「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判B


 3.大陸からの大量の人の渡来を無視した「弥生文化」論

 稲作と弥生文化の始まりについては、この教科書はやや詳しく説明をしている(p28)。

 縄文時代の食料は、おもに狩りや漁や採集によっていたが、簡単な畑作も行われていた。今から約6000年前には、米づくりも部分的ながらも始まっていたと考えられている。稲は、日本にもともと自生していた植物ではない。大陸からはるか遠いむかしにもち込まれていたのである。
 ただし、約2400年前の縄文時代の末ごろになると、灌漑用の水路をともなう水田による稲作が、九州北部にあらわれ、その後、西日本から東日本へとだんだん広がっていった。
 長江(揚子江)流域の江南を源流として、水田稲作は伝えられたと考えられている。渡来のルートは、長江下流から北九州へ直接渡ってきたか、または山東半島から朝鮮をへて南下して渡って来たか、そのいずれか、あるいは両方の可能性が高い。

  この教科書は、陸稲の栽培が縄文時代から行われていたことや、それも大陸からの渡来によること、そして弥生時代の文化として知られる稲作は、灌漑用の水路をともなう水田稲作として最初から伝えられていたこと。さらにその源流は揚子江下流域にあることと、その渡来のルートが朝鮮を経由したものと、揚子江下流から直接のものと、2系統あることが詳細に記述されている。

  ここまでの記述はとても正しい。

  だがこの記述は、弥生時代・水田稲作の普及の歴史に関する重大な事実を、完全に捨象しているのである。

(1)大陸・稲作農耕民の大量の渡来を無視

  それは何か。それは大陸からの(揚子江下流から直接・もしくは朝鮮からまたはその北東のアジアからの)水田稲作文化をもった人が、大量に渡来して、日本における水田稲作は広がっていったという、事実である。

  弥生文化の開始に、数の多寡についてはまだ諸説あるものの、多くの人が、朝鮮からまたは中国から渡来していると言う事は、学会の共通し た認識である。例えば小学館の日本大百科全書は、「新来的、伝統的両要素が、最古の弥生文化以来、ともに存在する事実は、大陸の某文化を担った人々が日本に渡来して弥生文化を形成したものではけっしてなく、外来文化を担って到来した人々が、在地の縄紋人と合体して形成した新文化が弥生文化であることを雄弁に物語っている。 」と述べ、弥生人についての説明では「弥生人には、渡来系の人々、彼らと縄紋人が混血した人々、その子孫たちなどの弥生人(渡来系)と、縄紋人が弥生文化を受け入れることによって弥生人となった人々(縄紋系)とが区別できる。 」と説明している。そして渡来系の弥生人は「北部九州から山口県、鳥取県の海岸部、瀬戸内海沿岸から近畿地方にまで及んだらしい。弥生時代I期の土器(遠賀川(おんががわ)式土器)の分布する名古屋にまで達した可能性がある。それどころか、彼らの少数が一部、日本海沿いに青森県下まで達した可能性もいまや考えねばならない。」と説明し、大陸からの渡来人とその子孫が北部九州を中心に、北は青森県まで広がっていたとしているのである。そして渡来系の人々の故郷は朝鮮半島南部であると考えられているが、さらに北東アジアの人々も含まれるととなえる人類学者がいることも紹介されている。

 そして縄文系弥生人については、「しかし、北西九州、南九州、四国の一部、東日本の大部分においては、蒙古人種としては古い形質を備え、顔の彫り深くやや背の低い縄紋人たちが、新文化を摂取して弥生人に衣替えした。」と説明している。

 つまり弥生人は地域によってその人類学的形質が違い、渡来系の人々と、在来の縄文系の人々と、そしてその混血の人々とが、地域ごとに異 なる組み合せて成り立っている事が、今日の学会の常識であろう。

 しかるにこの「新しい歴史教科書」は、この大量の人の移動・渡来の事実にはまったく触れていないのである。

 それはなぜであろうか。その疑問は、この項の最後の、以下の記述によって氷解する(p29)。

 しかし、縄文の文化が突然変化し、弥生の文化に切りかわったのではない。ちょうど明治時代の日本人が和服から洋服にだんだん変わったように、外から入ってきた人々の伝えた新しい技術や知識が、西日本から東日本へとしだいに伝わり、もともと日本列島に住んでいた人々の生活を変えていったのである。

 ここで始めて渡来した人があったことが語られる。

 しかし、そのあとの例として明治時代の西洋文化の普及を例にあげていることからもわかるように、この本の著者たちは、この大陸からの渡来の人々の数は少なく、全体としてみれば、在来の日本人(おそらく縄文人)が渡来文化である水田稲作などを学んでいった結果として、日本列島各地で徐々に縄文文化から弥生文化への転換が行われたと考えているのであろう。

(2)渡来人が弥生人の多数を占める事実

 しかし水田稲作をもって渡来した人々は、ほんとうにほんの少数だったのであろうか。

 さきほどの日本大百科全書の記述を思い出して欲しい。渡来系の弥生人が分布してる地域は、「北部九州・中国・北四国・近畿地方」のほとんどを占め、さらに近年の水田遺構の発掘により、彼らの一部は日本海沿いに北上し、秋田県や青森県にまで到達し、さらに太平洋側の青森県や岩手県にまで広がっているのである。

 これがほんの一部であろうか。日本列島の半分近くの地域を占めているのである。けして極少数者の渡来ときめつけることは出来ないのである。

 さらに弥生文化の内容を考えてみよう。

 灌漑用の水路をともなう水田稲作ということは、自然の湿地帯などを利用した原始的農耕ではないということである。小河川や湧水を利用し、場合によっては川に小規模なダムを築いて水を堰きとめ、それを水路を使って水田に導くという形が初期のころから普及していた。
 ということは、この水田稲作の形式は、それが成立するためには大規模な労働力の組織化が必要であり、そのためには小規模ながら国家というべきそしきの存在を前提としているということである。そのことは弥生文化の初期のころから青銅製の武器や鏡が存在し、王墓と目される比較的大きな墓が存在する事もその現れであろう。

 そうであるならばこの渡来は国をあげた渡来、数百人から数千人におよぶ、しかも何次にもわたって行われた渡来に違いない。

 今から2400年前のころと言えば、中国で言えば戦国時代の末期であり、朝鮮半島では三韓とよばれる、辰韓・馬韓・弁韓の諸国が分立していた時代である。どちらも戦乱が続いた時代であり、その中で戦火を避けてより安全で豊かな土地を求めて移民を大量に送った国があったとしてもおかしくはないであろう。

 では、渡来人の数はどれくらいであったのであろうか。

 埴原和郎氏は、岩波日本通史の第1巻の「日本人の形成」という論文で、人骨の研究から渡来人と在来の縄文人との混血はほとんどなく、両者は各地で住み分けていたのではないかとの仮説を提示したあとで、次のように述べている。

 「紀元前3世紀から7世紀までの1000年間にやってきた渡来人の数を、縄文時代から初期歴史時代までの人口増加率と縄文末期から古墳末期にいたる頭骨の時代的変化を指標として推定してみた。(その結果は)7世紀までに渡来人の人口は日本人全体の70%から90%にたっし、とくにその割合は近畿を中心とする西日本に高かったと思われる。そうするとこの1000年間に数十万人から100万人以上が渡来したことになり、渡来人の総数は想像以上に多かったということになる。」と。

 1000年間という長い時代をとっていて、600年以上続いた弥生時代とそのあとの古墳時代・飛鳥時代を含めた数字だが、人口の90%とはすごい数である。著者の埴原和郎氏は、100万という数字に意味があるのではなく、渡来人の数は無視できないほど多数にわたるということを言いたかったと述べているが、この指摘は大事である。

 つまり古代における日本人の形成は、中国や朝鮮半島、そして北東アジアからの大量の人々の渡来によってなされたということであり、日本人という民族は、中国・朝鮮・北東アジアの国々の人々と在来の縄文系の人々の混合によってできたが、前者の渡来系の人々が圧倒的多数を占めていたということである。

:埴原和郎氏はこの大陸からの大量の渡来を、文献史学の従来説に乗っ取って、朝鮮半島経由の北東アジアからの渡来と説明している。しかし近年、中国江南地方や中国山東地方、そして朝鮮南部の同時代の古人骨との比較研究が深化し、これらと渡来系弥生人とがほぼ同じ人類学的形質を持っているという事実が、松下孝幸氏や百々幸雄氏らによって明らかとなっている。この研究結果は、朝鮮半島南部が中国の歴史書によって「倭地」と記されていることや、この地域の稲作遺構と北九州の稲作遺構の同一性、両地域に支石墓や甕棺、さらには木棺直葬式円墳・前方後円墳などが共通するなどの考古学的知見とも一致する。すなわち、朝鮮半島南部(弁韓と呼ばれ、後の加羅・伽耶などと呼ばれた地方)と北九州の水田式稲作耕作民は同一の起源を持った人々であり、両地域は長く「倭」として1つの国と認識されていたことを人類学のほうから確認することとなる。

 このように渡来系の人々のことを考察して行くと、なぜ新しい歴史教科書の著者たちが、弥生文化形成期における、中国や朝鮮からの大量の人の渡来という事実を過小評価しほとんど記述しなかったかが、わかってくる。

 この教科書は、後の近代の部分で顕著になってくるが、隣国である中国・朝鮮の人々を馬鹿にする傾向がとても強い。その人々と日本人が同祖であり、日本人は、中国・朝鮮からの渡来系の人々が多数を占める中で形成されたということを認めるのは、この本の著者たちの偏狭な民族主義、『誇り高き日本人』としてのプライドが許さなかったのであろう。

 しかし歴史的事実を捏造しての『民族の誇り』とは何であろうか。

 彼らの民族主義の危うい側面が、ここ日本人の形成に関わる部分でも如実に現れている。

注:05年8月の新版は、旧版以上に稲作文化を持った人々が日本列島に渡来した事実を完全に無視するという、改悪された記述になっている(p24・25)。すなわち旧版でなされていた弥生文化の広がりについての説明は削除され、図版のみとなる。そして本文でもあげた「縄文文化から弥生文化への移行」の問題についての記述は全面削除となっている。その代りに「水田稲作の伝来ルート」という図が掲載され、中国江南直接か、江南⇒南部朝鮮⇒九州北部または江南⇒山東半島⇒南部朝鮮⇒九州北部の伝来ルートが図示されている。これは、近年人類学の骨分析によって明らかとなった、渡来系弥生人と中国江南・山東地方や南部朝鮮の古人骨との親近性に基づく、前記の新しい知見に基づくものである。しかし本文中には、水田稲作とともにこれをもたらした大量の渡来人が弥生人の基本となったことは一言も触れられていない。また、九州の吉野ヶ里遺跡の復元図が掲載され、この時代がある程度統一された国家の段階にあったことが記述されている。

 「角のある」記述が削除されて普通の教科書の記述になったことでかえって、弥生文化と日本人の形成に朝鮮(中国)から渡来した人々が占めていた大きな役割を完全に無視すると言う、最悪の記述になっているのである。

注:この項は、前掲隈元浩彦著「私たちはどこから来たのか:日本人を科学する」、埴原和郎氏著「日本人の形成」(岩波書店1993年刊「岩波日本通史第1巻:日本列島と人類社会」所収)、松下孝幸著「日本人と弥生人ーその謎の関係を形質人類学が明かす」(1994年祥伝社刊)、百々幸雄編「モンゴロイドの地球3・日本人のなりたち」(1995年東京大学出版会)などを参照した。


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