「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判25


 25.『藤原氏の権力掌握』観としての摂関政治の裏返しとしての『院政』観

教科書は「院政と武士の台頭」の2項目目として「院政」をあげ、以下のように記述している(p73)。

 11世紀のなかばすぎに、藤原氏を外戚にもたない後三条天皇が即位して、みずから国政の実権を握った。これによって天皇の外戚として権力をふるっていた藤原氏の勢いはおさえられた。後三条天皇は、さまざまな改革に乗り出した。
 中でも、藤原氏の荘園を含む、多くの荘園を停止したのは大きな事業だった。
 その遺志を受け継いだ白河天皇は、皇位をゆずったのちも、上皇として天皇の後ろ盾になり、強力な政治を行った。
 上皇の御所や上皇自身を院といったので、上皇が主導する政治のありかたを院政という。

 この記述は扶桑社の教科書のオリジナルではない。古代史学会での通説的理解であり、どの教科書にも記述されている。しかし、他の教科書とは違って、歴史における天皇の存在に大きな意味を持たせている扶桑社の教科書が、このような通説的理解に一遍の疑問もはさまないことは、かえってこの教科書の天皇理解が極めて平板なものであることを物語る。そしてこのことは、扶桑社の教科書が、天皇の歴史における真実の実像を明かにする作業に基づき、日本の歴史における、天皇の真の位置を明かにするという学問的態度をとらず、ある政治目的のために、天皇を利用主義的に使っているにすぎないことを明らかにしてしまう。

 では、この歴史的に「院政」として把握された事態は何だったのか。まえに「摂関政治」などの項でも述べたが、天皇には、自己の血統に王統を継続して伝えたいという意思が、連綿として継承されている。そしてこのことはまた、天皇を自らの政治的統合の象徴として担ぎ上げている貴族層にとっても必要なこととして認識されており、天皇の歴史は、王位継承の歴史といっても過言ではない。

 そして歴史的に見て、天皇が生前に譲位して上皇となり、その血統につらなるもので天皇・皇太子を独占すると言う事態が生まれたのは、その天皇が、自己の血統のみに天皇位を継がせることが不可欠であり正しいと言う強烈な意思を表明した場合に限られている。さらにその天皇自身が、天皇としては権威を確立していないので、その権威を確立するために、天皇位の独占を図った場合が多かった。

 では、後三条の場合はどうだったのか。

 (1)「王統の統一者」としての自覚:後三条天皇の場合

 後三条天皇が即位したのは、1068年の事である。彼は本来天皇位につくべき人物ではなく、異母兄の後冷泉が子どもがいないままに死去したので、やむなく即位したという事情である。時に35歳。天皇としてはかなり晩年になってからの即位である。

 ただ彼には、自分こそ正統の王位継承者であるという意思があった。

 これを理解するには、彼が天皇位につく以前の王統の継承の歴史をつかむ必要がある。

 それは天皇位の継承は、969年の安和の変以後、冷泉と円融という、村上天皇の息子たちの系統の対立と、王統の迭立が続き、貴族層を二分する激しい対立を招いていたことである。そしてこの対立は藤原道長によって1017年に、円融系の後一条天皇の皇太子となっていた、冷泉系の敦明親王を退位させ、皇太子に後一条天皇の弟の敦良親王(後の後朱雀)を立てたことで、一応終息した。
 しかし皇統を継いだ後一条も後朱雀も安定した継承者を生み出せず、以後50年の間、貴族層の間には、皇統の今後について大きな不安が渦巻いていた。

 このような中で即位した後三条は、父は円融系の後朱雀、そして母は皇太子を退位させたれて小一条院と称せられていた敦明親王の娘である禎子(よしこ)内親王。まさに血脈的に円融と冷泉の両皇統の血を、統一する存在だったのである。

 すでに壮年に達していた天皇は、だからこそ、長い不安な政争に満ちた時代に終止符を打ち、明るい新時代を出現させるために、次々に新制を行っていった。有名な延久の荘園整理令(1069年)もその1つである。(以上、保立道久著「平安王朝」による)

 (2)限定された目的のために出された「荘園整理令」

 だがこの荘園整理令を「藤原氏の荘園を含む多くの荘園を停止した」というように、無限定的に評価して、あたかもこの天皇が藤原氏の権力を削減する「英断」を下したかのように評価することは間違いである。

 平安時代にたびたび出された荘園整理令は、荘園そのものを廃止するのではなく、一定の年限を区切って設立された荘園を見直し、直接国庫に入ってくる税を増やし、それをある目的のために使おうというものである。言いかえれば、特定の事業の財源確保のために、律令制からすれば、本来臨時の例外的措置である免税特権を持った私有地(=荘園)の一部解除を行ったに過ぎないのである。

 延久の荘園整理令の場合は、1045(寛徳2)以降の新立荘園の停止が中心であり、これは後三条の父である後朱雀の死去以後に設立された荘園を対象とするという、ごく限定されたものなのである。そしてこの時確保された財源は何に使われたかというと、1059年に焼失した大内裏の再建のためであった。

 この焼失した大内裏は、9世紀の後半、清和・陽成天皇の時代に作られたもので、長く平安王朝の象徴となっていたものであった。これを再建するということは、嵯峨・仁明・文徳・清和・陽成と続いた直系王朝と、その後の光孝・宇多・醍醐・村上と続いた直系王朝、この2つの王朝の権威を、100年続いた王統の迭立の時代を隔てて継承するという意味をもっていた。

 こう言う意味で、延久の荘園整理令は、新たな直系王朝をつくるという宣言でもあったのであり、藤原氏をも含む、多くの貴族の荘園を停止したのはその結果であって、目的ではないのである。

 (3)後三条が『院政』をしいた目的は?

 では、この後三条が「院政」を敷いた目的は何であったろうか。

 後三条が譲位したのは、即位から4年後、大内裏の大極殿も完成した、1072(延久4)年の12月。即位したのは後三条の長子の白河。そして皇太子は、まだわずか2歳の後三条の第2子の実仁であった。

 この譲位の目的は、後三条とその女御基子との間の長子である実仁を将来皇位につけ、その系統に天皇位を継承させるためであった。なぜならば、この女御基子は、かの冷泉王朝の廃太子小一条院敦明親王の孫娘であり、後三条の母方の王統の血を引くものであったので、二人の間に生まれた実仁は、廃止された冷泉王朝と、継承された円融王朝の結合のさらなる象徴だったからである。

 したがってこの時皇位についた白河21歳は、いわば実仁が成人するまでの中継ぎであり、王統を、後三条・実仁・・・・という具合に、冷泉と円融の結合した王朝に継承させるためのものなので、政治の実権は、今後も後三条の手に握っておく必要があったのである。

 後三条院政の目的はかくのとうりであり、自らの母の系統をこそ、正統王朝として認識してした後三条の新たな直系王統づくりの第1歩であったといえよう。

 ではその後の白河の院政はいかなる意味があるのか。

 (4)新たな直系づくりを目指した白河院政

 これは先に述べた、白河即位の事情を考えて見るとよくわかる。

 彼は本来中継ぎの天皇であり、自らの血脈に王統を継承できるはずのない天皇である。その彼がなぜ「院政」を敷いたか。

 これは、彼の父後三条が、その新たな直系王統を作り終える前に、死去したという事実に依拠している。後三条は譲位の翌年、1073年に糖尿病で死去した。そして後三条は遺言として、皇太子実仁の即位の後は、その同腹の弟である三宮輔仁を皇太子につけることを白河に伝えたという。つまり後三条は、死に臨んでもなお、冷泉王朝の血を色濃く引く王族に、皇位を継承させようという夢を抱いていたのである。

 このことは彼の忌み名の「後三条」という名前にも良く現されている。彼は生前からこれを名のっていたといわれ、冷泉王朝の最後の天皇である三条天皇の正当な後継者という意味がある。

 しかし白河は、父の遺志を継がなかった。1082年に皇太子の実仁が死去すると、彼は代わりに三宮輔仁(14歳)を皇太子とするのではなく、実子の堀河(8歳)を立太子させ、即日自分は譲位して、堀河を即位させた。つまり彼は父後三条の遺志に逆らって、自己の血脈に王統を継承させるべく譲位し、院政を敷いたのである。

 だが白河の新たな直系王統づくりはやさしい道のりではなかった。即位した堀河が10年後に後継ぎがいないままに重病となるや、王統の先行きに不安を感じた貴族たちは三宮輔仁の担ぎ出しを図ったのである。すなわち時の関白藤原師通と左大臣の源俊房、そして武家源氏の棟梁である源義家らである。

 この時は堀河がすぐに回復し、やがて成人して結婚し、1103年には後継ぎの鳥羽が生まれて即立太子したので、白河の王統は安泰になった。そして白河と鳥羽の母は閑院流藤原氏であったことと、白河の后が村上源氏の出であったことから、白河王朝の側近的貴族として、閑院流藤原氏と村上源氏が政治の表舞台に登場したのである。

 だがこのことはまた、政治の表舞台から排除された摂関家藤原氏が、自らの復権を狙って白河の王統と、これに対立する三宮輔仁の王統とに股をかけて婚姻を通じ、あらたな王統の分裂の種を生んでしまった。そして問題をさらに複雑にしたのは、有力な王族であり、武門源氏の棟梁であった源義家以下の清和源氏の直系が、清和源氏の祖である源満仲以来の伝統を受け継いで、冷泉王朝の流れをくむ、三宮輔仁を支える姿勢を堅持していたことである。

 これにより、立身出世をのぞむ都の貴族の間には、白河王統に危機が訪れるや冷泉王朝の復活を待望する世論が起き易く、同時にこれは、地方政界での勢力伸張をねらう地方豪族=武士の間にも、王朝交代を待望する世論が形成されやすく、この2つの潮流が、武門源氏の棟梁である清和源氏源義家流を通じて結合し、大きな勢力となって、白河王統の前に立ちふさがることとなったのである。

 白河王統はけして安定しなかった。それは長い100年の王統の迭立と政治闘争の暗い時代と決別し、新たな円融・冷泉両王統の統一の期待をになって登場した後三条の王朝の正統性を否定したところに成立していたが故に、貴族層の多数派を、必ずしも形成していたわけではなかったからである。

 ここに白河が長期間に渡って院政を敷き(1082年から1129年の47年間)、政治の実権を握り続けた理由がある。この間には、1107年に堀河天皇が29歳で死去し、5歳の鳥羽が即位せざるを得なかった事態もあり、だからこそ白河は、彼の王朝に対立する三宮輔仁を支える武門源氏の源義家の奥州での戦い(後三年の役)を「私戦」として恩賞を与えなかったり、義家への荘園寄進を禁止(1091年)したり、源氏に対抗する武門の棟梁として、桓武平氏、平維盛流の平正盛を抜擢して、源義家の息子の源義親を討たせたりしたのである。そしてとどのつまりは、1113年に、三宮輔仁の護持僧であった仁寛が、鳥羽天皇の暗殺を図ったとして逮捕流罪とし、これに連座する形で、最大の政敵・三宮輔仁を蟄居させ、政界から追放してしまったのである。

 まさに白河の院政は、自己の血脈に王統を継承させるための、血まみれの戦いの連続であったのである。

 最後に二言申し添えておこう。

 一つは、なぜこの時代に、天皇家に最も近しい貴族として摂関家藤原氏が存在できなかったのか。

 それは単純な話しである。摂関家藤原氏がかの絶大なる地位を得たのは、直系皇統を成立させるための婚姻を通じた子孫の形成という役割を果たしてきたからである。しかし関白道長以後は、その地位を得る事に失敗した。それは道長の嗣子頼通が女子に恵まれず、ために閑院流藤原氏の娘を養女として天皇・皇太子に娶わせる以外になかったことに端を発している。そして頼道の嗣子たちが早世したために、庶子である師実を嫡子とせざるをえなかったり、その師実も、その嗣子師通が早世したりと、直系王統を支える有力貴族としての任に耐え得なかったことに原因があるのである。

 だからこそ、摂関家藤原氏を母としない後三条天皇が生まれたのであり、その後の天皇の多くが閑院流藤原氏を母とし、摂関の地位は置かれたにしろ、天皇家を支える有力な外戚貴族ではなかった故に、大きな力を振るえなかったのである。

 そして二つ目は、天皇を生み出す役割を得た閑院流藤原氏は、その始祖である藤原公季が、村上天皇の妹である康子内親王を母として生まれたもので、村上天皇の息子たちとともに宮中で養育されたゆえに、王族としての色彩が強く、独立した貴族としては行動しえなかたこと。そして白河・鳥羽と相次いで天皇をその血脈から生み出したにも関わらず、その氏の長者たちが早世し、外戚として力をふるえなかったことも、白河以後の院政において、上皇が大きな権力を振るえた背景でもあったのである。

 この意味で、「院政」を藤原氏の摂関政治との対比でしか描いていない従来の定説は、きわめて皮相なものであり、天皇の占める歴史的地位を充分に把握したものとは言えないのであり、扶桑社の教科書も、その範囲を出ていないのである。

:05年8月の新版の「院政」の記述はいくつかの語句表現の改定以外は旧版とほとんど同じである(p54)。

:この項は、前掲、河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」、保立道久著「平安王朝」などを参照した。


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