「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判24


 24.平板な武士像:「武門貴族」と「国の兵」の合体を捉えられず

 「院政と武士の台頭」の項の最初に、「武士の登場」と題して、以下のような武士の発生の過程を記述している(p71・72)。

 社会が大きく転換する中で、武士と呼ばれる集団が、しだいに力をもつようになった。そのおこりは、国司となって地方におもむき、そのまま住みついて力を伸ばした皇族や貴族の子孫を中心に結集した武装集団である。そこには狩りをなりわいとして弓や馬を扱いなれた者などが加わっていたらしい。
 やがて彼らの武芸が注目され、朝廷の武官として宮中の警護にあたったり、貴族の護衛につくようになった。また地方では国司の指揮下に入り、盗賊の取り締まりや、税を都に運ぶときの守りにつくなどの働きをした。こうして彼らは、武士としての身分を認められるようになった。 
 武士は、血すじがよく指導者としての能力にすぐれた者を棟梁(かしら)として、主従関係を結び、武士団をつくった。中でも強い力をもつようになったのは、天皇の子孫の源氏と平氏だった。

 昔は武士とは有力農民が武装化し、それが源氏や平氏という武門の棟梁の傘下に入って武士団を形成したという形でとらえられていた。しかし、この見解は、多くの武士がその系図において都の貴族を祖先としていることとの整合性がなく、また有力農民が武士化した過程が証明できないために、近年の研究の深まりの中で否定された。

 この教科書は、近年における研究の深まりを反映して上のような記述となったのである。

 しかしこの記述は武士の複雑な成り立ちと性格をあまりに単純化しており、そのことでかえって武士の多面的な性格をとらえきれない結果となっており、その後の武士の行動の意味をとらえられない結果を生み出している。武士の発生は、教科書が記述するよりももっと多様なのである。

(1)武門の系譜を引く権門貴族

 武士の発生の中で、その棟梁となったのは、結果として見れば源氏と平氏という皇族出身者であるが、これは結果であって、その当初においては多様な貴族出身者で占められていた。彼らの系譜をたどれば、その多くは、古代以来の朝廷の軍事の守りを司った、物部や大伴の氏族や新来の渡来氏族に行きつく。

 そして彼らは、平安期初期の、東北の蝦夷にたいする度重なる遠征の過程で、軍事を家職とする軍事貴族へと脱皮していったのである。

 さらに10世紀ごろの官司の一定の貴族の家職化の過程は、天皇位の一定の家系への固定化とそれを支える貴族の創出という過程と平行するものであったため、源氏と藤原氏という、天皇家ときわめて近しい貴族がつくられ、この氏族が、各部門にも進出することになり、軍事貴族においてもやがて、源氏・藤原氏の者が上席をしめるようになっていったのである。

 そうなると、軍事貴族であるというだけでは中央でうまみのある役職にかならずしもつけるわけではない。このため彼らは当時大きな権限をあたえられ、租税徴収といううまみの多い国司となって、地方へと下向する動きをするようになる。そしてこれに、9世紀から10世紀におきた九州・中国地方への異民族の来襲や各地での俘囚の反乱とが、中央軍事貴族の地方への土着化を促進し、地方での「国の兵=くにのつわもの」との合体の道を進めたのである。

 この軍事貴族としての武士は兵=つわものとよばれ、蝦夷(えぞ)鎮圧や京都治安などをつかさどる鎮守府(ちんじゆふ)将軍、近衛(このえ)・衛門府(えもんふ)官人、検非違使(けびいし)庁官人などであった。そして彼らの下には、殺生を業とする狩猟・漁労民や、殺害・放火犯といった体制外に放逐された非法者の集団などが、手足として組み込まれて存在し、貴族間の私闘、地方領主間の紛争、地方領主・荘園(しようえん)領主と国衙(こくが)の紛争、あるいはおのおのの利害遂行のための物資輸送などに際し、弓馬や船や甲冑(かつちゆう)で武装した代理人として働いていた。

 この時期の彼らの日常生活は、例えば『今昔(こんじやく)物語集』巻19―4話には、源満仲(みつなか)が通常従者たちを指揮して山野に狩りを催し、また河海に網を張っていたさまが描かれているが、これはそのありさまをよく伝えており、騎馬戦闘集団としての能力がこれによって常時磨かれていたことが知られる。また、源為義(ためよし)の子為朝(ためとも)の従者たちが非法者の集団であり、通常無頼の徒として生活していたという伝承も、この一面をよく伝えている。この草創の時代における武士の生き方は当時「兵(つわもの)の道」とよばれ、強固な主従関係や家名の発揚よりも、合戦を業とする者としての武士個人の潔さや人間的度量を尊ぶ気風が強かった。『今昔物語集』をはじめ平安時代の合戦譚(たん)に、武士の戦闘能力や敵対関係にある武士相互の心の交わりを褒めたたえ、父子骨肉の死闘を当然のこととして描いているのは、この時代の武士の価値観をよく示している。 (以上、小学館の日本大百科全書の「武士」の項による)

 扶桑社の教科書の「狩りをなりわいとしたものも加わっていた」との記述は、以上のような認識をもとに書かれているのだが、「彼らの武芸が注目されて朝廷の武官」となったのではなく、その発生の当初から武士の中核部分は朝廷の武官であったのである。

(2)国の兵との合体

 軍事貴族としての棟梁たちの下に「郎党」と呼ばれる武士の一群がいる。彼らはどのような系譜を引くのであろうか。

 彼らこそが、各地方で武力を蓄えた兵(つわもの)であり、当初は、都の軍事貴族の討伐の対象になったものたちである。

 この者たちが歴史の表面に登場した背景は何か。それこそ907年の中国は唐王朝の滅亡にはじまる東アジア規模での動乱の時代であり、荘園制の広がりとともに、律令国家体制が弛緩し、中央からの統制が揺るんだ結果でもある。

 この始まりは792年に陸奥・出羽・壱岐・対馬など周辺諸国との軋轢の絶えない地方を除いての軍団制の廃止に伴い、郡司の子弟など、弓馬の道に優れたものを健児(こんでい)とし、国々に100人程度置いたことにある。8世紀末の唐王朝や新羅との戦争、そして9世紀初頭の東北の蝦夷との戦争、これらの打ち続く戦争で軍団として動員させられた農民の負担は耐えがたいものであった。これらの戦闘が一旦終息した時期をとらえて、この負担を軽減しようとしたものが前記の健児の制度である。

 そしてこの国々で組織された健児が、そのごの各地での俘囚の反乱や異民族の来襲の中で、それぞれが武力を蓄え、俘囚をその配下に加えたり、国家権力の庇護を失い、自らの生活をまもるために武装した有力農民や商業民・職能民をもその配下におさめ、やがて各荘園や国衙領からの年貢や租税の運送を警備し、その仕事を請け負うことを通じて、地方において大きな武力を備えた勢力へと成長し、国家権力もその実力を認め、国の兵として国衙毎に組織し、彼らも国衙の官人として地方政治に食いこんでいったのである。

 この過程で彼らは、国司など、中央から派遣された役人と税の徴収などをめぐってしばしばぶつかっている。988年の「尾張の国の郡司・百姓らの解文」として有名な、尾張国司藤原の元命の苛政を訴えたことなどはその良い例である。ここに見える「百姓」は、近世以後使用された農民という意味ではなく、文字通り「さまざまな姓=職掌の人々」を指しており、農民も商人も漁労民も職人も含まれているのである。

 そしてこの事態の中で、国司と国の兵の間に入って、その利害を調整しつつ国の兵を自らの配下に組み込んで行ったのが、国司として地方に赴任しながら、この国の兵たる地方の豪族と縁戚関係を結んで地方に土着した王臣家の子孫たる、武門貴族の一団だったのである。

 10世紀半ばの承平・天慶の乱の中での平の将門や藤原の純友の動きはその典型であり、この乱の鎮圧の過程を通じて、国の兵たちは、軍事貴族であり中央の官人として武士(もののふ)と呼ばれた人々を棟梁とした、武士団を形成していったのである。この時、各地方の武士団の棟梁となり、国の兵を郎等として組織した軍事貴族は主に、桓武平氏と藤原氏であり、その広がりは北は陸奥・出羽の俘囚の地方から南は薩摩・大隅の隼人の国まで、ほぼ全国にわたっていったのである。

 そしてこの平姓の軍事貴族と藤原姓の軍事貴族は、都の軍事貴族としてよりも、各地に土着する道を選び、国の兵としての性格を強めて行ったのである。11世紀の奥州における前九年の役の安倍氏、後三年の役の清原氏、そして東国の平の忠常の行動などは、その例である(だから、承平・天慶の乱の平将門・藤原純友はその先駆けだ)

(3)天皇家の一族としての意識をもつ武士の棟梁

 源氏と平氏とは、つねに武士の棟梁として、並び称せられるものとして描かれている。扶桑社の教科書もそうである。しかし、こう記述したのでは、武士の棟梁についての、一種の誤解を生み出してしまう。

 その最たるものは、源氏や平氏は武士の棟梁なのだから、貴族ではなく、武士としての意識をもち、武士として行動したという理解である。

 一般に信じられてきたこの考えは、じつは、完全に間違っている。

 武士とは、貴族から独立した階級ではない。上にも述べたように、武士(もののふ)とは、貴族の中で軍事部門を担当し、都の官人として高い地位についたり、国司の一員として地方に下ったりした、高級貴族の一団のことである。したがって、彼らの郎党となった国の兵たちとは、その意識も存在形態も、違うのである。そして棟梁たちの中でも、源氏と平氏とは、彼らが天皇の子孫であったことから、他の軍事貴族とは違って、天皇の一族(王族)としての意識を持っており、その意識に基づいて行動するのである。そして彼らが武士の棟梁として大きく飛躍したのは、王統継承の危機が生じ、それが武力による決着を必要とする事態が頻繁に起こる中で、その武力を統括する王族として、王統継承の争いに介入することを通じてであったのである。したがって彼らの栄枯盛衰は、彼らが支持した王朝の栄枯盛衰と一体である。

 たとえば10世紀の天慶の乱における、平将門の行動と平貞盛の行動である。

 従来将門の行動は、中央貴族の苛烈な政治に対する地方武士の反発を代表するものとして、捉えられてきた。そして貞盛の行動は、摂関家の走狗として描かれてきた。

 しかし将門が蜂起した939年(天慶2年)がどのような年かを考えて彼らの言動を検討すると、まったく違った様相を呈してくる。

 この時期は、皇太子が15年もの間空位に置かれたと言う、王統の継続に不安な影がさしていた時期である。930年の醍醐天皇の死去をうけて即位した朱雀帝はわずかに8歳。そして937年の朱雀の元服後に入内した藤原煕子との間にに男子が生まれず、光孝・宇多・醍醐と続いた王統が途絶える危険が生まれた。さらにこの男子が生まれない状況は、かの菅原道真の怨霊の祟りだとのうわさが都に流れた。なぜなら道真こそは、宇多・醍醐の父子の争いの中で、宇多の息子に娘を入れ、その夫とその間に生まれた子を次代・次次代の天皇候補とするために、宇多を支える貴族として登場し、それを嫌った醍醐・藤原時平によって、宇多上皇とともに排除された人物だったからである。呪われた家系である醍醐の系統に天皇位を継がせるのではなく、別系統の王族に天皇位を移すという構想が生まれたことを、道真怨霊説は物語っている。

 『平安王朝』の中で保立道久氏は、将門の行動を以下のように評価している。「将門が『左大臣正二位菅原朝臣の霊魂から新皇の位を賜ったと称して蜂起したこと」や「柏原帝王(桓武天皇)の5代の孫なり。たとひ半国を領ぜむに、あに悲運といわんや、昔は兵威を振るいて天下をとるもの、皆、史書に見えたり・・と呼号したことは、きわめて重要である。そこには自己を王胤と意識し、桓武に立ち戻って醍醐・朱雀の権威を疑い、武力をもって国土を分割することを辞さない歴史意識があらわれている」と。

 都において王統の継続が危うくなっているという状況を前提に、この王統の危機の原因を道真の怨霊に求める当時の風潮が、王統を別系統に求めようとする傾向であるととらえて将門の言動を見たとき、従来は意味不明だった「新皇」の呼称の意味が明瞭に立ち現われたのである。

 ということは、この平将門を討った平貞盛の行動は、朱雀の弟である村上の立太子・即位を推進し、王統を醍醐系で継続させようとした藤原忠平と行動をともにしたということであり、貞盛は醍醐系王統を支持したということになり、その皇統の確立とともに、武門の棟梁として飛躍したといえよう。桓武平氏は王統の危機に際して違った王統を支持して戦ったのである。

 そしてこのことは、武門源氏についても言えるのである。彼らも従来説では「摂関家の家人・走狗」として権力闘争に関わり、摂関家に対立する貴族を追い落とす実行犯として立身したと理解されてきた。しかし事実を詳細に検討すれば、摂関家の走狗として、その支持する病弱な冷泉帝を退位させてその弟の為平親王を立太子・即位させようとした源高明を密告して失脚させた、969年の安和の変における源満仲の行動は、自身が支持する冷泉とその子花山に王位を継承させるべく、この王統と深い関係にあった藤原兼家と図って動いたものとして捉えた方が理解しやすい。

 そしてこの王族としての武門の棟梁の行動意識が、後に、その配下の地方武士たちの行動意識とズレてくるのが、戦乱の世としての平安後期から鎌倉期である。

 『王族として意識を持つ武門の棟梁』。この命題を念頭においてこそ、後の保元・平治の乱における源氏・平氏の行動や、その後の後白河と平清盛の確執、そして源頼朝と関東武士との確執と頼朝・頼家・実朝の死の謎も理解できる(この点は後述)。武士を貴族とは違った単一の階級として見るという従来の平板な武士理解では、中世初頭の動きは理解できないのである(この点も後述)。

:05年8月の新版では、「武士の登場」「武士の台頭」という二つの項に分割して記述されている(p54・55)。しかしここでも在地豪族としての「国の兵」と「武門貴族」としての武士の頭領という異なる階級も結合としての武士の成立がきちんと捉えられておらず、記述は整理されたとはいえ、旧版と内容はほとんど変わらない。

:この項は、前掲、保立道久著「平安王朝」、福田豊彦著「平将門の乱」(1981年岩波新書刊)、石井進著「鎌倉武士の実像―合戦と暮らしのおきて」(1987年平凡社選書刊)、網野善彦「中世前期の都市と職能民」(2003年中央公論新社刊「日本の中世6 都市と職能民の活動」所収)などを参照した。


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