「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判N


 15.平板な理解に止まった「律令政治の展開」

 律令国家の出発の後半は「律令政治の展開」と題して、奈良時代政治史の概略を記述している。しかしその記述は、この教科書が日本史における「天皇」の存在を強調する割には極めて平板な、通説的理解に止まっており、この20年間の天皇制研究の成果を全く取り入れていないものであるとともに、「天皇家至上主義」をただイデオロギー的に吹聴しているだけであることを極めて見事に示している。

 (1)天皇制の歴史の中で特異な位置を占める聖武朝

 奈良時代政治史は、日本の天皇制の歴史の中でも特異な位置を占めている。とりわけその中心人物である聖武天皇は、天皇としてはその行動は異常であり、不可解な人物として知られる。

 その第一は「幼年の皇太子を立てた」こと。彼は后の藤原光明子との間に出来ただだ一人の男子である基王をわずが生後3ヶ月で立太子させた。これまでは次の天皇である皇太子は成年に達しなければならなかった。そして基王は半年後夭折した。

 その第二は「男の天皇では初めて生前に譲位した」こと。これまでの天皇は一時的な中継ぎの天皇である女帝を除き、死ぬまで天皇を勤めるのが通例であった。だが彼は生前譲位し、上皇として初めて権力を振るった。

 その第三は「娘を立太子させ、その娘を即位」させた。聖武のあとを継いだのは女帝の孝謙である。しかも彼女は女性としてはじめて皇太子となったあと天皇になった。普通女帝は、天皇の後継ぎがいないときの中継ぎとして、前天皇の皇后が即位する。しかし聖武天皇は皇太子として娘を立太子させ、そして彼女に天皇位を譲ったのである。この時、孝謙天皇の次の天皇候補は決まっていなかった。

 その第四は、「在位中に反乱・謀反」が多いこと。彼の在位中には「天皇」位を狙い謀反を起こしたとして処断された長屋王や、反乱を起こしたとされる藤原広嗣など、高位の者が処断される場合が多い。

 その第五は「仏教に帰依し、在位中に出家」した。仏教に篤く帰依した天皇・皇族は聖徳太子の例のように何人もいる。しかし聖武は在位中に出家して、自ら「仏弟子」を称し、巨大な大仏を作らせた。この仏教狂いは異常である。

 そして聖武天皇の天皇としての異常さはそのまま娘の孝謙天皇に引き継がれ、天皇の仏教狂いは「道鏡の天皇擁立事件」として極まった。また孝謙女帝の在位中は謀反が多く、孝謙天皇はその謀反に関わったとされる周辺にいた天武系王族を根絶やしにせんばかりの異常な粛清を行い、そのはてに次の天皇を決めず、皇太子も決めないまま死去したのである。

 この二代にわたる天皇の異常さを抜きにして奈良時代の歴史を見る事は出来ないのに、従来の教科書はこの件についてはまったく記述しなかった。しかし河内祥輔にはじまるこの20年間の天皇制研究は、この奈良時代政治史の謎を見事に解き明かし、天皇という存在の意味を見事に解明しつつあるのに、この教科書もまたこの研究成果をまったく無視しているのである。

 では、その謎はどう解明されたのか。次に教科書の記述に沿って明らかにしておこう。

 (2)解き明かされた「聖武天皇」の異常さ!

  教科書は聖武天皇について次のように記述している(p57)。

 聖武天皇の治世(724〜749年)になると、疫病や天災がたびたびおこり、土地を離れ逃亡する農民も増えた。朝廷は、開墾を奨励し、それまで国家の統治がおよばなかった未墾地も規制するために、743年、墾田永年私財法を出して、新しく開墾した土地を私有地にすることを認めた。この法律は、人々の開墾への意欲をかきたて、水田の拡大につながった。しかし、有力な貴族や寺院、地方豪族などが逃亡農民を使ってさかんに私有地を広げたので、班田収受法はしだいに厳格には行われなくなった。
 聖武天皇は、仏教に頼って国家の安定を祈願し、全国に国分寺と国分尼寺を建て、東大寺の大仏をつくる詔を出した。

 この表現は多くの教科書に共通した記述であるが、これでは聖武天皇は「自ら班田収受の法=律令制をこわすことをはじめ、国家の安定のために多大な私財と労力をかけて多くの寺をつくり、人々に多大な負担をかけた」天皇という理解になってしまう。教科書の著者としては人々のことを考えた慈悲深い帝王というイメージで書いているのだろうが、そう理解する事は現代の目では不可能であろう。

 では真実は何であったのか。

 河内祥輔の研究によれば、聖武天皇は生まれながらにして「天皇の資格に欠ける」天皇と貴族全般に認識され、天皇自身もそのコンプレックスを抱いていて、その克服に生涯をかけたということである。したがって彼のなした事はすべてこの「天皇としての資格」を確立するためになされたことと理解すると、極めて合点の行く事である。

 天皇は「その両親ともに天皇の子」という血筋がその継承の資格と貴族たちに認識されていた。聖武天皇の母は藤原氏の出であり、彼は天皇の資格を満たさなかったが、天武―(草壁)―文武と続いた王統の唯一の継承者だったので諸貴族もしかたなく彼の王位継承を承認した。したがって彼は「天皇の資格」を満たした子どもをもうけること至上命令であったのだが、彼の前には3代にわたる女帝が続き、彼の父文武には子どもは彼しかいなかったので異母姉妹もおらず、彼には妻とすべき適当な年齢の皇女がいなかったのである。

 そこで彼が考えた策は、新しい「天皇の資格」を作りだすことだった。そしてそれは「藤原氏の出の后を母とする」というものであり、藤原光明子との間のただ一人の男子である「基王」を後継者とし、この息子の成人とともに位を譲り、自分は上皇として権力を振るい、自分の子孫に王位を伝えようという目論見であった。しかし728年、基王は1歳にならずに死去し、彼の構想は挫折した。ここに「天皇の資格」を持った後継者がいないという事態が生まれ、奈良時代政治史は此れ以後、桓武朝の成立まで30年以上にわたって不安定になった。

 この事実を背景に聖武天皇の行動と彼の在位中の出来事を考察すると、謎は一気に解けて行くのである。

 (3)聖武の野望の展開と挫折―奈良時代政治史の基調―

 ではそれはどう理解されるのか。先に挙げた5つの不可解なことを一つ一つ検証してみよう。

  第1の「幼年の皇太子をたてた」ことは、新しい条件のもとで自分の直系の子孫に皇位をつがそうという動きを貴族たちに承認させるためである。しかしこれは皇太子の死によって挫折した。

  第2の「生前譲位」であるが、これはこれ以前の744年に聖武天皇の残されたただ一人の男子である安積親王(彼は母の身分が低いので王位継承は困難ではあったが)が死去し、聖武天皇の直系の子孫に皇統を継がせる事が不可能になったことと関係がある。この事態に直面した聖武天皇は娘の井上内親王を伊勢の斎宮から呼び戻し、天智の子孫なので皇族の片隅にいた白壁王(後の光仁天皇)に嫁がせ、二人の間に生まれた男子を次の後継者にしようと考えた。だがすぐには男子が生まれなかったので聖武天皇は次代の後継者を恵まれることを仏に祈って、自らを仏弟子とし、諸国に寺をつくったり、大仏を建立したのである。普通大仏の建立とは「国家の安定」のためと解釈されているが、この時代の天皇にとっては「国家=天皇」であり、『国家の安定=皇位の安定』であったのである。したがって彼が次々と都を移すという「狂気」の沙汰にでたのも後継者がいないという不安から出たのであり、大仏建立の詔の直前に出されたあの有名な墾田永年私財法も、大仏建立に私財を寄付することを促した流れの中において捉え、私財寄付・聖武皇統の承認と引き換えに「土地の私有を認めた」と理解できるのである。また同じく彼が仏教に異常に深く帰依したという第5の謎も、これで理解できる。

 しかし一向に次の後継者が生まれない中で失意に陥った聖武天皇は、失意から皇位を離れるという意味で生前譲位し、さらに後継者が生まれるまでの中継ぎとして娘を女帝として即位(孝謙天皇)させたのである(第三の謎の意味はこれである)。

 第4の謎である「反乱・謀反」の多さは、「天皇の資格にかける」聖武天皇が、「天皇の資格」を持った後継者がいないという状況をもとに考えれば理解できる。当然皇族や貴族たちは次の天皇を考え始めたであろう。聖武天皇以外にも天武系の有力な王族は何人もいたのだから。そして聖武天皇の側は逆に、この有力な皇族を排除することを考えたであろう。有名な長屋王の変は、あの基王が死去した次の年である。
 聖武天皇のおばである吉備内親王を后とし、自身も天武天皇の第一皇子の高市皇子を父に持つ長屋王は親王の位をもち、二人の間には男子が3人もいた。長屋王は聖武王朝をおびやかす最右翼として「謀反」の嫌疑をかけられ抹殺されたのである。そして此れ以外の「謀反」事件はすべて、孝謙天皇在位中のものも含めて全て、聖武系以外の天武系の皇族を根絶やしにする所業だったのである。

 この聖武天皇のなりふりかまわない行動にもかかわらず、ついに彼の生前には後継ぎは生まれず、彼の構想は実現しなかった。しかし娘の孝謙天皇はその構想をあきらめず、父の理想を継承してさらなる皇族の殺戮を行っていくのである。

 (4)なぜ天皇制研究の成果をとりいれないのか?

 古代史を天皇家の王位継承を焦点として記述してみると、古代史の謎が次々と明らかになる。そしてこのことを通じて雲の上の存在であった天皇が一人の肉体と欲望を持った生身の人間として生き生きと動き出す事が理解されただろうか。近年の天皇制研究は天皇を一個の政治的意思を持った人間として捉え、彼の行動を自己の直系王統を作ろうという意思に基づいたものと考える事で、古代政治史を今までよりも生き生きと描く事に成功したのである。

 しかしこの研究成果は、いまだに教科書において採用されたためしはない。これはこの新しい歴史教科書だけではなく、すべての教科書で言えることである。なぜであろうか。

 事態は簡単である。戦後の教科書の執筆者を担った人々は左翼的な人々か民主主義派保守とも言うべき人々であった。この人々にとっては天皇制の問題はタブーであったのである。一つはあの暗い侵略戦争の思いでゆえに、そして天皇の戦争責任をあいまいにして戦後日本を出発させた事によって。したがって憲法の冒頭に規定された「日本国民の統合の象徴」という意味も深く追求されなかったし、天皇の歴史上で果たしてきた役割についても研究されてこなかった。そしてこの傾向は今も続いているのである。

 では、天皇中心の歴史を描こうとしている「新しい歴史教科書を作る会」の人々はどうであろうか。

 これらの人々にとっても天皇は1つのタブーなのである。「神聖不可侵」の存在であり、絶対的な権威を持つ天皇を研究するなど、彼らにとっておこがましいことなのである。彼らにとっては天皇は常に国と国民のことを考えている慈悲深い君主であらねばならない。そしてこのことはとりわけ昭和天皇についてその人間性についてまで教科書で記述する彼らの姿勢に良くあらわれている。

 したがって彼らにとって、天皇は「自分の皇統が続くこと」を第一義として行動し、「それを妨げるものを暴力的に排除する」ものであるなどという研究成果を認めることなど持っての他なのである。それでは天皇の行動の意味が白日のもとに晒されてしまい、彼がよくいう「国家」とは天皇自身のことであり、「国家の安泰」とは「天皇自身の安泰とその皇統の安泰」を意味するなどということが明らかにされてしまうと、天皇の持つ「神性」が汚されてしまう。例えばこの原理をもとに昭和天皇が大戦において取った行動を分析し、終戦の詔勅なども詳細に分析すれば、彼が国民の行く末などは全く案じてはおらず、「皇統を伝える」ことしか考えていなかったことが明らかになり、「国民とともに歩む天皇裕仁」という虚像が崩壊するのである。だからこの教科書は天皇制研究の成果を完全に無視するのである。

 (5)大義名分としての天皇制・従わぬものはすべて「平定」の対象!

 この「新しい歴史教科書」が「日本は古来から天皇の統治下にあった」という命題を証明などせずに大義名分として掲げている事は、日本の歴史を正確には描けない原因となっている。その1つの例がこの「律令政治の展開」の項に出ている。

 教科書は奈良時代を次のように描いている(p57)。

 東北地方には蝦夷とよばれる人々、九州南部には熊襲または隼人と呼ばれる人々がいて、古くから大和朝廷に服従しなかった。しかし、律令国家が順調に進展するにつれ、北も南もしだいに平定が進み、琉球諸島の最南端の信覚(石垣島)や球美(久米島)の人々も、早くも8世紀初頭に平城京を訪れ、朝貢した。

 この記述のしかただと南は朝貢してきたのはわかるが「北は?」と言いたくなるが、その問題は後にして、この記述の一番の問題点をまず指摘しておこう。それはここで使用されている「平定」という言葉である。

 平定という言葉は「従わないものを従わせる」と言う意味に辞書などでは解説しているが、これは本来「大義名分論」に立つ政治的用語である。
 つまり、「従わないものを従わせる」ということは「本来従わなければいけないものが従わないので、実力を持って従わせる」という意味で、平定する主体に対して従うのが当然であるのに従わないから武力で屈服させるという意味なのである。言いかえれば日本列島やその周辺地域を統治する権限は大和朝廷に本来的にあるのに、蝦夷や熊襲や隼人やそれ以南の島々がしたがっていないから武力で征服したのは正当な行為であると言う意味になる。

 この言い方がすごく放漫なものであることは「平定」されるものの立場でものを考えてみればすぐわかる。蝦夷や隼人は自分の国を持ち(大和よりまだ制度が整っていなかったかもしれないが)そのもとで暮らしていた。そこへ隣国である「大和」が勝手に蝦夷や隼人の土地や民に対する統治権を標榜して押し寄せ、抵抗するものを武力で征服した。そして以後、大和の権力に反抗するものは「反乱」と見なされ武力討伐=平定の対象となる。これがいかに大和中心の歴史観であるか、そして天皇中心の歴史観であるか。明らかであろう。

 事実はこうである。8世紀になっても蝦夷は大和の支配には屈していなかった。かなり以前から繰り返し九州の倭王朝の侵略を受け、その圧倒的な武力の前に屈服していた蝦夷の人々は670年の倭王朝の滅亡と天智朝のもとの日本への転換を一応平和裏に受け入れてはいた(日本書紀の天智以前の蝦夷の記事は全て九州の倭王朝の出来事を挿入しただけである。大和の正史である古事記には蝦夷は倭建との交渉以外にはでてこない)。

 しかし天武朝以後の日本は関東甲信越の民を次々と陸奥や出羽という蝦夷の国に武装植民させ、あちこちに「柵」と呼ばれる軍事拠点を置きながら蝦夷の地域を侵食していた。それに対して蝦夷の人々は、大和において「天皇の資格をもたない」聖武天皇が即位するや、公然と武力蜂起し、以後大和との間は戦闘状態になっていったのである(これは桓武天皇が即位し、その皇統が安定し、大和が全力をあげて蝦夷を「討伐」するまで続く)。

 しかるにこの新しい歴史教科書はこの事実を隠し、日本列島南端の島々の民が使節を平城京に送った事実だけを取り上げて「南北ともに従わぬものを平定した」かのような印象を読者に与えようとしているのである。ここでも歴史は捏造されている。(さらに付言すれば、熊襲は九州南部ではなく九州北部の倭王権を指すことばであり、南九州の隼人はかなり以前に倭王権によって武力征服されていたことは、倭王権の歴史書から盗まれて日本書紀の景行天皇の段に挿入された九州征伐の条に詳しく描かれている。)

 (5)7世紀始めには、すでに日本全国で貨幣が流通していた

 最後に、奈良時代という時代を理解する上で大事な問題を提示しておこう。それは貨幣流通の問題である。

 教科書は次のように記述している(p57)。

 諸国から金銀銅が献上され、唐にならって和同開珎という貨幣が発行された。     

 これだけの記述であるが、この書き方は今までの教科書の記述とは違っている。従来はこの和同開珎の記述には「日本最初の貨幣」という言葉がついていたのだが、この教科書はこの一言を削っている。

 これは最近奈良の飛鳥池の遺跡から貨幣鋳造工房が出現し、そこから「富本銭」という和同開珎より古い貨幣が大量に、その鋳型とともに出土したという事実を反映している。そしてこの「富本銭」は、天武天皇の12年(683年)の「銅銭を用い銀銭を禁ずる」という布告の「銅銭」にあたるとされ、この「富本銭」こそ日本最古の貨幣とされる見解が学会で有力となったからである。

 だが問題はここで止まらないのである。この天武の布告をよく読めば、銅銭は銀銭にかわって流通すべき事が布告されたのであり、これ以前に銀銭が流通していた事実が浮かび上がってくるからである。しかし古代史学会のここで立ち止まっている。多くの学者は「富本銭」をもって日本最古の貨幣というに止まっているのである。

 なぜか。それは日本書紀には天武以前には貨幣を発行したという記事がないから、この布告にある「銀銭」が意味不明となるからである。

 しかしその銀銭は存在した。しかもそれは全て銀1両の4分の1の重さを持ち、円形で中央に穴があいた貨幣で、どう考えても統一権力が鋳造し流通させたものとしか考えられない貨幣である。名づけて「無文銀銭」。

 そしてこの銀銭が「富本銭」や和同開珎に先だって全国的に流通していたとすると、「富本銭」がすぐに忘れ去られ発行されなくなった事実や、和同開珎が当初は銀銭として鋳造され、これが先行する銀銭と等価値で流通されようとして失敗した事、さらにこの和同開珎銀銭の10分の1の価値を持って和同開珎銅銭があとから発行されて流通させようとして失敗した事実が、極めて良く理解できるのである。

 無文銀銭は銀1両の4分の1の重さがあり、銀地金としても銀1両の4分の1の価値がある。しかし和同開珎銀銭は銀の重さは無文銀銭の重さの3分の2しかない。つまり奈良の朝廷は3分の2の価値しかない新しい貨幣を今までの貨幣と等価値として流通するよう強制しようとしたのである。そしてその実績の上に、和同開珎銀銭の10分の1の価値しかない銅銭を流通させようとしたわけだが、これはどう考えても江戸時代に幕府が粗悪な貨幣を大量につくって流通させ、その金の差額の分だけもうけようとした政策とおなじである。

 だから人々は和同開珎を使わなかった。このため朝廷は、本来貨幣政策としてはやってはならない方策である蓄銭を奨励し、たくさんの和同開珎を蓄えた者には官位を与えるという無茶な方法をつかったり、官吏の給料は和同開珎で支払うという強攻策をとったりしたのである。

 しかし結局和同開珎銅銭はそのままでは流通せず、銀銭との交換比率を当初の1:10ではなく、1:20ないし1:30の比率に下げて、つまり貨幣としての価値を実態に合わす事と、一度は禁止した銀銭の使用を許すことにより、ようやくにして和同開珎を流通させることができたのである。

 つまり和同開珎よりもその前に銀銭が流通していたということを事実として仮定してみると、従来疑問であった和同開珎発行流通をめぐる謎の多くが氷解するのであり、先行する銀銭である無文銀銭は奈良の朝廷の威光をもってしても、駆逐できないほど全国的に流通した貨幣であったのである。

 この事実を著書の「富本銭と謎の銀銭ー貨幣誕生の真相ー」で指摘した今村啓爾氏は、「無文銀銭はその統一された形や重さ、そして奈良の朝廷の威光をもってしても駆逐できない貨幣としての流通力からして、統一権力によって発行された貨幣としか考えられない」と述べている。そしてその統一権力が誰なのかが不明としているのである。

 しかしこれまで、日本国の成立過程を、古田武彦氏の所説に従って記述してきた本稿をお読みのかたには、その統一権力が何であるかおわかりであろう。

 無文銀銭を鋳造し全国に流通せしめた統一権力は、九州は太宰府に都する倭国である。日本書紀に記述されない貨幣とは、倭国の貨幣以外にありえないのである。つまり白村江の敗戦で倭国が亡びたあとを受けて王朝を創設した天智とそのあとをついだ天武。その天武以後の奈良の王朝がたびたびの禁令によっても駆逐できなかった無文銀銭は、あの倭国の貨幣であったのである。

 そしてこのことは社会史上で重大な問題提起を意味する。つまり7世紀末の「富本銭」の発行や8世紀初の和同開珎の発行以前の日本列島において、貨幣が発行され、それが全国的に流通していたという事実であり、日本における貨幣経済の定着は従来考えられていた平安時代末ではなく、おそくとも7世紀の初頭にまで遡るということである。

 さらにこのことは、日本における前資本主義の発展の時期をめぐる論争にも大きな影響を与え、現物納付を基本とする律令体制が早くも平安時代初期、9世紀には変質を遂げてしまう社会的背景をも説明することになるであろう。

 この教科書は、政治史に記述が偏り、社会史的観点が弱い事を先に指摘した。貨幣の発行とその流通の様は、律令制が施行された当時の日本の経済・社会の状態を示す好例である。しかしこの教科書は、せっかくこの面に論及できる素材を持っていながら、それを生かしきれていない。和同開珎と「富本銭」、そして無文銀銭をめぐる問題は、この教科書の弱点を良く示している。

注:05年8月の新版の記述は、旧版とほとんど変わらない(p44・45)。大きな変化は、旧版では後の「飛鳥天平の文化」の項に入っていた歴史書の編纂の記述が、この「律令政治の展開」の項に挿入されたことである(p44)。だがその記述は旧版と同じく、古事記と日本書紀とも違いを無視しており、公式の歴史書が持っている政治性を無視したものである(この点詳しくは、19を参照のこと)。また一部削除・訂正が施されたのは、大和朝廷に従わない辺境についての記述である。新版では、「九州には大宰府を置き、九州のとりまとめや、外交の窓口、さらに沿岸防備の役目をあたえた。東北地方には多賀城と秋田城を築き、蝦夷に備えた」という記述に代えられた(p44)。九州南部にまだ服属しない人々がいることは全面的に削除され、東北の蝦夷は「備える」という間接的な表現になっている。さらに大宰府や多賀城・秋田城の記述は旧版にはまったくないもので、九州や東北が統治下にあったことを示す事実としてあげられたのであり、新版には大宰府の復元模型の写真すら挿入されている。この記述だと日本列島のほとんどが「大和朝廷」の支配化に入ったかのような印象を受け、事実とは相違する記述となっている。なお大宰府がこの時期に置かれたものではなく(日本書紀にはその設置記事すらない)、九州の倭国の都であった事は、古田武彦の著作に詳しい。

注:この項は、前掲河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」、古田武彦著「真実の東北王朝」(1990年駸々堂刊)、菊池勇夫著「アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地」(1994年朝日選書刊)、今村啓爾著「富本銭と謎の銀銭―貨幣誕生の真相」(2001年小学館刊)などを参照した。


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