「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判O


 16.日本文化の国際的背景を示す:「日本語の確立」

 奈良時代政治史までを記述したあと、この教科書は文化史の記述に入る。その最初が「日本語の確立」である(p58・59)。

 この部分の記述は他の教科書に比べてとても詳しく、他の教科書が2〜3行であつかっているところを、この教科書は2ページを使って説明している。日本という国・民族・文化の歴史とその独自性を強調してきたこの教科書の意図からは当然の帰結であり、此れ自身には何の問題もない。

 いやむしろ、日本語の成立を詳しく記述することは、日本人の成立や日本という国の成立と言う問題と同様に、とても大事な事である。そしてこの大事な問題を看過してきた今までの教科書のほうが問題なのである。

 しかし、この教科書の記述は文字表記に偏っている。そこで書かれている事は仮名文字がどのようにして成立したかということと、訓読みという方法で、漢文で書かれた文字資料を日本人の教養に組み込む事に成功したということだけである。これでは「日本語の確立」という表題に反し、「日本語標記の確立」とした方が正しい。

(1)万葉仮名成立に寄与した渡来人の役割の無視

 教科書は最初に、万葉仮名の成立について詳しく述べている(p58)。 

 文字のない社会であった日本が漢字に触れてから自分たちの言語にこれを利用するまでには、4〜5世紀にわたる長いためらいと熟慮と工夫の時間が必要であった。
 7世紀の末の藤原京の木簡に、イカやスズキを「伊加」「須々支」と記した音仮名の例がある。貢物として朝廷にささげる物産の名として書かれた文字である。日本語が、中国の文字を音に利用した一つの例といっていい。(中略:「古事記」「万葉集」が、万葉仮名という音仮名で書かれている事を実例をあげて説明)
 これらの例は、日本語と中国語がまったく別の言語であることをはっきり示している。古代の日本人は、日本語をあらわすさい、中国語からは音に応じた文字だけを借りた。やがて平安時代になると、万葉仮名のくずし字が発展して、そこから平仮名が誕生した。こうして、日本人は漢字の音を借りて日本語を標記する方法を確立した。

 とても詳しい説明である。

@仮名を用いる事は日本独自のことではない!

 しかしこの記述は大事な事を見落としている。

 仮名はすべて、漢字の音を使用して、本来表意文字である漢字を表音文字的につかったことから始まっている。そしてこれは漢字を発明した中国自身ですでに使用されていたことで「仮借」とよばれている技法である。
 そして日本人は中国人が使っていた「漢字を表音文字として使う」技法を応用し、中国語とは全く違った言語である日本語をそのまま表記する方法としての仮名を発明したわけである。だがこの仮名は、日本独自で発生したものではない可能性が強い。

 古代朝鮮の文字資料の残存状況が悪く、まだまだ研究が進んでいないのだが、古代朝鮮においても、漢字を表音文字として使用し、人名や地名の朝鮮語をそのまま表記した例が多々見られる。たとえば有名な高句麗好太王の碑文などがそれである。したがって漢字を表音文字として自国の言語を表現することは朝鮮でも行われていたのである。そしてこれは、モンゴルやチベットやウイグルという、漢民族の周辺にいて漢字文化圏に属する国々ではどこでも行われていたことなのである。
 これは当然のことである。圧倒的な中国文明の影響力の下で様々な文化を取り入れざるをえないが、言語は民族が違う以上、別である。したがって最初は中国語をそのまま使っていただろうが、その後は中国の文字を借りて自国語を表現し、その後それを変形したものを生みだし、最後は中国の文字とは全く違った文字を生み出すのである。
 この意味で仮名文字の成立を、中国をかかえた東アジア全体の民族の動きの流れのなかでつかむ事が大事だろう。

A朝鮮渡来人の果たした役割

 では、日本において日本語を表記するのに漢字の音を使う方法はどのようにした成立したのであろうか。

 日本でもかなり早い時期から文字=漢字が使用されていた。漢や続く三国の時代に中国の王朝と通交していた倭の王たちは中国風の一字名を名乗り、皇帝に対する上表文を奉っていた。そして皇帝は返礼として彼を倭国王に任じ、それを示す印を下賜していたことは、有名な「漢倭奴国王」の印が示す通りである。また魏志に書かれている倭国の詳しい様子は、魏の使いが倭に至って実地に検分したことを報告しただけではなく、倭王である卑弥呼から魏の皇帝に対して詳しい上表文が奉られていた事を示している。
 つまり紀元前1世紀から後3世紀において日本でもすでに漢字を使用し、漢文を理解できる人々がいたことがわかる。

 しかしこの漢字の使用と漢文の読解の知識は、倭人自身が中国から直接学んだものではない。それはこの時代連綿と続いた朝鮮からの渡来人の群れが倭国にもたらしたものである事は、古事記や日本書紀に漢字が朝鮮からの渡来人によってもたらされたと記述されていることからも明らかであろう。

 そうであればこの渡来人たちは、朝鮮においてすでに漢字の音を借用して朝鮮語を標記した方法を知っていたはずである。
 朝鮮語は日本語と異なり数多くの母音と子音の組み合わせと複雑な音韻変化とからなる言語であったため音仮名の種類が多くなりすぎて使用に適さなかったからか、朝鮮においてに音仮名の使用はごく一部に限られ、早い時期に廃れてしまった。だが渡来人たちが出会った日本語は、ずっと母音と子音の組み合わせ数が少なく、音仮名で標記するには適した言語であった。彼ら渡来人は、故国で始まっていた漢字の音で自己の言語を標記する方法を日本語に使用し、次第にそれを精緻なものにして完成していったのではないだろうか。

 万葉集の柿本人麻呂歌集の中には、「古体歌」と呼ばれる日本語を漢字の音で表記してはあるが助詞や助動詞の標記を欠いたものがある。これは古代新羅において新羅語を助詞や助動詞を除いてその語順に漢字の音だけで標記したものとうりふたつである。そして新羅では次の段階では、これに助詞や助動詞を特定の漢字で表しそれを小さな文字で書く「吏読」という方法が行われるようになった。これは日本の祝詞などで使われる「宣命書き」というものとそっくりだという。これが、万葉仮名のように助詞や助動詞までも特定の漢字で標記する方法の起源なのではないだろうか。
 万葉集の柿本人麻呂歌集でも「新体歌」と呼ばれるものは、万葉仮名で助詞や助動詞まで漢字の音で表記されている。つまり人麻呂の時代に万葉仮名は成立したと推定できるのである。柿本人麻呂は天智・天武天皇の時代の宮廷歌人である。

 「つくる会」教科書はせっかく日本語を正しく標記するに不可欠な仮名についてくわしく記述しながら、その成立に関わる国際的背景を記述することを忘れている。いや、意図的に触れなかったというほうが正しいだろう。なぜならばこれに触れれば、朝鮮からの渡来人が日本文化の成立に果たした大きな役割について触れざるを得なくなるからであろう。

 (2)日本文化の不可欠の背景としての中国文化

 日本人は中国語の音を借りて日本語を標記する方法をあみだし、漢字と仮名交じりの文章を作り出した。このことは日本文化が広い意味で中国文化圏に属している事を意味している。
 そしてもうひとつ、日本文化と中国文化の不可分性を示すのが、この教科書が後半に記述している「訓読みの登場」である。

 教科書はつぎのように記述する(p59)。

 日本人は、中国語の発音を無視し、語順をひっくりかえして日本語読みにする方式を編み出した。いわゆる訓読みという読み方の発明だった。ここには、古代日本人の深い智恵と強い決断があった。日本人は、漢文の日本語読みを通じて、古代中国の古典を、みずからの精神文化の財産として取り込むことに成功したのである。

 日本人が古代中国の古典を自らの精神文化の財産として取りこんだということは、謂いかえれば、日本人は中国の精神文化を日本文化の基底に置いて、それを元にして様々な精神文化をつくったということである。そしてこれは古代に限らず、明治時代まで続いたことは歴史が明らかにしている。

 日本人が学んだ仏教は、インドの精神文化そのものではない。中国人の僧侶が直接インドに行って学びそれを中国語に翻訳したものを、インド文化として学んだのである。その結果日本の仏教は本来の哲学的様相を捨て、祖先崇拝の色の濃い、中国的な仏教になったのはこういうわけである(日本人の僧侶はほとんんどインドに行っていない)。また江戸時代において蘭学の基礎となった知識が、オランダ語の文献だけではなく、「漢訳洋書」と呼ばれる中国語に翻訳された文献であったことも有名である。
 さらに幕末から明治において、西洋文化を受容するときには、漢学の素養を基礎としてその受容は行われ、例えば日本語にない意味の言葉などは漢語を借用したり、漢字の意味を使って新しい漢語を作ったりしていたことも有名なことである。
 また日本人が歴史書を表す時に常に基本として依拠したものは、中国の史記を始めとする歴史書であったことも事実である(平安時代以後の「物語」という分野が、天子の事跡を編年体で記述し、これ以外の事柄や個人の伝記を別して記す中国式の歴史とは異なった歴史叙述方法である可能性は高いが、この物語も基本は中国の史書の編年体を念頭において記述されている)。
 さらに1つ付言しておけば、ここに言う「漢文の文献」は、中国の古典籍だけではない。朝鮮は長い間中国語で自らの精神文化を表現した(ハングル文字が使われるまでは)。この朝鮮産の漢文文献も日本人の精神文化の支柱であったことも忘れてはならないだろう。

 

 仮名の成立においても訓読みの成立においても「つくる会」教科書は、これを「古代日本人の深い智恵と決断」によるものと記述し、「日本文化の独自性」を誇示するかのような記述をしている。しかしこれらの事柄はその記述の意図とは逆に、日本文化が朝鮮や中国の外来文化を不可分なものとしていることを示している。
 しかし中国周辺の国が皆、日本と同じような動きをしたわけではない。

 中国周辺の国々において、中国の漢字とは独自の異なる文字を生み出して自国語を標記しようとした国がいくつかある。朝鮮は13世紀に完全な独自の表音文字であるハングル文字を編み出し、同じころモンゴルもモンゴル文字を編み出し、ベトナムもベトナム文字を編み出している。これらの国々では、中国文化の影響を脱しようとする努力が行われたということだ。
 この中国文化からの独立は、日本のように中国と国境を接していない国よりも、中国と国境を接しており、常に中国に侵略される危険の中で国を作ってきた国々の方がむしろ進んでいるのである。
 そしてこれは当然のことであろう。日本のように中国から離れた国は「中国にあこがれ」る。そしてそれゆえ中国や中国の周辺諸国ですでに滅んだ中国文化を後生大事に守る事すらあるのである。日本の貴人が自らのことを「太夫」と称し、中国の周の制度をいつまでも保っていることや、日本における漢字の音が今でも「漢音」「呉音」「唐音」の3種類あり、それぞれ中国文化を濃密に学んだ時代の中国の音をそのまま保存していることにもこの現象は現れている。
 しかし常に中国と戦火を交えてきた国々にとっては「独自の文化」を持つ事は死活問題である。朝鮮やベトナムやモンゴルが長い間に受容した中国文化との断絶の危険を犯してまで独自の文字を開発したのは、そのためなのである。

 日本が漢字の音と借りて日本語を表記する方法を編みだしながらも漢字を捨てることなく、そして漢文の訓読と言う方法を編み出して中国文化そのものを自己の内部に取りこんでいったのは、ある意味で日本と中国との地理的な距離を表している。そして日本文化が外来文化と不可分な関係にあることも示しているのである。むしろこのことをこそ、強調すべきであったと思う。 

 (3)日本語の確立は平安時代!

 最後にこの教科書が「日本語の確立」という項目を、奈良時代の所に置いていることの間違いを指摘しておこう。

 仮名文化が万葉集の成立時期に、かなり高度な段階に達したことは事実である。しかし日本語標記の確立を仮名の歴史で見るならば、平仮名の成立と普及を、日本語の確立時期と見て良いのではないだろうか。
 だとすれば日本語標記の確立は平安時代、10世紀から11世紀であり、「日本語の確立」という項目は、日本文化の成立という意味で「国風文化」と呼ばれた、いわゆる摂関時代の文化のところに位置付けるべきだろう。

 これは新しい歴史教科書を作る会の著者たちの勇み足というべきである。彼らは日本の独自性を強調するあまり、そして日本文化の古典として奈良時代の天平文化を据えたために、日本国の確立期である奈良時代に「日本語の確立」を位置付けてしまったのであろう。

:05年8月の新版では、この項は記述をより簡潔なものに変えて「かな文字の発達」と改題し、読み物コラムとして古代の最後、平安時代の文化のあとに置いている(p58)。これはかな文字の確立が平安時代であり、奈良時代に「日本語の確立」として記述することの誤りに配慮したものと思われる。

:この項は、吉田孝著「八世紀の日本ー律令国家」(1994年岩波書店刊「岩波講座日本通史4:古代3」所収)、信太一郎氏のサイト「ことばの散歩道」(http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/kotoba.htm)、日本大百科全書(小学館刊)の各該当項目の記述などを参考にした。


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