「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判Q


 18.「独善的美意識」に基づく文化論=飛鳥・天平文化

 教科書は神話に続いて、「飛鳥・天平の文化」と題して、諸美術・歴史書・文学の問題を記述している。

 文化論は、神話と並んで当時の美術作品・文学作品などの第1次資料を基にしているので、後に編纂された歴史書などよりも、当時の状況がそのまま遺存している可能性のある分野である。しかし日本の古代美術史や古代文学史の分野も、日本書紀や古事記を非科学的に扱ってきた日本古代史研究の軛から自由ではなく、大和中心史観に色濃く覆われている。

 新しい歴史教科書の著者たちは、この問題にまったく無自覚であるばかりではなく、さらにそれを独善的な・日本民族主義的は観点から解釈・記述したために、さらにひどいものになっている。

 ではどこに問題があるのか。教科書の記述にそって述べて行こう。

 (1)「日本人」が成立していない時代の「日本人の美意識」とは?

 教科書では、この時代の文化の特徴を以下のように記述している(p64)。

 太子の影響を受けて、飛鳥時代に仏教を基礎とする新しい文化がおこった。これを飛鳥文化とよぶ。中国や朝鮮から伝わった新しい文化を積極的に取り入れながら、日本人の美意識に合った建築や美術品がつくられた。
 太子が建てた法隆寺は、今に残る世界最古の木造建築であり、調和の取れた優美な姿の五重塔や金堂が、中国では見られない独特の配置で立ち並んでいる。

 この時代の建築物や彫刻などの美術品は、残されているものが少ない。そしてそれは法隆寺と飛鳥寺を中心にして残されているのである。

 この教科書の著者たちは、この文化を「中国や朝鮮から伝わった新しい文化を積極的に取り入れながら、日本人の美意識に合った建築や美術品がつくられた」と評した。そしてこの評価のし方自身に問題があるのである。

 7世紀前半期には、まだ「日本」という国家がない。九州の倭国は日本列島と朝鮮半島にまたがって領土を持ち、その王族や貴族は朝鮮の加羅諸国や百済の王族・貴族との血縁関係を持っていた。また倭国の分国で大和を中心にするいわゆる「大和朝廷」は、倭国より内陸にあるぶんだけ朝鮮諸国との関係は弱いが、この王族や貴族の中には朝鮮新羅の王族・貴族と血縁関係にあるものが多く、新羅とはたびたび双方の使いをやり取りし、唐への遣使も新羅経由であったほどである。

 この政治状況ではたして「日本人」という意識があったであろうか。この時代前後に成立した万葉集の言語学的研究により、この時代の日本語はきわめて朝鮮語に近いものである事がわかっているし、朝鮮からの使節の接待においては通訳を必要としないものであったこともわかっている。そしてこのことは当時日本列島に住んでいた人々の多くが、渡来した時期の違いはあれ、中国や朝鮮からの渡来人の子孫であったことや、とりわけ支配階級である王族や貴族たちは渡来人の子孫であるとともに、朝鮮諸国の王族・貴族と婚姻関係で今でも結ばれており、宮廷文化や神社に残された文化などを検証してみれば、それが朝鮮文化そのものであることもわかっている(神社の神楽舞いなどには今でも古代朝鮮の舞いの様式などが残されている)。

 こうした時代状況を無視して「日本人の美意識」を問題にすること自身が間違っている。この時代の日本列島の人々の美意識は、朝鮮半島の王族や貴族の美意識と一体だったのである。そしてこのことは、飛鳥時代の建築様式や美術品の様式を調べてみれば一目瞭然である。

 (2)「飛鳥文化」は、朝鮮半島の文化の直輸入!!

 飛鳥文化を代表する建築は、遺存しているものでは法隆寺だけであるが、遺跡としては飛鳥寺や四天王寺があり、これらの寺院の伽藍配置は、高句麗や新羅の寺院の伽藍配置と酷似していることが指摘されている。そして飛鳥大佛の仏頭や、法隆寺の仏像を見ると、その彫刻様式は中国の南北朝時代の末期の北魏の様式を色濃く受け継いでいる事が従来から指摘されてきた。倭国も大和も北魏との関係を直接持っていたことは史書からは立証できないので、これは北魏と直接と通交関係にあった高句麗や百済や新羅からの影響とかんがえるのが適切であろう。

 万葉仮名の起源が朝鮮半島における漢字の表音文字的使用にあった可能性が強いことや、初期律令に朝鮮半島の律令の影響が強いことなどとあいまって、この時代の文化を考える時には、加羅・百済・新羅・高句麗という朝鮮諸国の文化との比較と言う視点を持って研究することが、大事だと思う(これはまだまだ充分ではない。日本文化の研究は歴史研究以上に一国主義だからである)。

 (3)現法隆寺は再建されたものではない!

 そして飛鳥文化を考えるとき、その中心になっている現法隆寺が、伝えられているように再建されたものではないと言うことを頭に入れて考えないと、この文化の特徴は理解できない。

 たしかに厩戸(うまやど)の皇子は、彼が住んでいた斑鳩宮の横に斑鳩寺を立て、それが最初の法隆寺であったことは、近年の若草伽藍の発掘調査によってわかっている。だがこの時の寺院は四天王寺式の伽藍で中門・金堂・五重塔・講堂が南北に一直線に並ぶ形のものであった。
 この斑鳩寺が643年の蘇我入鹿を実行者とする斑鳩宮焼き討ち・山背大兄王一族殺戮によっても焼かれずに残り、後の670年に焼失したことは記録からも明らかである。したがって現法隆寺の再建はそれ以後となり、711年(和銅4)に五重塔の釈迦涅槃(ねはん)像などの塑像と中門の金剛力士像がつくられているので、金堂、五重塔、中門、回廊などは、持統(じとう)天皇の代(在位686〜697)には建立されていたとみられている。

 だがここで大きな問題があった。それは現在の法隆寺の建築様式や仏像の彫刻様式を調べてみると、それはこの持統天皇の時代である、美術史上の白鳳時代の様式ではなく、飛鳥時代の様式なのである。だから現存する寺をもとに法隆寺は焼失していないという美術史家の意見と、日本書紀の焼失記事を基に焼失を主張する日本史家の論争が起きていたわけだが、これは若草伽藍の発掘によって「焼失⇒再建」が明らかになった今日でも解決できていない問題である。

 考えられるただ一つの解釈は、厩戸(うまやど)の皇子が建てた四天王寺式伽藍配置の斑鳩寺は670年に焼失し、そのご再建された寺の建物は飛鳥時代に立てられた別の寺の建物を移築したものということである。

 ではその移築元の寺とはどこの寺であり、その寺を建てたのは誰かが問題になる。

 ここを、法隆寺の釈迦三尊像の光背銘文をもとに明らかにしたのが古田武彦であり、昭和の解体修理の記録をもとに明らかにしたのが建築家の米田良三である。

 釈迦三尊像の光背銘文は大略以下のように記述している。

法興31年12月、鬼前太后が死去。
翌年、正月22日、上宮法皇が病の床につく。
干食王后も看病に疲れ、ともに病の床につく。
王后や王子や廷臣らが事態を憂いて、三宝に帰依して王の姿を移した釈迦像をつくり王らの病回復を祈るとともに、もし世を去られる時には浄土に往生されんことを願った。
2月21日、王后が死去。
翌日、法皇も死去。
翌年の3月に、願いのごとくに釈迦像が完成し、法皇らの浄土への往生を願った。
使司馬・鞍首・止利仏師、造る。

 この上宮法皇を「聖徳太子」と解釈してきたのが従来の定説だったが、古田は、日本書紀に聖徳太子の母・后・本人が相次いで死去したという記事がないのは、次期大王として期待されていた人の関係記事としてはおかしいこと、そして聖徳太子はたしかに仏法に深く帰依していたが、彼は大王ではないし、生前に出家してもいないのだから「法皇」とは言えない事、そして聖徳太子のおばであり、当時の大王であった推古天皇が銘文に一切登場しないことは、聖徳太子死去時の大王であり死去後も大王であった事実に反する事、さらには、年号の「法興31年」が干支などから、推古天皇の29年にあたるのに、日本書紀にはこの時代に「元号」を定めた事が見えないことなどから、この銘文に記された出来事は大和での出来事ではないことを主張した。そして上宮法皇の死去の年の法興32年の翌年にあたる年に、九州年号が改元されていることなどから、これは九州は太宰府の倭国での出来事であると断定した。そして上宮法皇とは、あの隋の皇帝煬帝に「日出る処の天子・・・・」の書を送ったアメノタリシホコのことであると主張された。

 米田良三は、昭和の法隆寺解体修理の記録から、建物の骨組みの部材の中に、建物を一度解体しなければ出来ない部位での交換の跡があることや、金堂の壁画に一度壁からはずして、上部に穴をあけて紐をとおして運んだあとがあったこと、そして金堂と五重塔の基盤の石組みの様式や内陣の設計思想の復元から、創建当初は金堂と五重の塔の向きと位置が違い、左右が反対で向き合っていたこと。さらに九州太宰府の観世音寺の古絵図の伽藍配置と法隆寺の創建時の伽藍配置を比べるとぴったりと一致する事から、現法隆寺は太宰府の観世音寺の建物を解体移築したものであると推定している。そして、法隆寺の五重塔の心柱の年輪年代から、これが591年以後に伐採されたものであることや諸文献の検討から、この観世音寺は620年ごろにアメノタリシホコによって建立されたと推測した(「法隆寺は移築された」より)。

 法隆寺の中心伽藍は飛鳥時代に九州の太宰府に、倭国王によって建立されたものだったのである。そしてその内部の壁画や仏像群も九州でつくられたものだったのである。

 飛鳥文化の中心は、九州太宰府であった。そしてその文化の中心的担い手であった倭国王は、朝鮮半島の諸国から文化を学び、中国式に律令をもった政治制度を設け、仏教に彩られた文化を建設したのである。だからこの時代の文化には中国・朝鮮の直接的影響が見られるのであり、外国文化の流入・模倣期であったことがわかる。

 (4)奈良時代の文化が日本の「古典」?

 では外国文化の模倣をおわり、それを咀嚼して独自の文化をつくりはじめたのはいつか。天平期は「中国唐文化のオンパレード」であり、再度の外国文化流入・模倣期に入っていることがわかる。そしてその前の天智・天武・持統天皇の時期である「白鳳期」が朝鮮文化の特徴は影をひそめ、直接的な中国・唐文化の模倣に入っており、奈良時代はまだ、日本文化の確立期ではないことがわかるのである。

 しかるにこの教科書は次のように記述するのである(p66)。

 このころ、遣唐使を通じてもたらされた唐の文化の影響を取り入れながら、世界にほこりうる高い精神性をもった仏教文化が花開いた。奈良の都で、貴族たちを中心に発達したこの文化を、聖武天皇のころの年号をとって天平文化とよんでいる。(中略) 天平文化は、日本の『古典』とよぶにふさわしい。写実だけでなく、つりあいのとれた明瞭で気高い美を表現した時代である。奈良時代の仏教美術や、最古の歌集「万葉集」は、長くその後の模範とされた。

 ほんとうにそうであろうか。次の平安時代の文化は奈良時代の文化とは多くの点でちがっており、外国文化の影響を脱した、日本的な文化になっている。その時期においても奈良時代の仏教美術や万葉集は模範であったのだろうか。

 事実はそうではない。和歌の世界で長い間模範とされたのは平安時代の古今集以後の和歌であった。万葉集が再度注目されるのは江戸時代後期の国学運動の中であり、「ここに外国文化に毒されない日本人独自の心が表現されている」と考えられた。そしてその後万葉集を再度注目したのは、明治維新で西洋の詩が流入し俳句・短歌否定論が横行した後の19世紀末の正岡子規であり、彼は万葉集の素朴で直截な和歌を模範として写実を唱えたのであった。そしてこれは同時期の日本主義的国粋主義文化の流れでもあり、次の時代の自然主義的文化の始発点ともなっている。
 ともあれ万葉集が『古典』とされたのは近代日本国家成立時期なのである。

 彫刻についても同じことが言える。奈良時代の写実的で精神的な彫刻と平安時代の彫刻とは大きくことなり、定型化された宗教的な神秘的な表現に代わっている。それは平安後期に確立した定朝様式であり、これが長く彫刻の模範とされた。平安時代以前、飛鳥・奈良時代の彫刻が注目されたのは19世紀末であり、時代の復古的・日本主義的雰囲気の中で、フェノロサに導かれた岡村天心によって再発見されたのである。

 ここでも奈良時代を『古典』としたのは近代日本であり、この教科書の記述は、近代日本において確立された「日本主義的美意識」の単なる投影にすぎないのである。

 美意識は時代によって異なる。平安時代中・後期のものが長い間模範とされたということは、ここが日本文化の原点だったことを示している。つまり長い期間にわたる朝鮮・中国との文化興隆を経て、そこから学んだものが、政治的に日本列島が朝鮮半島から切り離され、そして中国の衰退によってその政治的影響からも脱した平安時代中・後期に変容を受けたもの。それが長い間「日本的」な文化だったのである。

 しかるに近代日本国民国家建設時に、再度日本的なるものの原点を民族意識確立のために探究したとき、それが求めたものは平安時代の文化ではなく、その前の飛鳥・奈良時代であった。だがその時代はまだ「日本国」が確立しておらず、日本語も日本人も確立しておらず、その文化は「日本的」ではなく、朝鮮文化や中国文化の影響を色濃く持ったものであったことは歴史の皮肉である。

 思うにそれは国学運動が幕府体制=武家の支配体制への反発と、時代の尊王主義の影響も受けて天皇主義の色彩をもっていたからであろう。
 平安時代は武家の発生の時代であり、外見上、天皇の権威が極めて低い時代であったから日本的な時代とはされず、その前代の飛鳥・奈良時代が「日本的」なるものの源と考えたのだろうか。

 ともあれ、新しい歴史教科書の著者たちの「天平文化こそが日本の『古典』である」という主張は、明治末に日本が日清戦争・日露戦争へと突入し欧米列強と対抗して朝鮮・中国を侵略にかかった時期の日本主義的美意識を、そのまま繰り返しただけであり、日本歴史上の事実ではなかったのである。

:05年8月の新版では、旧版で「飛鳥文化」「奈良時代の歴史書と文学」「天平文化」と三つに分かれていたのを統合し、「奈良時代の歴史書と文学」の項は解体して「歴史書」を「律令国家」の項に、そして「文学」は「天平文化」の中に挿入している。
 「飛鳥文化」の所では、「日本人の美意識にあった建築や美術品」という恣意的評価が削除され、さらに法隆寺に残された仏像や絵画の記述が簡略化されている(p48)。

 「天平文化」の所は、旧版では「コラム:海を渡る危険」と題してあった部分を「遣唐使の派遣」と改めて本文に挿入し、その後天平文化の説明に入っている(p49)。内容はほぼ同じであり「高い精神性をもった文化」という評価は同じである。しかし、天平文化を「日本の古典」とし「写実だけでなく、つりあいのとれた明瞭で気高い美を表現した時代」という恣意的な評価は削除されている。なお新版では、この文化の項のあとに、「歴史の名場面:大仏開眼供養」と題するコラムが挿入され、大仏開眼供養のさまを中心として大仏が作られる経緯を詳しく記述している。この開眼供養が「国際的祝祭」であったことなどは正確に述べられてはいるが、聖武天皇が大仏を作った真の理由や、大仏を作る費用を集めるために墾田永年私財法が定められて律令制が緩むことになった点、そして行基を中心として大衆的な信仰者の喜捨によってもその費用が賄われたことなどは全く記述されていない。ただこの祝祭が「律令国家の発展」を示すものだったと記述するのみで、極めて一面的である。

:この項は、前掲、古田武彦著「法隆寺の中の九州王朝」、米田良三著「法隆寺は移築された―大宰府から斑鳩へ」(1991年新泉社刊)、米田良三著「建築から古代を解く―法隆寺・三十三間堂のなぞ」(1993年新泉社刊)などを参照した。


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