「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判23


 23.中世の始まりとしての「律令国家」から「王朝国家」への転換

 扶桑社の歴史教科書は、「平安京と摂関政治」の節の最後に、「地方政治の転換」という項目を取り上げている。次のような記述である(p70)。

 10世紀に入り、人口が増え、新田が不足したために、班田収受が行き詰まると、朝廷は地方政治の方針を大きく転換した。国司に税の確保を求めるほかは、あまり干渉せず、地元の政治をまかせるようになったのである。一方、国司は税の確保を有力農民にまかせたので、国司と結んで大きな勢力をもつ農民もあらわれるようになった。このような時代の動きは、やがて新しい社会の形成につながっていく。

 すなわち、『朝廷が直接地方を治めるのではなく、地方の有力者に税の確保をまかせ、個々の国司がその地方の有力者を統括して、税の確保をはかるという政治の変化が、新しい社会の形成につながった。』という認識である。では、その『新しい社会』とは何だろうか。この歴史教科書には、これについての明確な説明はないが、文脈上のつながりからして、「律令国家の展開」の節の中の次の項目である「荘園の成長にあらわされた社会」であり、その中から成長した「武士を中心とする」社会であると思われる。教科書は次の「院政と武士の登場」の項目で以下のように記述する(p71)。

 【荘園と公領】

 10世紀以降、地方政治が変質していくにつれ、各地に有力農民が成長し、豪族として勢力を伸ばしていった。彼らは税をまぬがれるため、自分が開墾した土地を荘園(そのころの大規模な私有地)として貴族や寺社に寄進し、みずからは荘官(荘園の管理者)となって支配を強めた。一方、国司の管理下にある公領も、まだ多く残っていた。国司は、地元の豪族を役人に取り立てて、税の確保に努めた。荘園がもっともさかんにつくられたのは、12世紀のころである。

(1)政治の変質が社会の変化をまねくのか?

  しかし以上のような認識で良いのだろうか。朝廷に地方政治をまかせられた国司が、地方の有力農民に税の確保をまかせるには、このような政治のしくみの変化の以前に、『有力農民が地域の農民を統括し税を徴収できるほど力を伸ばす』という事実がなければいけないわけである。
 つまり『有力農民の成長』という社会の変化が先にあって、それに伴い、この新たな勢力に地方政治の実権を移すという統治機構の変化があったというのが実態ではなかったか。教科書の記述は逆さまなのである。

 ではその『有力農民』とは何か。教科書は何も語らない。

 しかしヒントはある。この有力農民は「自分の力で土地を開発できる」ちからを持っているのであるから、もともとその傘下に多くの人をかかえ、開墾に必要な鉄製農具などの工具を調達する力のある人々ということである。

 ではこのような人々はどのようにして現われたのか。教科書には「新たに出現した」との記述はないわけだから、これ以前から存在したということになろう。それは誰か。直ちに想起されるのは、律令制の下で、郡の統治を任された「郡司」たちの下で村(里)の長をつとめた「里長」たちである。

 郡司をつとめたのは、その地方の共同体の長から成長した伝統的な「王」である、豪族たちであり、里長は、鉄製農具の普及と灌漑農耕の普及にともなって成長した有力農民であった。どちらも律令制の下でも多くの奴婢(下人)を抱え、たくさんの班田を支給されていた。しかし郡司は地方政治の実行者として役職につき、その役職に伴った「職田」を支給されるという特権階層であるが、里長にはそれがない点が大きな違いである。

 この非特権階層である「有力農民」が郡司らの旧来の豪族を超えて地方政治の表舞台に登場したのが、この層に税の確保をまかせ、やがて地方政治の実権をも任せるという事態の変化であったのではないだろうか。

(2)律令国家体制の変質・もしくは崩壊

 では、このような事態はどのような意味があるのであろうか。

 ここで想起すべきことは、『律令国家体制が成長しつつある有力農民層を、従来の王である郡司層をこえて、直接国家への税の負担者として位置付けたことにより、国家体制の中で正当な位置をあたえた。』という律令国家体制に対する評価である。

 これを逆の面から言いかえれば、『地方政治の中で有力農民の成長によって統治力の衰えた地方の王たちを、統一国家の建設ということによって彼らに特権を与え、国家の下での地方政治の担い手に位置付けることで、彼らを救った。』と評価できる。

 つまり律令国家体制は、『地方の王たちと有力農民の関係を、統一国家の下で固定化し、現状維持をはかった』体制であるわけである。有力農民の側から見ると、権利を認められた側面と、これ以上の社会的地位の上昇を抑えられた側面とがあったわけである。

 したがって朝廷が地方政治を委任した国司が、その政治の根幹である税の確保を有力農民に任せたということは、有力農民が律令国家体制の枠を乗り越えて成長し、地方政治の実権をもかっての王である郡司層から奪い取るほどになったということである。言いかえれば、有力農民の力が律令国家体制をも変質、もしくは崩壊させてしまうほどに発展したということである。

(3)有力農民層の成長の基盤は?

 では有力農民層の成長の基盤は何であろうか?。これはおそらくは、製鉄技術の発達と普及、そして鉄製農具による農法の普及、さらに商品経済の拡大であろう。

 平安時代のはじめに、東北の日高見の国を屈服させ、蝦夷の首長を律令官制の下に統合した朝廷は、日本全国各地に、蝦夷の人々を集団的に移住させた。その場所の多くは「別所」と呼ばれ、砂鉄の産地である。おそらくここで移住させられた人々は、蝦夷の優れた製鉄・鍛治技術をもった人々であったにちがいない。

 こうして全国に移植された製鉄・鍛治技術を基盤として、急成長したのが「有力農民層」であろう。この人々はのちには「長者」として文献にも登場し、絵巻物などにも描かれるようになった。彼らの屋敷のうちには、多くの職人が抱えられ、その中には製鉄・鍛治職人の姿もあった。

 また、こうした鉄製農具を持った人々が社会的に大きな力を持つようになるもう1つの基盤に、743年の「墾田永年私財の法」の施行がある。

 そしてこの法律の適用は、当初は新たに開墾された田畑であったが、次第に荒れ果てた公田を再度開墾して農耕を可能にした場合にも適用されるようになり、私有田の拡大に、法的な基盤を与えたのである。

 この法律によって、巨大な社会的力を持つ、大貴族や大寺社だけでなく、地方の郡司や有力農民たちも、自己の傘下にある人々と鉄製農具を使用して開墾した結果、全国に私有田の割合が増え、その中で皇族や有力貴族、そして大寺社の私有田は免税措置がとられ、ここに荘園が成立したのである。

 そして荘園の成立と拡大は、公田の減少と税収入の減少を生みだし、ついには902年の荘園整理令による規制すら必要になったのである。

 しかしこの法による規制も効果はなく、不輸租の免田が増える事を国司の権限で規制させたことがかえって国司の権限による免田荘園の増加につながり、この結果として、朝廷は税の徴収を国司に委任し、定められた税額を納入している限りは、国司の権限に介入しない方向へと、統治機構を変化させたのである。

 また律令国家の租税の徴収は米だけではなく、さまざまな地域の特産物を調や「にえ」として献上させていた。その中味は布や鉄・鉄製品、さまざまな道具類、そして多くの海産物など。この現物での税は、税を納める正丁が家族の労働で手に入れる場合と、交易によって専業の生産民から手に入れる場合とがあった。すでに平安時代中期から国府の周辺に市が立ち、そこで各地の特産物が売買されていた事は、近年の発掘の成果として明かになりつつある。この商品経済の拡大は、鉄製品を占有し豊かな生産を可能とした有力農民たちにさらに富みを蓄えさせる基盤を提供した事であろう。

 そして税の運搬がしだいに国家の手からこれらの有力農民に委譲されるに従って、税を運ぶ「運送業者」も彼らの間から生まれる。これも有力農民層の力を強めさせる基盤となろう。

 有力農民層は単なる農民ではない。彼らが諸文書において「百姓」と呼ばれていた事からもわかるように、彼らは農民であるとともに、手工業者であり海民であり運送業者でもあり商人でもあったのである。

(4)地方政治の変質は中央政治の変質と一体

 そして、この地方政治の国司そして郡司やその下の豪族層への請負の体制は、中央政治の変質も伴って行く。

 すなわち、律令国家体制は、太政官の下に様々な職掌の官司が縦の関係で統属し、太政官の指揮の下に動いていたが、やがて10世紀から11世紀の諸改革によって、様々な官司が個々に分立し、それぞれが自己完結的な業務を遂行するようになる。そしてそれぞれの業務がそれぞれに固有の収益と結び合わされ、収益をともなったそれぞれの官司の職が、一定の限られた貴族の一族によって、代々受け継がれて行くようになるのである。

 つまり律令官制のそれぞれのポストが、家職(家に代々受け継がれる職)となり、一定の氏族(貴族の)の請負となったのである。それゆえ律令官制の頂点の組織であった太政官も解体され、太政官の最高決議機関であった議政局の諸ポストもが、これらの貴族の中の最高位をしめる有力貴族たちの家職となり、代々大臣をつとめる家や、代々納言をつとめる家が生まれ、議定局も決議機関から、貴族層の利害調整機関に変質していったのである。

 そしてこの変化は同時に天皇位をも一定の血筋の皇族が独占する(直系皇統の継続)傾向をつよめる動きと一体となり、院政の出現とそれの補完物としての摂関制の確立と言う事態を生んで行ったのである。

(5)中世の幕開け!

 10世紀における地方政治の転換は単なる統治機構の一部変更などではない。律令国家体制を支えていた社会体制の変化に伴う、律令国家体制を解体・再編制していく過程の一部だったのである。そしてこのことが中央集権的な強力な中央統制の政治を崩壊させ、地方毎の独立した動きを可能とする基盤となり、中国の唐王朝の崩壊による東アジアの激動ともあいまって、日本の政治の流動化を生み出し、武力の地方化・私物化が進行して、やがて「武士の時代」という「地方の時代」の幕を開けるのである。

 この意味で10世紀における地方政治の転換は、中世という時代の幕開けでもあったのである。

 扶桑社の教科書も含めて多くの教科書は、「摂関政治の成立」「地方政治の転換」「荘園の成立と拡大」「武士の発生」「院政の成立」を平安時代としてくくっており、しかも、それぞれの関係をしっかりと明記していない。

 だが上に述べたように、これらは一体のものであり、古代社会の質的変化に基づく、国家統治機構の改変だったのである。すなわち中世社会の成立と、それに対応した統治機構としての「王朝国家」体制の成立。

 社会体制・国家体制の変化を基準として時代を区切るならば、これらの出来事が始まった10世紀を持って、新しい時代の始まりとして記述すべきである。

:05年8月の新版では、旧版の「地方政治の転換」と「荘園と公領」を統合して「公領と荘園」という題で記述している(p53)。記述内容はほぼ旧版と同じである。

:この項は、前掲、柴田弘武著「鉄と俘囚の古代史―蝦夷『征伐』と別所」(1989年彩流社刊)、佐藤進一著「日本の中世国家」などを参照した。


目次へ 次のページへ HPTOPへ