やっぱり怪しい。
あの女は、上手いこと言って泰明を連れ出そうとしている。間違いない。
まさか本当に俺の当て推量通り、あの女は病気を流行らせた張本人かその手先で、泰明を連れていって実験に……。
そう思うと、じっとしてなんかいられない。
だが――それでも俺は、泰明の部屋に踏み込むことはできない。
誰か、何も知らないふりでもして堂々と入れるようなやつは……。
……レイラだ! あいつしかいない!
思い立つやいなや、俺は携帯を手に取り、レイラにかけた。
さっきは「却下だ」と判断した相手だが、この際それは不問だ。
『どうした? 僚』
いつも通りの、平和そうなレイラが出る。その平和を乱すのは悪いが、しょうがない。
「レイラ、落ち着いて聞け。……例の病気、あるだろ。あれに、俺と泰明が感染した」
『何だってえ!? ちょ、ちょ、ちょ……ちょっと、その話、詳しく聞かせてよ!』
絶叫が響いたかと思うと、携帯の向こうでバタバタと音がする。慌てて人気の少ない場所へ移動でもしたのかもしれない。
そのバタバタがおさまってから、俺は話を始めた。
「……今朝、妙な暑さを感じて鏡を見たら、髪が真っ白だったんだ。でも俺、どうしても有馬に乗りたくて、何とか隠し通そうと思ってな。それで泰明を味方につけようとして携帯鳴らしたら、やつも同じ目に遭ってた」
『泰明……そんな……冗談でしょ? あいつ、病気なの? ほっといたら、死んじゃうの……?』
普段の強がりが、見る影もなく消えている……。
「そいつはわからない。それより、お前に言いたいことは別にあるんだ。……それで俺が泰明の部屋に行こうとしたら、やつは絶対に来るなって言うんだよ。なんでか聞いたら、誰だか秘密にしときたいやつが相談に乗ってくれるとかでさ」
『誰それ!?』
「妙だろ? お前に相談するとかならわかるけどさ、俺には名前も言えないやつに自主的に相談だぜ。それで俺、壁に耳くっつけてやつの部屋の会話を聞いてやったら、どうもそいつは女らしいんだ」
『女!? どんな女さ!』
「やつより年上っぽくて、結構親密だった。聞いてたところ、一応彼女……って感じだぜ」
『年上の彼女……ウソでしょ!? だってあいつ、そんな素振り全然……それに、昨日だって、年上の女なんか来なかったじゃない!』
レイラは、我を忘れたように叫んだ。
「昨日」ってのは、泰明の誕生日祝いのことだ。昨日はやつの誕生日で、俺とレイラと真奈、五十嵐先生、他に何人かでちょっとしたパーティーみたいなのを開いた。レイラの言う通り、そのメンバーで俺たちより年上の人間は全員男だった。
『泰明に彼女……信じらんない! いつも一緒のあたしが気付かないなんて!』
レイラにしてみれば、親友の泰明のことはすべて把握してるつもりだったんだろう。そのショックか、泣きそうになっている。
気の毒だとは思ったが、俺は言った。
「気付かなくても、実際にそれっぽい女が今、俺の部屋のすぐ隣にいるんだからしょうがないだろ。……それでさ、こいつは見当違いだったらえらい失礼な話なんだが……俺、どうしてもあの女が怪しく思えてたまらないんだ」
『怪しい……って?』
「ほら、お前も聞いたことくらいあるだろ? この奇病は誰かが人体実験のために流行らせてるんじゃないかって説。だから……ひょっとしたら、あの女がその『誰か』で、やつは感染させるために泰明に近づいたんじゃないかと……」
『ちょっと……もしそうだったら、ほっといたら泰明も最近の何人かみたく行方不明になっちゃうってことじゃん!』
「そうだ」
『用心しなきゃ! 見当違いかもなんてほっといてもし何かあったら、取り返しつかないよ!』
「お前……信じてくれるか!」
『当然だよ! あたしも協力するよ!』
レイラに気力が戻った。こうなったときのこいつは頼もしい。
「ありがとう! じゃ、早速ひとつ頼みたいんだが……お前、今どこにいる?」
『自分の部屋』
「じゃ、2分もかからないな。ちょっと、何も知らないふりして泰明の部屋の様子を見てきてくれ。俺は絶対来るなって釘刺されちまったから」
『オッケー! じゃあ急ぐよ!』
言うが早いか、レイラは一方的に携帯を切った。この素早さもまた、頼もしかった。
……?
話を終えて、俺は壁の向こうからの音楽が止まっていたことに気付いた。
壁に耳をつける。
何も聞こえない。音楽も話し声も、物音さえも――。
やばい!
俺がレイラとしゃべってる間に、あの女は泰明を連れてっちまったんだ!
「泰明! 泰明ってば!」
隣室のドアへのノックと大声が聞こえる。レイラだ。
俺は廊下に出た。
「……僚!」
そこにいたレイラは、俺の頭を見て表情を歪めた。
「あ……」
慌てて部屋に駆け戻ると、レイラは追って入ってきた。そしてドアを後ろ手に閉める。
「悪い。こんなじゃうかつに外にも出られやしないんだ」
「いいよ。あたしも驚いてごめん。……そんなことより、泰明、返事ないんだけど……」
「ああ。どうも、俺がお前と話してる間に、女と一緒に出ちまったらしい」
「泰明……」
レイラは、泰明の部屋に接する壁を無念そうに眺めた。
――が、それは数秒のことだった。
「……僚、毛糸の帽子か何かないの? そいつをすっぽりかぶっちゃえば、ごまかせるよ」
「あ、そうか」
俺は早速、クローゼットの中から帽子を取り出した。
「ちょっとちょっと、それだけじゃ不自然だよ。せめてあとセーターと手袋くらいなきゃバランス悪いよ」
「……んなの着られるかよ。今、この恰好だって暑くてたまんないんだぜ」
「しょうがないじゃん。風邪でもひいたと思って我慢しな。それに、本当に体温下がってんなら、着ないと余計やばいんじゃん?」
反論はできなかった。俺は言われるままにいろいろと厚着をした。
「さて、じゃ、泰明の部屋を調べに行くよ」
「調べる……?」
そそくさと廊下に出ようとしたレイラに、俺は疑問に思って聞いた。
「だからさ、何か証拠が残ってるかもしれないじゃん。女のつけてた香水の匂いとか、泰明がその女に関して何か書いたもんとかさ」
「それはもっともだけど、鍵がかかってんじゃないか? 普通」
「……こんなの、あるんだよね」
レイラは、首にかけて服の中に隠してあったチェーンをひっぱり出した。
その先には、ごちゃごちゃといろんな物がぶら下がっていた。キーホルダーみたいに使ってるのか、ネームプレートだの指輪だのに混ざって、いくつかの鍵がついている。レイラはその中のひとつを手にした。
「おい、それって……」
「そう。泰明の部屋のスペアキー」
なんでお前がそんなの持ってんだ、と思ったが、この際理由は無関係だ。鍵があることに感謝して、俺はうなずいた。
「よし、調べに行こうか」
俺たちは部屋を出た。
レイラの持っていた鍵で、確かに泰明の部屋は開いた。俺たちは中に踏み込んだ。
当然、誰もいない。
「……香水の匂いはしないね。あたしみたく、そういうのに興味ない女なのかな」
鼻をひくつかせながら、レイラは首をひねる。
「みたいだな。とすると、物証を探すしかないか……」
俺は答えたが、レイラの言ったような「泰明の手による証拠」がそんなに都合よくあるとは考えにくかった。ありそうなのは写真くらいだろうが、本当に俺の推理通り相手の女が奇病騒ぎの黒幕なら、写真を残させるようなヘマもしそうにないしな……。
「あれ……? 何、これ」
俺が考えている間に、レイラは早速何かを見つけたようだ。
見ると、やつはベッドサイドのナイトテーブルから小さな紙の箱を取るところだった。
……俺は、それを知っていた。
「ああ、そいつは泰明が昨日誰かにもらったバースデイケーキだ。もう中身は入ってないけどな」
「あんた、知ってんの?」
「まあな」
俺は、その説明をしておくことにした。
「そいつにはショートケーキが1ピースだけ入ってた。でも……ほら、あいつ、甘いもんからっきし食えないだろ。贈り主のこと考えて根性で食おうとしたらしいんだが、それでも半分が限界でな。で、昨日の夜遅く、あいつは残り半分をそいつに入れて俺のところへ持ってきたんだ。捨てるわけにいかないから残りを食ってくれってさ。それで俺はその場でいただいて、あいつが箱だけ持って帰った。そんなわけでそこにあるんだ」
「なるほどねー……ん? 待てよ……」
レイラは納得したかと思うと途端に顔を歪め、そして――ハッと目を見開いた。
「どうかしたか?」
「あんた……昨日の夜にケーキもらったとき、当然泰明は病気なんかじゃなかったんだよね」
「もちろん」
「で、今朝、あいつとあんたは同時に発病した……」
――俺にも、レイラの言いたいことがわかってきた。
「おい……それじゃ、俺と泰明で半分ずつ食ったあのケーキが……」
「そうだよ! それん中に病気のウィルスみたいなのが入ってたんだよ! あんたは考えすぎだって言うかもしれないけど、あたしそう思う!」
「なんてこった……」
もはや、自分の判断を疑う余地はなかった。
「そうなると、やっぱり犯人はあんたの言う女しかいない! 前っから泰明の周辺にいたやつは、みんなあいつが甘いもん苦手なこと知ってたはずだもん! その女……好意でプレゼントするふりして、あいつを実験台にしたんだよ!」
「くっ……なんてやつだ! 畜生!!」
俺はレイラの手からケーキボックスを奪い取ると、ベッドの上に投げつけた。
……悔しくて、涙が出てきた。
こんな性根の腐ったやつのせいで、俺と泰明は不治の病に冒された。
泰明は連れ去られ、俺は有馬を……親父のための有馬を、あきらめるはめになっちまうかもしれない――。
許すものか。
例えどんな理由があったって、許すものか……!!
「あたしだって、悔しいよ……。どこの誰だかわかんないやつからのケーキで、こんなことになるなんて」
レイラは下唇をかんだ。――それは悔しさというより、悲しみに見えた。
「あたし、わかってたんだ。泰明、『誰かにとって意味のある存在』でありたかったんだよね。あたしは長いつきあいだから、今さら『あたしにはあんたが必要だ』なんて言わなくたっていいと思ってたんだけど……あたしの気持ち、あいつには届いてなかったみたい。あたしが一言でもそう言ってやってれば、そんな得体の知れないやつに引っかからなくてすんだのかな……」
俺は、怒りも忘れてレイラに同情心を持った。話の内容が泰明絡みじゃなかったら、肩でもたたいて慰めてやっていただろう……。
「……だからさ、僚、がんばろうよ。あたしたちで、絶対泰明を助け出して、犯人も捕まえて治療法吐かせてやろうよ!」
が、レイラは慰めも必要とせず、強く言って顔を上げた。
「よし! やろうぜ!!」
俺も、流れた涙を拭って未来を見据えた。
俺とレイラは、泰明の部屋を出て1階ホールへと下りてきた。
泰明が女と一緒にこの建物を出たなら、きっと誰かが見ていたはずだ。聞き込みをして、まずはその女が誰かを突き止める作戦だった。
ホールのソファーで、1年後輩のジョッキー・浅霧花梨が座って雑誌を読んでいた。ニューハーフという異色の存在ではあるが、ジョッキーとしての腕はなかなかで侮れないやつだ。
「花梨、泰明を見なかったか?」
俺が聞くと、花梨は雑誌から顔を上げ、ちょっと詳しく形容したくないような仕草で髪をかき上げた。
「泰明さんですか? 少し前に出かけましたよ。毛皮のフードとかかぶってて、いつもの彼じゃない感じだったから気になって見てたの」
毛皮のフード……俺が壁越しに聞いた会話とも一致する。とすると、泰明は女の家に連れていかれた確率が高い!
「ねえ! そのとき、女が一緒じゃなかった!?」
「よくご存じですね。ええ、大人っぽい女性と一緒でした。彼女なのかしら」
レイラが詰め寄ると、花梨は実にあっさり答えた。自分の言葉が俺たちにとってどれだけ重要か、まるっきり気付かずに。
「そんなことより、あんた、その女が誰だか知らない!?」
「さあ……。よくトレセンで見かける顔ですけど、私は面識ありません」
「もう、役に立たないなあ!」
「おいおい、落ち着け。……じゃあ花梨、お前がやつらを見たとき、何か会話でもしてなかったかを思い出してくれ」
レイラを手で制し、改めて花梨にたずねる。
「会話ですか? そういえば……女性の方が『ひとまず診療所へ戻りましょう』と言っていたのが聞こえましたけど」
「診療所?」
俺はレイラと顔を見合わせた。
このトレセンには「診療所」は2種類ある。馬用と人間用だ。泰明を連れていくなら人間用の方だろうか。
女は、診療所に「戻りましょう」と言っていたらしい。てことは、やつは診療所関係者か?
そうだと仮定して、その中で壁越しに判断した人間像にぴったりはまるやつは……。
……ひとりだけ、いる!
「まさか、香先生か!?」
俺が声を上げると、レイラは驚いて俺に目を向けた。
「香先生って……獣医の!?」
「ああ!」
東屋香先生――東屋隆二先生の娘で、彼が行方不明になったあとは、ひとりで東屋診療所を切り盛りしている。
「花梨! その女は、髪が腰あたりまで長いやつじゃなかったか!?」
俺はすかさず花梨に聞いた。仕事柄か、このトレセンにはそこまで髪の長いやつは女でもそうざらにはいない。
「そうそう、確かにそうでした!」
「間違いないよ! 早く行こう!」
レイラが俺の手をひっぱる。
「もちろんだ! ……花梨、サンキュー!」
俺たちは寮を飛び出した!
トレセンの端の方、林の近くに、東屋診療所はある。
入口のドアには「不在」との表示があった。出かけ先は長瀬健一厩舎と書いてある。真奈の所属厩舎だ。
「なんだ、いないのか……」
「こいつは中を調べるしかないぜ! ひょっとしたら泰明がいるかもしれない!」
診療所なんだから、完全に「今日はもうおしまい」ってとき以外は、不在でも入口の鍵は開いてる可能性が高い。
俺はノブに飛びついた。果たして、開いていた。
中に入った俺たちは、まず人間用の診療室へと足を踏み入れた。故障した馬と一緒に負傷した人間も運ばれてくることが多いため、馬の診療所でも人間の応急処置程度ならできるようになっているのだ。
――見たところ、誰もいない。が、隅に置かれたベッドのまわりにカーテンが引かれているのが気になる。
レイラも同じだったのか、俺が何かを言う前にそのベッドに近づいていく。
そして、カーテンを一気に引き開ける――。
「……泰明!!」
――ある程度覚悟はしていたのだろうが、その姿を直接見たレイラのショックはやはり大きかったようだ。
泰明は、確かにそこに眠っていた。しかし、その髪は凍りついたように白く、その顔は血が通ってないかのように真っ青だった。そして何より、眠ってるんじゃなくて「意識を失っている」といった方が正しいような生気のなさ――。
「僚! チャンスだよ! あの女が帰ってくる前に泰明を病院に連れてこう! 病院入れたってどうにもなんないかもしれないけど、こんなとこにいるより1万倍ましじゃん!」
言いながらレイラは、早くも泰明をベッドから抱き起こそうとしている。