「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判S


 20.天皇・天皇制とは何かを追求しない「信仰」的態度

 平安時代初頭を、この教科書は『平安京と摂関政治』と題して、その特徴をとらえ、それを4つの部分に分けて説明している。
 最初の「平安京」の部分は、奈良時代末の政治抗争から桓武天皇が平安京に都を移すにいたった経緯を記述している。しかしこの記述は、この教科書の執筆者たちが、「日本史における天皇の位置と役割」を重視しているわりには、物足りない、今までの通説的理解にとどまっているのである。

 すで述べたように、河内祥輔の研究以後、古代政治史を天皇を主語として語ってみる試みが続き、その結果天皇・天皇制についての理解が深まっているのにもかかわらず、この会の人々は、その研究成果を一顧だにしていないことは、この項目でも今までと同じである。

 ではどのように記述し、そこのどこに問題があるのか。まず教科書の記述を見てみよう(p68)。

 8世紀の中ごろから、貴族どうしの勢力争いがはげしくなった。また、政治に大きな力をふるった道鏡のような僧もあらわれた。このような国政の混乱に対し、桓武天皇は、都を移すことで、政治を刷新しようと決意した。寺院などの古い勢力が根をはる奈良の地を離れ、これまでのしがらみを断ち切った改革を実行しようとしたのである。

 (1)桓武天皇は「聖王」ではない!

 この記述のしかたでは桓武天皇は「政治の混乱を鎮め、政治を改革した聖王」というイメージになる。そしてそれは次の「律令制の拡大」の項に詳述され、「農民の負担を少なくした=徳政」ものとされている。

 だがこのような記述は、桓武天皇自身が広めようとしたイメージであり、彼自身のもとで編纂された「続日本紀」の記述そのままでもあり、なんら批判的に歴史を検討していない態度である。

 河内祥輔の「古代政治史における天皇制の論理」や、保立道久の「平安王朝」という労作によれば、桓武天皇の行動の全ては、彼は天皇位につく資格を持たないのに、資格を持つものたちを抹殺し、皇位を簒奪したという原罪に起因しているということである。そしてこの事実を消し去るために意図的に「聖王」としてのイメージ作りがなされたのである。

 では桓武天皇の即位の事情を探ってみよう。

 (2)皇位継承者を抹殺するたくらみ=貴族の争いの真相

 これは、その以前の「貴族の争い」なるものの実態を明らかにしなければならない。これは729年の長屋王の乱・740年の藤原広嗣の乱・757年の橘奈良麻呂の乱・764年の恵美押勝の乱などの諸事件をさしており、通常は藤原氏が朝廷を独占するために対抗する貴族を粛清したか、藤原氏内部の争いと考えられているので「貴族同士の勢力争いが激しくなった」という言い方をしているのである。

 だが一つ一つの事件を詳しく検討してみれば、「乱」と呼ばれる事件はかならず王族が処罰されており、その王族は聖武天皇またはその子孫にかわって天皇位につく可能性を持った王族であり、殺されたり、王族の資格を奪われたりしているのである。したがってその「乱」を仕組んだ主体は聖武天皇や孝謙天皇であり、聖武天皇の系統の王族にしか天皇位を継がせないために、対抗馬となりうる王族の皆殺し・抹殺をはかったものなのである。

 そしてその結果、天皇位を継ぐ資格を持っていると多くの貴族に認められた皇族は、聖武天皇の娘の井上内親王を母とし天智天皇の孫である白壁王を父とした他戸(おさかべ)親王だけとなったのである。

 (3)正統な皇位継承者が「謀反」の罪で抹殺されて天皇になった桓武天皇

 ではなぜ、桓武は天皇になったのか。

 彼は白壁王と彼が井上内親王と夫婦になる前からの妻である高野の新笠という渡来系の氏族の女性との間に生まれた子である。したがって彼は母の身分も低い事から、天皇になることなどまったくない王族であり、3世王であることからやがて王族を離れ臣下にならなければならない運命にあったのである。

 しかし彼にもチャンスは巡ってきた。孝謙天皇(もう一度天皇になって称徳天皇と謚名された)が死の床についたとき、次の天皇候補は彼の腹違いの弟である他戸親王しかいなかった。しかし彼はまだ幼かったので、その父の白壁王が中継ぎの天皇に選ばれ、やがて即位した(光仁天皇)。もちろん皇太子は、他戸親王だったのであるが。

 そして翌年772年。皇后の井上内親王と皇太子他戸親王は、「天皇を呪い殺そうとした」との嫌疑をかけられて、皇后・皇太子を廃され、翌年には二人とも毒殺された。そして新たに皇太子となったのは山部親王(後の桓武天皇)であった。

 この事件に桓武天皇がどうかかわったのかはまったく記録がないのでわからない。あるいは光仁と桓武との合意により、ことはなされたのかもしれないし、この事件によって有力な貴族が処分されたとの記録もないことから、貴族の主力が聖武天皇の系統を天皇とすることを拒否し、光仁の系統を天皇とすることに合意した結果かもしれない。

 ともあれ桓武天皇は、正統な皇位継承者が「謀反」の罪で抹殺されたことにより、天皇を継ぐ地位に立ったのである。しかし彼の母の身分が低く、彼が本来天皇の地位につくべきものでなかったことには変わりはないのである。

 (4)血を分けた同腹の弟まで殺した桓武天皇

 桓武天皇の「原罪」はこれだけではない。皇統をめぐる争いは白壁に続き桓武が即位したことでは終わらなかった。桓武天皇は即位するや、残された聖武天皇系のただ一人の皇族である、聖武天皇の娘の不破内親王とその息子の氷上川継を謀反の罪で流罪にし、その一党と目された藤原魚名や大伴家持らを処罰したのである。

 しかし争いはこれで終わらなかった。785年。長岡京造営の責任者であり桓武天皇の腹心の部下である藤原種継が暗殺され、その首謀者は皇太子早良親王の東宮庁の長官であった大伴家持であることが発覚し、この事件に皇太子の早良親王も関与しているとの疑いがかかったのである。そして囚われた早良親王は全く食事を受けつけず、10数日にわたる絶食のはてに悶死した。

 この事件に桓武天皇がどうかかわったかは分からない。しかし彼がこの弟の死には罪の意識を感じ、のちに皇太子とした息子が病に倒れたときにはこの早良親王の怨霊のたたりだとして、淡路島の彼の墓所に使者を送るとともに、崇道天皇の謚名をおくったことから、もしかして弟とのあいだで、どちらの子孫が皇位を継ぐのかをめぐって争いとなり、自分の直系の子孫に天皇を継がしたいと強く考えた桓武天皇が弟を殺させたのかもしれないのである。

 そしてこの事件の結果、あの聖武系王統によって血塗られた平城京を離れ、自らの母の氏族である百済系渡来人の住居に近い所に都を移すために建設が進んでいた長岡京は廃棄され、さらに北方の地に、新しく平安京が建設されたのである。

 平安京の『平安』の言葉には、自らも含めた血塗られた皇位継承の争いの忌まわしい記憶からの脱却の願いが込められていたのかもしれない。

 (5)日本の聖王への挑戦!!=桓武天皇の足跡

 ともあれ桓武天皇の即位をめぐっては、異なる王統の間に血なまぐさい皇位継承をめぐる殺戮戦があり、この記憶との決別の意味を込めて都の移動がなされたのであり、桓武天皇の皇位に対する自らの血の劣等感と皇位につくにあたっての原罪となった殺戮への贖罪の思いが、桓武天皇をして、「政治の刷新」をなさしめたのである。

 彼は自らの3人の息子に彼らと腹違いの妹たちを娶わせ、そこから父・母ともに天皇の子という昔からの天皇の資格を持った孫が生まれることを期待し、自らが新しい王朝の創始者として君臨すべく、政務にも励んだのである。

 民の負担を軽くする徳政をおこなったのも、かれの曽祖父である天智天皇の故事にならったのであり、九州の倭王朝に代わって新たな王朝を築いた天智の権威を継承しようとの彼の熱意に基づくものであったし、血なまぐさい殺戮戦と度重なる造京・造仏事業で民を苦しめた聖武王朝との違いを際立たせようとの想いであったろう。そしておそらく大規模な都の造営と東北の蝦夷に対する戦いの展開も、日本史上での比類なき帝王の名を得んがためであった可能性が強いのである。

 そうしてこそ、天皇の資格に欠ける桓武天皇が貴族たちに天皇として認められ、その王統は長く続くと彼は考えたのであろう。

 天皇の行動原理を「自己の直系の子孫に皇統を引き継がせたい」という思いにあると考えて歴史を分析してみると、天皇の姿がなんと人間的になることか。そしてそのことにより、天皇も生身の体をもった普通の人間であり、権力を握った人間にありがちな自己中心的な激しい欲望を持った人間であるとともに、その権力は、少なくとも多くの貴族に支持されてこそ保てるという、弱い面を持っていたことも明らかになるのである。

 このような天皇と天皇制の研究成果を全くとりいれず、天皇を神秘のベールに覆われたままにすることは、歴史を捏造する行為に他ならない。

 この意味で、天皇をほとんど無視して歴史を叙述する従来の歴史教科書の姿勢も、天皇の真の姿を極めようとしないこの教科書の姿勢も、どちらにも問題があることは、明らかであろう。

:05年8月の新版では、「平安京」の記述は旧版とほとんど同じである(p52)。変更された点は、「道鏡」に関する記述が削除されたことである。

:この項は、前掲、河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」、保立道久著「平安王朝」(1996年岩波新書刊)などを参照した。


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