「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判I


 10.幻の「聖徳太子の独自外交」

 古代の日本の第3節の「律令国家」の成立は、最初に「聖徳太子の新政」という項目で開始される。そしてその前半部である「聖徳太子の外交」という項で、新しい歴史教科書は次の様に高らかに宣言する(p45)。

 わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない―これが、その後もずっと変わらない、古代日本の基本姿勢となった。

 この本の著者たちは、古代日本の王が中国の皇帝に対して臣下の礼をとり、日本が中国の属国であったことが気に入らないらしくて、これまでの記述でもさんざんこの主張を繰り返してきた。しかしそう判断する資料に欠ける所に問題があった。

 だがここで、「日本は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない」と主張する根拠が見つかったというわけだ。それが聖徳太子の外交姿勢にあらわれているという。

 教科書の記述を見よう(p44)。

 太子は593年。女帝である推古天皇の摂政となり、それまでの朝鮮外交から、大陸外交への方針転換を試みた。朝鮮を経由せずに大陸の文明を取り入れることも大切で、太子は607年、小野妹子を代表とする遣隋使を派遣した。しかし、日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うような道はさけたかった。
 そこで、太子は隋あての国書には、「
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」(日が昇る国の天子が、日が沈む国の天子にあてて書簡を送る。ご無事にお過ごしか)と書かれた。遣隋使は隋からみれば朝貢使だが、太子は国書の文面で対等の立場を強調することで、隋には決して服属しないという決意表明を行ったのだった。隋の皇帝煬帝は激怒したが、高句麗との抗争中なので忍耐した。

 そう。日本書紀の推古朝の大唐(日本書紀には隋ではなく大唐と書かれている)への貢献記事と、隋書に見られる倭の貢献記事とが同じと考えると、この「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書は、日本と中国とを対等と主張しており、極めて異色である。そしてこの教科書の著者たちはこの事を持って、「日本が中国には服属しない」と宣言したと解したのであった。

 「愛国の人・聖徳太子」というわけである。

 しかしはたしてそうなのであろうか。原典資料にあたってみると、これが大きな間違いなのである。

  (1)矛盾する二つの国書!

 実は、あの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書は、日本書紀には載っていない。そのかわりに日本書紀には推古天皇の国書が載っている。しかし二つの国書を比較すると、その内容と姿勢に大きな違いがあることに気づく。

 日本書紀の国書は以下のようである。

「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使人鴻臚寺の掌客裴世清らがわが国に来り、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうが。お変わりはないでしょうか。当方は無事です。」

 前記の国書とは大いに趣を違えている。

 日本書紀では前年の推古15年に大唐に送った小野妹子が翌16年春に帰朝し、そのときに一緒にきた使いの裴世清がもたらした皇帝の国書にたいする返礼として、推古天皇が使いに持たせた国書ということになっている。ということは、この国書は、先の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書に対する皇帝の返書へのさらなる返書という関係になり、一連のものということになる。

 だが本当にそうだろうか。前の国書では双方を「天子」とし、中国の皇帝と日本の「天皇」は対等といっている。しかしあとの国書では日本の天皇の方が明らかに下であり、とてもへりくだった態度である。とても一連の往復書簡とは思えないのである。

 そして「久しく国交を求めていたわが方の思いが解けた」という言い方も変である。隋とは始めてかもしれないが、紀元前から長い間中国王朝と国交を結んできた倭国の王の国書としては意味が通じないのである。

  (2)隋の皇帝の返書はない!

 また、隋書たい(人偏に妥の字。読みは「たい」。おそらく大倭か。)国伝では、先の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書に対して激怒した隋の皇帝煬帝は、たい国王に返書をあたえなかった。代わりに使人の裴世清が口頭で、「皇帝、徳はあめつちに並び、澤は四海に流る。王、化を慕うの故をもって、行人を遣わして来たらしめ、此れに宣諭す」と、たい国王に述べさせている。とりあえず、皇帝はたい国王が隋の皇帝の徳を慕って朝貢してきたとみなして、友好関係は維持するという態度であった。

 しかし、日本書紀では、皇帝の返書を使人裴世清が天皇の前で読み上げたことになっている。

 皇帝から倭皇に御挨拶をおくる。使人の長吏大礼蘇因高羅が訪れて、よく意を伝えてくれた。
 自分は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を広めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。時節はようやく暖かで私は無事である。鴻臚寺の掌客裴世清を遣わして送使のこころを述べ、あわせて別にあるような贈り物をお届けする。

 なんと中国の皇帝は天皇の使節が来た事を最大級の歓迎の言葉で誉めちぎっている。たい国王に対する隋の皇帝煬帝の態度とは雲泥の開きがあることは明白であろう。

   (3)一方は『倭国』の隋にたいする、他方は「大和王朝」の唐に対する遣使!

 隋の大業3年(607年)のたい国王の遣使の記事と、日本書紀の推古15年の遣使の記事とは、別の国に対する別の国の遣使の記事だと解するのが正しい。607年に隋の皇帝に日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書を送ったのは「大和天皇家」の王ではない。紀元以前から日本列島を代表する王者である「九州天皇家」=「倭王朝」の遣使なのである。

 そして推古15年の推古天皇による中国への遣使は、日本書紀に書いてあるように「大唐」に対する遣使と解するのが正しい。

 おそらくそれは古田武彦が主張するように、607年ではなく619年のことであったろう。そして619年とは唐が隋を亡ぼし唐朝の成立を宣言したが、まだ国の内外に中国を代表する王朝とは認められていないときであった。

 だからこそ唐の皇帝は、天皇の遣使に対して最大級の賛辞を送ってきたのである。またそのような微妙な政治的時期を選んで、推古朝は中国に使いを送ったといえよう。

 長い間の懸案であった、倭王朝とは独立して中国王朝と独自に好を通じるという計画を実現するために。

   (4)「日出る処の天子」は「聖徳太子」ではない!

 したがってこの教科書が先の国書を持って「聖徳太子が独自の外交を展開した」とすることは、大いなる間違いなのである。いや、歴史の捏造なのである。ただしこれは新しい歴史教科書の著者たちのオリジナルではない。歴史を捏造したのは日本書紀の著者たちである。

 日本書紀の著者たちは推古15年の遣使が隋に対する遣使であったかのごとく装おう爲に、わざわざ書紀の本文に、大使小野妹子が隋の皇帝煬帝の国書を紛失したという記事を載せている。煬帝の国書はそもそもないのだから余計な造作ではあるが、あの中国王朝と対等を主張した国書の存在は奈良朝の当時においても有名な事であったのだろう。隋書を読んだ事のない者には、「煬帝の国書」と書くだけで、あの有名な国書にたいする返書と勘違いさせるには充分であったのだろう。しかし隋書を読めば返書はなかったことは明白で、この嘘はすぐばれる。

 日本古代史の研究者の多くは、「日本を代表する王朝は大和天皇家である」という命題を信じきっていたために、この日本書紀編者のみえみえの嘘を見ぬけず、無理矢理「日出る処の天子」を「聖徳太子」としてしまったのである。

ではこの「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書の主は誰か。

 隋書たい国伝にはっきりと書いてある。その王の名は「多利思北孤」(たしりほこ)である。そして彼の姓は「阿毎」(あめ)=「天」。アメノタリシホコである。そして王の妻は「きみ」と号し、後宮には6・700人の女がおり、太子は「利歌彌多弗利」という。
 そしてたい国について詳しく記したあと、その代表的な山として阿蘇山をあげ、それが活火山であることなどに触れている。

  隋の使いは隋書にあるようにたい国王と会っている。その記録を元にした記事であろう。ならば「皇太子」にすぎない「聖徳太子」を王と見間違うことはない。

 「日出る処の天子」は、九州の王。倭国の王であったのである。

 「日本は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない」として独自の外交を展開した「愛国者・聖徳太子」というこの教科書の主張はまったくの虚妄であったのである。そして日本書紀に見る唐帝国との外交記事を読めば、「大和天皇家」の外交方針は、「日本は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない」などというものではなく、全くの朝貢外交であったのである。

    (5)なぜ九州王朝は独自外交を展開したのか?

 では最後になぜこの時期、九州の倭国は中国隋王朝と対等な外交を展開したのかを考察しておこう。

 それはこの教科書が強調するように、6世紀末における東アジア情勢の急変に原因があるのである。教科書の記述を読もう(p40)。

 ところが570年以降になると、東アジア一帯に、それまでの諸国の動きからは考えられない事態が生じた。高句麗が突然、大和朝廷に接近し、引き続いて、新羅と百済が日本に朝貢した。三国が互いに牽制しあった結果だった。その後さらに、589年に中国大陸で隋が統一をはたした。これが新たな脅威となって、三国はより日本に接近した。任那から撤退し、半島政策に失敗した大和朝廷だが、こうして再び自信を取り戻したと考えられる。

 この文章の「大和朝廷」や「日本」を倭国と置き換えて読もう。

 6世紀末の東アジア情勢の急変とは、中国で数百年ぶりに統一王朝ができ、それが朝鮮半島や東の島嶼地域に侵略を開始したからである。

 隋は陸続きの高句麗に何度も侵略軍を送ると共に、遠く琉球にも侵略軍を送り、東アジア全体を帰服させよとうとはかった。東アジア全体に緊張がはしったのである。隋に服属するのか、それともそれと敵対し独自の道を歩むのか。

 倭国は独自の道をとった。だからこそ、中国の侵略におびえた朝鮮半島の諸国は倭に接近したのである。

 ではなぜ倭国は独自の道をとったのか。それは隋王室の出自にあった。隋を築いた揚堅は、北方の部族である鮮卑族が築いた王朝である北魏の武人であり。北魏王室の外戚となった人物であり、漢民族出身ではなかった。いわば夷人なのである。夷人出身の王が中国皇帝を名乗った。本来臣下であるはずの者が漢民族の正統王朝である陳を滅ぼし天子を名のっている。そして皇帝の名の下に朝鮮半島を支配しようとしている。彼も夷人なら我も夷人。彼が天子を名乗れるのなら我も天子を名乗ろう。そして隋と対抗して朝鮮半島の勢力圏を守ろう。

 おそらくこういう判断なのではないだろうか。

 この思いが先の国書日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」に結実したのであろう。

   (6)すでに「律令」をもち「仏教」を取り入れていた倭国

 そしてこう判断する根拠の一つに、倭国はすでに長い中国との通交関係を下に、中国の進んだ政治制度と文化を取り入れているという事実がある。

 あの6世紀初頭に「大和朝廷」の王である継体(天皇)の反乱にあって殺された倭国の王・筑紫の君磐井の墓には「衙頭」という場所があることを、筑後の国風土記が記している。

 東北角に当り、一別区あり。号して衙頭という。@衙頭は政所なり。その中に一石人あり。従容として地にたてり。号して解部という。前に一人あり。裸形にして地に伏す。号して偸人いう。A猪を偸むをなすを生ず。よりて罪を決するに擬す 側に石猪四頭あり。臓物と号す。B臓物は盗み物なり。 彼の処にもまた、石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。

 この「偸人」とか「臓物」というのは漢語の法律用語である。そして解部とは裁判官。おそらく成文法に基づく裁判が行われていたと見て間違いあるまい。中国で言えば「律」の存在である。

 また隋書の倭国の使者の口上として

  聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。ゆえに遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ。   

  という言葉がある。

  すでに仏教が定着したくさんの僧がいるのである。仏教を取り入れるか否かで戦争すら起きている「大和」とは大違いである。

  そしてもう一つ、倭国が中国文明を大いに学んでいた事の証を一つ。それは倭国の首都である「太宰府」の名前である。太宰府の太宰(たいさい)とは古代中国の官名で、「天子を補佐して政を司る人」という意味であり、日本では摂政の唐名としている。つまり天子に代わって政治を行う人という意味であり、太宰府とは、その太宰が政治を主催する役所という意味である。
 つまり倭王は中国の政治の仕組みを熟知していた。そして中国の正統王朝に対して、その天子にかわって東の蛮族をおさめるものとの自負を持っていたといえよう。

 だからこそ、蛮族出身の隋王朝が成立したとき、その隋と対等の外交を結ぼうとし、それが拒否されてしかも隋が琉球を侵略するにおよび、倭国は隋との国交を断ってしまったのである。

 そしてこの態度は隋にかわって中国を統一した唐に対しても同じである。卑屈なほどに唐王朝にへりくだって朝貢する「大和朝廷」と、唐王朝とも対決し、そのまま唐王朝と戦火を交えて大敗北を喫してしまう倭国。この違いはすでに中国文明を取り入れて国造りをしていた倭国と、これから中国文明を取り入れようとする「大和」の違いとして、隋・唐王朝との付き合いかたが違っていたのである。

 「聖徳太子の独自外交」という設定は、全くの幻だったのである。 

注:05年8月の新版では、第3節の記述の順序を入れ替え、旧版では最初に書かれていた「聖徳太子の外交」を2番目に置き換え、「遣隋使と『天皇』号の始まりと改題した(p36・37)。記述の大要は旧版と同じであるが、旧版が有名な「日出る所の天子・・・」で始まる国書だけをあげて聖徳太子の「独自外交」を叙述したが、新版では、この記述に続けて、日本書記に推古15年のこととして「大唐」に対する推古天皇の国書として記述されている「東の天皇・・・」で始まる国書について記述している。そして「日出る天子・・」の国書で中国皇帝の怒りを買ったので今回は表現を和らげて「東の天皇・・・」との国書に代えたのは、「皇帝の文字をさけることで隋の立場に配慮しつつも、それに劣らない称号を使う事で、両国が対等であることを表明した」と説明した。

 この改変は、旧版の記述が隋書にだけ拠っていたのを改めて、日本書記の記述も引用する事で、古代史学会の通説に寄り添う形にしたものである。その上でこの「聖徳太子」の行為は、「日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失う事はさけたい」という判断だったと主張し、「聖徳太子の独自外交」という立場だけは守ろうと言うことである。

 しかしこの改変でも歴史の偽造である事は変わらない。むしろ定説に寄り添うことで、さらなる歴史の偽造を重ねているのである。新版の「聖徳太子の新政」には、「600年、聖徳太子は、隋に使者を送った」として初めての遣隋使の様を記述している。しかしこれは隋書に書かれた記事で、日本書紀にはない。ということはこれは倭国のアメノタリシホコが最初に送った使節であるということだ。これを太子の最初の遣隋使ということにして、次の「遣隋使」の項で、607年の「日出る所の天子・・・」の国書を持った派遣を2度目のもの。そして翌年608年の3度目の「東の天皇・・・」という国書を携えたものを3度目の遣隋使としたのだ。これもひどい偽造である。ここで608年の派遣とされているものは日本書紀に書かれていたように「大唐」に対する大和朝廷の派遣であり、おそらくこれは619年の出来事だからである。そして「天皇」と「皇帝」を対等な称号とすることも完全な嘘である。そもそも天皇という語は中国では、道教系の神の称号で北極星を神格化したものであり、中国皇帝が天皇と称したこともない。天皇と皇帝・天子は別次元の言葉なのである。おそらくこれは、倭国の王が以前から天皇と名乗っていたことに依拠した用語ではないか。すでに百済の史書に、「日本の天皇」という用語があり、これはかの筑紫の磐井(6世紀初頭の倭の王)のことと推定されている。「東の天皇・西の皇帝」という用語は、国内的な用語と国際的な用語を混在して使ったのであり、この時の大和の王と中国皇帝との関係が対等な関係にはなく、大和が唐に朝貢する形であったことは、日本書記の記述でもあきらかである。「つくる会」教科書は、ここでも新たな歴史の捏造を行っているのである。   

 さらに新版では、推古天皇の国書とされた「東の天皇・・・」原史料を掲載し、かつ「中国の『皇帝』と日本の『天皇』」と題する「歴史の言葉」解説を掲載している。それは以下のようである(p37)。

 「皇帝」という君主の称号は、秦の始皇帝以来、中国の歴代の王朝で使われた。周辺諸国は、皇帝から「王」の称号をあたえられることで、皇帝に服属した。日本も、かつて、「王」の称号を受けていたが、それをみずから「天皇」に変えた。
 皇帝は、力のある者が戦争で旧王朝をたおし、前の皇帝を亡き者とする革命によってその地位についた。中国ではしばしば革命がおこり、王朝が交代した。それに対し、天皇の地位は、皇室の血筋にもとづいて、代々受けつがれた。
 皇帝は権力を一手に握っていたが、日本の天皇は、歴史上、権力からはなれている期間のほうが長かった。政治の実力者は時代によってかわったが、天皇にとってかわった者はいなかった。日本では、革命や王朝交代はおこらなかった。

 たしかに「倭王」から「日本の天皇」に称号を変えたことには、中国王朝からの独立志向が示されている。しかしこれは中国皇帝が夷人出身という特殊な状況で生まれたものである。そして天皇が中国では北極星の化身としての神であったことは、神の子孫という日本での天皇の継承に適合した使い方と考えられたのであろうし、中国でしばしば革命が起き、王朝の交代があったことへの予防措置であったことはたしかである。

 だが日本の歴史上で、天皇にとって代ろうとした者はいたし、王朝の交代はあった。王朝の交代は、倭王朝から大和王朝への交代があるし、大和の中の歴史でも、幾度もの王朝の交代があったことは、古事記・日本書紀ともに記していることである。また天皇にとってかわろうという者は、後にこの教科書の旧版でも記述されたように、足利義満があった(新版では削除されている)。さらには織田信長がそうであったし、徳川家康もそれを試みている。新版の記述は、天皇が出てくる最初の所で、すでにこうした歴史の捏造をして、天皇のもっている至高の価値を読者に刷りこもうとしているのである。

注:この項は、前掲古田武彦著「失われた九州王朝」、「古代は輝いていたV:法隆寺の中の九州王朝」(朝日新聞社1985年刊)などを参照した。  


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