「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第1章:原始と古代の日本」批判21
21.「日本列島すべてが天皇家の統治下にある」という概念の虚妄さ
『平安京と摂関政治』の第2項目は、「律令制の拡大」と称して、大和天皇家の版図が、東北地方にまで広がったことを記述している。
教科書の記述を見てみよう(p69)。
また、九州南部や東北地方などの辺境の地域へも、しだいに律令の仕組みを浸透させていった。特に東北地方に住む蝦夷の人々の反乱に対しては、坂上田村麻呂を征夷大将軍として朝廷の軍隊を送り、これをしずめた。こうして律令国家の領域は、さらに拡大した。 |
(1)『辺境』とはどんな地域のことか?
この教科書の著者たちは、九州南部や東北地方のことを『辺境』と位置付けた。実は何気なく使用したこの言葉の中に、この教科書の著者たちの政治的立場が表明されているのである。
ちょっと辞書を引いてみよう。たとえば広辞苑では「中央から遠く離れた国ざかい」と記述する。つまり中央があっての国境なのであり、この場合の中央とは、平安京に都を置いた桓武天皇治下の大和天皇家のことであり、辺境とは、この天皇家の統治が及ぶ範囲のはずれを意味している。つまり「辺境」という用語を使用する事で、この教科書の著者たちは、蝦夷の住む地域は天皇家の統治権の下にあるべき地域と考えているということなのだ。
(2)『反乱』の用語に隠された大義名分論
同じことが『反乱』という用語にも言えるのである。反乱とは、「支配体制や上からの統率にそむいて乱を起すこと」である。つまり蝦夷の反乱という言葉を使用する事で、蝦夷の人々は天皇家に服属すべき人々であり、彼らが住む地域は、天皇家の統治権下にあるべき地域と、この教科書の著者たちは考えていると言う事である。
(3)『蝦夷』は「日本」の民ではない!
だがちょっと視点をかえてみよう。つまり「辺境」の民とされた蝦夷の人々から世界を見てみるとどうなるのか。蝦夷の人々が暮らす地域のはるか離れたところに「日本」という国があり、その異国が自分たちの地域に攻めてきて、この地域の領有権を主張した。この日本国との戦いに破れた蝦夷の人々は、独立の立場を捨て、日本国の統治下に入り、その辺境の民と呼ばれるようになったということであろう。
つまり蝦夷の地域は「日本」ではなかったのである。蝦夷と日本とは互いに異国なのである。
そしてこのことは日本書紀にも明確に記述されている。いわゆる景行紀の日本武尊の東征伝承である。
この景行紀に、突然『40年夏6月、東国の蝦夷がそむいて辺境が動揺した』と記述され、『蝦夷反乱』と表現されている。しかしこの「そむく」という記述が事実ではなく、天皇家の側からの大義名分にしたがった用語に過ぎない事が、日本書紀の次の記述からも明らかである。景行紀には景行天皇が日本武尊に与えた次のような言葉を載せている。
『蝦夷は(中略)冬は穴に寝、夏は木にすむ。毛皮を着て血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようであるという。(中略)昔から一度も王化に従ったことはない。』 |
そう。蝦夷は天皇家の統治権下に一度もはいったことはない民なのである。つまり「異国の民」。蝦夷は日本ではないことが、たくまずして天皇の言葉として語られているのである。
ということは、この景行紀における蝦夷の『反乱』とは、単に蝦夷の人々が「王化に従わない」という事実を示すに過ぎないのである。
(4)蝦夷の国名は「日高見国」!!
では蝦夷の人々はどこの国に属していたのか。このことを示す資料が同じく日本書紀の景行紀にある。
日本武尊は上総から移って陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った。 蝦夷の首領島津神・国津神らが、竹水門にたむろして防ごうとした。しかしはるかに王船を見て、その威勢に恐れ、心中勝てそうにないと思い、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで「君のお顔を拝すると、人にすぐれていらっしゃいます。神様でしょうか。お名前を承りたい」と言った。皇子は答えていわれるのに、「われは現人神の皇子である」と。蝦夷らはすっかり畏まって、きものをつまみあげ波をわけて王船を助けて岸につけた。そして自ら縛についた形で服従した。それでその罪を許された。その首領を俘として手下にされた。蝦夷を平らげられ日高見国から帰り、常陸をへて甲斐の国に到り、酒折宮においでになった。 |
蝦夷の人々の国は、陸奥国のさらに奥にあることがこれでわかる。そして蝦夷の人々が何人かの首領の下にあり、一人の王をいただく統一国家ではなかったこともわかる。そして日本武尊が蝦夷を亡ぼしたのではなく、その首長を手下にして、間接統治の形をとったことも、この資料から明らかである。
では蝦夷の人々は、自分たちが住む地域のことをなんと呼んでいたのか。上の資料に突然あらわれる「日高見国」がそれである。戦いの行きの終点が陸奥の国のさらに奥にあり、戦い終わって蝦夷を服属させ、「日本」に帰る旅の始点が「日高見国」だからである。
(5)蝦夷を服属させたのは「大和朝廷」ではない!
そしてもう一つ蝦夷の問題を考えるとき大事な事は、この日本武尊の日高見国への遠征と、その地の民の蝦夷を服属させた事件は、大和朝廷での出来事ではないということである。
この日高見国での話しは、古事記にはのっていない出来事である。古事記における倭建命の事跡は、東京湾を渡って上総に渡ったあとはほとんど記述がなく、『荒ぶる蝦夷の人々を言向けした』と一言あるだけである。「言向け」とは「言葉で説いて従わせる」という意味であり、蝦夷との戦いはなかったということである。そして日高見国遠征の詳しい記述が古事記にないということは、大和天皇家に伝わる記録には、日本武尊の日高見国への遠征の記録がないということである。
つまり、これほど重要な出来事の記録がないということは、日本武尊の日高見国への遠征の出来事は、大和天皇家内の出来事ではないということであり、この時蝦夷を服属させたのは、「大和朝廷」ではないということである。
ではそれはどの国の出来事なのか。すでに述べたように、日本書紀は九州の倭王朝の滅亡後に、その歴史をつづった史書が手に入ってから、大和天皇家内で編纂された史書であり、九州倭王朝の事跡を自己の歴史に組みこんで作った捏造の書である。したがって、古事記にはない日本武尊の日高見国への遠征の出来事は、九州の倭王朝の記録からの盗用といえる。
おそらく日本書紀の日本武尊の事跡は、古事記における大和の倭建命の事跡に、九州の倭王朝における日高見国への遠征の話しを付け加えて成立したものであろう。
(6)蝦夷服属はいつのことか?
ではこの日高見国が倭王朝に服属したのはいつのことであろうか。これは端的に言えば分からないということである。景行40年という年次は、日本書紀の編者が、おそらくその年にあたると考えて挿入した年次であるので、実年代である証拠はない。
仮にそれが実年代だと仮定すると、確実に年代を比定できる継体天皇あたりから逆算していくと、おそらくこれは西暦260年の頃。かの「邪馬台国」の女王卑弥呼が死んで、その娘の壹与が女王だったころである。
したがって蝦夷の服属は、かなり早い時期のことだったようである。
だが忘れてはならないのは、この服属は間接統治だったということである。倭王朝の政治制度を持ちこんだり、九州から官吏を軍隊とともに派遣し、支配したのではなく、蝦夷の首長を服属させ、その統治権を承認するかわりに、貢物を納めさせるというものである。
日本武尊の日高見国への遠征以後の日本書紀における蝦夷関係の記事は、ほとんどが新年の参賀に蝦夷の首長が貢物を持って参上するというものである。
(7)桓武天皇が直面した「蝦夷反乱」とは何であったのか?。
しかし問題は残る。桓武天皇は現実に「蝦夷の反乱」に悩まされ、たびたび大軍勢を派遣し、それが民を疲弊させるもとにもなったことは事実だからである。この「蝦夷反乱」とは一体何だったのだろうか。
この疑問は、日本書紀・続日本紀の蝦夷関係の記事を通観して、その内容を時代の移りかわりと関係づけて見てみると、かなり氷解する。
(a)日本書紀による倭王朝の蝦夷征服戦争の経緯
日本書紀の蝦夷関係記事は、日本武尊の日高見国への遠征以後は、その122年後の仁徳55年の「蝦夷反乱」と、その199年後の敏達10年の「蝦夷反乱」を除き、蝦夷が朝貢してきたという2・3の記事ばかりである。
日本武尊の日高見国への遠征のあとは、その時の蝦夷の捕虜を大勢「神宮」の神領の三輪山に置いたが、暴れるのでこれを各地に移したという記事が続く。この三輪山は大和のそれではなく、常陸の三輪山であり、神宮は伊勢神宮ではなく鹿島神宮のことである。したがって日本武尊の日高見国への遠征は恐れをなして蝦夷が降伏したように書かれているが、実態は戦闘による侵略行為であったことがわかる。
仁徳55年(おそらく西暦382年ごろ)の記事は蝦夷との戦闘記事であり、この戦で朝廷側の将軍が戦死している。したがってこのころはまだ蝦夷の服属は形だけで、蝦夷の人々も激しく抵抗していたことがわかる。
そしてこの199年後の敏達10年(西暦581年)の記事は、蝦夷数千が辺境を荒らしたが、その首長の綾粕らを呼んで約300年前の時と同じように許すべき者は許し、殺すべきものは殺すと脅した所、蝦夷の首長たちは恐れおののき、三輪山に誓って、永久の服属を誓ったとある。そしてこれ以後の記事は、東北各地の蝦夷が帰順してきたという記事ばかりで、倭王朝による蝦夷支配は実質的に6世紀末から展開したと言えよう。
この後は帰順してきた蝦夷の首長に官位をあたえたり、郡の長官に任命して、早くも律令制を施行していることがわかる。さらに東北各地に柵を設けて、関東甲信越の各地から民を移住させ、各地の柵を蝦夷支配の軍事的拠点とし、移住民をその周辺に住まわせて、いわば屯田兵としたことが、日本書紀の記事からわかるのである。そして倭王朝はさらに軍を北に進めて、蝦夷を脅かす粛慎(みしはせ:おそらくカラフトか中国の沿海州あたりの民)としばしば抗戦し、水軍をもって、その粛慎の地にまで攻めこんでいくのである。
これは書紀によれば7世紀斉明朝のことであるから、倭王朝滅亡の直前のことである。倭王朝は西で新羅・唐王朝と対立する一方で、その北の辺境である粛慎を討つことでこれを牽制するとともに、蝦夷・日高見国を完全に倭国化する政策をとっていたのである。そして蝦夷の側はその南部の倭国に接する地域の首長たちが倭王朝に服属し、その律令の下の官吏となることで、戦いの矛先から身をかわし、生きつづけようとしていたのである。そしてこの動きは倭王朝の滅亡後も続き、天智・天武朝に継続したのである。
(b)蝦夷・日本国関係の転機=日本王権の存続の危機
しかしある意味で平和なこの時期には、やがて転機がおとづれる。
それは天武・持統朝の天皇家が正統な後継者を造れず、諸貴族が一致して推戴できる天皇が存在しないという王権の危機の顕在化とともに、「蝦夷反乱」という形で登場する。
元明天皇の和銅2年(709年)、突然陸奥・越後の蝦夷に対する征討将軍の任命という形でそれは始まる。そして以後、最前線である出羽の国に東国の民を移し、柵を強化するという形で事態は進行し、元正天皇の養老4年(720年)の陸奥の国での蝦夷反乱で按察使が殺されるという事件が起こり、大規模な征討軍の編制と侵攻という事態へと発展して行く。そしてこれが一応収まったのが、聖武天皇の神亀元年(724年)のことである。ここでようやく征討軍が帰洛し、捕虜144人を伊予の国に、同じく捕虜578人を筑紫の国に、そして捕虜15人を和泉の国に配した所で終わっている。
実に15年にわたる戦い。これはなんであったのか。
これは文武天皇という一応諸貴族が推戴した天皇が早世し、その後継ぎである後の聖武天皇が幼く、しかも彼はその血統が天皇を継ぐにふさわしいものではないという、日本王権の存続の危機に対応した出来事であった。
おそらくこれは、この間、日本書紀にしばしば登場する、服属した蝦夷の民が、『俘囚から公民への戸籍がえ』を申請したことにあらわれているような日本国による蝦夷支配における差別の存在や、柵の建設と大量の移民による日高見国の日本国化への危機感が背景にあったであろう。
蝦夷の人々が住む地域への律令制の浸透は、蝦夷の民族そのものの消滅の危機でもあったのである。蝦夷の人々は日本国における天皇をめぐる王位継承の争いの勃発が予想された事態に対応して、日本国からの独立をはかったのであろう。
(c)日本国からの独立を求める戦い=蝦夷反乱の実態
そしてこの戦いはその後も激しさをます。一度おさまったかに見えた「反乱」は、称徳天皇の宝亀元年(770年)8月、蝦夷の俘囚の長である宇漢迷公宇屈波宇(公という姓を持っているからおそらくどこかの郡の長であろうか)らが、突然一族を率いて賊地(日本国の支配化にない蝦夷の地)に逃げ帰り、『同族を率いてかならず城柵を侵略しよう』と宣言したところから激化する。朝廷の威光に従って、朝廷の官吏としてその蝦夷支配に協力していた人々が「反乱」し、日本国に奪われた蝦夷の地の奪回に乗り出したからである。
これに対する征討の動きは苦戦をきわめ、その後、光仁天皇の宝亀5年(774年)には、征討軍の長官が、最前線の伊治の城に赴いたおりに、その軍に従っていた俘囚の長の伊治公アザマロによって殺され、伊治の城が奪われ、蝦夷の軍はそのまま、陸奥の国の支配の拠点であった陸奥国府が置かれた多賀城を陥落させる所にまで発展したのである。
称徳天皇から光仁天皇へと到る時期は、王権をめぐる殺戮戦が行われていた時期であり、774年は、ようやく唯一の聖武天皇の血統をつぐ他戸親王を次の天皇候補と定めて、長い間にわたる王位を巡る殺戮戦を終えたのに、光仁天皇とその長子の山部親王(後の桓武天皇)の謀略により、その他戸親王が廃太子・殺害され、天皇を継ぐ資格がない山部親王(後の桓武天皇)が立太子した時であった。
日本国の王位の行方が混沌とし、その中央での争いが激化する時を見計らって、蝦夷の人々は総力をあげて、日本国からの独立をはかる戦いの火蓋を切ったというべきであろう。
桓武天皇が直面した「蝦夷反乱」とは以上のようなものであった。桓武天皇にとって「蝦夷の反乱」を押さえる事は、自己の天皇としての権威を確立する行為でもあり、なんとしても負けられない戦であったのである。
(d)朝廷の総力をあげた反撃の敗北
多賀城陥落の翌年即位した桓武天皇は、意欲的に政治を改革し、蝦夷征討の準備を進めた。その過程で、諸国の国司が諸税を私的に流用している事態や最前線の陸奥の国の官吏たちが蝦夷との戦にそなえて国府などに運び込まれた兵糧米などを私し、都に送って巨額の利益をあげているなど、朝廷の官僚機構の腐敗した実態が明らかになった。桓武天皇はその腐敗を一つ一つ明らかにして関係者の処罰や再発防止作を講じながら、蝦夷再征の準備を着々と進めた。
そして延暦7年(788年)3月、東海道・東山道・坂東の諸国の騎兵と歩兵5万2千8百余人を翌年3月までに陸奥多賀城に終結し、蝦夷征討を行うべき事が命令され、翌年(789年)3月、大軍が多賀城に終結し、北の蝦夷の地へと侵攻したのである。
だが朝廷の総力をあげたこの戦いは、悲惨な大敗北を喫して終わった。6月の征東将軍の報告によれば、征討軍は北上川を渡って蝦夷の首長の阿弖流為の拠点の胆沢地方を攻め落とそうとしたが、かえって罠におちいり、戦死25人、川で溺死したもの1036人、矢にあたって負傷したもの245人、裸で川をわたって逃げ帰ったもの1257人という大敗北を喫したのである(続日本紀による)。
そして桓武天皇の再度の侵攻命令を無視して征討軍は軍を解き、都に帰還してしまったのである。
(e)懐柔策と征討によって制圧された30年にわたる「蝦夷反乱」
しかし朝廷の征討軍5万余をわずか4千の軍で撃退したとは言っても、約20年にわたる戦いは蝦夷の側にも多大の損害と被害をもたらしたようである。乏しい戦果にいらだった征討軍は、蝦夷の村村の焼き討ちと言う策に出たからである。北上川流域の肥沃な地域も長い間の戦乱によって疲弊し、毎年の税すらとれない状況になったことは、蝦夷の側にも朝廷の側にとっても多大な損害であった。
ここに再び、蝦夷の首長を懐柔し、官位と律令官制の中で郡の統治をゆだねると言う懐柔策が台頭し、蝦夷の首長の主だったものを少しずつ切り崩していった。そして延暦13年(794年)、平安京遷都の年に、10万の大軍を投じてまだ従わぬ蝦夷の人々の制圧が図られた。この年の10月征討軍は「斬首457人、捕虜150人、取った馬85匹、焼いた村75ヶ村」(日本紀略による)の戦果をあげ、一応終結した。10万の大軍を投入して得た戦果としては小さいが、焼き払った村75という数字は、「朝廷に従わねば皆殺しにする」という脅しとしての意味は充分だったとみられる。
さらに征討は引き続き、延暦20年(801年)には陸奥の国司で鎮守府将軍を兼ねていた坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、4万の軍が動員され、蝦夷の拠点であった胆沢地方に攻め入った。そして翌802年にはその地に胆沢城が築かれ、さらに翌803年には多賀城にあった鎮守府が胆沢城に移され、30年に及ぶ蝦夷征討は、ここにほぼ終息した。
この時どのような戦いがあったかは記録にないのでわからない。だがこの戦いで朝廷に対して徹底抗戦を続けてきた蝦夷の首長の大墓公阿弖流為と盤具公母礼とは捕虜となり、802年7月に坂上田村麻呂は二人を伴って平安京に凱旋した。
この時田村麻呂が二人の蝦夷の首長の助命を嘆願したということは、征討軍に降伏したもともと俘囚の長であり、「公」という姓を持って郡の官吏であった二人の首長を、律令制の元の地位につけることにより、蝦夷全体を間接統治によって治めようという構想があったことが伺える。
しかし桓武天皇は二人を許さず河内の国の杜山で二人は処刑された。
だが、かっての間接統治の策はこの後復活をとげ、陸奥の国の胆沢以北の地域(いわゆる奥6郡)は、俘囚の長を郡の司として間接統治されたことは、後の奥州安部氏の例でも明らかであろう。
30年以上にわたる日本国からの蝦夷独立の戦いは、朝廷の側の焦土作戦と懐柔策によって敗れ、ふたたび日本国の統治下に置かれたのである。
(8)脈々と続く「蝦夷独立」の気概
しかし「蝦夷反乱」は潰えたとはいえ、「蝦夷独立」の気概は脈々とこの地の人々に受け継がれた。後の前9年の役や後3年の役における俘囚の長安部氏や清原氏の朝廷の支配を脱しようとする行動。そして平泉に拠点を置いた奥州藤原氏の都の王朝国家とは相対的に独立したうごきなどがそれである。
そして彼ら俘囚たちや、その子孫たちが東北地方を「日ノ本」と称し、安部氏の衣鉢を継いだ鎌倉時代以後の安東氏が「日ノ本将軍」と自称したことなどにも「蝦夷独立」の気概は脈々と受け継がれていく。
おそらく彼らにとって、数10年におよぶ戦いの結果、彼らを屈服させた平安京に都する朝廷の王である日本天皇が、本来の日本列島を統治する権限を中国王朝から認められた九州の倭王朝から王権を簒奪してできたものであるという記憶が、「蝦夷独立」の気概を支えた一つの基盤であっただろう。戦いに敗れ去った時、『九州の倭王朝(この王朝こそ日本と名乗った最初の王朝であった)の衣鉢を正しく継承するのは東北の蝦夷の民である』という屈折した自意識が生まれたのではないか。それがかの地を「日ノ本」と称させた所以であろうか。
(9)「日本は単一民族」という虚妄
新しい歴史教科書の著者たちは、このような日本列島征服史を征服された側から見るという視点をまったく持っていない。征服された蝦夷の人々にとって、都の朝廷や天皇は憎き征服者でしかない。この人々の痛みを感じる事無くしては、これ以後の日本歴史を理解する事はできないといっても過言ではない。
だが彼ら著者たちにとっては、そんなことはどうでも良いのである。彼らにとっては天皇によって統治された日本国の成立とその拡大こそが問題なのであり、「蝦夷反乱」の鎮圧は、この観点から見るとき喜ばしいことなのである。
おそらく彼らにとって、日本人とは「天皇を王として仰いだ単一民族」との観念が支配的なのであろう。この「日本は単一民族」との虚妄の精神を持ちつづける限り、古代の日本列島にはいくつかの複数の王国があり、それぞれが異なる文化を持っていたという事実は、彼らの目には入らないのであろう。
神武とその子孫によって征服された大和および近畿地方の民、そしてその後大和王権の拡大の中で征服された出雲や吉備の民や尾張以東の東海・北陸・関東の民。さらには倭王朝の滅亡の過程で服属させた倭王朝傘下の北九州の民やその倭王朝に服属してきた南九州の隼人族の民。そしてその南の屋久島や奄美・沖縄の諸島の民や関東・東北の蝦夷の民。これらの民の苦渋と内に秘められた「反天皇」の気概には、彼らの目は及ばないのである。
そして天皇家は、その各地の王国を征服していった侵略者の王であったという事実もまた、彼らの観念からは除外されるのである。
(10)「製鉄原料」「製鉄技術」に優れた「日高見国」
最後になにゆえ朝廷は蝦夷の住む地域を何としても征服しようとしたのかについて考察しておこう。
これについては、先に日本書紀の蝦夷関係記事を検討したときに、九州倭王朝の蝦夷支配が6世紀末から本格化したという事実が、全てを物語っている。
蝦夷を再度服属させた事件として記録された年、敏達10年(581年)とはどのような年であったのだろうか。この約20年前の561年に新羅が任那ミヤ家を亡ぼし、倭国はその再建を画策し、571年(欽明32年)に任那再興の詔を発して、新羅と激しい戦いをえんじていた真っ最中の年である。
結局この任那再興はならず、この問題をめぐって対立を激化させた倭国と新羅とは、この後も戦火を交えていくわけだが、倭国が任那の復興に執心した理由は何であったか。それは任那とは加羅諸国の一部であり、加羅諸国の地は古来弁韓とよばれ、東アジアきっての鉄産地であったということである。つまり鉄産地である任那を新羅に奪われたということは倭国の生命線である鉄を新羅に奪われ、倭国は今後新羅との戦争が継続できないことになる危険が生まれたことを意味している。
まさにこの時期、倭国は蝦夷の住む日高見国に再度軍をおくり、そこを服属させた。そして7世紀前半を通じてそこに柵を設け、関東甲信越の各地から民を移動させ、日高見国の倭国化を進めたのである。そして663年の白村江の戦いでの滅亡の時まで、何度と無く蝦夷征討の軍を起こし、その北の粛慎を討ったのは、そこが新羅・唐の北辺にあたるという地政学上の位置の問題だけではなく、そこ蝦夷の民の住む地域が、日本列島においては、出雲と並ぶ鉄の産地だったからである。
日本最初の西洋式製鉄が行われた釜石の北方の山地は、餅鉄といって鉄の純度70%以上の磁鉄鉱の産地である。また山地に砂鉄や鉄鉱石を含む地域を流れる川の水には鉄分が多く含まれ、これが川辺に生える葦などの植物に吸収されてその地下茎のまわりに「すず」と呼ばれる鉄の純度70%程度の水生の褐鉄鉱がかず多く出来る。現在でも多くの製鉄遺跡や採鉄遺跡を残す東北地方は、これらの鉄原料をつかって高度な製鉄が行われていた地域と考えられている(この点については柴田弘武氏の著書「鉄と俘囚の古代史」、および、弥生時代における古代製鉄の可能性については、真弓常忠氏の著書「古代の鉄と神々」に詳しい)。
任那・加羅の産鉄を失った倭国は、その穴を生めるべく、日本列島屈指の産鉄地域である日高見国を征服すべく、たびたび大軍を送ったのである。そして倭国滅亡を受けて、日本列島の統治権を唐帝国から承認された日本国もまた、鉄を求めて蝦夷の人々が住む地の征服をはかったのである。さらに蝦夷の人々は日高見の国の独立を守るために、その鉄をつかった優れた武器を鍛え、その武器と優秀な馬とを持って、朝廷の軍と長期にわたって対峙し続けたのであった。
日高見の国の鉄製武器の優秀なことは、日本刀の原型となった蕨手太刀が5世紀の東北の地ではじまったことや、この湾曲した太刀が騎馬戦での使用に優れており、陸奥の俘囚との戦いを経験した源氏傘下の武士たちが、その優秀さに学んで、湾曲した日本刀を作ったこと、さらに後の武士の大鎧の原型が同じく蝦夷の俘囚との戦いの中で、彼ら俘囚の皮で鉄の短冊をつづった軽い鎧の優秀さを学んだ武士たちが、関東の地ではじめて大鎧を完成させたことからもうかがわれる。
蝦夷の国である日高見の国は、当時の最先端技術である製鉄技術と鉄製品製作技術の先進地域であったのであり、馬の産地ということともあいまって、当時の最先端の軍事技術である軽装騎兵の国であったことが、桓武天皇のもとの朝廷軍を長く苦しめ得た原因でもあったのである(朝廷軍の主力である坂上氏などの渡来氏族の騎馬軍団の武装は、重い鉄鎧で武装し、馬まで鉄の鎧で武装した重装騎兵であり、少数の重装の騎兵を中核にした重装備の歩兵部隊でなる征討軍は蝦夷の軽装騎兵の前には、機動戦力と言う点でははるかに劣っていた。ここに征討軍が大軍を催しても、少数の蝦夷軍団を制圧できなかった一つの理由がある。それゆえ桓武天皇のもとでの征討の過程では、この蝦夷の軽い鎧に対抗できる皮の鎧が何千となく関東地方で作られ、多賀城に送り込まれたのである。関東はかって蝦夷の住む地であったために、蝦夷の人々と同じ技術を持っていたからであろう。)
注:05年8月刊の新版では、「律令国家の立て直し」と改題している(p52)。記述内容は「辺境」「反乱」などの用語も含めほぼ旧版と同じであるが、坂上田村麻呂についての詳しい記述は削除された。
注:この項は、前掲、古田武彦著「真実の東北王朝」、菊池勇夫著「アイヌ民族と日本人」、柴田弘武著「鉄と俘囚の古代史―蝦夷『征伐』と別所」(1989年彩流社刊)、真弓常忠著「古代の鉄と神々」(1997年学生社刊)宇治谷孟著「全現代語訳:日本書記・上下」(1988年講談社学術文庫刊)、宇治谷孟著「全現代語訳:続日本紀・上中下」(1995年講談社学術文庫刊)などを参照した。