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江戸末期における本所一ツ目弁天琵琶奉納会の検証1



江戸時代には当道座という盲人団体がありました。
江戸と京都に役所があり、それぞれ「惣録屋敷」「職屋敷」と呼ばれました。
「惣録屋敷」は「一ツ目弁天」として親しまれていました。
杉山和一検校が徳川綱吉公の鍼療治をした褒美に賜った領地で、
本所の運河にかかる「一ツ目の橋」の南側にあります。
現在も江島杉山神社として、鍼灸を学ぶ人々に大切にされています。

さて、一ツ目弁天では2月16日と6月19日に平家琵琶の演奏会がありました。
これは当道座を作ったとされる人康親王(さねやすしんのう)と
その生母の御逮夜(命日の前夜)にちなむ年中行事とされています。
ちなみに京都の職屋敷では、2月16日を「積塔会」、6月19日を「納涼会」と称し、
琵琶の奉納演奏のほか、鴨川の河原で石を積む行事などがあったようです。

一ツ目弁天琵琶会については
『遊歴雑記』 文化11(1814)年発行(平凡社の東洋文庫で確認できます)
『東都歳事記』 天保9(1838)年(これも東洋文庫で確認できます)
『平曲古今譚』 嘉永4(1851)年の記事(私の高祖父・楠美太素の書簡)などで紹介されています。

楠美太素は参勤交代で江戸に上ると、極力この一ツ目弁天琵琶会に足を運んだようです。
自分が弘前にいるときに、江戸滞在中の同僚に句組を知らせてもらったこともあります。
少なくとも8回分の句組が記録に残されており(『平家音楽史』p.488〜)、
出演者は8〜13人で、午前に行われた例も午後に行われた例もあります。

『平家音楽史』p.475には深川照阿が14歳の折、おそらく弘化3(1846)年に
一ツ目弁天「奉納平家」を傍聴したときの談話を紹介しています。

それでは、『遊歴雑記』『平曲古今譚』の記述と深川照阿の談について、要点を比較してみましょう。
(便宜上、記述の順番ではなく共通項目を優先しています。)
『遊歴雑記』1814年『平曲古今譚』1851年照阿の談 1846年
・例年2月16日と6月19日、盲人が一ツ目弁天で平家琵琶の奉納演奏。
・巳の上刻より午の刻に及ぶ(10時頃〜12時頃か)。
・時刻や出演者や句組は年によって異なる。
・番組(句組)は長押に張り出してある。
・はじめに幼少の巫女や禰宜が神楽を奏する。

身分に応じた装束の盲人が15〜18人出演する。
・着座すると2人の麻裃を着た役人2面の琵琶を持ち出し盲人に手渡す。その盲人は調弦して語る。 語り終えると裃の役人もう一面の琵琶を向かい側に着座した盲人に手渡す。こうして次々に語る。
・語る分量は(活字本の)三行又は五行に過ぎない。

・さえた声、かれた声、太い声、鄙びた声がある。
・上手下手・巧者不巧者がある。

遠近の雅客は辰の半刻(8時半頃)より弁天堂に来集。
風雅に疎い客が、不興と思い帰ってしまうこともある。
・6月19日に参加したら蒸し暑くて無風であったが、知人が茶道具を広げ濡縁で一煎。諸人に振舞い、雅宴となった。
・2月16日に一ツ目弁天の奉納平家を聴く。

・早夕飯にして同僚と行くと、6人の盲人が帽子装束(検校の正装)で、左右に3人ずつ並んでいた。2人目が語っていた。 (当日は13人が出演。前半7人は語り終え、後半6人のうち2人目が語っていた。)

・語り終えると、のし目裃を着た役人琵琶を受け取り、次の法師に渡すと、また同様に語り始めた。
・一句を通して語る者は無く、冒頭から(譜本の)一枚くらいか、中盤の一枚半くらいを抜き語りしていた。

・虎の吠えるような語りをする者もいたが、福住検校と麻岡検校は上手と思った。

・すべて語り終えると法師たちはお神酒を拝飲。
聴衆も(お茶を?)一服飲みながら話をした。
・奥殿に弁財天の尊像を安置、須弥檀に供物、その前面の左右に琵琶を立てる。

・上座に惣録検校が座し、宗匠麻岡検校、副宗匠福住検校が続き、勾当数名、都名(いちな)の盲人が、それぞれの身分の官服で着座。

・下座に熨斗目麻上下(裃)の役員が控える。

役員が神前の琵琶を宗匠の前に置き、宗匠が調弦。役員がその琵琶を弾奏者に授け、奏者は神前に座して恭しく掻き鳴らす。




二つの記事が書かれたのは40年近くも違いますが、
「麻裃」または「のし目裃」の役人がいたこと、
盲人は正装で、2月には帽子もつけていたこと、
役人琵琶を手渡し、盲人は一句を抜粋して語ったこと、
複数の出演者があり、巧拙はさまざまだったこと、
聴衆もさまざまで、終演後にお茶を飲んだらしいこと
などが共通事項として挙げられます。

では上記をふまえて、『東都歳事記』1838年の挿絵を検証してみましょう。
 貴人のようにも見えますが、裃を着た役人と考えるべきでしょう。したがって、こちらが下座と思われます。

 現在演奏中の検校。琵琶はこの一面しかありません。
CDEFGHI 検校。緋か紫の衣、あるいは略式の黒衣でしょう。二度以上の勾当かもしれません。帽子がないのは6月19日(夏)だからでしょう。

 おそらく座当。白い衣に紫色の菊綴(きくとじ=房)がついているのでしょう。 (図中の紫い点は私が加えました。ここに菊綴があります。)

KM 深川から勉強しに来た女性でしょうか。Mは横向きです。
L 武士でしょうか。演奏者をきちっと観察しています。

N 坊主頭で後ろを向いているので盲人かもしれません。
O 女性を観察中? 平曲鑑賞には飽きたのでしょうか。
PQ うつむいて耳を傾けています。居眠りかもしれません。


ところで、『尾張名所図会』前編(天保15(1844)年刊)巻之一 七ツ寺の項目では、
「弁財天社、天和二年吉澤検校弘都(こういち)が建立。
毎年十月十五日客殿にて府下の検校勾当都名(いちな)の盲人まで平曲を奉納す」
という行事があったことが記されています。

『荻野検校』(尾崎正忠、1976年、愛郷刊)には、挿絵として
『尾張名所図会附録』にある「尾張七ツ寺弁天講」の図を紹介しています。
この図からは、十月十五日に行われた行事が弁天講であったことがわかります。
それでは、『荻野検校』に紹介された挿絵を検証してみましょう。
 裃の役人でしょうか。
BCの帽子は勾当の帽子かもしれませんが、錦のように見えます。 が現在演奏中で、琵琶はこの一面しかありません。
DEの帽子は錦のようで、FGは無地に描かれているようです。 BCDEFGが帽子をかぶっているのは冬だからでしょう。
HIJ 袖に菊綴がついた白い衣です。座当でしょう。
KLMNOPQ 7人の熱心な聴衆が描かれています。

二幅の掛け軸は、吉沢検校と荻野検校の肖像と思われます。

裃の役人正装の盲人一面だけの琵琶聴衆の存在などから、
当道座の年中行事における琵琶会には、
季節や地域にかかわらず、共通点があったのではないかと考えています。

Copyright:madoka 初版:2007年3月20日、深川照阿の項目は3月23日に加筆、菊綴の色について7月17日修正。


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