「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判27


 27.「唐文化からの自立」の意味は?:「国風文化」

 古代の最後の所で、「平安の文化」と題して、平安時代文化を概観しようとしている。内容としては「仏教の新しい動き」「国風文化」「仮名文字の普及と文学の発展」「浄土教と仏教文化」「院政期の文化」の各項目にわかれているが、通常はこれは「国風文化」として理解されているので、この項目を中心に考察してみたい。扶桑社の教科書は「国風文化」と題して、以下のように記述している(p74)。

  9世紀に入ると唐は衰え、894年菅原道真の進言を受けて、日本は遣唐使を廃止した。その結果、貴族を中心に宮廷の洗練された文化がおこり、唐文化の影響を離れて日本化していった。これを国風文化とよぶ。国風文化は、藤原氏の摂関時代にもっとも栄えた。

 この記述には2つあやまりがある。一つは「唐の衰微と遣唐使の廃止」のみを「国風文化」成立の背景としたことと、2つ目は「唐文化の影響を離れて日本化」したのが「国風文化」と捉えた点である。

(1)律令国家体制の変質 

 たしかに「国風文化」の誕生の国際的背景は、唐帝国の衰微と周辺諸国の自立化である。8世紀末から9世紀・10世紀にかけて周辺諸国ではそれぞれ中国文化の影響から自立し始め、多くの新しい国家や王朝が成立した。そしてその中でそれぞれの民族の独自性についての自覚が芽生え、西夏・遼東・金などではそれぞれ西夏文字・契丹文字・女真文字が作られたところに、中国文化を消化した上での独自性の発露が象徴されている。
 この意味で、8世紀末に天武系王朝から天智系王朝へと皇統が変更され、平城京から長岡京、そして平安京へと都が移され、この中で平仮名の発明と普及に代表される「国風文化」が形成されたことは、日本における中国文化からの自立と捉えられる。

 しかし「国風文化」の成立は唐の影響からの自立だけではなく、律令国家体制の変質により、地方の自立と都における貴族社会の成立という内的な変化があったことを見逃してはならない。

 都を拠点にする中央王権が直接に地方を統治する体制が緩み、地方はそれぞれの国府を拠点とする在庁官人の職を世襲するようになった地方の有力者によって経営されるようになった。そして中央に集まる豪族たちは、それぞれが王として統治してきた本貫の地を離れて都に拠点を置き、都に集められた富みの分配とそれによる王権の装飾に熱中し、消費階級としての貴族へと編かする。そして都に集まった貴族たちは、それぞれが都で王権に奉仕することで獲得した官職・位階によって得た富を背景として、奢侈的な生活を送るようになった。
 さらにこれらの貴族からなる中央王権は、地方の国司を世襲するようになった中下級貴族(受領層)に国々の税の徴収と管理とを委託し、地方の統治といっても国司の任命と非常事態時の軍事指揮官の任命という形での人事権の行使に特化していったのである。

 この意味で平安京における天智系皇統の成立はあらたな王朝の成立といっても過言ではなく、その王権を飾る意味で、平安時代になると文化活動そのものが王権の盾として重視され発展したのであった。これが「国風文化」成立の国内的背景である。

(2)「唐風」あっての「国風」

 また「国風文化」を「唐文化の影響から脱したもの」とのみ捉えるのも誤りである。

 平安時代以後の文化は、「唐風」と「国風」とが並立している。そしてその「唐風」とは中国文化そのものではなく、遣唐使による実際の見聞やそれによってもたらされた文物を通じて日本の貴族層によって理解された理想型としての「唐風」であり、「国風」は、その「唐風」を理解・吸収した上で、それを基盤として新たに再編された「日本的」な文化であったのである。

@平安時代初頭の「唐風」化

 平安時代初期の桓武・嵯峨天皇の時代には文化の積極的な「唐風」化が図られた。
 宮中の儀礼も「唐風」に改められ、官職や建物の名前に至るまで「唐風」に改められたのである。 だがその「唐風」は、日本的に変形された「唐風」なのであった。
 この時代には、中国の王朝にならって「続日本紀」以後の正史が編纂されたが、それは漢文で書かれたという意味では「唐風」であったが、中国の国史で言えば帝紀にあたる部分だけで成り立っており、中国の国史にある列伝や様々な分野の歴史は排除されると言う、きわめて日本的なものであった。さらにこの時代には、日本的に作りかえられた法制度を背景として「弘仁格・式」などの法令が編纂されたり、最澄や空海などの中国渡海僧によって新しい仏教がもたらされたのだが、それは南都の高僧達との間による論争の過程を経て日本的に理解されなおした新しい仏教であり、その仏教の理論書などが編纂されたりしたのである。

 そして、これらの文化活動は、天皇の名において行われるという王権主導のものであり、この流れの中で勅撰の漢詩文集がいくつも編纂され、文化活動も王権を装飾するためのものという性格が、ここにはよく表されている。

A「唐風」を基礎にした「国風」の出現

 そして9世紀後半から10世紀、いわゆる摂関政治の形をとって皇統の継続が安定するとともに、初期の「唐風」を消化した上でそれを参考にした形で「国風」が注目され発展する。この動きの背景には、王権が安定したことによって「唐風」文化によって王権を装飾し国際的に自立する必要性が薄まり、文化活動そのものが王権の総覧の下ではあるが、官職が個々の貴族の家によって相伝されるようになったことを背景として、個々の文化活動においてもそれを相伝する貴族の家が生まれ、文化活動が個々の貴族の個人の感情の発露という性格を示すようになったことがあげられよう。
 この動きが漢詩における私家漢詩集の出現であり、貴族社会の公私の場における「古歌」の尊重とそこから発展した和歌の発生である。そしてここでも文化の王権による総覧の傾向が進み、「古今和歌集」に代表される勅撰和歌集に結実したのである。

 この古今和歌集に結実した和歌には、その主題や表現の方法、そして対象の認識方法などにおいて漢詩文の影響が大きく、それを自分のものとした上で成り立ったものであることが良く分かる。そしてこれは万葉集のように個人の直接体験に基づいた個人的感情の自由な発露という傾向から、題を設けて歌を詠んだり、絵画を見てそこから主題を設けて歌を詠んだりという形で、直接的体験から離れて論理的客観的に対象に迫るという漢詩文の傾向を下敷きにしたものに変わった点によくあらわされている。

 このように詩文における「国風」は「唐風」を基礎として内包しているのであり、和歌と漢詩も一対のものであったのである。このことは男性官人も宮廷女官もそれぞれ漢詩と和歌とを嗜み、中国と日本の故実に関する豊かな知識をもとにして詩作を行っていたのであり、後に発展した「朗詠」「今様」などの歌謡において漢詩と和歌とがそれぞれ交換可能なものとして使われていたことなどにもよくあらわされている。

 同じことは絵画にも言える。「大和絵」は「唐絵」を前提にしており、両者の違いは絵に描く対象に過ぎず、技法的には両者は同一である。
 すなわち「唐絵」は、理想としての中国の宮廷のさまや神仙が住む山野河海を描くものを指しており、このような絵は、宮廷の公的な場を飾っていた。これに対して「大和絵」は、日本の風物、とりわけ唐絵の神仙が住む幽谷の情景とは対照的な、穏やかな山並みと四季の風物を描いたものであり、このような大和絵は貴族の私的な世界を彩っていった。そして日本的な風物が好んで描かれるきっかけには、唐絵の中で晩唐期以後の農村風景などを好んで描いたものの出現とその招来があり、日本における唐絵も次第に、穏やかな農村風景や文物を描いたものに変化していったのである。

 また、この時代に盛んになった物語にも、中国の文学が背景にある。それは中国において小説と呼ばれた怪奇談などを中心とした短編がたくさん生み出され(これを院政期において編纂したのが今昔物語である)、この怪奇小説の枠組みを利用して書かれたのが、初期の物語である竹取物語なのであったのだ。そしてこの物語文学がしだいに歴史叙述をも含んだものに発展して、中国の正史に倣った紀伝体の歴史書(例えば日本書記や続日本紀など)では充分に人々の生き様や心根などまでに分け入った記述はできないという認識を生み出し(紫式部日記における日本書紀批判に良く示されている)、物語は理想としての歴史認識をも叙述するものとなり、その典型・頂点に源氏物語が生み出されたのであった(源氏物語は理想としての貴族社会・貴族政治・貴族の生き方を歴史的に叙述したものでもある)。さらにここから歴史書としての物語に特化した栄花物語のようなものが作り出され、さらには中国の正史に倣った帝紀と列伝とその他の歴史からなる大鏡という歴史書も生み出された。この流れの末に後期院政期における平家物語の成立がある。
 このように物語文学の誕生と発展の背後にも唐風と国風の相克と発展の過程があったのである。

 さらにこの時代に発展してきた物語と絵画の結合としての絵巻にも唐風と国風の相互関係がよく示されている。
 絵巻物の起源は、中国で行われていた画巻という絵画様式であった。これの日本の絵巻との違いは、中国のものが風物を横長の広大な画面にパノラマ的に描いたのに対して、日本のものは物語における時間的推移を横長の画面に表現したところにある(中国における画巻の伝統をよく示したのが室町後期における雪舟の水墨巻物である)。そして絵巻の中でも、宮廷における様々な儀式や政治的事件を描いたものは絵画的には「唐絵」に属し、物語や縁起を描いたものは「大和絵」に属していたのであった。

 このように国風文化は唐風を基盤としてその技法や考え方・物の見方を採用した上で、「日本的」なるものを描いていたのであった。そしてこの変化に大きな影響を与えた物が、晩唐期における戦乱を背景として生まれた文化人の山野への隠遁生活への憧れの中から生まれた隠者の文化であり、その代表としての白楽天(白居易)の詩文やそれを描いた絵画が大量に日本に招来されたことでもあったのである。

(3)あいまいな「国風文化」の記述

 「つくる会」教科書の「国風文化」の記述にはもう一つ問題点がある。それはこの時代の文化こそが「日本的な文化」の成立そのものであったことについてのあいまいな記述である。 

 国風文化と呼ばれる平安時代の文化は、先に述べたような唐風を基礎として生まれたことを確認した上で、はじめての「日本的」な文化であった。このことは、あいまいな言い方ではあるが、教科書の以下の記述でも示されている。

 「国風文化」の項:

   ・貴族たちは・・・・寝殿造の邸宅に住み、服装も日本風に変った。
   ・絵画では、日本の山水や人物を題材とした大和絵がえがかれ、寝殿造の中の襖や屏風を飾った。

 「仮名文字の普及と文学の発展」の項:

   ・平安時代に入ると、仮名文字が普及し、・・・・・・仮名文字を用いた文学が発達した。・・・勅撰歌集「古今和歌集」がまとめられ・・・仮名をつかった最初の日記文学である「土佐日記」を書いた。

 「浄土教と仏教文化」の項:

   ・日本の神は仏が仮に姿を変えてあらわれたものとする、本地垂迹説が唱えられ、仏と神をともにうやまう神仏習合がさかんになった。

 「院政期の文化」の項:

   ・これらの絵巻に見られる、いきいきとして動きに満ちた人物や自然の表現は、絵画の世界の革新であった・・・

 この時代の文化が、従来のものとは大きく違ったものであり、文化における革新期であったことが不充分ながらも語られているのである。しかしこれが現在につながる日本文化の始まりとは明確に記述してはいない。

 他の教科書では(たとえば私が今使っている清水書院のものでは)、「国風文化」は「唐風の文化が消化され、日本の自然や生活にあった、独自の文化が生まれ、長くのちの世につたわった。」と記述し、ここが日本文化の始まりと、明確に記述しているのである。

 しかし扶桑社の教科書は、この点はあいまいである。なぜこの教科書では、「日本文化」のはじまりとはっきりと書かないのか。

 (4)日本的なる文化=天平文化?

 その答えは、とても単純である。

  この扶桑社の教科書では、日本文化の古典=日本的なるものの始まりを、天平文化に置いているからである。この教科書の天平文化の項では以下のように記述している(p67)。

 天平文化は、日本の「古典」(古い時代につくられて、現代でも文化的価値の高いすぐれた芸術作品。西洋美術ではギリシャの紀元前5世紀ごろの美術やイタリアの15・16世紀の美術について使われる)とよぶにふさわしい。

 そして同じく奈良時代の文化の所で、「日本語の確立」とか「日本の神話」とかの項目をたて、あたかもこの時代に、日本的な文化が成立したかのような記述をしている。

 だがこの部分の記述にも問題がある。ページの見出しだけ読むと、あたかも天平時代が日本的なる文化ができた時代のように見えるが、個々の記述を吟味して行くと、そうではないのである。

 たとえば、「日本語の確立」の所では、この時代に「万葉仮名」とよばれる音表記法が生まれたことを記し、中国語を現す漢字の音だけ借りて、違った言語である日本語を表記することが始まったことと述べ、これが後に、「平仮名」という日本独特の文字の発明にいたったと記述している。

 つまり「日本語の確立」の所では、奈良時代に漢字の音を用いて日本語を表記することが始まったと書いてあるだけで、平仮名が始まったとは言っていないのである。

 衆知のように「平仮名」が始まったのは平安時代であり、それが広く普及したのは平安時代の中頃、9世紀になってのことである。つまり文字表記という面では、奈良時代は、日本的な文化の芽が生まれたに過ぎないのである。

 また前にも述べたが、天平文化が日本の「古典」とされ、たとえば「万葉集」が、和歌の模範とされたのは、江戸時代後期から明治にかけて、言いかえれば、近代日本の国民国家が成立する過程であった。それまではむしろ和歌の原点は、平安時代中頃の「古今和歌集」であり、この時代こそが、平仮名の成立と普及の時代であり、平安の「国風文化」こそが日本の古典=日本的なるものの原点なのである。

 ではなぜ、日本的なるものが芽生えはじめた時期をもって、日本の原点とし、その日本的なるものが確立した平安中期を強調しないのであろうか。

 (5)「律令国家」成立を「日本」の自立と見たことによる歪み

 この原因ははっきりしている。

 扶桑社の教科書は、奈良時代、律令国家の成立をもって、日本が中国や朝鮮から自立した国家を形成したとする歴史観に立っているからである。そしてこの歴史観は、教科書の随所で展開されている。

 たとえば聖徳太子の政治の項で、『聖徳太子は隋の皇帝への国書で、対等の立場を強調することで、隋に決して服属しないという決意表明を行った。・・・・わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない―これが、その後もずっと変らない、古代日本の基本姿勢となった。』と述べ、その後の歴史の展開とは、完全に矛盾する見解を述べている。また、「律令国家の出発」の項でも、『東アジアで、中国に学びながら独自の律令を編みだした国は日本のほかにない』とか、『日本における律令年号の独自性は、わが国が中国に服属することを拒否して、自立した国家として歩もうとした意思を、内外に示すもの』などど、当時の世界情勢や各国の置かれた状況を無視して、日本民族主義を過度に宣伝している。

 しかし律令国家の成立をもって、日本が先進国・中国や朝鮮から自立したと見る見方は、まったく事実と反するものであることは、先に、各項目の批判の個所で述べた通りである。

 扶桑社の教科書が、平安時代こそ日本的なものが確立した時期だと明快に述べられない原因は、奈良時代の律令国家の成立期をそれと、事実を無視してイデオロギー的に宣言してしまったことからくる、歴史認識の歪みの結果なのである。

 ではなぜこの教科書は、平安時代ではなく奈良時代を「日本の自立」の時期と見たのだろうか。

 (6)『天皇の権力が衰微した』かに見える平安時代

 この原因も、極めて単純である。

 この教科書の執筆者たちは、天皇の位置を過度に強調する。「天皇の存在なくして日本国はない」とまで言いきっているようである。

 そしてこの観点から見るとき、平安時代はたしかに日本的な文化や政治が広がった時期ではあるが、肝心の天皇の地位が、極めて希薄な状態に見える時代である。いわゆる「摂関政治」の時代。天皇は幼く、その外戚である藤原氏が権力を握っているかに見える時代。これでは、天皇を日本および日本人・日本文化・日本国の中心と考えるこの教科書の執筆者たちにとって、平安時代を「日本のはじまり」とすることは、あまりに受け入れがたいことだったのである。

 それに比べてその前時代である奈良時代は、政治も文化も色濃く中国・唐の影響を受けてはいるが、天皇の権力の強さは、歴史上に燦然とその輝きを誇っている。だから彼らは、日本的なものの萌芽が生まれた奈良時代を、歴史の事実を無視して、日本的なものの確立した時代と強弁したのである。
 その結果、平安時代の「国風文化」の位置付けが、きわめてあいまいになってしまったのである。

 1つ付言しておこう。このようなジレンマに陥ったのは、この教科書の執筆者が初めてではない。近いところでは幕末の尊王思想の元祖とされた本居宣長や自称その弟子の平田篤胤らも同じジレンマに悩んだ。だからこそ彼らは、和歌の原点をそれまでの「古今和歌集」から「万葉集」に移し、歴史書の原点を、日本人の歴史観に大きな影響を与えた、仏教思想・説話や中国の歴史の影響を受けた「平家物語」ではなく、まったく忘れさられていた古代の歴史書、それも完全な漢文体で書かれ、中国史書の引き写しの多い「日本書紀」ではなく、説話の趣の強い「古事記」に置いたのである。「天皇主義者」にとって平安時代は、摩訶不思議な理解しがたい時代だったのである。

 しかし彼らの「天皇の権力が衰微した時代」という平安時代認識は、全くの間違いであったことは、先に述べた。

 (7)中世文化の幕開けとしての「国風文化」

 実に平安時代こそ、奈良時代に成立した古代日本的なものが、それがさらに社会の変化によって、さらに大きな変化を被り始めた時代だったのである。「摂関期」における末法思想の広まりやそれを基礎とした浄土教の広がり、また院政期の文化に見られるような、庶民的なものの侵入など、中世的な時代の特徴をすでにもっており、平安時代の後半からはすでに過渡期としての中世の様相を呈している。

 そして天皇の存在も、「摂関期」から「院政期」の形態も、この時代の変化に対応したものであり、この時代の後半期から次の鎌倉・室町時代を通じた社会の激変の中で変容をとげ、平安時代後期の「院政期」のような形で日本の文化・社会・政治に深く関わっていき、大きな存在になっていった時代なのであった(この項は後の中世の所で詳述)。

 この意味で平安時代中頃以後の文化である「国風文化」は、古代の文化というより、中世文化の幕開けとしたほうが正確であろう。

:05年8月の新版の「国風文化」の記述は「国風文化と国文学の発達」と題して、若干書き改められている(p56)。「国風文化」の成立が唐の衰微と遣唐使の廃止に由来するかのような記述は書き改められ、「その後、日本の風土や生活にあった」文化が発達したという記述になっている。しかしこれが律令国家体制の変化と緊密な関係にあったことや「唐風」の吸収とそれを基礎にした「国風」であることは、まったく記されていない。

:この項は、笹山晴生著「唐風文化と国風文化」(1995年岩波書店刊「講座日本通史第5巻古代4」所収)、佐野みどり著「王朝の美意識と造形」(1995年岩波書店刊「講座日本通史第6巻古代5」所収)、五味文彦著「中世文化とは」・佐野みどり著「物語る力ー中世美術の場と構想力」(2002年中央公論新社刊「日本の中世第7巻:中世文化の美と力」所収)などを参照した。


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