●HOME>
●研究ノート>
◆江戸末期における本所一ツ目弁天琵琶奉納会の検証1
江戸時代には当道座という盲人団体がありました。 江戸と京都に役所があり、それぞれ「惣録屋敷」「職屋敷」と呼ばれました。 「惣録屋敷」は「一ツ目弁天」として親しまれていました。 杉山和一検校が徳川綱吉公の鍼療治をした褒美に賜った領地で、 本所の運河にかかる「一ツ目の橋」の南側にあります。 現在も江島杉山神社として、鍼灸を学ぶ人々に大切にされています。 さて、一ツ目弁天では2月16日と6月19日に平家琵琶の演奏会がありました。 これは当道座を作ったとされる人康親王(さねやすしんのう)と その生母の御逮夜(命日の前夜)にちなむ年中行事とされています。 ちなみに京都の職屋敷では、2月16日を「積塔会」、6月19日を「納涼会」と称し、 琵琶の奉納演奏のほか、鴨川の河原で石を積む行事などがあったようです。 一ツ目弁天琵琶会については 『遊歴雑記』 文化11(1814)年発行(平凡社の東洋文庫で確認できます) 『東都歳事記』 天保9(1838)年(これも東洋文庫で確認できます) 『平曲古今譚』 嘉永4(1851)年の記事(私の高祖父・楠美太素の書簡)などで紹介されています。 楠美太素は参勤交代で江戸に上ると、極力この一ツ目弁天琵琶会に足を運んだようです。 自分が弘前にいるときに、江戸滞在中の同僚に句組を知らせてもらったこともあります。 少なくとも8回分の句組が記録に残されており(『平家音楽史』p.488〜)、 出演者は8〜13人で、午前に行われた例も午後に行われた例もあります。 『平家音楽史』p.475には深川照阿が14歳の折、おそらく弘化3(1846)年に 一ツ目弁天「奉納平家」を傍聴したときの談話を紹介しています。 それでは、『遊歴雑記』『平曲古今譚』の記述と深川照阿の談について、要点を比較してみましょう。 (便宜上、記述の順番ではなく共通項目を優先しています。)
二つの記事が書かれたのは40年近くも違いますが、 「麻裃」または「のし目裃」の役人がいたこと、 盲人は正装で、2月には帽子もつけていたこと、 役人が琵琶を手渡し、盲人は一句を抜粋して語ったこと、 複数の出演者があり、巧拙はさまざまだったこと、 聴衆もさまざまで、終演後にお茶を飲んだらしいこと などが共通事項として挙げられます。 では上記をふまえて、『東都歳事記』1838年の挿絵を検証してみましょう。
ところで、『尾張名所図会』前編(天保15(1844)年刊)巻之一 七ツ寺の項目では、 「弁財天社、天和二年吉澤検校弘都(こういち)が建立。 毎年十月十五日客殿にて府下の検校勾当都名(いちな)の盲人まで平曲を奉納す」 という行事があったことが記されています。 『荻野検校』(尾崎正忠、1976年、愛郷刊)には、挿絵として 『尾張名所図会附録』にある「尾張七ツ寺弁天講」の図を紹介しています。 この図からは、十月十五日に行われた行事が弁天講であったことがわかります。 それでは、『荻野検校』に紹介された挿絵を検証してみましょう。
裃の役人、正装の盲人、一面だけの琵琶、聴衆の存在などから、 当道座の年中行事における琵琶会には、 季節や地域にかかわらず、共通点があったのではないかと考えています。 Copyright:madoka 初版:2007年3月20日、深川照阿の項目は3月23日に加筆、菊綴の色について7月17日修正。 |
●研究ノート | 無断リンクを禁じます。内容の転載・引用を希望の方は 必ずご一報下さい。 |