「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判R


 19.「政治宣言」であることを忘れた歴史論

 飛鳥・天平の文化を語るなかで、この教科書は、「古事記」・「日本書紀」・「風土記」・「万葉集」の説明に1ページを割いている。他の教科書では1・2行の扱いであるから、これは異例のあつかいと言えよう。日本国家の成立を重大な出来事としてとらえる観点からは、これは当然のことである。

 しかしここでもその扱いには問題がある。歴史書は現代でも極めて政治的なものであるが、国家が編纂した歴史書は、より一層政治的であることをこの教科書の著者たちは意図的に忘れたふりをしている。

 教科書は次のように記述している(p65)。

 奈良時代に入って、律令政治の仕組みが整うと、国家の自覚が生まれ、国のおこりや歴史をまとめようとする動きがおこった。まず『古事記』がつくられ、ついで朝廷の事業として、『日本書紀』が完成した。『古事記』は古代国家の確立期に、民族の神話と歴史をさぐる試みであり、文学的な価値も高い。一方、『日本書紀』は国家の正史として、天皇の系譜とその歴史をたどろうとした書である。

 (1)同じ性格・同じ内容の史書が同時期に作られたことの謎?

 この記述を見ていると、古事記と日本書紀とは、その記述された内容と、編纂の目的が違う史書のように見えてしまう。だが2つとも実は編纂の目的も内容もほとんど同じなのである。この記述では日本書紀編纂だけが朝廷の事業として行われたかに書かれているが、古事記も朝廷の事業として編纂されたものであることは、太安万侶が書いた序文に「天武天皇の命で編纂された」と書かれている事からも明らかである。そして2つの史書はどちらも天地開闢の神話から初めて、歴代の天皇の系譜とその歴史をたどろうとしているのであり、以上の点に関する限り、2つの史書は同じ性格を持っているのである。

 多少違う所をあげれば、日本書紀の方がより内容が詳しく、その典拠とする資料を詳しく載せており、古事記はどちらかというと説話的な書き方をしている所が大きな違いである。そしてもう一つは、記述された天皇の時代の終わりの時代が違っており、二つの史書が違う時期に、違う資料に基づいて作られたことを表している。

 ではなぜこの教科書が、古事記と日本書紀とがまったくちがった歴史書であるかのように記述したのだろうか。

 これは古事記は712年に太安万侶から献上され、日本書紀は720年に完成していることから、なぜ同時期に同じ性格をもった史書が2つも出現したかという謎を、この教科書の著者たちが解くことをできず、無理に説明を試みた結果だと思われる。

 しかしこの謎を見事に解いた人がいる。前記の古田武彦氏であり、もう30年来自説を展開されているが、古代史学会は完全に無視している。

 なぜなら2つの史書の謎には、日本の古代国家成立の秘密が隠されているからである。それは何か。以下に記述しておこう。

 (2)継体王朝の正統性を宣言した未刊の正史=古事記編纂の事情

 古事記も日本書紀も朝廷の編纂になった正史である。しかし正史としての地位を得たのは日本書紀であり、古事記はその序文にもかかわらず正史とはあつかわれず、鎌倉時代に真福寺の写本として世に出るまでは、忘れられた存在であった。

 古事記はその天皇の年代記を詳細に見ると、説話を使って天皇の歴史を詳しく叙述した部分と、説話抜きで、簡単な事跡の列挙である部分とに分かれる。その分水嶺は、顕宗天皇と仁賢天皇の間である。

 大和天皇家はこの兄弟天皇が出る前に長い間一族内部の皇位継承の争いが続き、仁賢のあと、その子の武烈があとを継いで安定したかと思ったら、これがとんでもない乱暴な王で人心は彼を離れ、その中で応神天皇5世の子孫と称するオオドの命が諸臣の支持をえて大王位についた。(この事情を詳しく書いているのは日本書紀である。古事記・日本書記ともに武烈王朝を倒したオオド王の子孫が編纂したものなので、武烈が「乱暴な王だ」という記述は、王朝交代の正統性を主張するための虚構である可能性は高い) 彼は仁賢天皇の娘を后の一人とし、間に生まれた男子にさらに前王朝の皇女を娶わせる事で、女系を通じて前王朝につながり、その権威を引き継ごうとしているが、武烈に到る王朝とは別系統の出であることは明らかである(応神天皇は武烈にいたる王朝の祖先ではあるが、その5代の子孫ということが事実であっても、5代もたってみれば王家とは血のつながりでも疎遠となり、王族とは言いがたいのである)。

 したがって説話により天皇の歴史が明らかになっているのが顕宗天皇までということは、顕宗・仁賢・武烈王朝の混乱の中で、起きた出来事については全く記述していないということであり、オオドの命が継体天皇として即位するまでも経緯も書かれてはおらず、古事記のもとになった資料が、前王朝の時代に編纂されたものの引き写しであることを示している。

 古事記は天武天皇が諸家に伝わる天皇の系譜や事跡に関する書に誤りが多いのでそれをただすため、稗田阿礼に命じて諸家の史書を精読・暗誦させ、それを天武天皇自らで誤りを正したものを稗田阿礼に暗誦させたものを、元明天皇の命により、太安万侶がそれを筆写してできたと序文に書かれている。そして天武は前述のように、白村江の戦いで九州の倭王朝が事実上亡びたあとその王位を簒奪した天智の王権を引き継いで、天皇位についた王である。

 天武天皇はおそらく、自らの王朝の始祖である継体天皇の正統性を確立し、あわせて自己の王統が昔から日本を統治してきた王統であるとするために、諸家に伝わる書を提出させて、それを元に継体王朝の正統性を証明する史書を書こうと意図したのであろう。しかし彼の手元には大和の記録はあっても、九州の倭王朝の記録はないので、大和における前王朝の史書を元にそれに修正を加える(前王朝の系譜の中にオオドの命を入れたり、顕宗・仁賢・武烈王朝の混乱の中での出来事の中で、自己の王朝に不利益なことを削除したりする)所までで、作業は中断したのではないだろうか。そして元明天皇の下で正史が編纂される事になって、その資料の一つとして文字に写して提出されたのではなかったか。

 この意味で古事記とは武烈にいたる王朝の正統性を宣言するために書かれた歴史書を改作し、継体から天武にまでいたる王朝が日本国の昔からの中心王家であったという形で、その正統性を宣言しようとして完成しなかった書といえる。

 (3)天武の意思を引き継いだ完成された正史=日本書紀成立の事情

 では日本書紀は何のために書かれたのか。それは古事記とその記述の内容の異同を比較してみればわかることである。

 古事記は神武天皇が即位してから以後、日本を全部支配していたかのような書き方をしているが、言葉の上であり、全国を支配するにいたった経緯や、その過程での出来事、そして日本の各地での出来事を全く記していない。その記事は基本的に大和の中に限られ、詳しいのは、大和の王家の内部抗争の歴史である(例外が、倭建命の話と、仲哀と神功の熊襲「征伐」と新羅「征伐」である)。

 しかし日本書紀はその欠陥を補う資料を載せ、日本列島を統一して行く過程を詳しく記述し、各地の出来事や外国との交渉の記録などを詳しく載せているのである。日本書紀には、蝦夷との交渉の記事と、百済・加羅・新羅・高句麗、そして唐との交渉の記録が極めて詳しく書かれている。
 さらに統一の過程での国家制度の制定の記録が詳細に描かれているのである。

 なにゆえ古事記にはない出来事を日本書紀は記述することができたのか。答えは明瞭である。天武天皇の時代には手元になかった資料が、この時代には手に入っており、それを元にして書いたということである。

 その資料とは何か。それは白村江の戦いで事実上亡びた九州の倭国に保管されていた資料。日本書紀の記述の中にたびたび出てくる「一書」。まずこれである。おそらくその正式の名称は「日本紀」(日本書紀に続く時代を叙述した正史が「続日本紀」である理由はこれで説明できる)。そして「百済記」「百済本記」などのおそらく百済の歴史を書いた百済の正史が2つ目である。

 倭国は白村江の敗戦ですぐに亡びたのではない。天智は倭国王に代わってこの国を統治し、倭国が定めた法を遵守することを誓った。そのうえでそれに改定を加え、大和独自の法体系へと移行しようとした。そしてそれが完成したのは701年大宝元年である。この時をもって倭国から日本国(大和朝廷は国の名をこう称した)へ権力が公的に移行したのだが、ことは簡単に行くはずがない。倭国王に忠誠を誓う豪族や官人が多くいたであろう。抵抗戦争は奈良時代初頭まで続いたようである。

 おそらく「一書」や「百済記」「百済本記」は、この戦いを通じて手に入ったものであろう。そして大和朝廷はすぐさま自己が日本の正統の王朝であるとする捏造された史書の編纂に入ったのである。

 日本書紀は九州の倭国の王権を簒奪した大和の「天皇家」が、自己の正統性を宣言するために編纂された正史なのである。したがって大和の記録だけに依拠した古事記は正史とはされず、人々の脳裏から忘れ去られたのである。

 古田氏は以前から以上のような説明を展開してきた。しかし古代史学会からは完全に無視されたままである。

 なぜか。氏の説は「万世一系」とされてきた天皇家の歴史には嘘があることを、資料に基づいて明らかにしたからである。そしてこの説は、多くの古代史家の脳裏にある「天皇といえば大和天皇家」という思いこみを破壊する。

 そして新しい歴史教科書を作る会の人々にとっては、古田氏の説は「神聖であるべき天皇」に対する「不敬」ですらあるのだろう。だからこの歴史書についての説明でも彼の説を完全に無視し、疑問に対して取り繕おうとしたために、先のような事実とも違った記述をなしたのである。

 古代国家が編纂した史書は、政治的な宣言でもある。歴史書をその背景をはす歴史と切り離してつかうととんでもない間違いに陥るであろう。

 同様なことは風土記についても言えるのである。風土記の中にはその地の伝承を詳しく載せたものと、その地の伝承を日本書紀の記述と照らしあわせ、日本書紀を基準として史実を判断するものとがあることが知られる。前者は倭国の時代に編纂されたものであり、後者は日本国になってから編纂されたものであることを古田氏は主張している。

 またこの教科書では『勅撰』の和歌集とされている「万葉集」についても古田氏は、その作者が名前のわかるものはほとんど大和の人であり、九州や瀬戸内海の人々がうたった歌がないことに疑問を持ち、歌の内容や描写から九州や瀬戸内海の人が作者であると推定される歌の全てが、その出典を「古集にあり」となっていることを発見された。ここからこの古集とは、倭国において選定された歌集であり、現在の万葉集は、その古集から九州や瀬戸内海の人々が歌った歌を削除してなりたったものであると主張した。なぜなら当時歌をたしなんだ中心階層は、倭国の王族と貴族であったのだからそのままでは、大和が昔から日本の中心であったとする大和朝廷の主張が嘘である事が明らかになるからである。

 万葉集もまた政治的に改変の手が加えられていると古田氏が主張されていることは、注目すべきである。

:05年8月の新版ではこの項は単独のものではなくなり、「「律令国家」の項に挿入された(p44)。文章の記述・表現は多少改められているが、内容は旧版とほぼ同じである。

:この項は、前掲、古田武彦著「失われた九州王朝」などを参照した。


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