「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判22


 22.「天皇はあやつり人形」という概念の虚妄さ

 『平安京と摂関政治』の第3項目は、「摂関政治」と称して、藤原氏の権力意思によって天皇が単なる御飾り=あやつり人形になったということを記述している。

 教科書の記述を見てみよう(p69)。

 都が平安京に移り、朝廷のしくみが整って、天皇の権威が一層安定してくると、天皇が直接政治の場で意見を示す必要が少なくなった。一方藤原氏は、たくみに他の貴族を退け、一族の娘を天皇の后にして、その皇子を天皇にたてることで勢力を伸ばした。
 やがて9世紀の中ごろから、藤原氏は、天皇が幼いころは摂政として、また成長したのちは関白として、国政の実権を握るようになった。10世紀後半からはほとんどの時期、摂政・関白が置かるようになる。そこで、このころから摂政・関白が実力を失う11世紀中ごろまでの政治を、摂関政治とよぶ。摂関政治は、藤原氏という貴族が、天皇の外戚となることで、天皇の権威を利用して行った貴族政治である。

 これが平安時代政治史の通説的理解であり、扶桑社の教科書に限らず、どの教科書でも同じように記述されている。

 また、この平安時代政治史の通説的理解が、前後の時代にも敷衍され、天皇というものは単なるあやつり人形なのだという理解が、こんにちの常識になっている観すらある。だがこれでは歴史上のここかしこに現われる「戦う天皇」の姿の性格を捉える事はできないし、現代史も理解できない。さらには、この扶桑社の教科書のように、天皇という存在が日本歴史に不可欠のものであり、天皇とは国民の幸せを考えて国民とともに歩む存在であるというこの教科書の主張(昭和天皇の記述で著しい)と、平安時代の天皇の理解は、大きな齟齬をきたしてしまうのである。

 では「天皇はあやつり人形」という通説的理解はどこが間違っているのか。以下に詳述してみよう。

(1)『直系王朝の安定』の下で出現した幼帝と摂政

 教科書の記述の「天皇の権威の安定」とは、何を指しているのであろうか。これは摂関政治の前提になっている、成人していない天皇=幼帝の出現と摂政の補任という最初の事態が、いかなる状況の下で起きたかを究明して見れば明らかである。以下、河内祥輔氏の「古代政治史における天皇制の論理」と、保立道久氏の「平安王朝」とを参考にして記述してみよう。

 天皇になるには、成人している事と天皇にふさわしい血筋の生まれ(第一義的には父母ともに天皇の子)が歴史上の貴族の間における確認事項である。しかしこの条件を備えた候補者がいないとき、もしくは複数いたりした時には、臨時の措置として最初は傍系の王族を中継ぎとして立てた。
 しかしこれは新たな王位継承戦争を生み出したので、次に考えられたのは女帝を立てることであった。女帝の条件は前天皇の同母の姉妹か次期天皇の母または叔母で天皇の娘という条件であった。

 歴史上始めて未成年のまま即位したのは、858年に即位した清和であった。父文徳が32才で死去したとき清和はまだ9才。彼はすでに成人している兄惟喬親王をさしおいて即位した。それは清和の母が藤原良房の娘であったからである。藤原良房は桓武天皇の子どもたちの間で王位継承の争いが起きる中で、次男嵯峨天皇の系統を直系王統とするに尽力した忠臣である。したがって嵯峨の子仁明は良房の妻に嵯峨の娘を娶わせ息子の文徳の妻にその娘を配し、この関係は仁明の子文徳にも受け継がれたのである。この時期に直系王統の継承の条件が母を藤原良房の系統とするという新たな条件が出来あがっていた。

 仁明・文徳・清和と続く直系王朝の出現は長い王位継承の争いに揺れていた平安貴族にも容認された。そして病弱な文徳が幼子清和を残して死去する可能性が見えた857年。文徳は功臣藤原良房を太政大臣という、天皇を輔弼する最高の地位につけた。

 こうして幼帝清和は藤原良房の監督を受ける形で即位し無事成人した。そして老年に達した良房は太政大臣のままで政治の第一線から退いたのである。

 その彼を再び政治の第一線の引き戻したのは866年に顕在化した貴族内部の政治闘争の再燃。2年前に元服した清和には後継ぎが誕生する気配がないことにより、直系王統が途絶える危険が見えた事により王位継承の争いが再燃した。応天門の変である。ここで争いをおさめ王統を安定させる任を帯びて再登板した良房に与えられた役目が摂政。律令官制の臣下の最高位としての太政大臣では貴族上層部の争いを裁く権威としては不足と見て、本来王族にしか許されなかった摂政に任じて事態の収拾をはかったものであろう。

 この事実に藤原良房が仁明王統にとって王族にも等しい位置を占めていた事がうかがわれるとともに、太政大臣・摂政とも王権の危機に伴う危機管理の臨時的役職という性格を帯びている事が見て取れる。

 そして876年清和は退位して上皇となり事実上の院政を敷き、8才の陽成が即位し、その養育と指導の任にあたる良房の子息基経が摂政に任じられた。このとき基経が太政大臣ではなく摂政であったのは、彼の上に年長の左大臣がいたからである。しかしこの摂政は危機管理の役ではない。上皇清和は27才。意欲的に政治を進めていたので、彼がこの後に若くして死去しなければ、この時点で院政が成立し、摂政は院政の下での幼い天皇の養育・指導の任に限定されたであろう。

 その摂政を天皇にかわって政治全般を輔弼する職にしてしまったのは、またしても天皇家の家長である清和の死。880年。清和は31才で死の床についてしまったのである。そしてまだ13才の陽成に王統を託さねばならなくなった清和は、父文徳の例にならって藤原基経を摂政をかねたまま太政大臣に任命した。

 以上にように最初の幼帝と摂政の補任の例を検討して見るとき、直系王統を実現し王統の安定を図らねば成らないときに天皇(または上皇)が死去した際に、その王統を守る役目として、王統と深い関係にあった藤原良房の流れに、摂政が託されたのであり、それは当初は律令官制の最高位としての太政大臣の職とセットであったのである。

 (2)「王統の危機回避」の功労としての関白補任

 では関白とはいかなる事情で生まれた職であろうか。

 歴史上最初の関白補任は、887年に宇多天皇が即位したとき、藤原基経が任ぜられたことに始まる。時に宇多天皇20歳。ここに政治上の重要事項を直接天皇に奏上し、あわせて天皇から下される全ての判断を直接事前に相談にあずかるという、律令官制の圏外でその上に立つ職が生まれたのである。

 しかしこの基経の関白補任は、その前の884年の光孝天皇即位と、その時に基経が実質的に後に関白と称せられたと同じ権限を与えられたことにその前例があり、この出来事の意味を探る事が必要である。

 では光孝はいかにして即位したのか。端的に言って、彼の即位は彼自身にとっても晴天の霹靂であったし、貴族層全体にとっても晴天の霹靂であった。即位の事情はこうである。883年に陽成天皇が、天皇の居所である清涼殿において、乳母子である源の益とふざけていて、彼を格殺してしまったことにある。神聖な場での殺人。しかも聖なる人である天皇自身の殺人。これは天皇の権威に関わり、天皇を頂点とする貴族の支配の根幹に関わる問題である。権威の回復のための前後策を貴族層が練る中で、貴族層は王統を仁明天皇の代にまで遡り、新たな候補者を選ぶ事になる。せっかく直系王統が成立し政治的な安定を生み出した文徳・清和・陽成の王朝であったが、今回のスキャンダルだけではなく数多くのスキャンダルに彩られていたこの王朝が避けられ、その始祖である仁明にまで遡って、なるべく陽成とは血縁的に遠い存在が選ばれたのである。

 光孝天皇。時に55才。仁明天皇の第三皇子に生まれ、老年に到るまで静かに暮らしてきた。そして突然貴族層の要請によって即位した彼は、すぐさま自分の子どもたち全員を臣籍に降下させ、自分は次の適当な候補が見つかるまでの中継ぎの天皇であることを示し、同時に藤原基経を実質的な関白の地位につけたのである。

 光孝に即位を要請した貴族の筆頭が基経であり、仁明から陽成までの王統の安定に尽くした良房・基経の権威は光孝をも凌いだのである。そして3年後、適当な候補者が見つからない中で光孝が死去するや、次に選ばれたのは光孝の第7子であった宇多であった。彼は一度王族から臣下の貴族になっていたのだが、光孝の子どもの中で唯一官職につかず、その王族としての経歴を汚していなかったので選ばれたのである。

 そしてこの宇多天皇も父光孝に従い、藤原基経を関白につけ、国政全般をゆだねたのである。

 関白が成人した天皇にかわって国政全般を見るという事態が生まれたのは、直系王統が廃絶し、政治的に不安定な状況が生まれたからであり、その不安定な状況に終止符を打ち、再び王統を安定させるには、前代の王統の安定に功労のあった藤原基経の権威に頼らざるを得なかったし、その皇統継承に功労があったことへの慰労の意味もあったのである。そして彼の地位は、彼の死去と、宇多院政の開始とともに終止符を打たれた。この意味で関白の職も、王統の危機に際しての臨時的職であったのである。

 (3)続く王統の危機と皇統の鼎立

 では臨時の職であった摂政と関白が再び設けられるようになった理由は何であろうか。

 それは光孝・宇多・醍醐と直系が続いた天皇制が再び危機に陥ったからである。

 その最初は930年に即位した朱雀天皇の時である。醍醐天皇は息子に譲位して上皇となり、息子朱雀に藤原忠平を摂政として、院政を敷こうとした。天皇が生前に譲位し上皇となって政治に介入する意図は、自己の思うままに王位継承を成し遂げることである。律令官制の最高位としての天皇は貴族の合意に縛られる職であり、王位の継承も天皇の一存で決まるものではない。だが貴族の価値観は天皇制が直系相続を続けることで安定する事を望んでいる。そこで天皇は生前に譲位してわが子を天皇につけ、やがてその天皇の子を皇太子につけることで、自己の王統を安定させることを考えたのである。そのためには律令制に縛られる天皇ではなく、官制の外部にある上皇という自由な立場で動くと言う事が考えられたのである。これは醍醐が最初ではなく、清和もこれを考えたし、醍醐の父宇多も考えた事である。しかし清和は自身の死によってその望みは費え、宇多は実子の醍醐との対立によってその望みを絶たれた。

 この天皇が上皇となって自由に動くとき、その子である天皇は幼子であることが望ましい。しかし幼子では天皇が律令制に基づいて政治決定する事は出来ないので、その補佐として上皇は自己の縁戚にあたる有力貴族を摂政に任じ、自分が自由に動きかつ天皇を意のままにあやつる枷として摂政が必要であったのである。そして天皇は成人してもなお上皇の意のままに動かさねば成らない。すなわち天皇の后は上皇がしかるべき家から選ぶのであり、次の皇太子も上皇が選ぶからである。したがって成人した天皇を輔弼しかつ上皇の意思に従わせる役として関白が必要なのである。こうして、天皇制の危機に際して補任された臨時の職であった摂政と関白が院政の始まりとともに常設の職となる予定であった。

 ただしその権能は、あくまでも上皇の政治意思を体現する範囲でのことである。

 しかし醍醐の所ではまたしてもこの試みは費えた。朱雀に譲位した直後に醍醐が46才の若さで死去したのである。そして天皇朱雀はまだ幼く後継ぎはない。ここに再び直系王統の断絶の危機が生まれ、院政の下での限られた権能を有する摂政のはずが、王権の危機を救う役を担うこととなる。しかもその後成人した朱雀にはいっこうに後継ぎが生まれる気配はない。この中で貴族内部の王位継承を巡る争いが再燃し、その中で東国にあった桓武天皇5世の孫である平将門が「新皇」と称して武力で王位を狙おうとする。

 この危機を乗りきるために貴族層は摂政藤原忠平に太政大臣の職を兼ねさせ、危機脱出の権限を与える。そして忠平は944年に朱雀の同母の弟を皇太子とし、2年後朱雀に譲位させて19歳の弟の村上を即位させる。そして950年。生まれた子どもを立太子させ、直後に太政大臣・摂政藤原忠平は死去する。これで王統を安定させるはずであった。

 しかしうまく行かないものである。村上が譲位して院政をしき、息子の冷泉を即位させてその祖父である藤原師輔を摂政にという村上の思惑は、960年にその師輔が60歳であっけなく死に、摂政の人材を失ってしまい、譲位は延期された。そして967年村上の死を迎え、即位した青年天皇冷泉に王統の安定の期待は託された。だが即位したあと冷泉は精神を病み、しかも後継ぎが生まれないという事態が再度出現した。

 ついに貴族層は969年冷泉から中継ぎとして弟の円融に譲位させ、生まれるであろう冷泉の後継ぎの男子を期待した。
 こうして天皇家の家長が死去しまだ若い上皇と天皇とが皇統を継ぐという事態が続くことで、天皇の母かたの有力者である摂政が王統の維持の爲に大きな権能を有するようになったのである。そしてこの事態は、年の近い兄と弟である冷泉上皇と円融天皇の双方に男子が生まれ、兄弟での王位継承の争いがおこり、それを解消するために、以後円融系と冷泉系の2つの天皇家が鼎立することでかえって貴族内部の争いに火をつけてしまった。しかも代々の天皇が若死にするという事態が続くことで、この結果ますます天皇を補佐する摂関の職が重要となり、摂関の職が常設され、大きな権能を有するようになったのである。

 (4)「王統の正常化」とともに縮小される「危機管理」としての摂関の権能

 こうして10世紀中ごろから摂関の職は常設されるようになったのである。王権の危機に際しての危機管理のための臨時の職であった摂関が、王権の危機が永続する事で、律令官制の上に立つ常設の職となったのである。だがしかしその権能はあくまでも王権の危機管理である。王権が安定し、父から子・孫へと直系皇統が安定して継続する事態が生まれれば、この職の権能は必然的に縮小されるのである。

 そしてこれは1016年に藤原道長によって王統の鼎立が解消され、後一条天皇が即位したところで実現へと1歩踏み出した。通常道長の時代は摂関政治の絶頂期と捉えられている。それはこの教科書でも例外ではない。だが道長・頼通と続く摂関家の栄光は、長い間続いた王統の鼎立と王位継承の争いを鎮めた功績によるものであり、天皇家の側から皇統の安定のために道長流の藤原氏が選ばれた結果でもある。

 したがってそれは、そのあと後朱雀・後冷泉・後三条と直系王統が実現し、後三条において両親ともに天皇の子という安定した皇位が実現することで、院政の出現・摂関の権能の縮小という事態へと続いていく序曲であったのである。

 

 平安時代政治史を彩った「操り人形としての天皇」や「藤原氏の陰謀」という歴史の見方は、根本的に誤っていたのである。

 平安時代は長く続いた王権の危機の時代。その危機を乗りきるために天皇家の側から選ばれた高貴な家系としての藤原氏が、政治を安定させる天皇家の家長の不在という危機の中で、その代理として皇統の安定に尽くしたのが平安時代であった。

 以上の新しい見方を提起した河内祥輔氏の前記の著書が発行されたのは1986年である。あれからすでに15年。天皇を主人公とした古代政治史の見なおしが進められている今日において、この扶桑社の教科書を始め、教科書はまったくこの研究成果を取り入れようとしていない。それはおそらく、天皇の役割を過小評価しようとする潮流が戦後の歴史学の主流であることと、それに抗して現われた「新しい歴史教科書を作る会」のような潮流が天皇主義を唱えながらも依然として「玉としての天皇」という天皇利用史観に彩られている事に原因があろう。

 どちらの立場でも、日本の歴史における天皇の役割は、正確にとらえきることはできない。

:05年8月刊の新版の「摂関政治」の記述は、ほとんど旧版と同じである(p53)。変わった所は、摂関政治の時期である「10世紀後半から11世紀中ごろ」という数字が削除されたこと。これによって年表で確認しないと時期がわからなくなった。あとは道長が絶頂期によんだとされる和歌が旧版にはあったのが削除されたことが異なる点である。

:この項は、前掲、河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」、保立道久著「平安王朝」などを参照した。   


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