「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判J


 11.「盗用」の結果である、「聖徳太子の政治」

 さて新しい歴史教科書は、聖徳太子の外交という項で、「日本外交の独自性」を述べた後、聖徳太子の政治が、いかに優れていたかを述べている。教科書の記述を見てみよう(p45・46)。

 聖徳太子は、仏教や儒教の教えを取り入れた新しい政治の理想をかかげ、それにしたがって国内の政治の仕組みを整えようとした。(中略)聖徳太子は、蘇我馬子と協力しながら政治を進めた。仏教への信仰をまず基本に置いた政治だった。太子は、生まれや家がらではなく、すぐれた仕事をした人を評価する冠位十二階を定めて、役人の冠を色で区別した。これは豪族たちをおさえ、天皇中心の体制をつくるためだった。儒教の教えも取り入れられたこの冠位は、豪族の生まれや家柄を尊重した今までの氏姓制度に取ってかわろうとする点で、革新的だった。また、太子は同じ精神から十七条の憲法を定め、天皇と役人と民衆の役割の違いを強調した。それぞれが分を守り、「和」の精神をもってことにあたるべき心得を説いた。

 これはどの教科書にも書いてあり、揺るぎ無い事実であるかに思われているが、そうではない。結論を先に言えば、日本書紀の聖徳太子の事跡は、すべてある書物に載っている他の人物の事跡を盗用したものなのだ。

 それは何か。

  (1)「天子」と臣下の別を説いた十七条憲法

 聖徳太子がつくったとされる十七条憲法を良く読んでみよう。そこでは君と臣下の別を説き、君主に従うべきことが強調されている。たとえば以下のように。

 三に曰く。詔を受けたら必ずつつしんで従え。君を天とすれば臣は地である。天は上を覆い地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。もし地が天を覆うようなことがあれば、秩序は破壊されてしまう。それゆえに君主の言を臣下がよく承り、上が行えば下はそれに従うのだ。だから詔を受けたら必ず従え。従わなければ結局自滅するだろう。
 十二に曰く。国司や国造は百姓から税をむさぼってはならぬ。国に二人の君はなく、民に二人の主はない。国土のうちの全ての人々は、みな君を主としている。使える役人はみな王の臣である。どうして公のこと以外に、百姓からむさぼりとってよいのであろうか。

 ここでいう『君』とは天子のことである。君臣の別と言うのも、一般的な君主と臣下の問題ではなく、天子と臣下の問題である。したがって三にいう詔とは「天子の命令」の意味であり、天子の命令には従えと言っているのである。。そして十二の『王』は一国の君主のことであり天子のことである。 だから十二は、この国土はみな天子のものであり、役人はみな天子の臣下であると言っているのである。

  (2)「諸臣」に推薦されて選ばれる「大和大王」

 聖徳太子は「天子」であっただろうか。いや違う。彼は大和の「大王」ですらない。そして彼が摂政になった理由や彼の死後の状況を見れば、天下が彼のものであり諸臣が彼の命令になびくという状況でなかったことは明白である。

 河内祥輔の研究で明らかになったように、奈良時代までの「大和」における「大王」位の継承は、一定の条件をもった皇族の中から、諸臣が候補者を選び選定するというものであった。そして同じ条件の候補者が並び立ったときは支持者も含めた戦争で決着がつけられたのであった。

 その条件とは「父も母も『天皇の子ども』である」というものであった。

 大王の力はまだ諸豪族を凌駕したものではなかったのである。

  (3)「十七条憲法」は聖徳の作ではない!

 聖徳は本来「天皇」位を継ぐべきものではなかった。なぜなら彼の父の用明は父こそ「天皇」であったが母が氏族の出であったので、本来なら「天皇」位を継ぐ事はなかった。用明が位を継いだのは、両親とも「天皇の子」という、当時の大和の「天皇位」継承の条件をそなえた兄・敏達が若くして死に、しかも「天皇」直系を継ぐべき、両親ともに「天皇の子」という条件をもった息子・竹田皇子が成人しないままに死んだからであった。

 大王位を継ぐべきものが若いので、とりあえず竹田皇子が成長するまでの中継ぎとして用明は天皇位についた。しかし彼も若くして世を去り、諸臣はとりあえず用明の弟を中継ぎとして位につけ、竹田成長をまった。しかし竹田は若くして死去し、あらたに次代を継ぐ候補者を選びにかかるしかなかった。

 そしてその中から候補者として選ばれたのが聖徳であり、彼は天皇の娘を后にして、「両親ともに天皇の子」という次代の大王を作ることが期待された。したがって次の大王が決まったので、その後継をじゃまする可能性のある大王崇俊は、諸臣の合意の下で殺害された。

 聖徳が選ばれたのは、彼が両親ともに天皇の子という条件を持っていたからであろう。だが彼には同じく両親ともに天皇の子と言う条件を持つ息子がいなかった。だから彼が位を継ぐには次の世代をもうけるという条件が諸臣によって課せられたであろう。そして彼に権威を与え、彼を後見する者として敏達の后であった推古が位を継いだ。

 しかし彼はその任を果たせなかった。それゆえ彼は位を継ぐことなく死んでしまったのである。そして推古もまた死んだ。結局また大王を継ぐべき系統が決まらないまま、問題はまた振り出しに戻ったのである。ここに敏達の孫の田村の系統と聖徳の子の山背大兄の系統の大王継承をめぐる殺戮戦争が始まる(このような流れに決着がつき、皇太子という継承者をあらかじめ決めるようになったのは天武以後である)。

 大和の大王はとても「天子」といえるような臣下を超越した権力は持っていなかったのである。ましてその大王でもなかった聖徳に、「天子」たるべき権力はなかったのである。

 そのような聖徳が「十七条憲法」を出せるはずがない。

  (4)誰が十七条憲法を出したのか?

 では、誰が『天子』として十七条憲法を出したのか?。

 思い出して欲しい。あの「日出る処の天子・・・・」の国書を。

 これを書いたのは聖徳太子ではなかった。アメノタリシホコ。北九州は太宰府に都を置く、倭国の王。日本の歴史上、「天子」を自称したのは彼がはじめてであった。

 7世紀の日本に「天子」として諸臣に君臨する事ができたのは彼以外にない。十七条憲法はアメノタリシホコが作ったのであり、日本書紀の記述は、アメノタリシホコらの倭国の歴史を書いた『日本紀』という書物から、日本書紀の著者らが盗用したのである。

  (5)冠位十二階を定めたのは誰か?

 では、冠位十二階を定めたのは誰であろうか?

 この隋書のアメノタリシホコのことを書いた倭国記事の中に、日本書紀の推古紀にある、聖徳太子が定めたといわれる「冠位十二階」と同じ記述がある。

 従来はこの記事と日本書紀の記事とが同じことをさしていると考えられてきたが、遣使記事が違う王朝のことだとすると、この冠位十二階の記事も別のことであることになる。当然これも倭国のことであり、定めたのはアメノタリシホコである。隋書原文を見よう。

 内官に十二等あり。一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信。員に定数なし。軍尼120人あり。なお中国の牧宰のごとし。80戸に一伊尼翼を置く。今の里長なり。十伊尼翼は一軍尼に属す。

 天子の下に十二等の冠位をもった役人がおり、800戸を単位とした「国」に軍尼という地方役人がおり、その下に80戸を単位とした「里」に伊尼翼という地方役人を置く。

 後の律令制に似た国家組織を、7世紀初頭において倭国は持っていたのである。

 この隋書に見る十二の冠位は順番こそ少し違うとはいえ、内容は日本書紀と同じである(日本書紀では、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智である)。

 この冠位十二階も、倭国のアメノタリシホコの定めたものを、日本書紀を編集するときに聖徳太子の事跡の所に盗用したものであろう。

 こうして聖徳太子の事跡として挙げられたものは全て倭国の歴史書からの盗用だったのである。

 考えてみれば当然である。大和において律令制を取り入れそれに基づいた国家制度ができ始めたのは天智の時からであった(670年ごろ)。それもなかなか定着せず、その採用をめぐっては内乱までもがおき(壬申の乱)、ようやく定着したのは701年のことだったのである。聖徳から100年の後のことである。

 日本書紀は大和の歴史を100年も遡らせて歴史を捏造した。それをそのまま無邪気に信じているのが今の日本古代史学会であり、それを盲信したまま「聖徳太子こそ独立日本の父!!」と叫んでいるのが、新しい歴史教科書の著者たちである。

 聖徳太子の事跡。それ自身が幻だったのである。

注:05年8月の新版では、この「聖徳太子の政治」を「聖徳太子の新政」と改題して、第3節「律令国家」の成立の冒頭においた(p34・35)。記述内容はほぼ旧版と同じであるが、叙述を簡略化して、冒頭に、「豪族の争いと隋の中国統一」と題する、国際・国内情勢についての記述を置いた。旧版との違いは、17条憲法の全体の要旨をかかげたことと、17条憲法の記述の最後に、「和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった」という記述を挿入したことである。

 しかしこの「和」について誤解されるといけないので、一言補足しておこう。「和」とは「皆で仲良くする」ということではない。そもそもの17条憲法の記述でも「和をもって貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ」であり、その「さからう」とは、天子の命令にさからうということを意味しており、従って「和」とは、天子の命令に従うことを意味しているのである。日本的な「和」とは、上の者、力のある者などに従うという意味を持っているが、その意味では、17条憲法は、日本的な「和」の起源である。しかし「和」には、集団の秩序にさからわないというもう一つの意味もあり、これは17条憲法の意味合いとは異なる。おそらくこれは、中国の天子専制という意味での律令制度を日本に取り入れた時、その天子専制を「貴族共同体の専制」に置き換えてしまった大和での動きに起源を持っているものと思われる。「貴族共同体の専制」は奈良時代の律令の特色であるのだ。17条が「天子の命に従え」という側面を強く持っていることは、貴族共同体によって推戴される天皇でしかなかった大和朝廷の現実に照らし合わせた時には、おおいなる矛盾を生じ、ここに17条憲法が大和天皇家の作ではないことの証拠がある。17条憲法の「天子の命令にたいする和」を「集団の秩序=意思への和」と組替えてしまった今日の理解は、おそらく大和での律令の受容の過程で生まれたものに違いない。

注:この項は、河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」(吉川弘文館1986年刊)、前掲古田武彦著「法隆寺の中の九州王朝」、家永三郎・古田武彦著「聖徳太子論争」(新泉社1989年刊)、大山誠一著「聖徳太子の誕生」(吉川弘文館1999年刊)などを参照した。


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