HOME収納棚 大河ドラマ「義経」メモ

最近の感想メモ


タイトル 放送日 内容、私の感想ツッコミ
21いざ出陣5/29 義高のことを進言した平塚は頼朝の意思により斬首に/義仲を防ごうとした平家軍は倶利伽羅峠で惨敗
政子は時政に「平塚良郷の斬首決定は梶原景時の裁量であり、頼朝の意でもある」と説明します。
義経は頼朝から「源氏ではない家人たちを束ねるには、あやふやな情より理が必要」と宣言され、
清盛の言葉(情に溺れぬ力)を思い出します。
清盛は次世代の棟梁に必要な器量に気づいており、頼朝と時子は既に実践していたと言えましょう。
知盛から「木曾追討の総大将に」と勧められた宗盛は、「自分は法皇のおわす都をお守りする」と断ります。
時忠の推薦で維盛が総大将となりますが、維盛は汚名を返上できませんでした。
勝ち戦に敢えて慎重になる義仲に、行家は延暦寺を味方に付けることを入れ知恵します。

※ 平家物語では巻之七の前半あたり。ドラマには紹介されていませんが、
  平経正などは木曾追討への道すがら、竹生島詣をしています。優雅だけれど自覚が足りません。
  ところで頼朝は「鎌倉殿」「佐殿(すけどの)」などと呼ばれていますが、皆さんお気づきですか?
22宿命の上洛6/5 義仲軍は比叡山を味方にする/義仲を討つための平家軍は兵を惜しみ退陣、都落ちを決意
宗盛は丹後局から夜盗のことを聞かされ、夜盗狩りを命じていますが、
お徳の計らいで戻った維盛の紅裾濃縅の鎧を、清宗に与えて喜んでいます。嫡流願望?
戦に出たことがない宗盛を、知盛が戒めます。知盛が退陣すると宗盛は責めますが、
こんどは重衡が、今は天皇も法皇もお守りするために兵を惜しむ時だと説きます。ダメ兄貴。
いっぽう義経は、下手に動くと頼朝に逆らうことになり、義仲を討てば義高の敵となり、
義仲を見逃せば平家の敵となる立場に苦しんでいます。

※ 清盛の遺言を「頼朝の首を墓前に供えよ」だとしてしまった時子。
  重衡から都落ちの目的を聴き、どぎまぎする時子。ウソは仇になりますネ。
23義経と義仲6/12 法皇は比叡山から戻り義仲と面会/平家は福原に落ちる/義経は義仲を訪問
近江の義経一行は京都を偵察し、情報を仕入れます。
叡山に隠れた法皇のことを知り、宗盛は泣く泣く徳子に報告をします。気づくの遅いよね
義仲は法皇に対する挨拶も知りません。法皇はすでに頼朝を持ち駒にしようと謀りはじめます。
安徳天皇の廃位を知り、北陸(ほくろく)の宮を推薦する義仲は、法皇や貴族の反感を買います。
福原での平家は「管弦講」を催し、いつのまにか公達として過ごしていた日々を省みます。
時子のところに蛍(清盛?)がやってきます。同じ頃、義経のもとにも蛍が飛びます。
義経に「新しき国」を説かれても、身内をも信じない義仲は相手にしません。けれども
義高の伝言を聞き、義仲は義経に「すまぬ」と伝言します。何がそうさせたのでしょうか。

※ 公家っぽい装束の義仲が立派にも滑稽にも見えます。まさに馬子にも衣装。
24動乱の都6/19 義仲軍は都で狼藉を重ねる/平頼盛は鎌倉へ向かう/行家は重衡軍に大敗/義仲は鼓判官を侮辱
義仲は、義経を「義高の相手役」として尊重し、義経を襲わせようとした巴を制止します。巴も曲者だなぁ。
法皇は、九州の平家には三種の神器を戻すように、源行家には平家追討を、伝えます。
あれほど法皇を信頼していた宗盛は、誰が(三種の神器を)返すものかと怒っています。
敗北した行家は和泉に逃げ、義仲は院の御所に踏み込みます。宗盛と似てますネ
平家が海上戦を謀っていることを義経は見抜き、頼朝は木曾追討の院宣が届くと確信し、
義仲と巴は法皇の動きを察知しています。でも最大の謀略家は、義仲に墓穴を掘らせた法皇のようです。

※ 義経が兄と従兄のどちらも傷つけたくないと思っていたり、義仲が親心を見せたり、
  平頼盛が平家の中で孤立していたり、当時の人もストレスを抱えてたんですねぇ。
25義仲最期6/26 搦手の義経軍が「宇治川」を渡す/瀬田で「木曾最期」/法皇、義経に警護を命じる
範頼から搦手を任された義経は宇治に向かいます。いよいよ初戦です。
北国へ向かおうとしていた義仲は、行家の謀反を知り、宇治川も破られ、瀬田へ向かいます。
義経は法皇をお助けし、直答を許されます。ニンマリする法皇。また何かを企んでいます。
義仲の死を知った平家のうち、知盛は冷静に、頼朝に院宣があるだろうと判断します。
義経を訪れた行家の態度を、義経は戒めます。義経は常盤御前と再会します。

※ 夜明けでも、深くも速くもない宇治川。名乗りを挙げる間もありません。
  木陰で座って涼む義仲と巴。めそめそする巴。馬上の武者からスタコラサッサと走り去る巴。
  私は小池栄子チャンが、恩田八郎の首をねじ切ってポイっと捨てるのを見たかったのに…。
  あと、義経と常盤御前が再会する場面に満月?! 木曾最期は一月廿一日(下弦の月の頃)
  次の満月は二月十五日頃。でも二月七日(上限の月の少し前)には一の谷の合戦があるのですよ!
26修羅の道へ7/3 義仲の首が晒される/一の谷の平家に水軍が味方しはじめる/範頼・義経に平家追討の院宣
義経は、義仲の首を見つめる巴に気づき、迷う巴を制した上で、
義高のことは「私が何としても(守る)」と約束します。軽々しく約束して良いのかな?
義高は父義仲の死を知り、殊勝に振舞いますが、縁の下に隠れて泣きます。
頼朝は院宣を予測し、三種の神器を平家から取り上げることを命じます。
一の谷で矢合せする日時も決まり、範頼(萌黄裾濃の鎧)・義経(赤糸縅の鎧)に院宣が下されます。
今生の別れを覚悟した静が、義経の武運を祈って舞います。
よ(?)しさらば こころのままに ゆきたまえ なにかわかれの かなしからまし

※ 女々しい巴。三郎・四郎を諌める静。義経様の幼馴染と強がるうつぼ。
  心情は描けているように思うけれど、表面にそこまで出すのかなぁ?
  それはそうと、廿九日(新月直前)夜の出陣なのに、なんだか明るいんだよね・・・・・・。
27一の谷の奇跡7/10 三草の平家軍、義経の夜討に敗れる/義経軍は鵯越の坂を落とし、一の谷の平家軍を攻め滅ぼす
源氏の搦手を防御する三草の平家軍を、義経は鐘・太鼓・火矢だけで蹴散らします。
火矢の標的は三草の民家。義経の徳なのか、民衆は快く家の立ち退きに協力したようです。
法皇は源平の和睦をはかるので八日まで戦をせずに待機するよう、平家に院宣を出します。
でもこれは法皇の策謀。義経は断崖を駆け降り平家軍を攻め、重衡を生け捕りにします。
法皇の謀に気付く宗盛、幼馴染に生捕にされた重衡。悔しさもショックも大きかったことでしょう。
範頼も法皇も、義経の奇襲を評価しつつも、三種の神器を取り返せなかったことは不服のようです。
とりわけ梶原景時は「三種の神器を奪えなかった」義経を、冷ややかに見ているようです。

※ くどいようですが、一の谷の合戦は旧暦二月七日。「明け方」に「26日くらいの月」は出ません。
28頼朝非情なり7/17 重衡は義経に護送され鎌倉へ/義高は出奔し斬首となる/頼朝から義経は京都の守護を命ぜられる
範頼の陣における詮議で、重衡は三種の神器と引き換えの生捕と決まります。
しかし平家は拒否します。頼朝は重衡を鎌倉に護送するように命じ、義経がその役目に就きます。
かつて兄弟のように遊んだ重衡と義経は、恨みではなく宿命で敵味方となったことを確認します。
鎌倉に着いた義経に、頼朝は武家のための政を目指すための人物、大江広元・善信を紹介します。
大姫が義仲の死を知ったことで、義高は出奔しますが、頼朝の信頼を損ね、その晩に首を斬られます。
頼朝は義経に、自分に従う武士の国を作ると説明します。潔い重衡のことも鎌倉に迎え入れたいのです。

※ 義経主従が千鳥の家を訪ねるとき、またしても満月が出ています。
  重衡は2月14日に都を引き回し、3月10日に鎌倉下向。となると3月15日になるのですが…(つづく)
29母の遺言7/24 維盛の入水/頼朝から義経に恩賞なし/新帝即位、義経は検非違使兼左衛門少尉に/常盤の死
法皇は頼朝の動きが気になり出します。義経に恩賞が無いことに気づき
頼朝に断ることなしに、義経を検非違使兼左衛門少尉に任官します。
任官を断れなかった義経に、頼朝は河越次郎の娘を奥方として遣わし、試します。
一条長成は法皇―頼朝間の確執に気づき、常盤が病であることを承知しつつ伝えます。
常盤は病をおして義経邸に忠告に行き、二日後に亡くなります。皆義経を心配しているのです。

※ 先週の懸念は徒労でした。維盛がすでに入水していたので、問題なしです。
  常盤が義経を訪ねたのが十一日夜でしょうか。月の高さが少し気になりますが
  この2日後に月見の宴(たぶん九月十三夜、名月です)ですから、これもOK!
30忍び寄る魔の手7/31 義経、従五位下となり、昇殿を許される/頼朝、「判官」義経を大将軍に平家追討を願い出る
義経は検非違使としてではなく、かつての「牛」として夜盗たちに接し、治安を図ります。
法皇からの従五位下については頼朝に伺いを立てます。知恵をめぐらせているのです。
けれども知能犯である法皇に涙ながらに説得され、頼朝のためと信じ、従五位下を受けます。
そんな頼朝は問注所・公文所を設置しますが、範頼軍が知盛軍を相手に苦戦しているため、
昇殿を許された「九郎判官義経」を大将軍に据え、法皇に平家追討を願い出ます。
頼朝は「義経に対する試練」と言い、政子は頼朝を「本当は情の人だ」と言います。
法皇、頼朝、義経、政子、いったい誰の思惑が勝つのでしょうか。

※ 法皇は、泣き落としを謀った寺で、義経を「判官」と呼んでいます。なるほど。
 ところで、直答って、現実にはどのくらい存在したのでしょう。
 丹後局や知康がいちいち仲介していたら、放送時間が足らないことは確かですが。

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