「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判28


 28.浄土教の興隆の意味

(1)矮小化された思想的・社会的背景

 平安時代の文化は、国風文化の記述に続いて、「浄土教と仏教文化」の説明にはいる。ここは一つ前の項目の「仏教の新しい動き」に続く動きであり、中世日本の文化の最初の項である「民衆的な仏教の高まり」の前段をなす項である。それぞれと繋がった一貫した記述がなされ、仏教の変化がその背景とともに、思想的変化としてもきちんと捉えられているのか、その辺を見ておこう。「つくる会」教科書の記述の大要は以下のようである(p76)。

 平安時代の中ごろになると、天災や社会の乱れから人々の不安が増し、末法思想(仏教が衰える末法の世になること、世の中が混乱するという考え方)の広まりもあって、浄土教がさかんになった。浄土教は阿弥陀仏を信仰し、死後、極楽浄土に生まれ変わることを願う教えである。源信の『往生要集』は、その代表的著作である。貴族たちは、浄土へのあこがれを胸に、阿弥陀堂を建て、阿弥陀仏の仏像を安置した。(中略)阿弥陀信仰は、都の貴族からしだいに庶民にも広まり、地方へと広がっていった。(以下略)

 この記述だと、浄土教が広がったのは、天災や社会の乱れから人々の不安が増したことと、末法思想が広がったことが背景にあるということになる。これについての具体的な説明がないので、教科書の記述を通観すると、ここでいう「社会の乱れ」とは、武士が起こり、彼らの力が増してきて各地に戦乱が巻き起こり、貴族の支配にかげりが指してきたことを指すと推理されるであろう。そしてこの浄土教(=阿弥陀信仰であるように書かれている)が、さらに貴族から庶民に広がっていったと記述されていることから、天災や戦乱で庶民(語の通常の意味から農民など下層の人を指すと思われる)にも社会的な不安が広がっていたことが、この信仰が始まったことの背景だと理解できよう。

 このような記述の傾向は、どの教科書にも見られ、通説的理解のように思われるが、はたしてこれで良いのだろうか。

 この記述だと浄土教は貴族と庶民に広がったように思えるが、後に絵巻などで見るように、武士の世界にも阿弥陀信仰は広がっており、武士の館にも阿弥陀堂が設けられ、阿弥陀仏の仏像が祭られており、日々礼拝を武士は欠かさなかったこと、さらに今昔物語などにも明らかなように、多くの武士が阿弥陀信仰をもち、極楽浄土へ生まれることを願い、中には出家してしまうものもいた。このような事実をどう理解するのだろうか。

 :もしかすると教科書の筆者たちは、武士=禅宗、貴族・庶民=浄土教という「通説」的理解に立っているのかもしれない。これなら記述に矛盾を感じないだろう。だが事実と違うことはどう説明するのか。

 さらに庶民に広がった阿弥陀信仰と貴族の間に広がった浄土教との間に、教科書は区別を設けていないが、後にみるように、庶民の間に広がったのは空也上人の例に見られるように口称「念仏」であり、貴族の間に広がった「浄土教」とは区別されるべきである(この違いがきちんと説明されていない)。この区別がされていないと、この浄土教・阿弥陀信仰の流れの中から生まれてきた浄土宗・浄土真宗・時宗の意味もわからず、全部一緒にものになってしまって、なぜ名称が違うのかという疑問だけが残るようになってしまう。
 またこの記述だと、前代に始まった「新しい流れ」である真言宗や天台宗との関係もよくわからない。浄土教の代表的思想家である源信は天台宗の僧侶であったわけだが、その天台宗の始祖である最澄の「すべての人には仏となれる要素がある」という教えとの関係もよくわからない。そしてこの新しい仏教の流れが都で始まったことの意味もわからなくなる。

 :平安京は当時最大の都市であった。そこには貴族と武士と庶民が大勢住んでいた。その全ての人々の間に阿弥陀信仰は広がっていった。この信仰が都市で始まったことに大きな意味があるのだが、都市ではじまったことが全く記述されていないので、このことの意味を考える手がかりするないのである。

 ようするにこの記述だと、浄土教・阿弥陀信仰というものがどのような社会の変化や思想の変化に基づいて生まれてきたものなのかが「戦乱と天災」に単純化されてしまい、その発生の意味も矮小化されているのである。
 教科書の文化史の記述は項目の羅列になっていて、どう学んでよいのか、どう教えて良いのかよくわからないことが多い。だからしばしば暗記物になってしまう。浄土教の発生についての「つくる会」教科書の記述は、その典型のようなものである。

(2)都市的空間の広がりが背景にある

 浄土教という大衆の救済を直接めざす傾向が仏教に生まれた背景には、平安京を始めとした都市的空間が広がったことが背景にある。
 平安京は日本最大の政治都市であるとともに、諸国の税が集まる全国的流通の要の都市でもあった。したがってここには貴族という流通を背景にして消費生活に基盤を置く人々がたくさん住んでいただけではなく、その流通を担う人々や、財貨の生産に携わる人々がたくさん住んでいた。さらに飢饉などの天災が起きれば、周辺の農村からも大量の人々が流入する。ここには日本中の財貨が集まるわけだから、飢えをしのぐおこぼれがあるだろうということである。こうして平安京には、富を求めて流れ込んだ人々が溢れた。またこの人々は自らが今まで属していた共同体を離れて都市へ来たのであり、彼らの繋がりは商品を商うことによっていたので、旧来の共同体に暮らした人々よりは「個人」として社会の中で孤立する存在であった。

 また一方都市住人としての貴族の間でも「共同体」は壊れつつあった。共同体としての「氏(うじ)」の一体性は壊れ、その中に形成された「家」が活動の基盤になった。貴族たちが「摂関家」とか「羽林家」など、独占する官職などの違いによって区別された家をなしていたことにそれは表現されている。したがって貴族たちも人間関係が共同体を通じてというよりは個人を単位とした繋がりになり、「個人」を巡るさまざまな軋轢も生じてきた。

 つまり都市においては人々は個人として存在し、従来のような共同体、しばしば神から連なる血縁的共同体という絶対の後ろ盾を失い、個人として人生のさまざまな苦難に立ち向かっていかなければならない状況になっていたのである。しかもあいつぐ飢饉や戦乱がこれらの人々の上に降りかかってくる。
 これが人々が人生のよりどころとしての絶対的存在である神(=仏)を熱望する背景である。そして阿弥陀仏は仏教の諸仏の中でも「絶対的」存在の一つである。

(3)人々の救済を忘れた「堕落した」仏教

 そして浄土教が生まれるもう一つの背景が、既存の仏教の「堕落」である。世俗を嫌い深山幽谷に入って修行に励んだ平安仏教も、密教的な加持祈祷をその中心として都の貴族たちの心の平安と国家鎮護を祈るようになると、しだいに大乗仏教の大衆の救済という側面からは逸脱しつつあった。
 当時の僧侶は国家の認可を得ないと僧侶になれない仕組みになっていたが、これにより多くの貴族の子弟が僧侶となる道が開かれ、僧侶としての地位は出身門閥に左右されるようになり、有力な僧侶たちは出家後も貴族としての優雅な贅沢な生活を保証され、広大な荘園を持つ領主として君臨していった。そして下級の僧侶たちは、その荘園の管理者として動くようになり、武器を携帯したり、妻帯して酒色におぼれるものも多数出てきたのであった。
 教科書には必ず載っている「僧兵」についての記述や絵巻など、僧侶が堕落した姿といえる(p73)。
 いわば僧侶が僧侶としての戒律も破り大衆の救済を旨とする社会的な役割すらも放棄するに至ったのである。そしてこの状態に対する批判が起こったときには、これを合理化する思想が持ち出された。これが末法思想であった。釈迦の死後数百年とか数千年たつと仏の教えも廃れて世は乱れるという思想は昔からあったし、天台宗の開祖である最澄はすでに末法の世に入っているという認識を持っていたそうである。
 その認識を「堕落した」僧侶たちは、「末法の世になれば仏の教えも廃れてしまうのだから、僧が戒律を守らないもの当たり前」と居直る状態であった。つまり彼らは末法の世である現世を肯定し、堕落を堕落でないと言いくるめようとしたのだ。一方で彼らの足元に広がる巨大都市平安京には、人生のよすがをもとめて救いを求める都市住民が多数存在するというのに、この人々の救済をなすことなく。

(4)世捨て人=遁世僧が始めた浄土教

 この状況を見てなんとかしたいと思った僧侶たちが、僧としての地位も名誉も捨てて俗世間から離れ、真の仏の道を捜し求めはじめた。このような僧のことを遁世僧と呼ぶ。彼らは末法の世の中でも僧侶としての厳しい戒律を守りながら修行に励み、大衆を救うための方策を模索したのである。

 この遁世僧の中で天台宗の中からでてきた僧侶たちの間に広がったのが浄土教である。
 浄土教、阿弥陀仏にすがれば死後極楽浄土の往生できるという思想はインドですでに生まれており、日本には7世紀には入っており、以来各地に阿弥陀仏をまつるお堂ができて信仰としてはひろがっていた。そしてその行法として、阿弥陀仏を心に念じるという意味での「念仏」は、最澄によって比叡山に持ち込まれ、さらに彼の弟子たちによって座禅や瞑想・称名念仏などを加えた行法として洗練されていった。
 天台宗から遁世した僧侶たちは、この浄土教を大衆救済の思想としてさらに洗練し広めようとしたのである。

(5)呪術としての口称「念仏」:空也の場合

 この浄土教の思想を、日本の大衆の中にある伝統的な思想と結合させて広めようとしたのが空也であった。彼は平安京の市の辻などで布教を行ったのであるが、彼の場合の阿弥陀仏の世界に入る手段は、口で「阿弥陀仏」の名を唱えることであった。
 天台宗でも阿弥陀仏の名を唱えることはなされている。しかしそれは阿弥陀仏の像の前で、座禅を組んだり何十日間も像の周りを回ったりして精神統一する中での称名であり、修行としての「念仏」であった。しかし空也は口で阿弥陀仏の名を唱える事だけで極楽に救われるとした。いわば日本人の中に古くからある「言霊」信仰(=言葉を一旦口に出してしまえば、その言葉によってあらわされるものを支配することができる、すなわち真実の言葉はその実態をつかむ魔力を持つという思想)をもとにして、阿弥陀仏にすがるという意味での念仏を行ったのである(彼の場合は著作が残っておらず、口称念仏だけで極楽に行けるということを仏教教理として証明することができていない。これをなしたのが後の浄土宗の開祖たちであった)。こうやって彼は悩める個人を救おうとしたのである。

(6)修行としての「念仏」:源信の場合

 天台宗の僧侶であった源信が理論化した浄土教では「念仏」の意味が修行としての意味合いを持っていた。彼の場合は天台宗の念仏の伝統に沿っていたというわけである。
 彼は極楽浄土に行くための五つの正しい修行(正行)をあげている。それは「1:阿弥陀仏を礼拝する 2:阿弥陀仏を讃嘆する 3:悟りを求める心を起こす 4:阿弥陀仏の姿を心に念じる 5:正行をなした善根をすべての者の救済と自分の悟りのためにふりむける」というものである。つまり天台宗では座禅などを含むさまざまな行法の一つとしてこれらの「念仏」をあげていたのであるが、源信は様々な行法の中の「念仏」だけで極楽往生ができる説いたわけで、出家者ではない在家の信者が自らの力で極楽往生する道をより簡略にしたのであった。彼もまた悩める個人の救済を「念仏」によって行おうとしたのである。

 そして源信によって集約された浄土教は、天台宗だけではなく真言宗にも、そして奈良時代以来の正統仏教である法相宗にも広がり、それぞれの教派の中に阿弥陀信仰が組みこまれ、「念仏」によって「極楽浄土」へ生まれ変わる道筋が求められることになった。この動きの中でさらに理論的追求がなされ、そこから後に浄土宗という新たな宗派・教団が生まれるのである。

(7)都市住人としての武士:武士に浄土教が広がったわけ

 武士もまた都市住民である。というと違和感があろう。従来説では、武士とは農村に住むものと理解されていたからである。しかし彼らの館が「農村」の中のどのような場所にあったかを思い起こせば疑問は氷解する。彼らの館は、「荘園」や「公領」の中の交通の要地にあり、しばしば彼らの館の前には市が立っていたのである。
 彼らは下人に田畑を耕作させ、自らもまた耕作に従事してはいただろう。しかし彼らの生業は、「荘園」や「公領」の土地の管理であり、治安の維持であり、さらには税の徴収と運搬(国府まで、または都まで)。つまり彼らは農業生産者というより、その余剰で食べている消費生活者としての管理者・流通業者・運輸業者であり、この意味で都市的住民なのである。
 彼らが住んでいた場所は「荘園」「公領」の中の都市的地域である。
 そして彼らの間でも共同体は崩れつつあり、「家」を単位した生活になっていた。同じ清和源氏といっても様々な家があり、相互に抗争しながら利権を争っていたことにそれは表されている。
 かれらの生活も家を単位とした「個人」の繋がりであり、さらに彼らは殺生を生業とする。この殺生は仏教では魔道に落ちる所業であり、これらの行いをするものには救いは用意されていない。
 だから彼らは個人としての救いを求めたのである。

 :都市というと平安京しか思い浮かばないから、地方にもたくさんの都市があったことが忘れ去られている。国々には国府が置かれていて、そこは政治都市であると同時に、税を集め運搬する集散地でもあった。さらに郡には郡の役所が置かれた都市的地域があったし、街道には駅が置かれた都市的集落があった。また「荘園」にも荘官という管理者が住み、税を集める役所があり、これも都市的地域であった。これに街道の要地や河や海の港にできた都市や、寺社の門前にできた都市を加えれば、かなりのものになろう。都市は鎌倉時代になって突然生まれたのではなく。国家の発生とともにあったのである。

 このような修行としての念仏を背景にして生まれたのが、阿弥陀堂を中心として栄えた貴族文化としての仏教文化である。

補1:神と仏の融合

 「つくる会」教科書のこの項の特色として、神と仏とが一体となったことの理論としての「本地垂迹説」を紹介していることがある。こう書いてある(p76)。

 また同じころ、日本の神は仏が仮に姿を変えてあらわれたものとする、本地垂迹説が唱えられ、仏と神をともにうやまう神仏習合がさかんになった。

 神と仏が一体となっているのは日本の信仰の特色である。このことを記述したことは正しい。ただ唐突であり、今までの記述と何の脈略もない。また神仏習合は日本に仏教が伝わった時からのことであり、この平安時代になって盛んになったことではない。奈良時代においても寺院にはかならず付属宗教施設であり寺の守り神としての神社が存在した(この形の始まりは、九州の宇佐八幡宮だとの説もある)。この中で神仏習合が行われていたのであり、それを理論的に集約して本地垂迹説という形でまとめたのがこのころであったのである。そしてそれを可能にしたのが、日本仏教の中で、「人はすべて仏となることができる」という立場が主流派となり、これがやがて木も草も石も生き物だけではなく全てのものが仏になれるという思想を生み出すに至って、仏教の理念が、日本の古来からの神道の理念と重なってきたことにある。つまり天台宗の思想が発展し、浄土教を生み出すという過程での進化が、神仏習合の理論的基礎を与えているのである。

補2:完全に無視された浄土教文化の極致としての平泉

 最後に一つ補足しておきたい。この教科書の記述では、浄土教文化の代表として、宇治平等院鳳凰堂が示されている。しかしその地方への波及の象徴であり、その極致とも言える奥州平泉の文化については一言も触れられていないのは問題である。

 平泉には平等院鳳凰堂の拡大模写とも言うべき無量光院を初めとした浄土教文化を体現した寺院が多数建立され、その中に現存物として中尊寺金色堂があることは周知の事実である。

 この平泉の浄土教寺院の建築や諸仏は、京の工人や仏師によって作られたものであり、仏像は京で作ったものを部材に解体して船で平泉まで運んだものが多く、ほとんど都の文化そのものである。

 奥州藤原氏の政庁のあった平泉は、東アジア交易ネットワークの北の拠点であり、ここには北は蝦夷ヶ島・オホーツク・カムチャッカからたくさんの毛皮や海産物が運び込まれておりそれが、奥州の産物である金や馬とともに京を通じて全国に流通していた。また西からは西国の陶器や中国の陶磁器も大量に運ばれ、日本列島における一大流通拠点でもあったのである。

 平泉周辺は豊かな稲作地帯でもあり、これらの富を背景にした奥州を治めていた奥州藤原3代はここに半ば朝廷から独立した「平泉幕府」ともよぶべき軍事政権を築き上げていた。その財力と文化の粋をつくしたのが、毛越寺や金色堂などの浄土教寺院群であった。

 平安時代においてすでに日本では、全国的な商品流通が行われ、それを支える陸上・海上交通が盛んであった。これに乗って都の文化は日本中に広がっていったのであり、浄土教文化も広がっていったのである。

 平泉の浄土教文化は、このような列島全体にわたる交通・流通・文化ネットワークがあったことの現われであり、その最も豊かな表現である。これを全く無視するということは、「つくる会」教科書が、その叙述において大和・京中心主義であり、日本の周縁部へのまなざしに欠けるという欠陥をもっていることの表現である(なお平泉文化については、斉藤利男著「平泉―よみがえる中世都市」や、荒木伸介・角田文衛他著「奥州平泉黄金の世紀」、入間田宣夫・豊見山和行著「北の平泉、南の琉球」などに詳しい)。

 「つくる会」教科書は、部分的には意欲的な踏み込んだ記述が多い。本項「浄土教」の部分もその一つではあるが、どうしても文化史の記述は項目羅列的傾向が強く、記述がばらばらで一貫性に欠け、その時代の文化のあり方から何を読み取ろうとしているのかがあいまいであるのだ。

 :05年8月の新訂版では記述が少し変化している(p57)。ここでは「天災や社会不安から、末法思想が流行した。これを受けて、念仏を唱えて阿弥陀仏を信仰すれば、死後、極楽浄土に生まれ変わることができると説く浄土教がさかんになった。浄土教は、空也や源信によって広められた。有力な貴族は、浄土へのあこがれを胸に、阿弥陀堂を建て阿弥陀仏の像を安置した。(中略)阿弥陀信仰は、都の貴族からしだいに地方へと広がった。」と書き改められている。よりすっきりとした説明になっており、阿弥陀信仰が都から広がったことは記述されたが、庶民に広がったことは削除されて人的広がりの意味を考える手がかりが失われてしまった。また、、前代や後代への繋がりが欠けていることは、まったく改善されていない。さらに念仏を唱えることが浄土教だとしてしまったことで、空也の活動との違いや、後の浄土教などとの違いもかえってわからなくなっている。また、新版では、浄土教文化の代表の一つとして、中尊寺金色堂が写真入りで紹介されている。しかしここでも列島全体にわたった交通ネットワークを背景にして浄土教文化が広がったことは、一言も触れられていない。

 :この項、前掲「日本仏教史」、斉藤利男著「平泉―よみがえる中世都市」(1992年岩波新書刊)、荒木伸介・角田文衛他著「奥州平泉黄金の世紀」(1987年新潮社刊)、入間田宣夫・豊見山和行著「北の平泉、南の琉球」(2002年中央公論新社刊:「日本の中世5」)などを参照した。


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