「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判26


 26.「新しさとは何か」を明示できない−「仏教の新しい動き」の記述

 平安の文化の最初の項目は、「仏教の新しい動き」であり、ここに最澄の天台宗と空海の真言宗の始まりのことが述べてある。

(1)「仏教の変化」は視野の外に!−これまでの記述の特色

 日本の文化・日本人の精神文化を考える時に、その軸ともなってきた宗教を考察することは不可欠のことである。しかし従来の歴史教科書は、宗教の問題を表面的に記述するだけで、それがいかに日本人の精神に大きな影響を与えてきたかということを考えるに必要な深い記述はなしてはこなかった。
 この点についても「つくる会」教科書は、従来のものと軌を同じくしている。

 日本人の精神生活に大きな影響を与えた仏教については、この平安時代の文化のところの記述が始めてまとまったものであり、あとは各所に簡単に触れただけで、詳しい説明がないのが現状である。
 ちなみにこれまでの個所で仏教について触れているのは以下の個所であり、その全文は以下のとうりである。

p40:大和朝廷の自信 538年に、百済の聖明王は、仏像と経典を日本に献上した。
p40:釈迦と仏教  仏教とはインドの釈迦(紀元前6〜5世紀)が説いた人生に対する教えである。釈迦はある日、老人が倒れているのを見て、人間が年をとったり、病気になったり、苦しんだりすることを知り、また、人間が利己的な性格から逃れられないことを悟った。やがて家族も財産も捨てて出家した釈迦は、わずかなもので満足し、他人を助け、愛することが大事であると説いた。
p46:聖徳太子の政治  聖徳太子は、仏教や儒教の教えを取り入れた新しい政治の理想をかかげ、それにしたがって国内の政治の仕組みを整えようとした。
 仏教が入ってきた6世紀前半に、豪族たちは、これを外国の宗教であるとして排斥する勢力と、むしろ積極的に受け入れようとする勢力の2派に分かれ、政治抗争を引き起こした。(中略)
 聖徳太子は、蘇我の馬子と協力しながら政治を進めた。仏教への信仰をまず基本に置いた政治だった。
p57:律令政治の展開  聖武天皇は、仏教に頼って国家の安定を祈願し、全国に国分寺と国分尼寺を建て、東大寺の大仏をつくる詔を出した。
p64:飛鳥文化  聖徳太子や蘇我氏は仏教を深く信仰し、世に広めた。太子は渡来文化を深く研究したが、その中心となったのは、仏教の教えである。十七条憲法にも、仏教の考え方が取り入れられている。
 太子の影響を受けて、飛鳥時代に仏教を基礎とする新しい文化が起こった。これを飛鳥文化という。
p66:天平文化  奈良時代、仏教は朝廷の保護を受けていっそう発展した。当時の僧は、インドや中国から伝わった仏教の理論を研究し、平城京には東大寺、興福寺などの大きな寺院が建てられた。このころ、遣唐使を通じてもたらされた唐の文化の影響を取り入れながら、世界にほこりうる高い精神性を持った仏教文化が花開いた。奈良の都で、貴族たちを中心として発達したこの文化を、聖武天皇のころの年号をとって天平文化とよんでいる。

 あちこちに分かれて記述されている仏教に関する記述を通読してみると、日本では仏教は政治に利用されてきたということ。つまり統一国家をつくり維持するための思想として利用されてきたことがわかる。しかしこの記述には疑問点がある。

 それは、「わずかなもので満足し、他人を助け、愛することが大事」だと説いた仏陀の教えがなぜ政治に利用できるのかということである。「つくる会」教科書の仏陀の教えについての記述は、「個人の心のあり方・生きかた」を説いたものと規定しているように思われるが、それが何で政治に利用できるの?、という疑問を当然ながら生み出す。そしてこれについてこの教科書は、答えをまったく用意していないし、ヒントすら記述されていないのである。

 なぜ答えになっていないのか。

 それは「つくる会」教科書の仏教に関する記述が、仏陀の教えが彼の死後歪められてしまい、それを正していくなかで、仏陀の教えとはまた違った新しいものに変わっていったという事実をまったく無視しているからである。

@真実の仏陀の教えとは?

 仏陀は悟りを開いたと言われる。何を悟ったかというと、「それは言葉では表現できない真理である」ということになっている。しかしこの答え自身が、仏陀の教えが歪められた結果そのものなのである。
 仏陀は「縁起の理を悟った」と法華経には明確に記述されている。つまり事物には全て原因と結果があり、事物はその原因と結果の繋がりによって(これが縁起)、常に変化しているということ。これを仏陀は悟ったということである。だから彼が何とかして人々を貧困や病から救おうとしたとき、それをなすには貧困や病の原因を辿ってそれを除去しなければならないということになる。そして貧困や病は相互に原因と結果である場合が多いし、これらの背後には社会自体のありかた、つまり貧困を生み出す競争や差別といった社会の構造そのものがあり、それを正すことなくして貧困や病はなくならないということである。
 つまり仏陀は、瞑想や修行によっては人々を救うことはできない。社会を改革しなければならないということを悟ったということになる。仏陀は社会変革者だったのである。そして彼が変革しなければならないと考えていた社会は、バラモン教によって正統化されていたカーストによって差別された社会であり、その社会の下で、急速に拡大していた貨幣経済の影響による競争の激化により、全ての社会階層を襲っていた貧困層と富裕層への二極分化の圧力であった。釈迦が問題としたのは、身分差別と競争や拝金主義であったのだ。だから彼は、「人は皆平等であること=平等に救われるべきこと」「欲を捨てること」などを説いて、社会を変えるべきことを人々に説いたのであった。

A変革思想から現状容認の心得への変化

 だが彼の思想は当時の下層民や差別に苦しむ人々に急速に受け入れられていった。しかし彼の思想はあまりに急進的であった。だから彼が在世中からさまざまに非難されたし、彼の弟子たちの間でも現実社会への妥協の道を探る動きが出ていたのである。そしてそれは仏陀の死によって加速された。
 幸い彼の教えは反語によって構成されていた。一旦は社会において多数派の教えを認めることからはじまり、その論理を発展させることを通じてそれに反問し、それを乗り越える形をとっていた。つまり論争の教学である。
 だから彼の教えは一見するところ既成の思想を容認するかのような体裁をとっていた。それを逆手に取られたのである。彼が否定した輪廻転生も、彼が否定した絶対の存在としての神や霊魂も、そして彼が否定したはずの身分制度までもが、全て彼はそれらを肯定していたと年月が経つにつれて彼の教えは改変され、最後には、移り行く現世はどうにもならないものとして諦め、厳しい修行の結果人間存在の真理を体得した者=僧侶から人生のあり方について教えを請い、僧侶に帰依することで来世に生まれ変わり苦しみから救われるとする教えに変えられてしまったのであった。これでは社会変革の思想ではなく、現状肯定の思想であり、「心のあり方」を説く思想に過ぎなくなる。
 「つくる会」教科書のp40における仏陀の教えは、この段階のものだったのである。

B再度の思想の変化

 しかしこの動きにも変化が生まれた。紀元前後に「仏陀に戻れ」という運動が生まれたのである(これが後に大乗仏教と呼ばれるものになる)。仏陀死後の仏教では真理を悟れるのはごく一部の厳しい修行を積んだものだけであり、これらの人々に頼らねばその他の人々には救いが訪れないことになる。
 これに対して、仏陀の初期の教えを探求する動きの中から、「すべての人は悟りを開くことができる素質を持って」おり、それは仏を信じ、仏による救いを求めて、さまざまな功徳を積むことで誰でも悟りの境地に至れる。僧侶は、このことを人々に教え、そこへ導いていくのがその存在の意義であるという新たな思想が生まれてきた。この思想では僧侶ではない俗人にも僧侶よりや緩いがさまざまな戒律を守ることが義務付けられ、それをきちんと行えば、功徳を積み悟りを開け、自らの力で救いへの道へ至れるという考えになり、ある意味での大衆的な社会改良運動を準備したのである。

 実は日本に入ってきた仏教はすべてこの新しい思想としての仏教であったのである。だからそれは仏の力で全ての人々を救済するという思想であり、だからこそ、この教えを政治指導者が護持しそれを推進すれば、彼自身が社会的救済者となり、かれの国家は仏教国家となって人々を救うという大義を掲げたものになっていくのである。それゆえ政治と仏教が一体になれるのである。

 このような仏教の変化を「つくる会」教科書は踏まえていない。だから先のような表面的な記述になってしまったのである。

:これ以外の「つくる会」教科書の仏教に関する記述には疑問がある。それは、飛鳥文化や天平文化を「仏教文化」と規定することである。たしかに仏教を国の統一のイデオロギーにつかったこの時代の支配階級が残した文化は、極めて仏教色が強いものになる。支配階級が自らの権威を仏教の権威で飾るのだから、彼らの文化は必然的に仏教的な色彩を帯びる。この意味では「仏教文化」である。だがこれは同時に、外来の文化でもある。飛鳥文化は、それが模範とした高句麗や百済や新羅などの朝鮮で花開いた仏教文化の模倣であり、新たに学ぼうとした北魏・隋の北方遊牧民族の影響も受けた中国文化の模倣でもある。そして天平文化は、唐に花咲いた国際色豊かな中国文化そのものである。そしてこれらの外来文化の基層にはそれぞれの文化を成り立たせていた宗教の影響も強く、飛鳥文化の場合では、中国の道教の色彩も色濃いことは近年の研究で明らかになっている。そして天平文化の場合にも同じく道教の影響が強いし、さらには拝火教(ゾロアスター教)や景教(ネストリウス派キリスト教)の影響が見られることも指摘されている。だから飛鳥文化や天平文化を規定するには「仏教色」を中心として「仏教文化」とするのでは偏った規定であり、それはむしろ様様な宗教が混在した「国際色豊かな外来文化」であったと規定したほうが事実に近いと思われる。「つくる会」の人々は、日本文化が外来文化そのものであったという事実を極めて忌み嫌う。どうしても外国の文化を学んで取り入れたという形にしたいようである。この姿勢が「仏教文化」という規定を生み出したのではないだろうか。

:05年8月刊行の新版でも仏教のあつかいはほとんど変わっていないが、最初の仏教伝来のところで仏陀の教えについて概説することをやめ、文明の発生のところで「仏陀がはじめた仏教」という記述になった。しかしここで仏陀の教えの概略も説明されないことになったので、ますます仏教とは何かがわからなくなってしまった。

(2)天台宗や真言宗はどこが新しいのか?

 さて、前書きが長くなってしまったが、本論の平安時代の仏教についての記述の当否に戻そう。

 「つくる会」教科書は、平安仏教の始まりについて、次のように記述している(p74)。

 奈良時代の仏教は、経典の研究を中心に、政治と深く結びついたものだった。青年僧の最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)は、このような仏教の形にあきたらず、9世紀のはじめ、遣唐使とともに唐に渡った。帰国後、最澄は、比叡山に延暦寺を建てて天台宗を、空海は、高野山に金剛峰寺を建てて真言宗を広めた。貴族の間では僧をよんで祈とうを行うことが流行し、天台宗・真言宗がしだいに浸透していった。

 この記述では、最澄・空海ともに従来の仏教にあき足らず新しい仏教を求めて唐にわたり、そこで学んだものを元にして、天台・真言の二宗を起こしたということはわかる。しかし「従来の仏教のどこに飽き足らなかったのか」という肝心の動機がわからないばかりか、天台・真言の二宗はどこが新しいのかもまったくわからない記述である。強いて言えば「政治と深く結びついた」ことを嫌い、「祈とう」を行うことが新しいのかと推測できるだけである。

:この点は批判があったのか、05年8月刊行の新版では、この記述の最後に「新しい仏教は政治からはなれ、僧は山中での学問や修行にはげみ、国家の平安を祈った。のちには、人々のために祈とうを行うようになった」という一文を挿入した。これによって最澄や空海は「政治と結びついた仏教」にあき足らず、政治から離れて山中で学問や修行にはげむ新しい仏教を作ったというふうに「つくる会」教科書の著者が理解していることは明らかになった。しかしこの理解では間違いである。この点については以下に詳述する。

@「政治と深く結びついた仏教」についての誤解

 そもそも奈良時代の仏教の「政治と深く結びつく」ということを、教科書の著者たちはどう理解しているのだろうか。最澄や空海だって政治と深く結びついていた。最澄の庇護者は桓武天皇であり、彼が世に出たきっかけは天皇に近侍して宮中で読経などの役を務める「内供奉」という役についたことであった。それをきっかけに彼は法華経の講義を行うなど学僧としても世に出たのであった。そして天台宗の教えを深めるために唐に渡って帰国した後も、朝廷の庇護をうけて天台の教えに基づいた鎮護国家の根本道場としての比叡山延暦寺の下に、各所に鎮護国家の道場を建設しようと動いていた。そして天台宗がその後も朝廷の庇護を受けていたことは周知の事実である。
 一方の空海の庇護者は桓武天皇の息子の嵯峨天皇であり、空海は朝廷の庇護の下で高野山金剛峰寺をたて、後には都の東寺を貰い受け、これを教王護国寺と改称して真言の教えに基づく鎮護国家の要とした。また彼は後には東大寺の別当にも任ぜられ、国家仏教の本山をも手の内に納めたのである。

 「新しい」とされる天台・真言の二宗も深く政治と結びついていたのである。この点では奈良仏教と全く同じであり、どちらも「鎮護国家」がその任務とされたこと、どちらも国家公認の宗教であったことなど、まったく性格を同じくしているのである。

 思うにこの教科書の著者は仏教が「政治と深く結びつく」ということを異なった側面で捉えているのではないだろうか。それは奈良時代に道鏡が法王に列せられ、王位継承の争いに介入したというあたりのことを「政治と深くかかわる」という現象だと捉えているのではないだろうか。それなら平安仏教にはこの側面はない。しかし道鏡の動きは奈良仏教に一般的なことではなかった。その項で説明したので詳しくは述べないが、あれは直系継承者を失った、もしくは直系継承者がまだ幼いため、自らの皇統の継承を仏法の力で守ろうと、孝謙天皇が考えたことであり、仏教が皇位継承に介入したのではなく、天皇家の側が皇位継承に仏教を利用したのである。これはある意味で例外なのである。

 では仏教のありかたとして奈良仏教平安仏教はどこが違うのか。次にこの問題に移ろう。

A「新しさ」が全く捉えられない記述

 「仏教の新しい動き」のところには天台・真言の二宗の教えが全く書かれていない。この点については、この教科書は、P78・79の2ページにわたって、「人物コラム」と言う形で最澄・空海の人と教えを詳しく記述しているので、これを検討してみたい。

 ここには最澄は15歳で出家したが20歳のときに比叡山にこもり、ここで法華経を根本経典とする天台宗を学びたいとの思いを強くし、唐にわたってそれを学んだということが伝記的に記述されている。そして最澄の教えは、以下のように記述される(p78)。

 最澄の考えは、世に生を受けた者はみな、差別なく仏(迷いを解いて、真理を自分のものにした者)になることができるというものだった。

 これは間違いではない。ただしこれだけでは、従来の仏教とどこが違うのか全く不明である。何しろ奈良時代の仏教が、仏になるということをどう捉えていたか、この教科書はまったく記述していないのだから、比較のしようがないのである。

 では空海の場合はどうだろうか。空海は僧侶ではなく学者の道に入ったが途中での神秘的な体験により仏教に帰依し、唐に渡って「インド伝来の正統な密教(仏教の流派の一つ。容易に知ることができない秘密の教えという意味)」を学んだということが記述され、次の彼の考えを以下のように記述する(p79)。

 空海の教えは、人間が現世での肉体のまま、宇宙の理法と一体化することで、仏になれるというものだった。

 これも正しい記述だが、奈良仏教とどこが違うのかが全くわからないことは最澄の場合と同様である。そして最澄と空海の二人の考えがどう違うのかを理解することすらこの記述ではわからないのである。

 結局約3ページにわたって記述してあるが、平安時代の仏教がどう新しいのかまったくわからない記述になっており、他の教科書に比べると詳しくはあるが、ほとんど意味をなさない記述になっているのである。

:この点は、05年8月刊行の新版は大きく書き改められている。しかしそこでも「新しさ」は明示されていない。新版の記述は、仏陀の教えを削除したのと同じように、人物コラムという形では空海だけにしたが、そこでは彼の教えの内容については言及しないという形で、仏教の教えに踏み込まない記述に後退してしまった。

(3)平安仏教の特質とは何か?

@天台と真言は違う教え 

 そもそも天台宗と真言宗を二つならべて「新しい仏教」と記述することがおかしいのである。そもそもこの二つは同じ仏教と言っても根本的に異なる教えの宗派なのである。
 こう言うと、天台宗は「台密」と呼ばれ、真言宗は「東密」と呼ばれて同じ密教であり、加持祈祷を生業としたはずだというお叱りを受けるかもしれない。ちょっと詳しい人はそう言うだろう。
 しかしこれは最澄と空海の時代のことではない。最澄は密教も学んだが主なものはあくまでも天台の教えであり、空海は密教を学んだのである(最澄が学んだ密教は日本に伝わった密教の教えの一部であり、唐でも正式に学んだわけではなかった。だから空海から、そしてその後の真言宗徒から、最澄の密教、天台の密教は正統なものではないという批判を受けた。空海は中国において密教の寺院に学び、密教の正統な継承者としての印加も受けているというわけである)。
 天台宗が密教の色彩が強くなるのは最澄死後の話である。時の人々(主として貴族であるが)は密教の加持祈祷を好み、そのままで仏になれる道を好んだため、天台は朝廷の支持を失う危険を生じた。そのため最澄の弟子たちは、中国へ渡って直接「正統な」密教を学ぶことに務め、それを延暦寺の修法の中心に置いたため、天台宗とはまるで密教であるかのようになったのである。天台宗の僧侶が加持祈祷に勤めたのは後の話なのである。

A天台と法相の「三一論争」

 では天台宗はどのような教えを持ち、奈良時代の仏教とはどう違うのだろうか。この点が一番よくわかるのは、最澄と、会津の法相宗の学僧である徳一菩薩(大師)の論争である。この論争は816年ごろから821年ごろまで行われ、翌822年の最澄の死去により終結(決着はつかなかったが論争を終えた)した論争である。

 ことは仏教の、特に大乗仏教の根本にかかわる、悟りの問題である。最澄=天台宗の立場は、この教科書がしっかりと記述しているように、「だれでも悟れる=仏となれる」という物であり、悟りに至る三つの道(=乗)である声聞・縁覚・菩薩の教えは、仏がそれぞれの立場の違いに合わせて説いた「方便」としての教えであり、真実は一つ、誰でも悟れるのである。だからこそおのれ一人の悟りをもとめるのではなく、一切衆生を救済しようとつとめる行い(=菩薩行)こそ肝要であると説いた。これに対して当時、会津磐梯山ろくにあった恵日寺に拠点を置いて活動していた徳一菩薩が痛烈な批判を浴びせ、その論争は手紙の往復や著述による反論の応酬、そして最澄が東国に下っての対面しての論争と激しい論争が行われたのである。
 では徳一の反論とはどのようなものであったのか。徳一の立場は当時の南都仏教教学の中心であった法相の立場にたつものであった。
 法相では、誰にでも悟りをひらき仏となることのできる素質(=仏性)があるという立場をとらない。人々には生まれながらにして仏性に関する異なる立場がある。それは、仏の教えを聞いて悟る者(=声聞)もいれば、仏の教えによらずに自ら悟りを開く者(=縁覚)もいるし、悟りを開いて人々を救う菩薩になることが定められているものもいる。そしてこの外には、いづれの悟りを開くかは定まっていない者もいるし、どれにもなれない=悟りを開き仏になることができない者もいるという立場をとる。修行を行うことが悟りを開くことの前提にあるのだから、悟れる人もいるし悟れない人もいる、悟りに至る道は人それぞれというわけである。だからこそ仏陀の教えは人それぞれの立場によって異なるし、悟れない人を救うためにこそ菩薩の道があるというわけである。したがって人はそれぞれ立場が違うのだから、声聞・縁覚・菩薩の三つ道こそ真実の仏の教えであり、誰でも悟れるという一つの道こそ、人々を救うための方便に過ぎないとする。
 この法相の立場からすると最澄=天台の教えは理想主義にすぎず、現実から乖離しているという批判を、徳一は理路整然と最澄にぶつけたのである。そして論争は終始徳一優勢で推移し、この過程で最澄は、天台の教えの根本である「一乗真実=誰でも悟れ、仏になれるという教えこそ仏陀の真実の教えである」をさらに理論的に深め、その教えの理論の基礎を固める必要を悟り、その作業に入っていったのである(道半ばで彼は倒れたわけであるが)。

 この徳一の立場が奈良仏教の正統な理解であり、最澄の考えは、それと正面から対峙したのであった。
 といってこれは奈良仏教が大衆の救済を目指さなかったということではない。徳一が「菩薩」と当時から呼ばれていたことからわかるように、かれは奈良時代の行基菩薩のように、実際に人々の生活の場に分け入って、大衆の救済のための事業に勤めているのである。しかしこれは奈良時代の仏教教学においては少数派である。多数派は、世俗から隔絶された寺院の中で、国家公務員としての平安な豊かな生活を保証される中で、仏教哲学の理論的研究にいそしむのが僧侶の勤めであり、人々の救済と言っても、それはさまざまな国家的行事の中での読経などの作法しか意味しなかったのである。

注:「つくる会」教科書は、行基菩薩の活動について一言も述べていない。かの奈良東大寺の大仏は、国家によって、許可をえずに布教するという法律を犯した悪僧と呼ばれた行基菩薩を、東大寺の大仏師に任じて、諸国の大衆の喜捨や労働の提供によって完成したという事実にはまったく口をつぐんでいる。大仏はまるで国家の手だけによって完成したかのようである。
 この行基菩薩の活動は、徳一の活動の先例であり、この活動からの遊離が最澄をして奈良仏教から決別し比叡山にこもって法華経こそ真実の仏陀の教えであるという悟りに至らせた根本の原因であったと思う。「つくる会」教科書は、この大衆とともにあった仏教者をまったく描かない。ここには大衆の生活など歴史ではないかのような傲慢な政治主義が仄見えるのである

 最澄の新しさは、そうではなく、大衆の生活の中に入って、実際に彼らを救済することを仏法修行の根幹に置いたことにある。そしてその理論的根拠を誰にでも悟りをひらき仏になることができるという法華経の教えに置いたわけではあるが、彼の当時の理論的水準では、学問追及や修行中心ではなくて、大衆の実際の生活の場での救済事業こそ仏道修行の中心であるといことを理論的に裏付けることにはならなかったのである。

 さらに彼はこのような大衆救済としての仏教を目指したのであるが、貴族たちが好んだのは、法の力による個人的救済、それも現世での生身での救済であったため(=これこそ密教の教えである)、やむを得ず、密教を学び、これも大衆を救済する行法の一つとして天台に取り入れたのであるが、彼の死後、この密教こそ天台の中心というべき状態に変化し、最澄が目指した大衆救済の仏教は、理論的にも実践的にも後代に委ねられたのであった。この最澄の目指したものの直接的継承者が、浄土教を開いた源信であり、さらに浄土宗を開いた法然やその弟子の親鸞、そして日蓮宗を開いた日蓮であったのである。この意味で最澄の目指した「新しい仏教」は後の鎌倉仏教の先駆けでありその基礎であったのであり、後の日本仏教の基礎ともなったのである。

Aバラモン教の深い影響をうけた密教

 では空海が開いた真言宗とはどのような教えであったのだろうか。

 仏教では縁起の考え方により、全て万物は常に流転し変化すると捉える。つまり一切の存在は固定的なものではなく永遠の存在などはないということになる。これが仏教でいう「無我」であり、同じ教えを大乗仏教では「空」と呼ぶ。したがって仏教は極めて現世否定的な様相を帯びる(仏陀の現代社会批判から始まったのだからあたりまえであるが)。
 それゆえ、今まで述べてきた「悟りを開き、仏となる」ということも現世でのことではない。死後の来世のこととなる。

 これに反して密教は現世を肯定し、永遠なる存在を認め、現世において人は生身の身体のまま悟りを得、仏となることが出来る(=即身成仏)と考えるのである。密教の絶対者である大日如来は永遠の宇宙的実態であり、瞑想の中での自我がこの宇宙的な大日如来と一体になることにより、自我も永遠性を獲得できると考える。そしてこの世の物質的精神的な具体的・現象的事実の世界がそのまま根本的原理と認められ、それが大日如来の本質的あり方であると考える。この原理に基づいて、身体・言葉・心の働きと仏の働きが合致することによって、自我と仏が合一し、体験として即身成仏すると考えるのである。この時に様様な術法を使い、この行いを加持というのである。

 この密教の教えはインドで言えば、釈迦の唱えた仏教ではなくてバラモンの教えおよびそれの影響を受けた仏教と言って良い。そして日本では神道や山岳宗教の教えとも同質である。古来の日本人の信仰では、この世の外に絶対神をたてず、万物に神が宿るという思想に典型のように、現世肯定的なところがある。そしてさまざまな修法によって神と一体となるとすることが多いが、これも密教と同じである。

 密教とは、他の仏教諸派と根本的に違うのである。だから密教はこの教えを釈迦如来から口伝で伝えられた秘密の教えと称している。これをするどく論破したのが、やはりかの徳一菩薩であった。徳一は815年に「真言宗未決文」を表し、空海からの手紙に反論している。要旨は簡潔である。「秘密に伝えられた秘法なるものが存在しえるのか。これが釈迦のおしえであるということをどうやって証明できるのか」ということである。先に説明したように密教は仏教とは根本的に違う。インドで言えば釈迦が対立したバラモンの教えそのものと言って良く、バラモン教の影響をかなり受けているのである。空海はまったく反論できず、ただ居丈高に罵るのみであった。

 しかし密教のもつ現世肯定的で加持祈祷によってこの世で悟りを開くことができるという教えは、平安時代に一世を風靡した。真言密教は怒涛のごとく拡大し、諸派はその前にひれ伏し、天台宗の総本山である延暦寺も自ら密教を取り入れ、台密と称して加持祈祷をこととしたのである。
 空海の教えの新しさとはそのようなことであったのである。

 「つくる会」教科書は、他の教科書とは異なり、仏教の教えに踏み込んだ記述をしている。しかし残念ながら仏教教説とその歴史的変化についての理解に欠ける為に、仏教が日本の歴史に果たした大きな役割を正しく評価することが出来ていない。

 

:この項、R・S・シャルマ著「古代インドの歴史」(山川出版社1985年刊)、高橋富雄著「徳一と最澄」(中央公論新書1990年刊)、末木文美土著「日本仏教史」(新潮社1992年刊)などを参照した。


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