「子供を生むときに死んだ女は、残してきた子供を見守るために天使になれる」――。

都合のいい設定もあったもんだわ、と私は思った。
でも、本当だったんだからしょうがない。
私はあれから21年間、本当に天使として世界を漂っていた。
……天使っていうより幽霊って感覚だけど、大好きな伸と息子を残してきちゃった私は、彼らのそばにいられるのはたまらなく嬉しかった。
ただひとつ、こっちからは何もできないのがものすごく悔しいんだけど。
だから私は、時にはこっそり伸のそばに行って、その唇にキスなんかしちゃったりして(気付いてくれなかったけど)。

息子の名前は僚。
子供が生まれた時点で、そのときの気持ちを素直に表した名前をふたりでつけましょ――私と伸はそう約束していたから、事前に名前の候補は決めていなかった。つまり、この名前をつけたのは伸ひとりだってことだ。
でも、伸にしてはいい名前をつけてくれた。約束を守ろうと、私が死んじゃった気持ちを素直に表して悲しい名前をつけたりしないかな……なんて心配してもみたけど、さすがにそれはなかった。
僚――仲間、友達の意味。
伸はいろいろあって、本当の意味での友達を持てない人だから、僚は友達一杯にしてあげたかったのだ。

友達を持てない――。
それを考えると、今でもあの夜のことを思い出す。

……それは、私たちが出会ってちょうど1年半が経った、2005年の1月。
私はそれまでに何回も伸とデートを重ね、彼のことはほとんど知り尽くしていた。
ただひとつ――彼には何か過去があるらしくて時々つらそうな顔をするんだけど、いくら聞いてもその事情だけは答えてくれずにいた。
ところがその日の夜、伸は誰もいない霞ヶ浦の湖畔に私を呼び出し、曇った顔で言ったのだ。
「今でも君がその話を聞きたいなら、今ここで話すけど……」
「知りたい! 話して!」
即答した私に、伸は余計に顔を曇らせ、泣くように言った。――きっと、心は泣いていたのだと思う。
「……この話を聞いて、俺のこと嫌いになったらなったでいいからな。今夜は、それだけの覚悟をしている」
「ならないよ。約束する」
「ありがとう……」
そして伸は、ずっと閉ざしていたその「過去」を話してくれた……。

伸は競馬学校時代から何年間か、同期生の桂木真理子ちゃんを好きだったらしい。彼女とは伸を通じて私も面識があって、しゃべっていて楽しい、感じのいい子だった。
でも真理子ちゃんは、やっぱり同期の篠崎剛士くんを好きだった。本当はふたりは両想いで、私たちの1年後に結婚して、僚の3ヶ月後に女の子が生まれることになってるんだけど、当然そんなことはその頃の伸には何ひとつわからない。
ジェラシーに駆られた伸は、犯人が自分だとわからない方法で、そのふたりに対する妨害工作をした。
それは成功し、ふたりはそれから3年間もよそよそしい状態が続いた。
だけど――人がよすぎる伸には、それを利用して真理子ちゃんに近づくようなことはできなかった。罪悪感だけを感じ、恋に縁がないのはその罰だと自分に言い聞かせて苦しみ続ける日々。
ところがある日、ちょっとしたきっかけで心を揺らした伸は、もうひとりの同期生・長瀬健一くんにそのことを白状して意見を求めた。
彼は、本人たちに全部話して、その「妨害工作の証」であるブローチを真理子ちゃんに返すべきだと答えた。
伸はそのつもりで真理子ちゃんと篠崎くんのところへ行ったが、ふたりがいいムードなのを見て、それを自分の汚い話で壊すのはいやだと考えた。
そして彼は、遠くからブローチをふたりに向かって投げ、自分が犯人だとは知らせないままだった。
……だが、それですっきり終わるかと思ったのに、伸はなおも苦しみ続けた。
その苦しみがどこから来るものなのか、彼にはわからなかったらしい……。

「それは長瀬くんの言う通りね。そのふたりに真実を告げるべきよ。そうしなきゃ、あなたは絶対その状態から脱出できない」
私は言った。
「やっぱり、君もそう思うか……」
「そうよ。それが当たり前」
と意見したものの、結果的には、ついに伸がふたりにそれを白状することはなかったのだけど……。
代わりに、伸は私に言ったのだった。
「考えを聞かせてくれてありがとう。だけど……実を言うと、俺がこの話を君にする気になったのは、これに関する君の考えを聞きたかったからじゃない。……わかるか?」
「え……わからない」
本当にわからなかった。すると伸は、暗い湖をじっと見つめながら、静かに口にした……。

「俺は……君を本気で好きになった。真理子ちゃんにはもう未練はない。君がずっとそばにいてくれれば、古傷もただの過去に変えられる。……さっきも言った通り、この話で俺を嫌いになったんだったら仕方がないけど、もしそうじゃないのなら……俺と、結婚してくれないか」

「……ありがとう。私、あなたの奥さんになる。ずっと、そばにいるわ……」
私はそう言って、彼を後ろから抱きしめた……。

……そんなこともあったのに、どうしても伸は、周囲から自分を隔離する癖を直してくれなかった。
結婚して、私にだけは心を許してくれたけど、他の人に近づくのはどうしてもためらうみたいだった。

そんな伸が子供につける名前として、「僚」は本当に彼らしかった。

私は死んじゃったけど、伸との約束は今でも守り続けている。
ちゃんと、ずっと彼のそばにいるもの。
私の気のせいかもしれないけど、彼も何となく私に感づいてるように思う一瞬があったりする。
たまーに、私のいるあたりを振り返って「沙穂……そこにいるのか?」なんて話しかけてきてくれたりする。
そんなとき、伸は今でもちゃんと私を愛しててくれるんだなって思って、すごく嬉しい。

僚の方は、子供の頃はとんでもない悪ガキだった。まるで、おてんばで手がつけられなかった私の少女時代みたい(あ、僚が私に似たのよね)。
でも、伸のよさをちゃんとわかって彼を心から尊敬する、いい子に育ってくれた。
男の子って父親と上手くいかないケースが多いみたいだけど、きっと性格が私似だから相性がいいのね。

……そうして一方的に伸と僚を見続けて、21年。
ジョッキーになった僚は、伸が果たせなかった重賞制覇とG1制覇を果たすと意気込んでいる。
あの真理子ちゃんと篠崎くんの間の娘・真奈ちゃんも、僚と一緒にジョッキーをやっている。
幼なじみだからちょっと抵抗を感じてるみたいな部分もあるけど、僚は明らかに真奈ちゃんのことが好き。
恋愛に関して奥手なのは、やっぱり私に似てるみたい。

今週、僚は有馬記念に乗れることになった。
絶対勝ってほしいな。そうしたら僚だけじゃなくって伸も喜んで、いまだに抱え続けてるあの古傷を少しいやせるかもしれないもの。
そうだ――当日は僚についてって、ゴール前で馬を後ろからちょっと押してあげようかな。

……やめた。
そんな不正したって、きっと伸も僚も喜ばないものね。
今まで通り、誰にも聞こえない声を出して応援しようっと。

 

 

天使のささやき

(隠しシナリオ No.5)


あとがきを読む          プロフィールに戻る