「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第1章:原始と古代の日本」批判@
1.西洋の「文明=進歩」史観批判としての「縄文文化」論
(1)「日本の旧石器時代」
この歴史教科書の全てが間違っているわけではない。この歴史教科書は、従来の教科書と違って、歴史上の出来事の歴史的評価をはっきりさせ、時代の性格をより鮮明にしようとする傾向がある。
その比較的成功例が、第1章第1節「日本のあけぼの」の中の「A縄文文化」の項である。
ここでは最初に「日本の氷河時代」と題して、以下のような記述がある(p23)。
花粉分析などから、日本では、氷河時代にも厚い氷におおわれることなく、動植物が絶滅せず繁殖し続けていたことが分かっている。豊かな食料を求めて、人々は大陸から渡ってきたのだった。こうして日本にも旧石器時代が始まった。 |
この事実は多くの教科書ではあまり記述されることはない。日本列島は豊かな森に覆われた地帯だったのである。しかしユーラシア大陸の北部はヨーロッパも含めて氷で閉ざされた地帯だった。だからこそ人類が当時大陸と地続きであった日本列島に移り住んできたのだ。当時の日本の自然環境の豊さを前提としなければ、日本列島への人類の出現のわけはわからない。
しかし、上の記述にも問題はないわけではない。この記述のしかたでは「日本だけが特殊だった」と受け取られかねない。
事実は、現在氷河時代と表記されている時代に陸地が氷河に覆われていたのは、北半球でいえば、ユーラシア大陸の北部と、アメリカ大陸の北部にすぎなかったのである。たしかにヨーロッパ地方は、ほぼ全域を氷河で覆われ、わずかに現在の地中海の北側の地域に針葉樹林の森林地帯が広がっているにすぎなかった(スペインのアルタミーラの洞窟壁画やフランスのラスコーの洞窟壁画はこの時代のものである)。
そしてシベリア全域と中国北部も同様であった。
しかし目をもう少し南部に移してみれば、大地の景観は一変する。氷河の周辺のツンドラ地帯を過ぎれば、針葉樹林の森が広がり、その南には広大な草原が広がっていたのである。氷河の面積は、最後の氷河期のその最後のもっとも寒い時期である28000年前から12000年前でも大陸の30%を占めるに過ぎないのであり、それ以外の時期には、通常は10%ぐらいなのである。陸地の多くは森林と草原。あのサハラ砂漠も、この時期には草原地帯だったのである。
「氷河時代」とは、すぐれてヨーロッパ中心史観のなせる技であり、むしろこの時代は「森林と草原の時代」と表現したほうが正確である。
だから上の記述は、正しくは、北半球では北極の近くの陸地の30%を氷河が占めたにすぎず、日本列島でももっとも氷河が発達した北海道は陸地の大部分が氷河とツンドラで覆われ、マンモスもここまでは南下していたが、津軽海峡(当時はないが)より南は、山岳地帯を除いて針葉樹の森で覆われており、多くの動物たちが生息していたと書くべきであったのである。
日本列島だけが豊かな自然を持っていたわけではない。
(2)「縄文文明」で正しいのか?
この森と草原の時代に終わりを告げたのが今から12000年ほど前であり、最後の氷河期が終わり、今まで氷河が覆っていた地域がツンドラ・もしくは針葉樹の森となり、草原地帯は、水と緑豊かな広葉樹で覆われた地域へと変貌したのである。
ここでは、最初に次のように記述している(p23)。
ことに東日本は、豊かな木の実や山芋などのほかに、サケ、マスなどの川魚にも恵まれていた。カツオ、マダイ、スズキといった海の幸。イノシシ、シカ、マガモ、キジといった山の幸。それに豊かな貝類。このように比較的、食料に恵まれていたので、日本列島の住人は、すぐには大規模な農耕を開始する必要がなかった。 |
たしかに縄文時代の日本は海の幸・山の幸に本当に恵まれている。そのことを指摘するのは良い。だがそのことを記した文章のすぐあとに、「日本列島の住民は、すぐには大規模な農耕を開始する必要がなかった」と記す意味はなんだろうか。
この問いに対する答えは、上の文のすぐあとの文を読むと氷解する。ここには以下のような文章が記されている(p24)。
大陸の農耕・牧畜に支えられた四大文明はいずれも、砂漠と大河の地域に発展した。それに対し、日本列島では、森林と岩清水に恵まれた地域に、1万年以上の長期にわたる生活文化が続いていた。大陸と日本列島とでは、生活条件が異なっていた。違った条件のもとでは、文明や文化は当然、違った形となってあらわれた。かって土器のルーツといわれた西アジア(メソポタミア)の壺は、最古のものでも約8000年前である。それに対し、日本列島では、およそ1万6000年前にさかのぼる土器が発見され、現在のところ世界最古である。・・・(中略・縄文土器)・・・西アジアの土器は食べ物の貯蔵用のものだが、縄文土器は早くから煮炊きに用いられ、底に加熱の跡を残している。このことは大きな規模の農耕生活がなくとも、豊かで発達した食生活が得られることを物語っている。 |
大規模な農耕とは、ヨーロッパ文明の源になったメソポタミア地方の灌漑農耕のことを指しているのであり、そこに都市国家が生まれ、文字と階級とが生まれた歴史的段階のことを「文明」と呼んでいる、あの文明を相対化しようとする立論だったのである。
たしかにこのことを指摘するのは正しい。農耕・牧畜による古代文明の考え方は、農耕・牧畜を持たない生活は『原始的』で『野蛮なもの』『未開なもの』というイメージを伴っており、のちのヨーロッパによる世界征服を、『文明による未開の文明化』と呼んで合理化する思想を生み出した。言いかえればヨーロッパ中心史観。
農耕や牧畜を行わなくても、狩猟や採集だけでも充分豊かな生活を条件によってはすることは可能であり、むしろ農耕・牧畜文化のほうが生活条件は貧しい事もあるのである。
だからここで、「森と岩清水」の自然の恵みに囲まれた縄文時代の生活もかなり豊かなものであり、地球上の各地域の人類の生活は、それぞれの地域の自然条件によって異なるのであり、だからどちらかに優劣をつけていくことは正しくないと主張する限りにおいては、この記述は正しいし、今までの「文明史観」を正すことは必要でもある。
しかしこの立論にも、けっこうとらわれた側面がある。
一つは農耕の発生は、けっしてメソポタミアにおける大規模灌漑農耕がその始源ではない。農耕の始まりは熱帯地方のタロイモやバナナの栽培にこそ求められるべきであり、縄文時代においてもかなり早い時期からヒョウタンやイモなどの熱帯地方の農業の作物を栽培していた事は明らかであり、さらにクリ・マメ・ソバ・アサ・エゴマ・ウルシなどの栽培が行われていたことも、この教科書の次のページである「縄文時代の生活」の項に明記してある。
縄文時代の農耕は、メソポタミアなどの穀物栽培ではなく、熱帯系の農業の特徴である、イモなどの栽培の農耕に属している。この意味で、この教科書の著者たちは、農耕といえば穀物栽培のことという先入観に犯されているといえよう。
またそのメソポタミアの穀物栽培でも、最初から大規模な灌漑農業が行われていたわけではない。乾燥地帯のこの地域では、最初は湧水の存在する所で小規模な穀物栽培がなされていたのであり、メソポタミアの大規模な灌漑施設を伴う農業は、周辺の砂漠化の進行に伴って起きた現象であることは周知の事実である。
むしろ記すべきは、人類は最後の氷河時代が終わり、温暖で水と森の豊かな自然が恵まれた時代に入ると共に、採集経済から、自然の力を利用して食物を自ら育てるという段階に、世界各地で入ったのであり、各地の自然条件の違いにより、さまざまな農作物の栽培が始まり、それが相互に人の移動を伴って伝播し合い、各地にさまざまな「文明」と呼べる段階の生活を生み出したと、記述すべきであったのである。
どうもこの教科書の著者たちは、ヨーロッパ文明に対する敵愾心のあまり、その文明の始源の姿も正確にとらえられないまま、その虚像とも知らずに単純に日本と比較し、ヨーロッパとは異なる日本の独自性を強調することに急であり、その日本の特徴が、アジアやアフリカなどの多くの地域での生活の一部であるということを失念し、「日本は優れた国である」と、叫ぶことに終始している。
これは教科書と言う、未成年の若者たちが、その考えかたの基礎を学ぶための参考資料としては、あまりに不適格な姿といえよう。
なおこの教科書や他の多くの教科書で、縄文時代の代表的な遺跡として、青森県の三内丸山遺跡を挙げているが、これはきわめて危険な側面を持っている。
その一つは、この教科書は比較的押さえ気味に記述し「今までに見つかったもっとも大きな縄文時代の集落あと」と評価し、具体的な住居遺跡の数などは記していないが、この遺跡の発掘報告者が記した「500人居住説」には、今現在、その推定の根拠がないと多くの疑問がよせられており、推定で50人以上を越えない普通の村とも言われている。三内丸山遺跡は「都市」と言われるほどの規模も内容も備えていないのであり、都市の存在しない「文明」は、文明の概念を変更しない限りありえない。縄文文化の独自性を強調するあまり、「縄文文明」と主張することは危険があることを付記しておこう。
(3)農耕と交易に依拠した縄文時代
むしろ「縄文文明」と主張するのであれば、縄文前期である三内丸山遺跡ですでに「人口の栗林」という畑作農耕が始まっている事や、この教科書でも指摘しているように、他の遺跡でも瓢箪の栽培などの畑作農耕が行われていた事と、最初期からの土器の存在、そして縄文後期になると都市的とも言える大集落が存在していることをあげるべきであろう。
さらに、1万年にもわたる時代を、縄目模様の土器という共通項だけでくくる事には無理がある。縄文時代は、早期・前期・中期・晩期の4つの時期に分かれる。そして前期にはすでに畑作農耕が始まっている事が各地で確認されており、晩期になると磨製石斧も出現し、大規模な都市的な集落も出現している。晩期になると「文明」とでも言える段階に着ているのではないか。
こう考えると、古田武彦が、中期末か晩期はじめにあたる紀元前1100年頃に、倭人が中国・周の成王に貢物を献じたという中国の史書の記述は正しいとしていることも一考の余地があろう(くわしくは、古田武彦著「邪馬一国への道標」参照)
さらに、縄文人が中国・周にまで朝貢しているということは、縄文時代における海を通じた交流・交易のネットワークがあったことを予感させる。そしてこれは、北海道の洞爺湖畔の遺跡から貝製の腕輪をした人骨がみつかり、その中に、オオツタノハガイという奄美諸島や沖縄でしか生息していない貝を輪切りにした腕輪が存在するという事実(樋口尚武著「海を渡った縄文人―縄文時代の交流と交易」参照)が示す事である。また、南米エクアドルのバルディビア遺跡から、縄文時代中期の九州有明海地方や関東の三浦半島の縄文土器が多量に見つかっている事実(古田武彦訳「倭人も太平洋を渡った」参照)も、同様のことを示す事実であろう。
縄文人が南方から島伝いに丸木船で日本列島に渡ってきたと考えられているように、この時代からすでに、列島内外にわたる交易のネットワークが築かれていた可能性は高いのである。
また近年の発掘成果によると、縄文時代の初期の中心は北日本ではなく、九州南部にあったことが分かっている。鹿児島県の鹿児島湾沿岸の火山灰の下から、縄文時代初源期の大規模な住居址が多数みつかっており、その村村が大規模なカルデラ形成を伴う火山爆発によって壊滅的打撃を経て後に、西日本の縄文文化は衰退の一途をたどり、縄文文化の中心は東日本に移ったこと。そしてこのことが原因の一つともなって、西日本に最初の稲の栽培が広がったということも、近年の発掘で明らかになっていることも付記しておく。
どうもこの教科書の著者たちは、最近の学問の成果を使うときにも、恣意的に選択をしているようである。
注:05年8月の新版では、縄文時代の記述が大きく変化した(p18・19)。まず旧版で縄文時代が、ヨーロッパ文明や四大文明と比肩するほどの文明であるという主張は全面的に削除された。そしてこれと関連するのだろうが、旧版では縄文時代の前に置かれていた「文明の発生」が縄文時代のあと弥生時代の前に置かれ、人類の始まりの記述は、旧石器時代で留められている。また、縄文人が、南方東南アジアから島伝いに移動してきた人々が、旧石器時代に北方から移動してきた人々と合流して成り立ったものであるという、縄文人・縄文文化のルーツとも言える事実を、比較的きちんと記述するようになった。旧版と比べると、比較的落ち着いた学問的記述である。
だが、縄文時代を旧石器時代という位置付けで良いのか。前期末には様々な「畑作農耕」が行われていた事は確かだし、そもそも縄文土器の存在と合わせて見ると、縄文時代の前期末には、この文化が新石器文化の段階に入っている事を示しており、後期には磨製石器も登場しかなり大規模な村落=都市的なものも出現しているのである。「縄文文明」という主張を削ったことで、かえってこの教科書の縄文文化についての認識は、学問的にも後退していると思える。
さらに、記述の最後に論証なしの主張が挿入されていることは問題である。それは、「自然と調和して生活した約1万年間の縄文時代には、日本人のおだやかな性格が育まれ、多様で柔軟な日本文化の基礎がつくられたという側面もある」(p19)というものだ。「自然と調和」とあるが、三内丸山遺跡で明らかなように、縄文人は前期末には森林を伐採し人工的に育てた栗林を持っていた。言うなれば「畑作農耕」の開始だ。これを「自然と調和」という一言で片付けて良いのか。そして確かに日本文化の基層には縄文文化が存在しつづけているのだが、その例をあげることなく、「おだやかな日本人の性格」「多様で柔軟な日本文化」が作られたと主張する事は、新版でも形を変えて、歴史の独善的評価がなされていることの例である。
注:この項は、森川昌和・橋本澄夫著「鳥浜貝塚:縄文のタイムカプセル」(読売新聞社1994年刊「日本の古代遺跡を掘る1」)、梅原猛・安田喜憲編著「縄文文明の発見:驚異の三内丸山遺跡」(PHP研究所1995年刊)、古田武彦著「邪馬一国への道標」(1982年角川文庫刊)、樋口尚武著「海を渡った縄文人―縄文時代の交流と交易」(1999年小学館刊)、古田武彦訳「倭人も太平洋を渡った」(1987年八幡書店刊)、隈元浩彦著「私たちはどこから来たのか:日本人を科学する」(毎日新聞社1998年刊)などを参照した。