「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第1章:原始と古代の日本」批判L
13.「日本国はいかにして誕生したのか!」の問題提起
第3節「律令国家の成立」の第3項は、「日本と言う国号の誕生」と題して、『白村江の敗戦』『亡命百済人』『天武・持統朝の政治』の小見出しをつけながら、7世紀末の「日本国」の誕生について詳しく述べている。
(1)「国家のありかたが問われていた」ことに正面から向き合った先進性!
日本国がいかにして成立したのか。この問題は日本の歴史を語るときに避けては通れない問題である。
しかしこの重大な問題を従来の教科書は避けてきたし、今回検定を通った他の教科書でも、この問題ははっきりとは取り上げられていない。これ自身おかしなことである。日本国がいついかにして成立したのか。この大事な問題を素通りして、どうして自国の歴史を語れようか。
思うに従来の教科書は「国家」という問題を取り扱うのを避けてきたようである。歴史上の大きな事件のほとんどは、その時々の内外の情勢に応じて、どんな国家をつくるかが問われていた。近い所では1945年の敗戦の時。そして明治維新のときや江戸幕府成立のとき。いやもっと遡ればきりがない。だのに従来の教科書ではこの問題が正面から取り上げられた事はない。
それはなぜか。
単純なことである。国家主義をかかげ国家に奉仕する事が国民の義務だと高らかに目標を掲げ、国民をして英米に追いつけ追い越せと頑張らせ、はては中国や欧米諸国との全面戦争に突入させた戦前の国家。その結果のあまりの悲惨さのために、以後この問題を回避してきたのだ。これは戦後日本がどんな国をつくるかの国民的合意をなさないまま、経済的発展をそれにかえて走ってきた事と表裏一体の問題である。
この態度を改め、歴史上どんな時期にどんな国家を作る事が求められて、その結果どんな事になったかを正面から問題としてとらえ、それに回答を与える事で、今後の国家のありかたをどう考えるかが重要と指摘している所に、この新しい歴史教科書の登場の積極的意義はある。
そしてこの教科書は、6世紀末から8世紀の国家的課題を以下の様に提起する。
6世紀末に中国が統一された事が契機となって、日本は諸豪族の連合国家の段階から、統一された国家の段階への飛躍が求められており、そのための取り組みが、聖徳太子いらい進められ、663年の白村江の闘いの敗北でそれが加速され、天智天皇の登場と壬申の乱によって完成された。 |
というのが、この書の主張である。
たしかに6世紀の中国の統一によって、日本の国のありかたが問い直されたことはたしかであり、白村江の敗戦が一気にこの問題の解決を強制したこともたしかである。そしてこの問題意識なくして、8世紀における律令国家の成立の意味は理解できないし、そこで成立した日本国の姿をとらえることはできない。。
その意味で、この教科書がこの問題を正面から扱っている事は正しい問題意識である。
だが問題意識が正しいことと、その回答が正しい事とは別の事であり、この教科書の回答には重大な欠陥があり、歴史の重要な側面を意図的に隠しているのである。
それは何か。以下、教科書の記述を追いながら説明しよう。
(2)百済はすでに滅亡していた!
教科書は以下のように記述する(p51)。
任那が新羅にほろぼされてから約1世紀、朝鮮半島の三国は、あいかわらずたがいに攻防をくり返していた。七世紀のなかばになると新羅が唐と結んで百済を攻めた。唐が水陸13万の軍を半島に送り込むにいたって、日本の国内には危機感がみなぎった。300年におよぶ百済とのよしみはもとより、半島南部が唐に侵略される直接の脅威を無視できなかった。 |
この記述のようにおそろしい危機感が走ったことはたしかである。だが正確にはこの時点(660年)に百済は唐軍と新羅軍の攻撃を受けて滅亡したのである。そして降伏して捉えられた百済王とその一族および大臣・将軍88人と百姓1万2千8百人が唐に連行された。
さらにこの唐に連行された百済王と諸王子13人と大臣・将軍ら37人が捕虜として縛られて唐の皇帝の前に引き出されるのを日本の遣唐使は眼前に目撃してしまったのである(このことを目撃した遣唐使は二つある、大和朝廷の遣唐使の一行と、九州の倭王朝の遣唐使の一行である)。
百済が亡ぼされた!!。この衝撃はどれほどのものであったろうか。なぜ教科書は百済滅亡の事実を記さないのか?。疑問である。
663年の白村江の闘いは、滅亡した百済を日本軍の力で復興させる戦いだったのである。
(3)白村江で敗北したのは「大和朝廷」ではない!!
教科書は次のように記述を続ける(p51)。
中大兄皇子は、662年、百済に大軍と援助物資を船で送った。唐・新羅連合軍との決戦は、663年、半島南西の白村江で行われ、2日間の壮烈な戦いののち、日本軍の大敗北に終わった(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃え上がり、天と海を炎で真っ赤に焼いた。こうして百済は滅亡した。 |
じつはこの記述に問題がある。この記述は日本書紀そのままなのだが、百済復興の爲に大軍と援助物資を送ったのは中大兄皇子を最高責任者とする「大和朝廷」ではなかったのである。それは九州太宰府を都とする倭王朝だったのである。したがってこの戦いでほぼ全滅に等しい敗北をこうむったのは倭王朝であり、ここに紀元前から日本列島を代表する王者であった倭王朝は、実質的に滅んだのである。だからこそ後に述べるように、この事件から7年後の670年。日本の国号は「倭」から「日本」に代わったのである。
白村江で唐とたたかったのが「大和朝廷」ではないという証拠はいくつもある。
1つはこの時代の第1資料である旧唐書には、この時期倭国と唐王朝との対立が描かれているが、日本書紀に見る「大和朝廷」と唐王朝との関係はとても友好的である。
旧唐書によると、631年に倭国は遣使し、その答礼として唐王朝は高表仁を遣わした。ところが高表仁は倭国に来たものの、『王子と礼を争い、朝命も述べずに帰り来る』と記述されている。ところが日本書紀のほうは、632年に唐の使い高表仁が来たとき、時の舒明天皇は次のように話している。すなわち、『天子の命ずる所の使い、天皇の朝(みかど)に到ると聞き、これを迎えしむ』と。この言葉は意味深長である。大唐の天子の使いが天皇の朝廷に来たと聞いたので御迎えしたという言いかた。これははっきりと舒明は『自分は天皇ではない』と表明しているのである。
そしてほかに朝廷があって、そこに使わせられた唐の使人をわざわざ御迎えしたと述べて、その労をねぎらっているのである。さらにこの舒明の言葉に答えて唐使高表仁は、次のように答えた。『風寒き日に、船艘を飾り整え、もって迎え賜う。歓喜す。』と。つまり手厚い歓迎を受けたことを謝しているのである。
この二つの記事を比べて欲しい。二つの記事は全く違うのである。旧唐書の倭国と日本書紀の「大和朝廷」は別の国であり、大和の王・舒明の口から『自分は天皇ではなくその一臣下であり、天皇の朝廷に来った唐使に遠路わざわざおいで願った』とのべ、自らが倭王権の担い手ではないことを明らかにするとともに、唐王朝と対立する倭王権とは違って「大和」は唐に恭順するとの態度表明をしているのである。
おそらくこの時唐は、あの隋の煬帝にたいして「日出る処の天子・日没する処の天子」という対等の手紙を送って、隋王朝に対抗する事を表明し、唐王朝にたいしてもこの姿勢をかえない倭王朝に対し、その配下の有力豪族である「大和の大王」は唐王朝に恭順する気でいる事を確かめ、これを次の日本列島の代表者に擬したのであろう。そして唐と「大和朝廷」との間では密約ができていたのかもしれない。来るべき倭と唐との戦いの時には「大和朝廷」はなるべき局外にいるとの密約が。
白村江で唐と戦った倭国が「大和朝廷」ではない証拠の2つ目は、「大和朝廷」軍は朝鮮半島に渡っていない可能性があることである。中大兄は明白に九州に止まっている。そして彼と斉明女帝が筑紫に移動するとき不思議な事に率いた軍の将軍の名がまったく載せられていない。さらに斉明女帝は難波から筑紫までの船旅に、なんと3ヶ月もかけているのである。さらに日本書紀はこの項で駿河の国に軍船を作らせた船が夜中に知らぬ間にともとへさきとが入れ替わっていたという話しを挿入し、「これは西征軍が敗れると言うしるしだとさとった」と記述し、最初から戦いをする気がないことを暴露している。
また3つ目には、この戦いの後で中大兄は冠位の増発を行い、大規模な冠位の乱発を行っている。これは、存亡の危機を懸けた戦いに負けた王朝の代表者のとる行動ではないであろう。
そして4つめには、戦後唐王朝は日本に使節を送ったのだが、200数十人の平和な使節で、友好的な雰囲気で交流し、その後も何度にもわたって白村江の戦いで捕虜となった将軍たちを日本にまで送還している。これは、無礼にも唐王朝と対等な関係を結ぼうとし、唐と対立した挙句に唐と戦争にいたった国に対する態度ではない。
このように考えるならば、白村江で敗北した倭国は「大和朝廷」ではないのである。そしてこのことは旧唐書の「日本伝」にしっかり明記されている。そこにはこう書いてあるのである。「日本は昔小国。倭国の地を合わす」と。
(4)亡命百済人はなぜ九州に配置されなかったか?
さらにこの教科書は「亡命百済人」と題して、白村江以後の歴史を以下の様に記述している(p52)。
百済からは、王族や貴族をはじめ、一般の人々までが1000人規模で日本列島に亡命して、一部は近江(滋賀県)、一部は東国に定住をはたした。朝廷は手厚い優遇措置を取った。当時の列島の人口は500万〜600万と推計され、受け入れの余地は十分にあった。しかも聖徳太子以来、中央集権国家の形成をめざしていた日本は、中央の官僚制度の仕組みや運営のしかたについて、亡命百済人から学ぶ点が少なくなかった。 |
たしかに日本書紀によれば、白村江の戦いの2年後の2月に「百済の民、男女400人あまりを、近江の国の神崎郡に住ませた」と記述され、翌年の冬には「百済の男女2千余人を、東国に住まわせた」ともあり、さらに次の年にも「佐平余自信・佐平鬼室集斯ら、男女7百余人を、近江の国の蒲生郡に移住させた」とある。そしてこの佐平余自信・佐平鬼室集斯ら百済の王族や貴族たちが、天智の朝廷において重要な役についたこともたしかなことである。
だがこのことは、教科書の記述とは逆の疑問を生み出す。なぜ聖徳太子以来半世紀以上も経っているのに、なぜ百済の亡命貴族の力を借りなければ中央集権的国家がつくれないのだろうか。そして外交交渉や役所の運営に習熟したこれらの人々をなぜ外交の中心である九州に配置せず、近畿地方や東国に配置したのか。
この疑問は、中国にならった中央集権的国家づくりが進んでいたのは九州であり、「大和朝廷」の治める近畿地方にはまだその組織もできてはいなかったし、そのノウハウもなかったということではないだろうか。だからこそ、先進地域である九州には亡命百済の官人たちは必要なかったのであろう。
(5)天智は「近江令」を作ってはいない!
さらに教科書は次のように記述をづづける(p52)。
中大兄皇子は唐からの攻撃をさけるため、都を近江に移し、668年に即位して天智天皇となった。天皇は国内の仕組みを整えようと、中国の令をモデルにした近江令を編んだ。また、初めて庚午年籍とよばれる全国的な戸籍をつくった。 |
ここに聖徳太子以来進められた中央集権的国家づくりが大きく前進し、ついに当時としては先進的な法体制がととのった国家へと日本は変貌を始めたと、この教科書は言いたいのである。
ただしこれにはたくさんの異説がある。特に近江令についてはそうである。「近江令は完全な令として完成し、後の天武の時代に改定されて飛鳥浄御原令へと発展した」という説があるかと思えば、「近江令は部分的にできていただけだ」という説や、はては「近江令はなかった」という説まで、諸説紛紛である。理由は簡単である。1つはその現物が残っていないこと。そして2つ目は、基本資料である日本書紀には天智が令を編纂施行したという記事がないからである。
なぜ基本資料にないのにその存在が知られるかというと、「藤氏家伝」に天智が藤原鎌足に編纂させたという記述があるからである。
だがこの「藤氏家伝」の記述は信用できない。この記録は奈良時代の藤原仲麻呂が760年にまとめたものだが、藤原氏と天智・天武系王統との親密な不可分の関係が持統朝の藤原不比等から成立したにも関わらず、これを「天智以来」と粉飾し、「大化の改新」以来天智と藤原氏は密接不可分の関係にあったと主張するための書物だからである。したがって鎌足の事跡については、「大化の改新」の項で述べたように、大規模な粉飾が施されており、信ずるに足りない。
日本古代史学会の定説では、この「藤氏家伝」の「近江令」にあたるものは、日本書紀の天智10年正月六日の「東宮太皇弟が詔して、冠位・法度のことを施行された」という記事の「法度」にあてている。
だがこれは完全なこじつけである。「法度」の語が意味するのは「令」のように限定されたものではない。これは治世の大本となるおきてのことである。そして天智10年の「法度」が何を指しているかは、それと一緒の出された冠位の具体的なものが、大化5年の詔の冠位の拡大であることからわかる。この「法度」とは大化年間に集中している一連の詔群を指しているのであり、天智10年のこの記事は、大化年間に定められたこのおきて群を施行すると述べたにすぎないのである。
では天智はなぜここで大化年間の詔を施行すると宣言したのか。従来の説ではこれを根拠に、大化年間の詔は架空のもので、本当は天智朝で実施されたものをあとから挿入したと解釈されてきた。これは近江令を実在のものと前提したからである。
でもこの解釈は、日本書紀の意図すら無視している。日本書紀の編者の意図は、「中大兄皇子と藤原鎌足の主導の下で行われた大化年間の改新をここにいたって完成したのだ」というものである。目的は天智・天武朝の権威と藤原氏の権威の淵源を出きるだけ古い時代に設定するためである。
だがこれも日本書紀編者の解釈であり、歴史の捏造の結果である。
事実はどこにあったのか。書紀編者の手元にあった資料には、「書紀編者が大化5年の条にあてはめた法令群を天智10年に施行した」という記録があったのだ。書紀編者はこの生の資料をそのまま使って、自分たちの主張を貫けるように編集したのだろう。
ではこの意味は何か?。「大化改新」の項でも述べたように、この詔群を出したのは、九州は太宰府に都した倭王朝である。おそらく具体的にはあの『日出る処の天子・・・』のアメノタリシホコであろう。その下の倭王権の施行した根本法令を、倭王権の滅亡を受けてそれに代わった天智も継続して実施すると宣言したという意味である。
考えてみれば、白村江の敗戦で急にそれにとって代わった「大和朝廷」が、長い間日本の統一王朝であった倭王権の治世の大本になるおきてを廃止し、新たな根本法典を施行するなどできる相談ではない。天智は日本の天皇とはまだ認められていないのだから。
したがってこの時点で天智が「令」を新たに編纂して施行したとする「藤氏家伝」の主張には無理があるのである。
「前王朝の治世の大本のおきてを継承する」との宣言は、統一王権を簒奪した「天皇」としての天智にこそふさわしい行動である。天智は、日本ではじめて、唐の制度にならった統治制度をつくった天皇ではなかったのである。
しかし同じことは、次の天武・持統天皇にも言えるのである。
(6)壬申の乱は「地方」対「中央」の闘いではない
教科書は最後に「天武・持統朝の政治」と題して、次のように述べている(p53)。
天智天皇の没後、天皇の子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子との間で、皇位継承をめぐる内乱が勃発した。これを壬申の乱(672年)という。大海人皇子は、中小の豪族や地方豪族を味方につけて充分な兵力を備え、大勝利をおさめた。これにより、中央の大豪族の力はおさえられ、天智天皇の時代までどうしても断ち切れなかった、中央豪族たちの政治干渉を排除することに成功した。こうして、豪族たちの個別の立場を離れて、天皇を中心に国家全体の発展をはかる方針がようやく確立することになった。 |
これは皇位継承戦争である壬申の乱とその結果の説明であるが、これはあまりに史実とかけはなれたこじ付け的解釈である。
まずこの教科書が「壬申の乱の結果中央の大豪族の力がおさえられ・・・」と記述したのは、日本書紀の当該の記事を、大海人皇子が吉野から伊勢の国に逃れ、尾張や美濃の軍勢をつのって、近江京に都する大友皇子軍と戦ったというようにとらえ、大友=中央豪族×地方豪族=大海人という対立の図式に解釈してきた従来の日本古代史学会の定説によっているからである。
だがこれは根本的に間違っている。大海人が尾張や美濃の豪族の力に依拠したのは、美濃に彼の土地があったからであり、尾張の国の宰(みこともち=後の国司)である尾張の連や美濃の豪族とは、彼の子女の養育などを通じて関係が深いからであった。そして彼の軍の中心は地方豪族や中小豪族ではなく、その戦の指揮を担ったのが中央の代表的な豪族である大伴氏であったことは、書紀の記述でも明らかである。いや、より正確に言えば、大伴氏も含めた中央の有力豪族は大友派と大海人派に一族が分裂している事も多く、この戦いを単純に、中央対地方とか大豪族対中小豪族というような図式に還元することは、この事件の本質を見誤る事にも繋がる。
この事件は、皇統の分裂を生みかねない事態に対して、双方が軍事的に決着をつけようとしたものである。
皇統の分裂は、天智には天皇を父とする女性を后にできず、両親ともに天皇の子という大王の選択条件を備えた息子をもたないことから始まった。したがって彼が大王(後に天皇となる)の権威を確立するためには、彼の次の世代やその次の世代で両親ともに天皇という条件を備えた王を生み出す事が有力豪族たちの合意事項であった。
そのために天智がとった行動は二つであった。最初にとった行動は、弟大海人皇子を次の天皇とし、その彼に自分の娘を娶わせ、その所生の男子に天智の娘を配するか大海人の娘でその男子とは異母兄妹の娘を娶わせて、両親ともに天皇の子という資格を持つものを生み出す事。
これは天智即位のときに大海人を皇太子にしたことで、諸豪族の承認も得た路線であった。
しかし天智は途中で心変わりをし、すでに大海人の娘との間に皇子をもうけていた息子大友を天皇にし、その息子の皇子に異母兄妹を娶わせて両親ともに天皇という資格を持つ子を得るという路線に転換した。このため天智は大友を太政大臣として天皇を輔弼する地位につけて、有力な豪族の間に彼を次代の天皇という合意をつくり彼を後継ぎにしようとはかったのである。
だがこれは諸豪族との約束違反であり、当然のことに反発を呼んだであろう。そのため天智はこの新たな路線に乗る事を断った弟大海人が近江京を去ったあとで、重臣たちに大友を後継とする事を神前で二度にわたって誓いを立てさせたのであった。
この天智の強引な動きは諸豪族の反発と動揺を生み、大海人が軍事行動を起こすにいたって、諸豪族の分裂を生んだのである。
日本書紀を丁寧に読んで見れば、大友に従ったはずの諸豪族が途中で大海人側に寝返ったり、寝返りをしようとした大友側の将軍を仲間の将軍が暗殺したりした記事がいくつもある。そして同じことは大海人の側にもあり、大海人の勝利に終わったあとで、大海人側であった尾張の国の宰(みこともち、後の国司)が自殺してしまい、「何か裏の謀でもあったのか」と記されており、戦況の進み具合では大海人の側からも裏切りが出る可能性はあったのである。
さらにこの乱のあとで処刑されたものはわずか8人であり、それは大友側の近江朝廷の重臣に限られており、彼らの一族でもその当時重臣の列に加わっていなかったものは咎めを受けていないことから、大海人皇子は王位継承戦争によって諸豪族が分裂・対立することを最小限に食い止めようとしていたことがわかる。
壬申の乱を中央豪族対地方豪族という形に描きたがるのは、そうすることで乱後に成立した天武朝が、あたかも天皇専制の政治形態であるかのように描きたい論者の勝手な妄想なのである。
(7)日本の政治体制は「君臣共治」!!!
したがってこの教科書が書いたような「中央豪族の政治干渉を排除する」という事態は起こってはいないのである。
良く考えてみれば、この政治干渉なる言葉は、「政治は本来天皇の専権事項であるべき」というイデオロギーに彩られた言葉である。そしてこれまでの日本の政治形態は、大王の選出をめぐる動きを取ってみてもわかるように、大王(天皇)と形の上では臣下である有力豪族との合意で行われているのであり、その意味では「君臣共治」ともいうべき体制なので、「中央豪族の政治干渉」なるものが本来ありえないのである。
さらにこれは、その後「天皇中心の国家体制」を作ったとされる天武天皇から持統天皇の時代につくられ完成した律令の特徴にも表されている。
この教科書では次の項目である「律令国家の出発」の所で、日本の律令の特徴を以下のように記述している(p55)。
唐の制度では皇帝の権力は絶大で、皇帝の両親も祖父母も臣下であった。しかし日本の律令では、天皇の父に天皇とほぼ同等の敬意が払われていた。唐とちがって、日本では国政全般をつかさどる太政官と、神々のまつりをつかさどる神祇官の二つの役所が特設されていた。太政官には大きな権限が与えられていて、天皇の政治権力を代行する役目さえあった。これは中国の皇帝と違って、日本の天皇が大和朝廷以来続く豪族たちの上に乗っていた事情を示している。 |
これはとても正しい記述である。さらにもうすこし正確に記述すれば、日本の律令制では諸政の決定は太政官と天皇との討論と合意を基本としていたことが律令の研究と政治の実際の研究からわかっている。
この事実から判断しても、壬申の乱の結果「中央豪族の政治干渉が排除された」ということはなく、あいかわらず、天皇も含めた有力な諸豪族の合意の下で政治は行われていたのである。
(8)天皇号の成立は天武の時ではない!!
さらにこの教科書は、天武についていかのように記述している(p53)。
大海人皇子は天武天皇として即位し、皇室の地位を高めることで、公地公民を目指す改新の精神を力強く推進した。それまで大王と呼ばれていた君主の称号として、天皇号が成立したのはこのころのことだという説が有力である(推古天皇が最初という説もある)。 |
天皇と名のったのは天武が最初というのである。だがこれは諸資料を無視した妄言である。
推古朝での遣唐使の所で述べたように、この時推古天皇から唐の皇帝に送られた国書と、唐の皇帝からの国書とが日本書紀に載せられているが、そこにははっきりと「天皇」と述べられている。日本書紀は引用された原資料はそのまま載せる傾向が強いので、このとき「大和朝廷」の王が天皇を名乗っていた可能性は大である。
では推古が最初の天皇なのか。いや違う。推古の次の大和の大王である舒明が、632年に来た唐王朝の使人に『天皇の朝廷に唐の使いがきていることを聞いたので、御迎えをして来てもらったのです』と語っているところが日本書紀に引用されている。つまりこのとき正式には天皇は大和の王ではなかったのである。それは九州は太宰府に都する倭王であった。彼は国内的には「天皇」と名乗っていたのである。
そしてこの天皇位はずっと以前から九州の倭王によって称せられていたのである。
6世紀初等の「筑紫の君磐井の乱」と日本書紀で書かれたあの事件で、百済や新羅は筑紫の君を倭王と認めて使いを送っていたことが日本書紀にも書かれている。そしてこのころの事を記したとして記録として日本書紀に引用されている「百済本紀」という書物には、ちょうど継体「天皇」25年にあたる年の3月の記事に『また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子みな死んでしまった』とある。通説では日本書紀の編者が判断したように、大和に伝えられた継体の没年が継体28年となっていたが、より「確実な」外国資料に「25年」とあったので、この25年(531年)を持って継体の没年としている。
しかし日本書紀や古事記のどこを見ても、「天皇・皇太子・皇子の全てが死んだ」という記事はまったくなく、これはどう見ても大和の出来事を記録したものではないのである。したがって「昔から日本の王は大和の王」という先入観を排除してこの資料を読めば、これは九州の倭王朝のことを記したものであり、ここにある「天皇」とは継体の軍によって殺された筑紫の君磐井をさすとしか考えられないのである。
つまり継体の軍によって、倭王であり「天皇」と名乗っていた筑紫の君磐井とその皇太子および皇子の大部分が殺された事件が、その3年後になって百済の王の耳に入ったという記事なのである。
「天皇」位を最初に名乗ったのは九州は太宰府の都する倭王であった。そしてその倭王が隋王朝の成立にさいして「天子」と自称したときに、それとは独立して中国と国交を開きたいと考えていた大和の王の推古は「天皇」と名乗って唐王朝と外交を始めたのである。
しかし正式には国内では「天皇」は九州の倭王なので、推古の次の舒明は「自分は天皇ではない」と唐の使いに述べざるをえなかった。
そして白村江の敗北によって日本列島の代表権を失い事実上滅亡した倭王朝に代わって大和の王天智が日本を代表する王となったとき、はじめて大和の王は正式に「天皇」を名乗ったのである。天武はそれを継承したにすぎない。
(9)「日本」という国号は天武朝に出来たのではない!
この天皇号をめぐる問題は、続いて日本という国号をめぐる問題につながる。
教科書は日本国の成立について以下の様に記述する(p53)。
天武天皇の没後、皇后の持統天皇が即位し、近江令を改めて飛鳥浄御原令が施行され、日本ではじめて中国の都城にならった広大な藤原京が建設された。天武・持統朝(672〜697年)の時代は、日本の国家意識の確立期といってよく、日本という国号もこの時期に確立したと考えられる。 |
天武・持統朝ははじめてづくしであるという主張だ。だがこれも嘘である。
日本ではじめての中国の都城にならった都は、藤原京ではなく太宰府である。太宰府は大極殿を持ち、藤原京のような政治の中枢としての内裏の構造をもった碁盤の目の都城であったことは、発掘の結果わかっている。しかし従来は日本書紀に太宰府の建設の記事がなく、都といえば大和と考えて来たので、太宰府が都の構造を持っている事を看過されるか、発掘報告書から意図的に削除されるかしてきたのである。
九州の倭国は律令も持っていたし、中国式都城も持っていたのである。藤原京は、日本国の中心が九州倭王朝から大和王朝に移った事を視覚的に表現するシンボルであったのである。
そしてこれはまた国号についても言える。日本を名乗ったのは6世紀初頭の倭王朝である(磐井がその王だ)。そしてこれは7世紀の初頭にいたって隋・唐王朝に対しても「日出る処の天子」の国書とともに提示されたはずである。しかし中国の王朝はこの国号を認めなかった。「天子」の称号とセットになっていたからである。
旧唐書の日本伝には先に紹介した『日本はもと小国、倭地を合わす』という記事と並んで、『倭、その名が雅でないことを鑑み、日本と号す』という記事も載せている。おそらくこれが正しいであろう。
しかし隋・唐王朝は日本という国号を認めず、伝統的呼称である「倭」を使いつづけた。
だが白村江の戦いの敗戦で倭王朝が滅びて、唐王朝に恭順の意をひょうし、天子の称号をなのらず天皇の称号をなのる「大和王朝」の王である天智が「日本国」を名乗ったとき、唐王朝は認めたのではないだろうか。その時は670年。天智十年。彼が即位して2年後である。朝鮮三国の記録はこの時をさかいに「倭から日本」へと変わる。中国の記録でそれが変わるのは703年。大宝律令が完成し、名実ともに「大和王朝」が「倭王朝」にとってかわって初めて出した遣唐使。この到着をもって中国は正式に日本国の発足としたのである。
たしかに天智・天武・持統朝は、日本が律令を持ち、法の上では天皇を中心に国家としてまとまった時期であった。しかしその体制は「天皇専制」ではなく、「君臣共治」とも言える有力豪族と天皇との合意を政治の基本とした体制であり、その体制を法でもって固める体制の淵源は大和にではなく九州太宰府に都した倭王権にあったのであり、その下で一定程度完成したのである。
その律令を元にした「天皇と有力豪族の共治」の体制を白村江の敗戦での倭王権の滅亡を受けて、「大和朝廷」が引き継いだというのが、「大和中心主義」という「皇国史観」に邪魔されない、日本古代史の真実の姿である。
日本国の始まりを記した新しい歴史教科書の記述もまた、この「大和中心主義」と「皇国史観」に色濃く歪められた歴史叙述だったのである。
注:壬申の乱について、古田武彦が最近、「壬申大乱」(東洋書林2001年刊)において注目すべき見解を述べている。それは壬申の乱とは大和朝廷内部における皇位継承戦争ではあるが、その舞台は畿内だけではなく、九州をも含めた全国的な戦争であったというもの。その背景は、白村江における倭王朝の敗北と唐帝国軍による博多・大宰府占領がある。そして大海人皇子が下った「吉野」は大和の吉野ではなく、九州倭王朝の軍事拠点である有明海沿岸の「吉野宮」(例の吉野ヶ里遺跡のそば)であり、ここは倭水軍の根拠地で当時はここに占領軍である唐水軍と倭水軍の主力で唐に協力した大分君の水軍があった。大海人は唐の支持の下、倭王朝の残存部隊の主力である大分君の援助を得て、さらに大宰府を中心とした倭王朝の駅制度を駆使して水軍・陸軍を総動員して近江京を攻め落としたと、古田は述べている。つまり、日本書紀の壬申の乱に関する記述は、実際の戦争の基点であった九州の地名を大和周辺の地名に移し変え、この戦争を大和朝廷内の伝統的な皇位継承戦争の枠内にでっち上げたということになる。こう捉えると、壬申の乱も、白村江における倭王朝の敗北、東アジアにおける唐帝国の覇権の確立と言う国際情勢に中にしっかりと位置付けることができる。傾聴すべき見解であると思う。
注:05年8月の新版の記述は、旧版の記述を整理したもので、内容はほとんど同じである(p40・41)。ただし、3ヶ所が削除または表現を代えている。一つは天智天皇の「近江令」。これは完全に削除されている。二つ目は、持統天皇の時代の「飛鳥浄御原令」。これも完全に削除され、かわりに天武天皇の所に、「中国の律令制度にならった国家の法律の制定」という表現が挿入されている。さらに三つ目は、壬申の乱の所で、「中央豪族の力を削ぎ、彼らの政治への介入を排除した」という部分。これも完全に削除されている。
これは古代史学会の定説に従った修正である。
注:この項は、前掲古田武彦著「法隆寺の中の九州王朝」、遠山美都男著「白村江ー古代東アジア大戦の謎―」(講談社新書1997年刊)、遠山美都男著「壬申の乱―天皇誕生の神話と史実―」(中央公論新書1996年刊)、佐藤進一著「日本の中世国家」(岩波書店1983年刊)、前掲河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」などを参照した。