけになった。
「真奈……」
必ず助けてやる、と言いたかったが、それが武装グループへの挑発になって女たちが恐い思いをしたらいけない。結局俺は、名前を呼んで見つめるだけで外に出た。
――泰明は、出てこなかった。
「泰明、何してる! 早く出てこい!」
俺は心配になって外から叫んだが、泰明はそれには答えず、犯人どもに向かって信じられないことを言った。
「ぼくはここに残らせてくれ! ひとりくらいなら男がいたっていいだろう!」
「バカ! 逃げなよ! 自分から危険に飛び込むことないよ!」
レイラの叫びに、サングラスの声が続く。
「そこのお嬢ちゃんの言う通りだ、坊や。我々を怒らせないうちに退散するんだな」
「いやだ!」
「……お前には理屈が必要か。安心しろ、我々の望みは殺人じゃないんだ。このお嬢ちゃんたちも、余計な真似をしない限りは建物の中を自由に歩かせてやるつもりだからな。もちろん、逃げられないような手段は取らせてもらったがな」
……手段? どういうことだろう。
泰明はしばらく考えていたようだったが、連中の望みが殺人じゃなくあくまで「競馬の売上金」だということに納得したのか、ついに折れた。
「わかった……。レイラ、そして他の人も、どうか無事で」
そう言って、ゆっくりと出てきた。
警察への通報はもうとっくにすんでいるそうだ。今、施行団体の責任者と一緒に、大量の警官隊もこのトレセンへ向かっているらしい。
俺は泰明と並んで立ち、ただひたすらに時間が経つのを待っていた。
――時の流れが遅い。
次第に俺たちの間に焦りが浮かぶ。
そして、ついに――。
「僚! やっぱりあいつらは信用できないよ! ぼくたちだけでも、何とかして中の女性たちを助けよう!」
泰明が耐えかねて叫んだ。その顔からは、心配ももう限界といった感情が見て取れる。
「ちょ、ちょっと待て。俺たちに何ができるってんだ。少しは冷静になれ」
こいつの気持ちはよくわかる。だが、俺たちは武器も持ってなければ、連中と闘えるような訓練もされてないのだ。
しかし。
「それでもやるしかない! だって、仮に警官隊だの自衛隊だのが来たって、中に彼女たちがいる間は手出しはできないじゃないか!」
――そうだ。言われてみればその通りだ。
「それに、交渉に入ったとしても、結果的に決裂することだってあり得るんだ! そうなったら彼女たちは……その可能性がある限り、ぼくはじっとなんかしてられないよ!」
その意見にも、反論はできない。
「だから、何とかして彼女たちを助け出さなきゃ! それができるのは、内部の事情を少しでも知ってるぼくたちだけだ!」
泰明の目は、どこにこんな情熱があったのかと疑うほどに勢いよく燃えていた。今なら、弾丸も跳ね返すんじゃないかというくらい――。
「そうだな。俺たちにしかできない。やるか!」
もちろんそれを本気で信じたわけではないが、その炎に賭けてみたくなったのは事実だった。
「ありがとう!」
俺は、泰明と握手を交わした。
「……さて、そうは言っても、まずどこから手をつけるか……」
「今現在の中の詳しい様子が知りたいな。僚、携帯持ってる?」
「ああ、ここに」
俺は、ジーンズのポケットから自分の携帯を出してみせた。
「それで中の人たちに連絡つかないかな。真奈ちゃんあたりに」
「大丈夫か……? もしあいつらの目の前で携帯が鳴ったりしたら、真奈はどうにかされちまうんじゃないのか?」
俺が言うと、泰明はガラス越しに1階ホールをのぞき込んだ。俺もそれに続く。
――あのサングラスは、余計な真似さえしなければ女たちをこの建物の中で自由にしてやると言っていた。どうやらそれは本当だったらしく、中にいるはずの真奈とレイラと花梨、そして残り6人の人質は、ひとりとして姿が見えなかった。見えるのは、さっきまで俺たちが座っていたソファーで偉そうにふんぞり返っているサングラスと、横の階段に腰かけるスキンヘッドだけだ。リーゼントと女はどこにいるのか。
「一応、大丈夫そうだけど……」
泰明がつぶやく。
「そうだな。まずは、真奈に連絡が取れるかどうか試してみよう」
俺は携帯と向かい合った。
そして……。