よし、真奈を味方につけよう。
何も関係ないあいつに寄りかかるのは申し訳ない気もするが、しょうがない。それは今度寿司でもおごることで許して……くれればいいが。
俺は自分の携帯を手に取り、真奈の携帯を鳴らした。

……。

『はい』
真奈が出る。そのいつも通りの口調に、不意に自分の異常事態を思って苦しくなる……。
「真奈……」
『どうしたの?』
だが、覚悟を決めなきゃ何も始まらない。俺は思いきって口にした。
「冷静に聞いてくれ。俺な……その、例の病気に、かかっちまったらしいんだ」

『何ですって!?』

――さすがの真奈も、冷静ではいられなかったか。
「本当なんだ。昨夜から妙に暑くて、今朝起きたら髪が真っ白だ」
『そんな……』
沈黙は数秒ほど続いた。
が、そこはやはり真奈、俺が弱音を吐く前に落ち着きを取り戻し、言った。
『……すぐ病院に行きなさい』
おいおい!
「ちょっと待て! それができないからお前に相談したんだ!」
『できないって……どういうことよ!』
声を大きくしてたずね返してきた真奈に、俺は自分の考えを言った。
「俺は病院には行きたくないし、行かない。お前以外の連中にも、病気のことは悟らせない。治るか死ぬかするまで、隠し通す」
『ムチャよ! だってあなた、何もしなかったら……』
「絶対治らないってんだろ。だけど、入院したところで治療法が見つからない限り結果は同じなんだ。それなら自分の好きなようにするさ」
『僚……』

――真奈の声が、小さく消えていく。
合理的な解決法を考えているのか、それとも――。

「……真奈、わかってくれ。俺は有馬を勝ちたい。親父のために、どうしても勝ちたい。その夢は譲れないんだ。だから、今度の日曜までは何が何でも隠し通して生き延びたい。隠し通すには、お前の協力が必要だ。頼む……」
普段の真奈には、精神的な揺さぶりは通用しない。だが、今なら通じるんじゃないか――そんな期待があった。
そして。

『……わかったわ。私にできる限り、協力するわね』
「ありがとう!」
やっぱりお前は最高の親友だ、と続けようとして、照れくさいのでやめる。
『あなた、今、自分の部屋にいるの?』
「ああ」
『それじゃ、そこから動かないで待ってて。30分ほどで行くから』
「わかった」

俺は電話を切った。
真奈に相談してよかった。
だが――あいつは、具体的には何をしてくれるんだろう?

いろいろと考えながら、俺は再びベッドに横になった。
病気の影響か、妙に体がだるい……。

 

 

告知通り、30分ほどで部屋のドアがノックされた。
「私よ」
俺はベッドから立ち上がり、ドアの前へ行って鍵を開けた。

「僚……!」
おそらく患者の髪を間近で見るのは初めてだったんだろう、真奈は俺の頭を見て目を見開き、持っていた紙袋を下に落としてしまった。
「……あ、ごめんなさい」
が、俺がその驚きにショックを受けることを感じ取ったのか、すぐに何もなかったかのように袋を拾って室内に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。

「来てくれたな。味方になってくれて、感謝するぜ」
「いいのよ。……それより、体の調子の方は? どこかおかしくない?」
「ちょっと動くのが面倒かなってあたりだ。今まで横になってた」
「そう……」
真奈は床の座布団に座った。俺は寝ていたベッドに腰かける。
「他には?」
「相変わらず暑くてたまらない。この部屋、お前には寒いだろうが、勘弁してくれ。エアコンなんかつけたら、やってられないんだ」
俺が言うと、真奈は手を伸ばして俺の腕を握った。
「冷たい! あなた、これは暖めないとだめよ!」
そして、叫ぶが早いか、リモコンを手に取ってエアコンのスイッチを入れちまう。
……そういうもんかもしれないな、と俺は思った。体温が下がって暑く感じるからって、それに合わせて周囲も寒くしといたら、余計に体は冷たくなるばかりだ。今までに死んだ人間の中には、それが死因だったやつもいるんじゃないだろうか。
暑さに耐えて部屋を暖めれば、少しは寿命も延びるだろうか……俺はそれを期待した。
ふと真奈を見ると、やつは持ってきた紙袋をガサガサやっている。
「そういや、それは何なんだ?」
「ヘアカラーよ。今買ってきたの。その頭じゃどこへも出られないでしょう。これで髪を染めれば少しは自由が利くと思って」
「お、サンキュー!」
ベッドから立ち上がって手を伸ばした俺に、真奈は渋い顔をした。
「……でも、忘れないでね。本当は安静にしているのが一番だっていうこと。体力を消耗すると、それだけ……あ、ううん、何でもない」
「わかった、わかった」
それだけ死期が早まる、ってことだ。それは俺も知っている。だから、充分気をつける。
何はともあれ、有馬まで生き延びないことにはすべてが終わっちまうんだから――。

 

 

そして俺は部屋に備えつけのバスルームに入り、真奈に髪を染めてもらった。

「……僚って、いざとなると意外に精神力強いのね」
俺の髪にブラシを通しながら、真奈がつぶやいた。
「俺が?」
「ええ。……こんなこと言っていいかどうかわからないけど、ちっとも怖がってるように見えないもの」
俺は鏡の中の真奈を見た。相変わらず、表情の乏しい顔が映り込んでいる。

……お前は、悲しんではくれないのか?
あまりにいつも通りの表情なので、思わず心から口にそうこぼれてきそうになった。
だが、何とかこらえ、その顔に向けてゆっくり答える。

「……怖いさ。死ぬのは怖い。だけど、どうせ死ぬ未来しかないなら、そのときまで自分らしく生きたいんだ。今の俺の『自分らしさ』ってのは、有馬への夢と希望。それを棄てるわけにはいかない。……病気にかかってなくたって同じさ。人は誰も永遠には生きられない。だから、生きてるうちにとことん自分らしく生きとかなきゃ、後悔するぜ。俺の場合、ただその期間が突然短くなったってだけだ……」

――真奈は無言になった。
やべっ、ちょっとシリアスなこと言いすぎたか?

沈黙は数分間続き、やがて真奈の方から破れた。

「……ねえ、僚。ちょっと重い話なんだけど、聞いてくれる?」
「ああ、何でも言えよ」
俺が言った以上に重い話なんて、そうそうあるもんじゃない。そんな気持ちから、俺は簡単に納得した。
「実はね、私、この一連の奇病騒ぎに関して前々から考えていたことがあるの」
「おう、なんだ?」
「……もしかしたら、この病気の流行は人為的なものなんじゃないかって」

「人為的……?」
それは、俺の内部の意識を根本から覆す言葉だった。あたかも、よどんだ空気を押し流す風のように。
「ええ」
「つまり、どこかの誰かが流行らせてる、ってのか?」
真奈は鏡の中でうなずいた。

「この病気は、患者と一緒にいた人が感染した例がほとんどないことから、空気感染はしないとされているわ。それなのに、流行はこの美浦、それもトレセンを中心とした一部の地域に限られている。……これを、どう思う?」
「どうって……」
空気じゃなくても何らかの形で感染するんだろうと考えていたが、やっぱり不自然な気がする。
「だから、この病気は注射か何かで病原体を投与すると感染するもので、それをやっている犯人が近くにいるのかもしれないって考えたの。きっとそいつは病気の研究者で、大がかりな人体実験を行っているんだわ」
「何だって……」
その恐ろしさに、思わず暑さも吹っ飛ぶ。

「僚、あなた、最近注射を受けたり、薬品関係のものにお世話になったりした?」
「いや、そんなのは全然ない」
「じゃあ、不審な人物に会ったとかは?」
「コンタクトを取る人間はある程度決まってるからな……待てよ。ってことは、犯人はその中にいるってのか?」
――信じられない。俺の知人の中に、仮面の裏に恐ろしい素顔を隠したやつがいるかもしれないとは……。
俺が情けなく脅えていると、真奈は言った。
「もちろん、犯人がいるかもなんていうのは私の当て推量でしかないわ。ただ、誰かの陰謀だといいなと思ったのよ」
「陰謀だといい? なんでだ?」
「だって……」
真奈は手を止め、うつむいた。そして続ける。

「……犯人がいるなら、そいつは治療法を知っているかもしれないじゃない」

「そうか!」
俺は途端に背筋を伸ばした。
「だから私、決めたの。どんなことでも、僚が助かる可能性があるなら、それに賭けようって」
「真奈……」
胸が熱くなる。この冷たい体のどこにそんな熱が残ってたのか、というくらいに。
「お前、いい女だな。お前がいてくれてよかった」
「やだ……そんなこと言わないでちょうだい。私たち、幼なじみ同士じゃないの」
鏡の中の真奈は顔を背けた。俺はそれを見て笑った。

――そのとき、俺の横に置いてある真奈のジャージの上着あたりで携帯が鳴った。
「あらやだ……ちょっと、手がこれじゃ出られないわ。僚、取ってくれる?」
ヘアカラーで汚れた手を眺めながら真奈が言う。
「よし」
俺はジャージのポケットに手を突っ込み、鳴り続ける携帯を取り出した。
ディスプレイの着信表示は「長瀬先生」。長瀬健一先生……真奈の師匠の調教師で、俺の親父や真奈の両親の同期でもある。
「真奈、長瀬先生だ」
俺は言い、通話ボタンを押して、鏡を見ながら手を真奈の口あたりまで持っていった。
「ありがとう。……はい」
真奈はそのまましゃべり出した。

「はい。どうかなさいました? ……えっ! しかし、今ちょっと手が……はい、わかりました。申し訳ございません。すぐ参ります。それでは……」

俺には話の内容はわからなかった。
真奈は洗面台に向かい、手を洗い出した。俺は携帯を耳に当ててみて、電話が切れていることを確認してから同じように切る。
「どうしたんだ? 何か驚いてたみたいだが」
携帯をジャージのポケットに戻しながら、俺はたずねた。
「厩舎の馬がどこか体を悪くしたみたいで、馬房で暴れているんですって。人手が足りないから来てくれって、私も呼び出されちゃった。ごめんなさい、まだ途中なのに」
「いや、いいんだ。あとは自分で何とかするさ。……そうだ」
俺はひとつひらめいた。ここまで髪を染めてくれた真奈に対する礼のようなものを。
「真奈、出歩けるようになったら、よければこのへんのやつらに聞き込みでもしとこうか? この病気に関して何か情報がないかとか、怪しいやつを見なかったかとか」

……真奈はしばし黙った。
おそらく、病気の身の俺にそんなことをさせていいのかどうか考えてるんだろう。安静にしてろって言った張本人だもんな。
しかし、答えは出た。

「わかったわ。それじゃ、ちょっとお願いできる? 何か情報があったら、私の携帯を鳴らしてちょうだい」
「よし!」
「でも約束よ。絶対に無理はしないこと。あなたがどうにかなったら……悲しむ人はあなたや伸おじさんだけじゃないのよ」
――そう言ったとき、真奈はジャージを取るために体勢を崩していて、顔は見えなかった……。
「じゃあね。お大事に」
そして真奈はバスルームを出て入口のドアの鍵も開け、去っていった。

 

 

やがて髪の色が元通り(よりちょっと茶髪だろうか)になり、ドライヤーでのセットも終えた俺は、約束の聞き込みに行こうと仕度を始めた。
髪の色の微妙な変化に注目されないように、帽子をかぶる。暑いのは相変わらずだが、服の薄さでバレるといけないので、ちゃんと厚着をする。

……しかし、人為的な流行病の可能性か……。
もし本当にそうなら、その犯人を怒るとか恨むくらいじゃすまない。
だが、そいつを探し出して治療法を得ようとしているのもまた事実だ。
複雑な気持ちだな……。

まあいい。早いうちに情報収集に出かけよう。
俺は廊下に出ると、鍵をかけた。

 

 

さて、どうする?

 

 

A  話を聞く相手は少しでも多い方がいい。外に出て聞き込みしよう。

B  下手に歩きまわると体力を消耗する。この建物の中で聞き込みしよう。


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