「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判K


 12.捏造された歴史。「大化の改新」はなかった!

 第3節「律令国家の成立」の第2項は、「大化の改新」と題して、『蘇我氏の横暴』『進んだ中国の政治制度』『公地公民』の小見出しをつけながら、645年に行われたというこの「改革」の意味と具体的な経過を詳しく記述している。
 「大化の改新」という出来事を、「日本における律令制の成立」の重要な画期とする記述は、どの教科書でもなされていることである。

 この新しい歴史教科書の叙述の特徴は、元になる資料である「日本書紀」の記述をほぼまるごと真実であるとし、ほとんどそのまま詳しく載せているところにある。

 だが、日本書紀の「大化の改新」に関する記述は、ほとんど捏造されたものである。

 かなり前から646年(大化二年)の正月に出された「改新の詔」の「公地公民」の方針は、その後の歴史の実態にあわないことが指摘されていた。
 事実として諸資料から確かめられる限りで、諸豪族や皇族の私有地が廃止されて「公地」となりはじめるのは、670年前後、天智朝になって以後であり、定着するのはその後の天武・持統朝であることが確かめられている。

 したがってこの「改新の詔」はあとから挿入されたものであることは確実である。

 だが問題は、誰が何のために挿入したのかということが不明であった。

 (1)古代政治史の主役は『天皇家』

 しかし近年、河内祥輔氏の「古代政治史における天皇制の論理」の研究を端緒として、藤原氏などの「有力な豪族による政治の壟断」と表現されることの多かった古代政治史の主役は「天皇家」なのではないかという認識がひろまり、古代における多くの重大な政治的事件の背景は、天皇家における皇位継承の問題をめぐる争いであった可能性が高いことが明らかとなってきている。

 正確にいえば、日本の天皇制の特色は「有力な諸豪族・貴族による天皇の推戴」にあり、一定の条件を備えて大多数の有力豪族・貴族の推戴を受けて初めて天皇位は継承されるということである。

 そしてその条件とは、「両親ともに天皇の子どもである」ことであり、もしその条件をもった皇子がいなかったり幼少であった場合には、天皇位は父から子、子から孫というように直線的に継承されず、新しい皇統を継ぐべきものを選ぶか、皇統を継ぐべきものが成長するまで中継ぎを立てるかするという形になる。そして前者の場合には皇族間の王位継承戦争に到る危険性があった。

 だからそれを避け、すみやかに天皇からその子孫に皇位を継ぐためには、天皇は前天皇の子女との間に男子を設ける事が必要となってくる。
 でもそれは下手をすれば近親結婚の連続となり、健康な王位継承者をなくす危険や、后にふさわしい年齢の皇族の子女がいなくなるという危険をともなったのである。

 そこで考えられたのが、あまり有力な豪族の背景を持たないが天皇家との間で血の交流という意味で親密な関係をもった豪族を作りだし、その所生の皇女と天皇との異母兄妹婚を行うことで、上の二つの危険を少しでも回避しようと「天皇家」は考えたのである。

 この考えによって選ばれた家系が藤原氏である、というのが河内祥輔の結論であった。

 そして彼の研究を下敷きにして遠山美都男は「大化の改新」の背景を研究し、蘇我氏もまた同様な論理で選ばれた氏族であったことを明らかにし、日本書紀の「大化の改新」に関係する人物像とその関係を精査した結果、「大化の改新」といわれる事件は、複数いた王位継承権者間の争いであり、「蘇我氏の横暴」という記述も、書紀編者の捏造であったということを明らかにした。

 これらの研究成果をなぜ無視するのだろうか。

 以下、これらの研究にしたがって、教科書の記述の間違いを指摘しておこう。

 (2)蘇我氏の横暴は、書紀編者の捏造!

 この教科書は最初に「蘇我氏の横暴」と題し、書紀の記述にそって「大化の改新」の背景を以下のように述べる(p47)。

 聖徳太子の没後、蘇我氏一族が横暴にふるまう時代になり、国際情勢が急変してきたきびしいときに、国内の政治は混乱をかかえることになった。豪族の先頭にたって政治を取りしきったのは、蘇我の馬子の子の蝦夷だった。彼は天皇の墓にしか使わない陵という言葉をみずからの墓に用い、自分の子をすべて王子とよばせた。蝦夷の子の入鹿は、聖徳太子の理想を受けつごうとしていた長男の山背大兄王をはじめ、太子の一族を一人残らず死に追いやった。

 日本書紀で蘇我氏を討つべき前提とされていた記述である。

 だがここも書紀編者の捏造である。山背大兄王をはじめとした太子の一族を皆殺しにしたのは、彼と並んで王位継承権をもつ有力皇族とその支持勢力合同の企てだったのである。

 舒明天皇死後、王位を継ぐべき「両親ともに天皇の子」という皇族は一人もいず、有力な皇族同士が王位を争う形になった。そして有力な皇族は4人いた。一番年長者は舒明の従兄弟にあたる同世代の王、山背大兄王。次は舒明の甥であり、舒明の后である宝皇女の弟である軽皇子。
 そして舒明の息子である古人大兄皇子と、舒明と宝皇女との間の子である中大兄皇子である。

 このままでは王位継承の戦争を生み出すのでとりあえずの王位は、舒明の后である宝皇女をたて、皇極天皇とした。だがこれは一時的なことであり4人の候補者を絞る必要があった。この候補者を絞るための最初の闘いが、山背大兄王をはじめとした太子の一族の皆殺しなのである。

 なぜならば山背大兄王を除く他の3人は、山背大兄王の父である聖徳太子と王位を争った押坂彦人大兄皇子の孫にあたり、山背大兄王を代表とする上宮王家とは対立する関係にあったからである。したがってこの3人は古人大兄皇子と血縁関係にあり、彼を次の王位継承者とおす蘇我の入鹿を動かして対立する上宮王家を抹殺したのである。

 しかるに書紀編者は、この事実を隠し、蘇我氏が王位を簒奪しようとしたというように歴史を捏造した。

 なぜか。書紀を編纂したのは天武天皇の子である舎人親王であり、日本書紀は彼ら天武・天智系の王家だけが日本の正統な王家であるという命題を証明するためにつくられた書だからである。
 そのためには、王位継承をめぐって天皇家内部に争いがあったことは隠されねばならない。だから彼らの先祖であった近江のオオド王が王位を武烈天皇から簒奪して継体天皇となったことも、そしてその子の欽明が兄である安閑・宣化と闘って王位を奪ったことも隠されなければならなかった。そして欽明の子である敏達の死後、王位継承者にふさわしいものがおらず、長い争いが続いたことも隠し、その有力候補であった聖徳太子の死後、死に臨んだ推古天皇が、押坂彦人大兄皇子の子の田村皇子(後の舒明天皇)を呼んで皇位を譲るような発言をしたかのような捏造もした。こうした捏造の末に、彼らの先祖である天智が最初から有力な王位継承者であったかのような造作を歴史に施すために、「蘇我氏による王位の簒奪」なる嘘をつくりあげたのである。

 蘇我の蝦夷・入鹿は王位を簒奪しようとしたのではない。欽明以後の天皇家と緊密な血の交流を行い、近親結婚を避けて王位継承者をつくる氏族として選ばれていたかれらは、その血を受けた古人大兄皇子を支持し、彼を王位につけてそれと緊密な関係を作ろうとしただけなのである。

 日本書紀の編者は、この事件の主語が王位継承権を持つ有力王族であった事実を隠し、その一支持者に過ぎなかった蘇我氏を主役という形に歴史を書き換えることによって、彼らの先祖である中大兄皇子が後に王位を継ぐ事が正当であったと主張したのである。

 新しい歴史教科書の著者たちは、捏造された歴史を鵜呑みにし、それを事実だと思いこんでしまったのである。

  (3)「大化の改新」の首謀者は中大兄皇子と藤原の鎌足ではない!

 書紀編者の歴史捏造はそれだけに止まらない。教科書の記述を見よう(p48・49)。

 日本ではあいかわらず、蘇我氏を中心とする豪族が権力をふるっていた。朝廷の一部では、豪族や一部の皇族がそれぞれに土地や人民を支配するこれまでの体制を、唐にならって改めようとする動きが生じた。彼らは、そのために天皇を中心とする中央集権の国家をつくらなければならないと考えた。
 620〜640年代になると、太子の派遣した留学生が隋や唐の政治制度を学んで、あいついで帰国した。改革の情勢はしだいに熟していった。
 豪族の頭目である蘇我氏を宮中から排除する計画を、まず最初に秘めていたのは、中大兄皇子と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)であった。鎌足はけまりの会を通じて皇子に接近し、二人は心の中を打ちあけあうようになった。

 「大化の改新」と呼ばれる「蘇我氏打倒」の事件の始まりである。

 しかしここにも大きな嘘がある。

 この記述は日本書紀の記述そのままだが、この日本書紀の記述は8世紀において統一日本の王であった天智・天武系の王族たちこそ、今後も日本の王であるという主張を証明する為にその子孫たちによって書かれた記述であったし、両親ともに天皇の子という条件をもった天智・天武系の王族が文武天皇で途絶える事態に直面して、この皇統を血の交わりによって支える藤原氏所生の皇子こそ今後の日本の王であるべきという、元明・元正・文武の皇統の新たな主張をも証明するためにつくられた書であったからである。

 今日「大化の改新」と呼ばれる事件の首謀者は、中大兄皇子と中臣の鎌足ではない。皇極天皇の弟で、事件の後に天皇位についた軽皇子であり、彼を王位につけようとする皇族とそれを支持する豪族たちであった。まだ10代であり、両親ともに天皇の子という条件を持たない中大兄皇子にはまだ王位継承の資格は諸豪族に認められてはいなかった。

 彼は軽皇子派の有力皇族として謀議に加わり、その実行上の軍事上の指揮官として行動したのである。そしてそうすることで、次期大王(書紀は天皇と記述するがこの当時は大王)の有力候補者としての地位を手に入れようとするためであった。

 さらに中臣鎌足は中大兄皇子の配下というより軽皇子の支持者の一人として行動したにすぎないのであった。

 では、彼らの真の攻撃目標は誰か。それは舒明の息子である古人大兄皇子であった。

 この事件は古人大兄皇子とその有力な支持者である蘇我本宗家を倒し、軽皇子を王位につけるための争いであったのである。
 だから彼らは偽りごとをしかけて蘇我入鹿と古人大兄皇子を皇極天皇の居所に招き入れ、人目につかない処で二人を抹殺しようとした。しかし蘇我入鹿は討ち取ったが、手違いから古人大兄皇子を討ち漏らした軽皇子派は窮地に陥った。自分の宮に逃げ帰った古人大兄皇子と甘橿丘の蘇我本宗家とが連絡をとり、軽皇子派を挟み撃ちにしたら万事休すであった。それを救ったのは、中大兄皇子の果断な処置であった。

 彼はただちに軍勢を率いて、古人大兄皇子の宮と甘橿丘の蘇我本宗家との中間点にあって、蘇我本宗家の勢力の拠点であった飛鳥寺を占拠し、双方に軍事的圧力をかけ、孤立した古人大兄皇子が軍門に降り出家するやいなや、闘いの大義名分を失った蘇我本宗家の軍事集団を降伏させ、蘇我本宗家の長、蘇我蝦夷を自殺に追い込んだのである。

 だからこの事件のあとで皇極天皇から歴史上初めて譲位と言う形で王位についたのは軽皇子であった(孝徳天皇)し、新しい都は彼の支持勢力の基盤であった河内の国に移されたのである。

 だがこの後にも書紀の嘘はある。それはこの孝徳天皇の下で、中大兄皇子が皇太子であったとする記述である。皇太子という制度は奈良時代になって生まれたものである。中大兄皇子は有力な王位継承権者ではあるが「両親ともに天皇の子」という王位継承の条件を持っていなかった。
 最大の対抗馬は孝徳天皇の息子の有馬皇子であった。だから後に孝徳天皇が死んだときにもただちに中大兄皇子が王位につかず、皇極を再度王位につかせて中継ぎとし、その間に最大のライバルであった有馬皇子を殺したのであった。

 中大兄皇子が唯一の王位継承権者であったというのも書紀の歴史捏造である。

  (4)「改新の詔」は誰が出したのか?

 のちに「大化の改新」と呼ばれた事件は、単なる王位継承をめぐるクーデターであった。クーデターを企てた人々には「天皇中心の国家」をつくろうという意図はまったくなかったのである。それは当たり前であった。この当時に天皇を名乗ったののは、彼ら大和の王ではなかった。それは九州は太宰府に都した倭王でしかありえない。大和の王はその有力な分家でしかなかったのである。

 この事件を「大化の改新」と呼んだのは明治時代の歴史学者である。天皇制がまさしく日本を統一するシンボルとなった時に、その淵源を調べたとき、学者たちは日本書紀の大化元年から始まる次々に日本の国政のしくみを変革するたくさんの詔の群れに注目した。そして天皇中心の国政に変革しようとするこれらの詔群を見て、この事件を「大化の改新」と名づけたのである。

 645年の6月12日に起きたこの事件は、事件の当事者やその子孫には、「乙巳の変」と、事件が起きた年の干支で呼ばれていた。

 では、646年(大化二年)の正月に出された「皇族や豪族の土地を公地とする」という詔を中心とする詔群は架空のものであったのだろうか。
 いやそうではない。この詔、とりわけ大化五年の2月に出された一九階の官位を定めた詔は繰り返し言及され、その後の天智・天武朝の官制の基本となっており、後の冠位は、この大化五年の制度の改変として施行されているのである。

 したがってこれと一体の関係にある大化年間に出された詔群も実在のものと考えられる。

 では、軽皇子や中大兄皇子らが「天皇中心の国」をつくる構想を持たなかったとすれば、この大化年間の詔は誰が出したものであろうか。

 考えられる事はただ一つ。すでに6世紀のはじめから律令を持ち、天皇中心の国家づくりをすすめていた、九州は太宰府に都する倭王朝以外に、この詔を出す主体はない。倭王朝は隋書にあるようにすでに607年の時点において十二階の冠位を持っていた。したがって大化五年、650年に出されたとされる冠位一九階は、その拡大変更だったのである。

 「大化の改新」は完全な幻であった。蘇我本宗家をつぶす事件としてのそれは、大和の大王家における王位継承の争いに付随したものであったし、天皇中心の国作りとしてのそれは、九州の倭王朝の事跡を盗んで歴史書に挿入したにすぎなかった。

 ここでも新しい歴史教科書の著者たちは、日本書紀の歴史捏造を見ぬけず、その記述を真実だと信じこんで、歴史叙述をしてしまったのである。

注:05年8月の新版の「大化の改新」についての記述は、旧版の記述を整理しただけで、ほとんど同じ内容である(p38・39)。本文に挿入されていた蘇我入鹿殺害事件の詳細と、中大兄皇子と藤原鎌足の出会いの場と言われる蹴鞠の話を合体させて、「歴史の名場面:蘇我氏の滅亡」と題する記述にし、別立てで掲載したことと、旧版では、「大宝律令と年号」の項にあった文をここに挿入したことだけである。

 その文は、大化という年号を定めてことに関するもので、「東アジアで、中国の王朝が定めたものとは異なる、独自の年号を定めて使用しつづけた国は日本だけだった」というもの。これは中国・朝鮮・日本という東アジアの中では「中国の影響が強い時代に」と限定すればたしかにそうである。だが、中国ととの間に砂漠や大山脈で隔たっている中国の西や北や南の国々ではこれはあたりまえのことで、中国の強い影響下にあった時を除いて、それぞれの国は独自の年号を持っていた。つまり、東アジアは中国の強い影響下に置かれた地域だと言う事だ。特に朝鮮は日本と違って中国と地続きである。つまり常に中国に直接侵略を受ける危険に直面しているということ。日本のように海で隔てられている国との違いを無視して、「日本だけが中国から独立した姿勢を堅持した」とでも言いたいかのような記述は、単なる日本民族主義、朝鮮にたいする蔑視の反映にすぎない。しかしその朝鮮でも中国からの影響を脱した時には独自の年号を使用していたのである(詳しくは、14を参照)。

注:この項は、前掲河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」、遠山美都男著「大化の改新―645年6月の宮廷革命」(中央公論社1993年刊)、古田武彦氏の諸著作などを参照した。


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