「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判M


 14.比較的正確に描かれた律令国家の諸相

 律令国家の成立の4番目の項目は、「律令国家の出発」と題して、日本の律令国家の特色を描き出している。

 まず「大宝律令と年号」という項目を立て、701年に大宝律令が成立したことの意味を述べ、そのあと「平城京」と題して日本の律令制度の特色を描き出し、貴族の生活と庶民の生活を概観する。そして最後に「律令政治の展開」と題して、奈良時代政治史の諸相を描いている。

 この記述は全体としては正確であり、日本の律令国家の特色をよく描き出している。特に2項目の「平城京」の部分の記述は、他の教科書に比べても各段に優れており、特筆に価する。

 ではどう記述されどこが優れているのか。教科書の記述に沿って述べて行こう。

 (1)日本の律令は、「君臣共治」の体制!

 教科書は次のように記述する(p55)。

 唐の制度では皇帝の権力は絶大で、皇帝の両親も祖父母も臣下であった。しかし日本の律令では、天皇の父に天皇とほぼ同等の敬意が払われていた。唐とちがって、日本では国政全般をつかさどる太政官と、神々のまつりをつかさどる神祇官の二つの役所が特設されていた。太政官には大きな権限が与えられていて、天皇の政治権力を代行する役目さえあった。これは中国の皇帝と違って、日本の天皇が大和朝廷以来続く豪族たちの上に乗っていた事情を示している。天皇は、依然として彼らにそれなりの立場を与えることで、その権力を発揮していた。一方で、天皇には権力にまさる権威がすでにあった。かっての中央豪族たちは、このころには朝廷の役所で高い地位につき、貴族とよばれた。平城京は、貴族たちの活躍する政治の舞台でもあった。

 先にも述べたが、この記述はとても正確であり、日本の律令制の特色が中国の律令制のように皇帝の絶対権力を基礎にはしていず、天皇と太政官という上級貴族との合意によって政治が運営されるものであることを見事に示している。またそのことで、貴族との合意に基づき政治権力を行使する天皇が持っていた「権力にまさる権威」とは何であったのかという、日本史を考える上で不可欠な問題を提起している。

 それは「支配階級の統合の象徴」であり、「支配階級が行使する権力に権威を付与する」ものであったことは今後の歴史展開を見ていくとおのずと分かるが、この時代においてはこの教科書が詳しく記述するように「人口600万の中の200人の貴族の支配階級としての統合の象徴」であり、「これら200人の貴族と約1万人の官僚が行使する政治権力の権威の源泉」でもある。

 (2)「公正の前進」としての律令体制の進歩性!

 そして一つ、この教科書の記述の優れているところは、通常は「過酷な搾取の体制」としか描かれることのない律令体制を「諸国民にとっての公正の前進」として歴史的に評価していることである。教科書の記述を見よう(p56)。

 公地の支給を受けた公民は、租・調・庸という税の義務をおった。税は、かなりきびしい内容のものであった。
 しかし、多数の農民に一様に平等の田地を分け与え、豪族の任意とされていたまちまちの税額を全国的に一律に定めたこの制度は、国民生活にとって、公正の前進を意味していた。

 通常の教科書の記述は、税や兵役や労役の厳しさを強調し、山上憶良の「貧窮問答歌」を使用して搾取の厳しさを述べ、これが諸国における逃亡者の多さにつながったとするのが一般的である。

 この新しい歴史教科書は、そのような立場を取らなかったが、このことは卓見である。

 近年の考古学の発掘成果によれば、古墳時代の各村落には中核農家ともいうべき上層農民が成立し、彼らはそれまで豪族が占有していたであろう鉄製の農具を所有して、規模の大きな農耕を展開していた。これまで神話的地縁・血縁によって豪族をその首長とする共同体の中に規制されていた民の中から、独立して農業活動を行う人々が台頭して来た事は、共同体の祭司としての豪族の権威を著しく低下し、その統治能力の低下を招いていたであろう。

 このことが、日本の国家的統一を促した要因として、外からの隋・唐王朝の成立という外圧とともに、内的要因として存在したのである。したがってこの台頭する上層農民の視点から見れば、律令国家の成立は、共同体首長としての豪族からの独立を保障する、経済的・政治的基盤を提供したものであり、「社会的平等」の前進としての「公正の前進」を意味していたのである。

 上層農民の台頭という社会の変化を記述してしないという欠陥はあるが、この点を踏まえて律令制度の成立を評価したこの教科書の記述は、この意味で先進的なものと言えよう(これはこの教科書が歴史を「国家の発展史」ととらえることから生じている。また、上層農民の台頭を記述しなかったのも、この「国家の発展史」という観点から生まれており、これはこの教科書の社会史への目配りの欠如という、皇国史観・大国主義・女性蔑視などと並ぶ、この教科書の根本的欠陥を生み出す元でもある)。

 なお、山上憶良の「貧窮問答歌」について一言付言しておこう。この歌は彼の筑紫国司や石見国司としての実際の経験に基づくものであるとはとうてい思われない。この歌がどんな状況で詠まれたかというと、大和での政争に破れ太宰府に事実上配流された大伴旅人を囲んで、かっての倭国の都である太宰府で、その滅び去った倭国の運命と自分たちの運命とを重ね合わせて歌を歌った中で歌われたのである。山上氏は百済の遺臣であり、その初代は税を免除されたものの、慣れぬ土地でも開墾作業や百済貴族としての地位を失っての苦労は並大抵のものでなかったであろう。したがって、山上憶良の「貧窮問答歌」は、この亡命百済貴族の末裔としての自身の運命を象徴的に歌ったのものと考えられる。

 さらに奈良時代の資料に散見する「逃亡」の問題であるが、逃亡の資料と戸籍とを比較すると、逃亡者の総数がその郷の戸籍人数の総数を越える例があることや、逃亡者を出した家族には旧来の地方豪族につながる家系が見られることなどから、「逃亡」とは豊かな階層の税金逃れのための方便と考える事も出きる。

 (3)露骨な「大国主義」の発露=年号・律令問題

 しかしこの比較的詳しく進歩的な記述の中にも、意図的な歴史捏造をするところがこの教科書の問題点である。教科書の記述を見よう(p54)。

 東アジアで、中国に学びながら独自の律令を編み出した国は、日本のほかにはない。新羅は、唐の律令の中から自国に役立つ内容だけを拾い出して用い、みずからの律令をつくろうとしなかった。わが国では、日本という国号が定まったこの時期以来、年号が連続して使用されるようになった。一方、新羅は唐の年号の使用を強制され、これを受け入れた。日本における律令と年号の独自性は、わが国が中国に服属することを拒否して、自立した国家として歩もうとした意思を内外に示すものであった。

 この記述は、事実のある側面のみを描き、その背景となる事実をまったく隠すことで事実の本来の意味を押し隠し、自己の主張が歴史的に正しいかのように歴史を捏造した見本のようなものである。

 そもそも6世紀の東アジアで多くの国が中国とは独自の年号を持っていた。日本、正しくは大宰府に都を置く倭王朝は、少なくとも522年には「善記」という年号を持っていた。つまり「天皇」を名乗った筑紫君磐井の時代である。そして新羅もまた同じ時代に独自の年号を持った。536年(法興王23年)のことである。どちらも独自の年号を持ったのだ。おそらくこれは中国が南北朝時代であり、中国の正統な天子の力が地に落ちていたことを背景にしていたのであろう。

 しかしこの流れは唐帝国の成立とその国土の拡大によって阻止される。
 649年、唐の太宗皇帝は新羅王に対して独自年号を持っている事を難詰し、新羅は翌650年独自年号を廃止して唐の年号を使い、その4年後の654年、唐の冊封下に入った。だが倭王朝は独自年号を使いつづけ唐とも対立した。その結果が661年から663年にわたる唐との決戦(その終末が白村江の戦い)であり、倭王朝は事実上滅び日本列島の代表王朝は大和王朝に替わった。

 新羅と日本とがことなる道を歩んだのは、中国の統一王朝としての唐との地理的な位置関係と政治的な位置関係の違いによる。
 日本はなんといっても中国との間に朝鮮半島と海を挟み、この二つが強大な中国の直接的支配に対する防波堤の役割を歴史的に果たしてきた。そしてこの7・8世紀の場面では、唐王朝と戦火を交えた倭王権が滅亡し、唐への恭順を図った「大和王朝」の出現が、唐の直接圧力を受けない一つの要因であった。このことが一つの理由となって白村江の戦いのあと唐が日本に侵攻しなかったのだが、これにはもう一つ根本的な理由があるのである。それはこの教科書も前の項目で書いているが、唐が百済を攻めたのはあくまでも唐と戦火を交えている高句麗を南から牽制する勢力である新羅を強化するという目的であり、新羅と協力して百済を攻め、唐に恭順する新政権をつくればそれで唐の目的は達せられていたのである。唐王朝としてはあとは、新羅に南から牽制させて敵対する高句麗を攻め滅ぼし、そこに唐に従順な新高句麗をつくれば良かったのである。そして伝統的に中国の王朝にとって、日本列島の住民は僻遠の地に住む蛮族であり、その服属が王朝が天から承認されている証とされる程度の重要性しかなかったことも、日本が中国の直接支配を受けない理由でもある。

 しかし朝鮮半島は違う。中国と直接国境を接しており、しかも満州を経由してこの地は、中国の中原(ちゅうげん)と呼ばれた大農耕地帯をうかがう遊牧民族の流れを汲み、そのために中原を支配した王朝としばしば戦火を交えてきたのであった。
 しかもこの7・8世紀において朝鮮半島北部から満州の一部を支配した高句麗は強大で、この戦に負けたことがあの秦の始皇帝の権力の崩壊にもつながった故事が再来し、高句麗との戦に負けた隋王朝は滅亡したのであった。

 したがって隋に変わって統一権力を握った唐は、その威信をかけて高句麗を攻めたがせめあぐね、西方の突厥との戦が一段落した7世紀の中ごろに、唐は百済の圧迫からの救援を求めた新羅の求めに応じて百済を攻め、高句麗を南から牽制しようとしたのであった。そして新羅の援助を得て百済を亡ぼしてそこに熊津都督府を置き、続いて新羅の協力を得て、高句麗を滅ぼしたのだった(668年)。

 だがここで唐王朝の半島政策に狂いが生じた。唐に従順でそれに従ってきたはずの新羅が唐に抵抗し、高句麗再興を目指す高句麗の遺臣たちを援助し、そのことによって高句麗の故地を併合するとともに、熊津都督府を攻めて、百済の故地の唐軍を駆逐し、百済の故地を併合してしまい、北は満州の一部から南は対馬海峡に至る強大な国家としての統一新羅を樹立したのである。672年のことである。

 この新羅の動きに対して唐は軍事行動を起こし、戦いは676年まで続いた。しかし唐の遠征は失敗し、676年に新羅が唐に謝罪し、唐は高句麗の地に置いていた安東都督府を遼東半島に移し、朝鮮半島の領有を新羅に認めて終わった。

 新羅が日本とは異なり唐の年号を使用したのは、こうした軍事的緊張関係が続く中で選択されたことであり、日本とは置かれた状況が違ったのである。また新羅が独自の律令を作らなかったのは、この国は朝鮮半島の中では遅れて発展したため、王権の力が弱く、貴族の合議で政治が行われており、皇帝の専制と官僚制を基盤にした律令制度はまだ充分に適用できなかったからである。この意味では新羅の律令制と日本の律令制とは実質的には同じであり、新羅よりは早くから律令制を適用し、日本の現実に合わせた律令を作り上げていた日本と、遅れて新たに律令制を取り入れた新羅というように、律令制を取り入れる形が違っただけである。

 ともあれ、こうした国際情勢や国内情勢の違いを無視して、日本と新羅とを同列において形式的に比較し、その事を持って「日本は独立の道を選び新羅は服属の道を選んだのは、その意思の違いに原因がある」という評価をすることは、「日本は朝鮮より優れている」と考えたい「大国主義」と「朝鮮蔑視」の思想を丸出しにしたものである。

 最後に付言しておくが、日本独自の律令と言われる物は、実は百済の律令を真似たものである。早くから中国の官制を取り入れていた百済は、貴族の合議制という実態に見合った律令を作ろうとしていたのであり、早くから独自の年号も持っていたのである。この百済と古くから連合しかつ対抗してきた九州の倭王権もまた早くから百済の例に学び、律令を取り入れ年号も独自のものを使っていた。それは、522年の善記という年号から始まり、698年の大長まで32に及んでおり、その中には有名な「白鳳(661〜683)の年号も見えている。そしてこの倭王朝の最後の年号は「大化」であり、これが終わったのは700年。その翌年の701年、大和王朝は初めて独自年号「大宝」を制定する。ここに日本列島の統一王権は九州倭王朝から大和王朝に替わったのだ。
 この大和王朝が新羅とは異なって独自年号を使い続けられたのは、唐と日本の間に、半ば唐に敵対的な新羅という国があったからで、大和王朝=日本国の唐への服属は、新羅に対する南からの抑え=「同盟国」であり、大唐帝国が天の意思に適っている証左と考えられたという特殊な状況があったからではないだろうか。

 新しい歴史教科書の記述は、このような事実をも押し隠し、「日本だけが優れている」という自民族優越主義を、歴史を捏造する事で主張しているだけなのである。

 (4)社会史の視点の欠如=政治主義的記述

 さらにこの教科書の根本的欠陥が、この項目の記述には良く現れている。先に述べた、律令制の成立の意味の問題で、この教科書は「律令制の成立は、公正の前進を意味した」と抽象的に記述するだけで、全国一律の法体系と平等な土地の分配制度成立の背景には、神話的血縁・地縁共同体から上層農民が自立し始めていたという社会の変化があったことを記述していないことを指摘した。

 したがってこのような記述からは、政治的な制度の変化の背景には、必ず社会の大きな変化と社会的闘争があるという歴史の命題が捨て去られ、表面的な政治史・国家史の叙述に歴史が切り縮められてしまうのである。

 さらにこの教科書の社会史の視点の軽視の態度は、律令制下の「公民」を「農民」と言い換えて何の疑問も抱かないところにもよく現れている。

 網野善彦の研究以来、中世・近世において「百姓」と言われてきた人々は農民も含む、商業民や手工業民、そして漁民や海民などの多様な人々からなっていることが明らかとなっている。そしてこのことは古代において使われた「百姓」も同様であることが分かっている。そしてさらに律令制はこの多様な人々を、税の基準を田地と稲に置く事により、「公民=農民」という図式に等値して、その支配体制を維持した事も、さまざまな研究からあきらかになりつつある。

 またこのような研究はさらに、「公民」に相対する「賎民」についても、単に差別された人々ではなく、その中には「神の奴婢」と言われ、その神性によって人々から怖れ遠ざけられた人々がいた可能性も指摘されている。それは例えば、萬葉集に読まれた「つるばみの衣の人」は、この「神の奴婢」である可能性があり、公民がこれになりたいと歌った意味は、これらの奴婢が様々な義務を持たない事をうらやんだだけではなく、神の奴婢として人々から怖れられかつ敬われていたその存在そのものへの憧れであった可能性もあるのである。

 さらにこの「神の奴婢」の対極にいる『天皇』の権威も、それが神に近い存在で、神と人間とをつなぐ特殊な能力を持った存在として人々に認識されていたからこその権威があることも明らかになりつつある。

 新しい歴史教科書は、近年進展している社会史の研究成果をほとんど無視している。そしてこのためにその記述はどうしても政治史・国家史に偏る事となり、その政治史や国家史が社会に深く根ざしている側面を充分には描けないのである。

 この律令国家の出発の項目は、この教科書の長所と欠陥の両者を見事に示しているのである。

注:05年8月の新版は、旧版の記述の中で私が「優れた点」「問題点」として指摘した部分を全て削除するか大幅に記述を削ってしまった。すなわち、新羅と日本とを比べて独自の年号・律令を持つか持たないかで優劣を決めたかのような記述は大幅に簡略化され、ただ一言「唐に朝貢していた新羅が、独自の律令ももたなかったのに対し、日本は、中国に学びながらも、独自の律令をつくる姿勢をつらぬいた。」と記述した(p42)。しかしこの記述の「朝鮮蔑視的」性格は変わらない。また日本の律令と中国の律令の違いを示し、日本は「天皇専制」ではなく「君民共治」という貴族と天皇の合議制であったという優れた記述は全面削除されている。従ってここで古代日本の政治制度の特色を深く学ぶ事は不可能になってしまった。さらに、公地公民制が持つ「公正さ」の前進という側面の説明も大幅に簡略化され、「律令国家のもとでは、公平な統治をめざして、公民の原則が打ち立てられた」という記述になり、旧版の時よりもさらに意味不明な記述となっている(p43)。これはあいかわらず社会経済史的視点が全く無い事とあいまって、この時代の特色をつかみにくくしている。新版の改定は、「角をとる」という方針の下で、他の教科書と違って踏み込み優れた記述がなされていた部分がかえって改悪され、その民族主義的な主張だけが残る結果となっている。

注:この項は、前掲佐藤進一著「日本の中世国家」、古田武彦著「壬申大乱」などを参照した。


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