「恋には、かりそめの恋と本当の恋がある」

そういう言葉がある。
どこかで聞いたり読んだりしたのだったか、あるいは自分が悩み苦しんだ末にたどり着いた答えだったのか、もう細かくは覚えていないが、それは真実を語っている言葉だと思う。
人生経験を積み、50歳を目前にした今も、そう思う。

……俺は、その「本当の恋」を、この人生で2回経験した。

ひとりめの相手の名前は、旧姓・桂木真理子。
その恋心に気付いたときには、彼女を愛するもうひとりの男……篠崎剛士が出現していた。
この恋に本気を賭けていた俺は、その存在に混乱し、今でも忘れられない卑怯な妨害工作などもしたものだ……。
結局、俺がどうこうするまでもなく、ふたりは両想いだったことがわかり、何の障害もなく結ばれた。
俺は、何も告げずに彼らふたりを見守る道を選んだ。それしか選べなかった。
……思えば、分岐点を迎えるたびに自分にとってつらい方を選ぶ癖がついてしまったのは、このときからだった。
まるで、自分が犯した罪を一生自分で罰し続けるかのように。

ふたりめの相手の名前は、旧姓・北村沙穂。
出会いは24歳の頃、先輩ジョッキーの結婚披露宴で向かい合わせに座ったことだった。
先輩の嫁さんの親友で、俺よりひとつ年上の、大人っぽい美女。
最初に交わした一言で妙に意気投合してしまい、そのパーティーが終わるまで、「本日の主役」そっちのけでふたりでしゃべってばかりいた。表面上は「おしゃべり」だと評される俺が辟易するほどに、彼女はよくしゃべる人だった。
互いの住所を教え合い、車で1時間かからない場所に住んでいることがわかると、休みのたびにふたりで遊びに行くようになった。ただ、それは本当に「遊びに行く」だけで、ロマンもムードも何もないものだったのだが……。
……その中にそういったものを求めていたことに気付いたのは、いつだったか。
一度家庭を持ってしまうと、そういうことを思い出すのは照れくさい。

俺と沙穂は、例のふたりより1年早く結婚した。
これが「1年遅く」だったら、俺はまた複雑に思ったのだろうか。

息子が生まれた。
……同時に、沙穂は天に召された。
その深い悲しみの中で俺は、何も知らない息子に、自分と沙穂のすべてを賭けようと思ったのだろう。

俺は息子を「僚」と名付けた。仲間、友達……といった意味だ。
親というのは一般的に、自分が果たせなかった夢を子供に継がせようとするものらしい。それは俺も例外にはなりえなかった。自業自得とはいえ、ついに真の友を得られなかった俺は、せめて息子だけは仲間や友達に囲まれたいい人生を送らせようと思ったのだった。
そのためには、息子に寂しい思いをさせてはならない。俺は息子のために、後ろ髪を引かれる気持ちでジョッキーを引退した。
通算179勝。重賞勝ちのひとつもない、28歳の夏だった。

手に入らなかったもの、失ったものは多かったが、得たものも多かった。未練などはとうの昔になく、例えもう二度と話すことができなくても、俺の愛する女は沙穂ただひとりになっていた。それは、俺にとっては歓迎すべき状態だった。

しかし……。
未練は消えるが、古傷は消えない。
消えたつもりになっていても、ふとしたきっかけでまた痛み出す……。
そんな悲しい真実を俺に突きつける事件が、やがて待っていたのだった。

それは、僚が6歳になった年のことだった。
僚と同じ年に生まれた篠崎たちの娘・真奈ちゃんは、僚のいい遊び友達になってくれていた。彼女が女の子特有の遊びにはまったく興味を示さず、積み木や科学系の絵本が大好きだったことも、ふたりの仲がいい要因のひとつだった。
ところが、僚がいつものように真奈ちゃんと遊んで帰ってきたある日の夜、俺の携帯が鳴った。真理子ちゃんからだった。
『片山くん、真奈のブロックパズルが見当たらないんだけど、僚くんが間違って持って帰っちゃったりしてないかしら』

……全身の血の気が引くというのは、まさにこんな感覚のことを言うんだろう。

俺は「すぐ調べる」とだけ答えて携帯を切り、遊び疲れて眠っている僚の周辺を探った。
……果たして、見つかった。しっかり「しのざき まな」と書かれたブロックパズルのおもちゃが、僚のおもちゃ箱の底に。
間違えて持って帰ってきてしまっただけなら、こんな底の方に隠すように入れたりはしない。明らかに、真奈ちゃんに内緒でこっそり持ち帰ってきて、悟られないように俺の目の届かない場所に押し込めたのだ。
俺は僚をたたき起こし、そのパズルを突きつけた。
沙穂譲りの素直さを持つ僚は、俺が何を言いたいのかをすぐに察知し、いきなり大声で泣き出した。
怒らないように理由をたずねると、思った通り、真奈ちゃんがそれをあまりに大事にするのが悔しくて持ってきてしまったとのことだった。
もう時間は遅かったが、それはとても悪いことなのだとしっかり言い聞かせると、俺はパズルを持ち、僚の手を取って篠崎家へ向かった。
玄関先に出てきた真理子ちゃんに本当のことを話してパズルを返し、罪悪感に負けて泣きじゃくる僚に頭を下げさせると、彼女はかつて俺を惑わせたあの「魔法の笑顔」を見せて、こう言った。
「もういいのよ。僚くん、こんなに泣いてるじゃない」と……。

……篠崎家からの帰り道、俺は僚の手を引きながら、人知れず泣けるものなら泣きたい気持ちだった。
真理子ちゃんを間近で見たとき、自分も昔彼女に同じことをしたのだと白状しようかとよほど思った。あの「事件」から15年以上。昔は彼女と篠崎のことを考えて黙っている道を選んだが、今はもう互いに家庭があり、あのふたりにはかわいい娘までいる。今なら単なる昔話ですむかもしれない、と。
しかし、できなかった。できたのは、昔の俺と同じ罪を犯した僚に謝らせたことだけだった。
俺は何もせず、僚ひとりに。
幼い僚が俺と同じことをしたのもショックだったが、何よりも悲しかったのは、俺が僚をまるで、自分の罪を着せるための存在であるかのように扱ってしまったことだった。
僚は俺の、かけがえのないひとり息子だ。
それなのに、俺は……。

なぜ……!!

……それからさらに15年経ち、今年になる。
僚は2年前、俺の後を継いでジョッキーになった。真奈ちゃんも一緒にジョッキーになり、今では互いをよく知るライバルかつ親友として、競い合い、助け合っている。幸い他にも多くの人に好かれ、名前に込めた願いは叶ってくれたようだ。
そして今週、僚はふとしたことから有馬記念に乗せてもらえることになった。あいつは「親父の夢を果たす!」と意気込み、何が何でもこのチャンスをものにするつもりらしい。

だが……俺は、息子のその気持ちが怖い。
父親失格の俺の夢なんか、果たさなくてもいいのだ。果たすなら、僚自身の夢を果たしてほしい。
もちろん、ジョッキーになった以上、有馬を勝つのは僚の夢でもあるのだろう。ただ、そこに俺の存在を入れないでもらいたい。
俺は罪人。誰にも気づかわれることなく、独房の中で朽ち果てていくべきなのだから……。

……そういえば。

遥か昔、不思議な夢を見たことがある。
まだ20歳にもならない頃、やはり有馬の週だったか。
「リョウ」と名乗る俺そっくりの男が現れ、厳しく意見するのだ。

『自分の人生では、自分が主人公。例え過去に何をしたとしても、いつも誰かの脇役になろうとするな』

夢と言い切るには現実的な、現実にしては非現実的な……本当に不思議な夢だった。
だが……今なぜか、あの「リョウ」の言っていたことが胸に染みる。

僚……。
俺は、今ならお前の父親になれるだろうか?

本当の意味での、父親に……。

 

 

続・古傷の行方

(隠しシナリオ No.3)


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