「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判A


 2.国家の興亡と国家統治論に終始した「中国の古代文明」論

 中国の古代文明は、 日本古代に大きな影響を与えた文明である。そしてその文明における社会経済史的発展に基礎を置いた巨大な国家の出現は、周辺の諸民族、とりわけ東アジアの朝鮮・日本には巨大な脅威となり、それぞれの地域の諸民族に独立のための「改革」をつきつけた。
 すなわち、中国の進んだ国家統治システムを取り入れて国家的統合を進め、中国の作り出す国際秩序の中にいかに自分を位置付け、それと共存して行くかが、周辺諸民族にとって大きな問題となったのである。
 そしてその「改革」は常に、外からの脅威に対抗するためのものであり、そこで取り入れようとした国家統治システムは常に、その民族の社会経済上の段階に適応したものではなく、しばしばその社会経済上の状態からくる人々の諸要求とはかけ離れたものとなり、国家統治システムと当該地の社会経済の現状とのすりあわせ、適合化が必要とされた。つまり、中国の脅威に対して、中国の国家統治システムを導入して国家的統一をはかり強化することで民族の独立を守ろうとすると、必ずそこに内部対立が生まれ、その調整のためには「内戦」すらが必要となったのである。逆に中国における社会経済上の変化が、そこにおける国家の分立という状況を生み出せば、周辺諸民族に対する中国の脅威は緩和され、周辺諸民族における国家的統一の必要性も薄れ、そこでも国家の分立または、権力の多元的分立という状況が生まれたのである。

 したがって、中国文明のありさまを記述するときは、それが中国のどのような社会経済上の状態から生まれたのかという視点を欠くと、その中国の状態が周辺諸民族に与えた影響の意味を充分には捉えられず、ともすると国家の興亡史のレベルに問題が歪曲化されてしまう。

 この観点で「新しい歴史教科書」の中国古代文明の記述を見ると、まさに社会経済史の視点を欠いていて、国家の興亡と国家統治システムの変遷を描いただけのものになっている。

  (1)社会経済の変化と切り離された、春秋戦国政治史の移り変わり

  たとえば殷・周から春秋戦国時代は、以下のように記述されている(p26)。

 紀元前11世紀ごろに殷はほろび、かわって周が中国を支配した。周は一族や家臣に領地を与えて地方を治めさせるという、のちの封建制度に似たシステムを用いた。紀元前8世紀のはじめ、周は衰え、それからいくつもの国がたがいに争う内乱の時代が始まった。これは数百年も続き、春秋戦国時代とよばれる。この長い戦乱の時代に、多くの思想家があらわれ、どうすればよい政治が行われるかを論じ、各国の宮廷を説いてまわった。彼らを諸子百家という。

 ふつうの教科書ならここに『このころから鉄器や貨幣が使われはじめた』という一文が入り、この春秋戦国時代と言うのが鉄器の普及による農業生産の発展と、それにともなう大量の余剰生産物の出現により、貨幣を仲立ちにした、商品経済の段階に到達していた事がわかるように記述されている。
 もっともこれでも記述は不充分である。なぜならこのような商品経済の発展に伴って社会がどう変化し、そのことと諸国家の分立ということがどう関係しているかということが、この記述では理解できないからである(教科書の記述は、それを考える基礎資料と考えればそれでもよいのだが)。

 事実は春秋時代にはじまった鉄製の犂を馬や牛に引かして田畑を耕す農法の普及と国内交通の発達が大規模な商品生産を支え、各地に今日的な意味での商品生産・流通の拠点としての都市が発達した。そして国家はこの変化に対応して貨幣を発行するようになり、貨幣が物事の全てをはかる価値尺度となる社会が生み出される。そしてこれに対応して、殷・周・春秋時代をつうじて支配的であった、氏族的結合を基礎とする村の形態が崩れ、独立した土地を持った小家族が主体となり、その中から大規模な土地をもった「豪族的」な人々も現れ、旧来の氏族の指導者であった諸侯・士大夫層とはことなる「富豪」層が形成され、それが各国の政治をも動かすようになったのである。

 このことを記述しておくと、日本の歴史を理解する上で、どんな利点が生まれるのであろうか。

 周の国家制度は、形は封建制度に似てはいるが、実質は周王族やその家臣がそれぞれの氏族の長としての結合の上にたった状態を基礎としてそれぞれの氏族共同体の連合と支配・服従の関係をつくり、その関係を周王室が秩序付けると言う形で行われていた。日本でいえば「大和国家」の段階における「氏姓制度」と同じようなものである。つまり紀元前11世紀から紀元前6世紀ごろまでの中国の社会の形態と、紀元後4〜7世紀頃の日本の社会の形態はほぼ同じなのである。いいかえれば、中国と日本とでは1000年以上もの社会発展の段階に開きがあったことがこれでわかるのである。

 さらにこれは中国と日本との国家統治システムの段階の差もよく示す。
 後に述べる「魏志倭人伝」に描かれた紀元後3世紀の日本の国家統治システムは、中国に到った倭人の使節が自らのことを「大夫」と称していることからもわかるとおりに、中国の周の政治制度を取り入れたものであった。つまり中国では紀元前6世紀の戦国時代には崩れ始める制度が、日本では紀元後2世紀になっても生きていたのである。

 周・春秋戦国時代の政治と社会との関係を「諸侯・士大夫」「鉄と貨幣」「氏族社会の崩壊」というようなキーワードを用いて簡潔に記し、後の「邪馬台国」の項で、倭国の政治制度が周と非常に近いものである事がわかるような記述や資料を入れておけば、日本と中国の社会経済と国家の発展の段階のずれと相互関係を、そこから認識でき、そこから「進んだ強大な国・中国」の脅威と、「遅れた・統一されていない日本」がそれを恐れいかに行動したのかという、古代日本における統一国家形成の問題を、深く認識できる基礎を、学ぶことが出来るのである。

 しかしこの「新しい歴史教科書」は、この観点はまったくない。政治史・文化史と、社会経済史とを統一的に把握しようとする視点は完全に無視されているといえよう(日本においてこの問題がどうなっているかは,後に述べる)。
 これでは戦前の皇国史観に基づく国定教科書における歴史叙述と、観点はほとんど同じになってしまう。「新しい」教科書が、実は「とても古い」形態を持っていることを証明する、一つの証拠でもある。

 そしてこのような「政治至上主義」とも言える記述姿勢は、その記述の相対的な正しささえも、その効果を限定し、無にきせしめてしまう。
 たとえば以下のような儒教に対する評価である(p26)。

 その中の一人である孔子は、仁愛(思いやりの心)を説き、道徳と礼(礼儀に基づくおきて)で人を導けば、天空の全ての星が北極星を取り巻きながら整然と動いているように、政治は万事うまくいくと述べた。・・・・(中略)・・・・しかし、人間の性質はもともと善であるとするこの考えは、楽天的すぎて、実際の政治には必ずしも役に立たないと反対する思想家もいた。

 一つの思想を異なる視覚から評価することは、歴史を客観的にとらえるには不可欠な視点である。しかし、この「性善説」「性悪説」の対立の背後には、商品・貨幣経済の発展にともなう、氏族社会の分解と変質、氏族共同体から小家族への社会の変化が存在したことを付さないと、この記述は単に、ものごとにはいろいろな見方があるという「相対主義」に陥ってしまう。

 「性善説」には古き良き共同体の道徳への憧れという側面が存在し、「性悪説」は、氏族共同体とその崩壊は、その集団的道徳の崩壊でもあるという現実に即した側面があり、このことが「性善説」を理想主義に、「性悪説」を法による規制へと動かした背景としてあることが、上の記述ではわからなくなる。
 もしかしたらこの記述は、「新しい歴史教科書をつくる会」の人々が、この教科書の「歴史を学ぶとは」の所で披瀝した「歴史的相対主義」にともなうののであるのかもしれない。

  (2)「国家統治論」に止まった「秦・漢の中国統一」論

 上に述べたのと同じことが、次の「秦・漢の中国統一」の所でも言える。

 秦・漢の統一は、戦国時代を通じておきた商品・貨幣経済の発達が、狭い国家の枠におさまりきれなくなって起きたことである。だから普通はここでは秦による統一を述べたあとで、始皇帝のなしたこととして『郡・県制の導入・ます、ものさし、貨幣の統一』という項目が並べられ、秦による統一が商品・貨幣経済の発達の帰結である事が示唆されている。そしてここでの中国の国家的統一が、中国における商品流通の一層の発展を促した事の象徴として、「シルクロード」を通じた東西貿易の進展をあげるのが普通である(なお、秦による中央集権的国家制度の導入は、中国の社会経済の発展を先取りしたものであったため、氏族的結合にも依拠していた旧勢力の反発を呼び、このため秦は僅かの年月で滅び、かわって中国を統一した漢王朝は、氏族的結合を基礎とした「封建制度」と、国のレベルを超えた商品・貨幣経済の発展に対応した中央集権的国家の制度である郡・県制度の折衷という形で国家統一をなしとげた。つまり漢による統一は、商品・貨幣経済による氏族社会の分解の途中段階での成立であることは、どの教科書にも記されていない)。

 しかし、この教科書では、「郡・県制、ます、ものさし、貨幣の統一」については記述されているが、結果としても商品流通の拡大の象徴である東西貿易の問題にはまったくふれず、かわりに、秦と漢における国家統治思想の問題に多くのページを割いている(p27)。

 紀元前221年。秦の始皇帝が始めて中国を統一した。始皇帝がいちばん参考にしたのは孔子ではなく、韓非子が代表する法家の思想だった。人間の性質はもともと悪であるから、強い刑罰をもって秩序を守らなければならないとした彼の思想に基づいて、始皇帝は厳しい政治を行った。・・・(中略)・・・ 紀元前202年に中国統一を受け継いだ漢は、それから約400年も続く大帝国を築いた。漢は見事に整備された官僚国家で、約5000万の人民を、約15万人の官僚が統制した。表向きは孔子の徳治思想をかかげ、現実には韓非子の刑罰思想で統治するという、理想と現実を使い分ける発達した政治意識がみられた。

 たしかに統治思想の違いと言う面で記述すればこのとおりである。そしてこの違いは重要である。しかしなぜ漢帝国が表向きの徳治思想と現実の刑罰思想という二つの顔を使い分けたかを、当時の社会経済政治状況との関係で理解する手がかりは、まったくない。
 秦の始皇帝の支配に抵抗した氏族的結合に依拠した諸侯たちの力なくして漢による統一はありえなかったため、これらの「封建」諸侯層をもかかえこんでいくための統治思想の2重化であり、統治システムとしての郡・県制と、統一の「功臣」を王として報じた国の併存であったのである。

 この社会経済政治上の背景を押さえないで、統治システムにおける原理の2重化を詳述すれば、それは「本音と建前」の使い分け的な、恣意的なレベルに問題が矮小化されてしまう危険がある。

 この教科書の著者たちが、社会経済史と政治史・文化史とを統一的にとらえようとする視点が全く欠けていることの最初のあらわれが、日本の古代国家の形成に大きな影響を与えた、古代中国文明の記述の所で、見事に暴露されてしまっている。

 かれらの政治主義が、歴史をかたよった視点からしか見られなくしている好例でもある。

注:05年8月の新版では、この項目からも旧版の特徴はなくなっている(p23)。すなわち旧版では「政治思想史」的な記述が多かったのだが、それは全面的に削除され、単に事実を項目的にあげるという、従来の教科書と同じ内容となっている。旧版の内容は政治史に偏っていたとはいえ、歴史を評価する姿勢の現われであった。これを全面削除してしまっては、「つくる会」が主張する歴史の学び方、つまり「単に事実を確認するのではなく、過去の人がどう考え、どう悩み、どう問題を乗り越えてきたのか」を実践することができなくなる。ここが外国の歴史だからそれでも良いということか。


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