「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判29


 29.性格付けのあいまいな院政期の文化

(1)院政期文化=「民衆的な文化のはじまり」で良いのか

 平安時代の文化の最後に、「院政期の文化」が独立した項目としてたてられている。これは教科書としては珍しい構成である。ではどのような特色を持った文化として記述されているのだろうか。

 院政のころ、貴族の間では、優美で繊細な作風の美術が好まれ、壮麗な装飾をほどこした仏画や仏像がつくられた。

 これがこの教科書の記述のはじまりである(p77)。具体的には何を指しているかというと、高野山の「阿弥陀聖衆来迎図」の図版が掲載されているので、これは前項の阿弥陀信仰を背景にした貴族の間での仏教美術を指していると思われる。
 そして次に行を改めて、「絵画の革新」とも言える「民衆世界を描いた」絵巻の登場について描写する(p77)。

 一方、地方の豪族や武士たちの勢力が伸びてくると、彼らの生活が文化にも影響をおよぼすようになった。12世紀に入ると、絵巻物が発達し、動物の姿を借りて、当時の世の中を風刺した「鳥獣戯画」や、民衆の信仰の姿をえがいた「信貴山縁起絵巻」、迫力のある火災の場面が出てくる「伴大納言絵巻」などがえがかれた。これらの絵巻に見られる、いきいきとして動きに満ちた人物や自然の表現は、絵画の世界の革新であったといえる。

 つまり民衆的世界の伸張によって「絵画の革新」といえるいきいきとした表現で描かれた「絵巻物」が院政期に盛んになったと言っているのである。

 だがこのような規定で良いのだろうか。

(a)絵巻の性格付けの一貫性のなさ

 この記述を読んでみると、三つの絵巻の性格付けがばらばらであることに気がつく。
 「鳥獣戯画」はその内容とともに制作の意図がきちんと記述されているが、「信貴山縁起絵巻」になると、これでは民衆の信仰の姿を描いたかのような誤解を受ける。
 この絵巻の主題は、かって醍醐天皇の病を祈祷によって治した霊験あらたかな僧侶である信貴山の命蓮上人の一生を描くこと。とりわけ彼が、金属製の鉢を里に飛ばして托鉢をさせるような余人がなし得ない術を使うことが紹介され、それが世情に知られるようになったきっかけは、鉢が里の長者の米倉ごと山に運んできたことだったとする。そして彼の霊験が都にも知られるようになり醍醐天皇の病がいかなる薬でもいかなる加持祈祷でも治す事が出来なかったときに、命連は信貴山から降りることもなく、山上で祈祷したのに、帝の病を治したということが、この絵巻の主題の中心である。そして彼は名誉や栄達、そして財貨には興味がなく、帝からの褒美もすべて辞退して、後には50年もの間行き別れになっていた姉と再開して、二人して信貴山上で庵を結んで、仏道修行に明け暮れて過ごしたと記述する。この絵巻にはたしかにこのような聖を信仰する里の民の姿が描かれてはいるが、それは主題ではないのである。その民人の暮らしの描写を含めて、絵巻の描写がとても自由で伸び伸びしており、生き生きとした筆致であることは、鳥獣戯画と同じではあるが。
 さらに三つ目の「伴大納言絵巻」の記述に至ってはひどいものである。「迫力のある火災の場面が出てくる」では、この絵巻の主題とも無関係で、どんな絵巻か知ることすらできない。
 この絵巻は醍醐天皇の時代に応天門という宮中の象徴的建物が付け火によって炎上した事件の次第を描いたもの。そしてこの経過が生き生きとした筆致で描かれている。「迫力のある火災の場面」とは絵巻の冒頭の応天門の火災の場面であり、炎を描いた絵としては日本屈指のものではある。

 この時代を代表する三つの絵巻の記述があまりにいいかげんであることは、ここに民衆的世界が反映されているというこの教科書の主張に、いささか疑問を持たせるであろう。

(b)12世紀になって絵巻が発達したわけではない

 さらに、特にここにあげられた三つの絵巻は全て、後白河法王が彼の権力の象徴として作らせた蓮華王院(現在の三十三間堂のあたりにあった広大な寺院。三十三間堂はその中心的な建物である)の宝蔵に納めさせた絵巻であると推定されている。したがって後白河の在世中はこれらの絵巻は宝蔵に秘蔵されており、めったなことでは外部に持ち出されなかったものである。これを「民衆的世界の文化」と単純に呼べるのだろうか?。
 絵巻がさかんに描かれたのは、何も12世紀になってからのことではない。源氏物語などの王朝時代の物語の記述にもあるように、すでに10世紀頃には、たくさんの絵巻が描かれ、貴族の間で供覧されていたのである。この絵巻の多くは物語絵巻であった。そしてこれらは今日どれも現物が伝えられないので、どのような画風のものであったかを直接知ることができない。

 この教科書が「絵巻がさかんになった」という12世紀とは、後白河が絵巻をたくさん書かせた時であり、そのいくつかが今日でも伝えられているので、絵巻流行の盛期であるかのように思われるだけである。事実は、後白河がかっての絵巻が盛んに作られていた時代のように今の時代をしようと考えて、大量の絵巻を作らせたのだ。

 後白河がこれらの絵巻を作らせた目的を見ることなく、「つくる会」教科書の記述は書かれている様に思われる。

(1)後白河は何のために絵巻を作らせたのか?

(a)後白河が描かせた絵巻の性格

 後白河法王が蓮華王院の宝蔵にたくさんの絵巻を所蔵していたことは、貴族のさまざまな日記によって明らかであるし、今日でもいくつかが残されており、それは日本絵画史を飾る名品ばかりである。
 彼が作らせたとされている絵巻と現存する蓮華王院所蔵絵巻と伝えられる絵巻は以下のようである。

 ○貴族の日記などでわかる絵巻

   ・保元相撲(すまい)図絵巻:保元3(1158)年7月の大内裏での相撲会を描いたもの
   ・保元城南寺競馬(くらべうま)絵巻:保元3(1158)年4月の後白河が鳥羽殿で開いた競馬の模様を描いたもの
   ・仁安御禊行幸絵巻:仁安3(1168)年10月、高倉天皇の大嘗会の一連の行事を描いたもの
   ・承安五節絵巻:承安7(1171)年11月の新嘗祭における五節舞姫進献のありさまを描いたもの
   ・年中行事絵巻:保元2(1157)年に突貫工事で長く失われていた大内裏を造営し、さまざまな宮中行事を復活させる中で、             宮廷年中行事の百科事典として描かせたもの
   ・玄宗皇帝絵巻
   ・末葉露大将絵巻
   ・後三年合戦絵巻

 この内の最初の4つの絵巻は、後白河が実際に再生させた宮廷行事を記録に留めたもの。そして次の年中行事絵巻はそれも含めたすべての宮廷行事の百科事典として有職故実に基づいて描いたもの。総じて後白河が復興させたいと願っていた平安中期の帝王が主催する行事を描いたものである。
 その次の二つは物語を描いたもの。最後は合戦絵巻である。

 ○現存している後白河時代の絵巻

   ・年中行事絵巻(摸本)
   ・寝覚物語絵巻
   ・源氏物語絵巻
   ・彦火々出見尊絵巻
   ・粉河寺縁起
   ・信貴山縁起
   ・伴大納言絵詞
   ・吉備大臣入唐絵巻
   ・六道絵<餓鬼草子・地獄草子>など

 この内、伴大納言絵詞と吉備大臣入唐絵巻は、上の分類でいくと最初の宮廷行事に連なる王朝華やかなりし頃の出来事を描いたもの。上の一群の絵巻と性格が異なるものは、四番目の彦火々出見尊絵巻から信貴山縁起絵詞までの3つの絵巻。これは霊験あらたかな社寺の起源を語った物語である。そして六道絵は他のどの絵巻とも異なった内容性格のもの。言葉であらわせば、人間世界をすべて表現したものと言えようか。残り二つは物語である。

 以上のように見ていくと、後白河が描かせた絵巻には一定の性格があることがわかってくる。一つは王朝国家が華やかなりし頃を彷彿とさせる一群の絵巻。これは後白河が復興したいと願っていた時代のありさまを描いたものだろう。第二の群れは、王朝時代貴族の生活を彩った物語絵巻。これは源氏物語などに描かれているように、かの時代に最も流行した絵巻である。次は合戦絵巻。これは後白河が生きた時代、すなわち権力闘争には武力をもってしないとすまない時代の先駆けともいえる事件の記録とも言え、後白河の時代以後、数多く作られた絵巻の群れである。そして次の一群の絵巻は、寺社の縁起絵巻。この時描かれた寺社には皇室ともゆかりの深いものが含まれる。皇室は神仏に守られた存在であることを示す絵巻か。
 最後の六道絵などは異色である。王朝時代には決して描かれなかった画材である。

 後白河が描かせた、かっての王朝国家が華やかなりし頃を復興せんとして作った記録絵巻と物語絵巻は、伝統的な大和絵の手法で描かれているという。つまり平安中期の技法を復活させたものでもある。それに対して、縁起物の絵巻や合戦物の絵巻、そして六道絵などの絵巻は、王朝時代には描かれることのない新しい画材であり、その筆致は、自由で伸び伸びとした生き生きとしたものになっており、王朝時代の形式的な描き方とは大いに異なっている。この意味で、これらの絵巻は絵画の革新ともいえるであろう。

 しかしこれとて、後白河が大量に絵巻を描かせた意図と無関係ではないはずである。

(b)後白河の政権の性格は?

 では後白河はこれらの絵巻を何のために描かせたのだろうか。これは絵巻だけではなく、彼がなしたこと全てを総合して、彼がどのような「政権構想」を持って動いていたのかということを復元する中で考えられる事柄である。

 従来院政期は、古代の律令制国家体制が崩れていった時期と考えられており、その政治制度などはあまり深く研究されてこなかった。そしてその中でも後白河は、そもそも彼が一代限りの中継ぎの天皇であったことや、彼の執政であった藤原通憲(信西法師)が「和漢の間、比類なき暗主なり」と評していたこと、そして彼が通常の帝王に似合わず、当時の流行歌である今様に「狂っており」、それを収集して「梁塵秘抄」という本まで作っていることなどから、歴史家の間でも、「君主の資格に欠ける愚昧な帝王」と評されてきた。さらに源頼朝が後白河を評した言葉として「日本第一の大天狗」という言葉が伝わっていたこともあり、幕府の成立を中世国家の成立として見る研究者の間では、封建制を推進する新しい中世国家である幕府の成立と発展を妨げ、古い昔の王朝国家を追憶するだけの保守頑迷の権謀術数を弄する「妖怪」的な評価がされ、あまり深くは研究されてこなかった。

 しかし摂関期から院政期に発達した荘園・公領制こそ日本における封建制の発生だったことが明らかになり、貴族と現地荘官たる武士との主従関係も封建的主従関係であったことが分かってくると、院政期こそは、中世の始まりの時期として認識されるようになり、この時期の歴史的評価が変わってきた。
 そして「中継ぎ」として無視されてきた後白河院政期こそ、古代王朝国家から、中世的国家への過渡期、いや中世国家の成立期として認識されるようになり、ようやく後白河の研究が盛んになってきたのである。

 とても鋭い後白河論を展開していた史家・棚橋光男は、その論で後白河を以下のように評している。

 「後白河の生涯は、息つく間もなく、さまざまなタイプの挑戦者を打ち倒し、それを養分にしながら、古代王権の中世王権への再生という成果をもぎとった、文字どおり茨の道でした。 保元・平治の乱から源平の争乱に至る内乱の渦中で、王権そのものの消滅の危機がいくどかあり、あるいは少なくとも、複数の王権が分立する現実的可能性がありました。その経験の中で、後白河は、王権を構成する諸要素、王権に随伴する諸機能のうち、何は落とせて何は落とせないのか、何は奪われてもしかたがなくて、何はギリギリのところで死守しなければならないのか、深刻な選別・ふるいわけの作業にせまられたはずです。そしてその上で、王権から一旦奪われた諸機能を、質的に違った形で再編成する作業を行わなければならなかったのだと思います。」(棚橋光男著「後白河法皇」講談社メチエ95年刊所収の「後白河論序説」より)と。

 そして後白河院政期に次々にだされた「新政」の法としての再検討と、彼と武士政権との関係や、絵巻や今様の集成、そして度重なる寺社への参詣、とりわけ30数回にも渡った熊野参詣などの活動全てを総合的に検討することで、後白河が構想しようとして新しい国家を、棚橋は再現しようとした(仕事の完成を見ずして棚橋は病に逝ったのだが)。

 それによれば、後白河は、「九州(日本全土)の地は、一人(治天の君)の有なり。王命のほか何ぞ私の威を施さん」と、日本国の最高権力者としての治天(=院)存在を宣言し、その下で、律令制に囚われない新たな官職の職の身分体系を確立しようとした。また、王権の実質的支配地域は平安京とその周辺に限られていることを基礎にして、日本最大の都市である平安京とその周辺の地域を治めるための都市法を制定して、そこにおいて発展しつつある流通産業などの統制を試みた。さらに、軍事統率権や検断権(=警察権)は観念的には治天(=院)が掌握していることを明らかにするとともに、その実施については有力な軍事貴族にそれを委ね、王朝国家と軍事権門との間の関係を整理した。

 このように整理されると、後白河がやってきたことがすっきりと一つの国家構想として浮かび上がってくる。

 院は日本国の最高権力者であるとともに最高権威なのだ。それは当時の観念でいえば、現実的権力の執行権を持っているだけではなく、権力の執行権を分与されたものへ執行のための法的権威を付与するものであるとともに、彼は聖俗の二つの世界を統括する権威でもあるので、神にも等しい力を持つと認識されていたはずである。
 だからこそ、前者の観点から、実際の朝廷の職務を遂行する役所を整理し、それに任ずべき職員の官職の体系をさだめ、さらに軍事・警察部門は勃興しつつある軍事貴族(=武家)に委ねたのである。

 この最後の武門との関係で言えば、保元の乱後には後白河は、彼の直属の軍事武門の長であった源義朝と彼の政治的庇護者であり、院の厩を管理する長官となった藤原信頼に依拠した。そして平治の乱の後には、それを平清盛一族に委ね、さらに清盛らが後白河と対立した高倉の側につくと、それに代わる軍事権門を捜し求め、その候補者として源義仲・源頼朝・源義経などがあげられ、その後の平氏との抗争も含めて、勝ちあがった源頼朝を後白河を頂点とする新たな王朝国家の長である後白河院に直属する軍事権門として、公武の両立を図ったのであろう。

 また聖俗の二つに君臨する宗教的権威としての院のあり方を具体化する動きとして、彼は、衆上の救済の最高寺院として阿弥陀・観音信仰を併せた蓮華王院を造成した。そしてこの仏教的権威だけではなく、日本国にある土俗的宗教権威であり、阿弥陀・観音信仰とも結びついた熊野信仰をも重視し、その造成を援助したのであろう。さらにこの宗教的権威として文化との結合、いや何が文化的価値であるかということを認定する権威として、王朝美術の最高峰としての絵巻を集成させ、さらには都市住民を中心として栄えつつあった今様を集成したのではないか。

(c)聖俗の統合する権威としての院を象徴する絵巻

 本題に戻ろう。

 後白河はなぜ膨大な絵巻を作らせたのか。そしてその絵巻は、王朝時代を代表する物語絵巻だけでなく、王朝時代の宮廷諸行事を復活させた記録絵巻や、寺社の縁起を記した絵巻、そして合戦絵巻や六道絵などの様々な絵巻を作らせたのか。以上の背景が、後白河が作ろうとしていた国家構想の中に置いてみると、非常に鮮明に浮かび上がってくる。

@王朝の権威の復興としての物語り絵巻・宮中行事記録絵巻

 最初の二つの絵巻は彼の時代において長く廃絶していた大内裏を復興したことと同じ性格のものであろう。つまり在りし日の華やかな王朝国家の姿の視覚的再現である。だから後白河は廃絶していたさまざまな宮中行事を復活させ、それを極彩色で精密に絵巻に描かせた。そして復活できなかった行事も含めて、有職故実に基づいて、年中行事絵巻として描かせたのであろう。さらに、王朝貴族が愛玩した物語絵巻も復興した。

A宗教的権威としての院を象徴する縁起絵巻

 縁起絵巻は、どんな性格を持つ物だろうか。彦火々出見尊は天皇家の祖先として記録されている神武天皇の祖父であり、天照大神から天の下の統治を委ねられた瓊瓊杵尊の息子で、竜王の国に行って手に入れた宝物の力で、兄から統治権を譲られたという神話を持つ、天皇家の祖先である。これはつまり天皇自身の神にも等しい存在を権威付ける話と考えられよう。

 さらに信貴山縁起は、王朝国家の理想的帝王と観念されていた醍醐天皇が秘法を修した命蓮上人によって命を救われたという話。天皇は仏の霊験によって守られている聖なる存在という話であろうか。院政期以後の王朝では仏法と王法は車の両輪にも喩えられ、仏法に守れた王法という位置付けであったが、それを具現化した話である。そしてこの仏は民からもあつく信仰されているものでもあることから、この絵巻には、仏を信じる民の姿が描かれたわけであろう。

 これらの絵巻は天皇・院が神と一体であることを示しているのではないか。

B軍事権門に守られた院を象徴する合戦絵巻

 後白河が描かせたことがわかっている合戦絵巻は、後三年合戦絵巻だけである。この事件は白河院政に対立して不遇を囲った軍事権門である源義家が主家である摂関家の奥州を安定させようとして現地の豪族を討伐した事件であった。そしてこの合戦によって奥州は清和源氏嫡流家にとって重要な基盤になったし、現地を支配した奥州藤原氏の発展の基盤でもあった。
 この清和源氏嫡流家と奥州藤原氏は、後白河にとっても重要な基盤であった。保元の乱において後白河側の重要な軍事力であった源義朝の軍団は関東と奥州に基盤を置いていたのであり、源義朝亡きあと平氏政権の時代になっても、奥州藤原氏は後白河の大きな後ろ盾であった。だからこそ後白河が一時、その基盤とする軍事権門として選んだのが奥州藤原氏とも深い繋がりを有する源義経であったのだし、近畿での戦いに敗れた義経が頼朝との再度の決戦をするべく下向したのが奥州であったのである。
 この絵巻は、院・天皇は、有力な軍事権門によって支えられていることを象徴するものではなかったか。

Cあの世もこの世も統括する権威としての院を象徴する六道絵

 では、最後の六道絵は何を意味するのだろうか。六道の存在を示し、人はこれらの世界をめぐる中で生と死を繰り返すことを説き、その中で阿弥陀仏にすがることで天道への最初の階段である極楽世界への生まれ変わりを説いたのが浄土教・阿弥陀信仰であった。

 後白河を始めとする院たちは、阿弥陀信仰を重んじ、後白河もその中心として蓮華王院を造成し、その信仰と結びついた熊野信仰をも重視した。阿弥陀信仰においては、六道の世界は、その信仰の中核をなすものであり、それを理論化した源信の往生要集の冒頭は六道の一つである地獄道の赤裸々な描写で埋められていることは有名である。
 六道絵とは、人間が生と死とを繰り返す世界そのものを描き、その全ての世界を統括する仏といってもよい存在が院であることを示すものではないであろうか。

 もしかしたら鳥獣戯画は、この六道の現世である人間道を描いたものであるのかもしれない。

(3)まとめ:院政期の絵巻とは

 以上のように見てくると、「つくる会」教科書があげた三つの絵巻の性格が明らかになってくる。

 鳥獣戯画において動物に仮託しながらも現世の様が生き生きと描かれていたのも、信貴山縁起絵巻において民衆の信仰の姿が生き生きと描かれていたのも、さらに伴大納言絵巻において炎上する応天門を中心として在りし日の王朝世界が生き生きと描かれていたのも、すべて、新しい王朝としての「中世国家」を「再建」しようとする後白河の執念のなせる技であった。そしてそれは、変化する社会の中で、中世の院・天皇・貴族が直接的には平安京を中心とする都市的世界に基盤を起き、そこで活躍する商人や武士などの新たな階層に具体的には依拠しており、さらにはこれらの民衆世界が心のより所としていた信仰の世界に依拠していたことによって、これらの絵巻には、これらの「民衆的」な人々が、描かれたのであった。

 これは決して「地方の豪族や武士たちの勢力が伸び」て「彼らの生活が文化にも影響をおよぼした」結果だけではない。むしろ中央の権力・権威が、彼らも含めた流通の世界に生きる新たな人々に依拠することを選んだ結果でもあるのだ。そして新たな権力を創造しようとする後白河の執念が、絵画の革新とも言える新たな技法を世に出した背景だったのではないか。
 技法そのものが革新された背景を絵画史の中に探ることは別途必要ではあるが。

 「つくる会」教科書の院政期の文化の評価は一方的であるが、これはこの教科書の筆者たちが、院政の時期の捉え方が、武士の成長期=鎌倉武士政権をつくり貴族から政権を奪い取っていく過程と捉えていたことの裏返しである。

 院政期の文化を貴族的なものと「民衆的」なものとの融合の始まりとしてとらえる見方は正しいと思うし、この点は鋭い見方をしているともおもう。しかし院政期において文化が貴族的なものと民衆的なものとが融合し始めているということは、古代的な共同体社会が崩れ、商品経済・流通の発展に基礎を置いた、新しい個の結合に基づく社会の出現の過程で、権力も含めて社会が再編成されはじめていたことの文化的表現であると考えられる。
 この意味でこれは、貴族的なものと民衆的なものとが融合した中世という時代の性格そのものであり、その始まりだと言える。

 ここに「院政期の文化」をあげるのであれば、これこそ「中世的文化」の夜明けとして示すことこそ、必要であったのではないだろうか。

補足:民衆的文化の夜明け

 院政期の文化が貴族的なものと民衆的なものとが融合し始めていると説くのであれば、この時代に流行した「今様」という歌謡と、連歌について記述する必要がある(連歌は次の鎌倉文化の所で述べ、ここでは今様について述べておく)。

(1)今様の流行

 今様とは10世紀の後半から院政期にかけて流行した歌謡である。飢饉や戦乱が続いて末法の世と認識された10世紀後半。各地には「祟り神」でもあり「疫病などからの救済の神」でもある御霊信仰が広がり、多くの新しい社が興隆した。京都近郊で言えば、祇園社や、石清水八幡の若宮社・日吉社の若宮である山王十禅師・賀茂社の若宮片岡社や貴船大明神、さらには熊野社の若宮である若王子と子守御前など、新しい御霊信仰の社が次々と造られて行った。今様は、これらの社の門前に住まい神に奉仕する巫女や遊女・傀儡子(くぐつ)などの芸能の民が神に願い事を奉ったり、あるいは神の託宣を人々に伝えたりするために歌ったものであった。

 この時代はちょうど仮名文字の使用が一般化して公的な場における漢詩に対して私的な場での詩作としての和歌の地位が確立した時代であり、同時にこの漢詩や和歌が朗詠として声に出して歌われるようになった時代でもある。そしてこの和歌や仮名文字を使った日記・物語を通じて貴族階級の女性たちが、自己表現の場を獲得した時代でもあった。
 今様は、貴族階級における漢詩・和歌の朗詠に対して、仏教歌謡としての和讃や漢詩・和歌の一部を用いて庶民が神に祈る歌として成立したものである。そしてこの庶民信仰の場における新しい歌謡は、その歌の内容や目新しいリズム感に満ちた旋律などによって貴族階級にも広がり、歌合せなどのゲームとしても貴族階級にも流行したのである。

 この今様を集大成し、当時流行っていた歌詞を採録しその歌の技法や由来などを考察した「梁塵秘抄」と「梁塵秘抄口伝集」を編纂したのが後白河法王であった。
 彼は傀儡子の乙前に師事して今様を学び、彼の御所には貴族たちだけではなく京の下々の男女や遊女・傀儡子などが常に集い、今様三昧にふけっていたのであった。
 このように平安中期から末期における今様という歌謡の流行の様には、同時期の連歌や後世の猿楽能などと同様な民衆的文化と貴族的文化の融合のさまが見られるのである。

(2)民衆的なものの包摂を図る王権

 しかし後白河における今様の集大成は、たんに庶民の文化と貴族の文化とが融合したということを意味してはいない。
 これは先に見た、後白河が絵巻物を集大成する中で、理想としての王朝国家の再興とともに、仏法や神、そして武力によっても保護されている王権というあらたな王権の有り方を模索した動きと同一のものでもある。

 そもそも「うた」とは、言霊をもって神に奉仕したり神託を伝えたりするものでもあり、歌や踊りを通じた「遊び」も同様な意味を持ち、今様もまた、庶民達にとって同じ意味をもっていたことは先にも述べた。そしてこの今様が歌われた御霊信仰の場こそは、この時代における宗教活動の主たる場所であり、御霊信仰と末法思想・浄土信仰は一体のものであったのである。したがって王が今様を歌い、その世界を集大成するということは、庶民の信仰世界をも王が包摂しその世界をも主催するということに他ならない。

 また今様の世界を通じて京の下々の人々や巫女・遊女・傀儡子と人的に交流を持っていた後白河は、京におけるこのような下層の人々と意図的に結合しようとしていたと見られる、それは後白河とこの都市民との個人的な繋がりと、彼の御所が京都における商工業者や運送業者、そしてこれらの芸能民のあつまる左京南部から鴨川の河東地帯(いわゆる白河・六波羅の地)に営まれた事、そして後白河が彼の治世全般において頻繁に京都周辺の御霊信仰や浄土信仰の場を訪れていることからも推察される。後白河はこれらの庶民的信仰の場であり全国を貫く交通と情報・商業の結節点に意図的に結びつくことを通じて、後の後醍醐天皇が試みたのと同じような、都市の商業の民との直接的結合・統制を通じて、勃興する武士階級に対抗した新たな王権を築こうと試みたのではなかったか。

 後白河が絵巻物において描かせたのが再建すべき宮廷儀礼や宮廷にとどまらない都市京都全域とその周辺地帯における庶民の生活や信仰のありさまであったこととあわせ、彼が今様にふけりその集大成を試みたのは、律令制が衰微して庶民を直接支配する力を失った王権が、商業や文化と信仰の場と結合することによって文化的に庶民を統合する権威を身に帯びようとしたことの現われであったと思う。そして院政期の文化はそのことの表現であったのであろう。

 :05年8月の新版では、この「院政期の文化」の項は全面的に削除されてしまった。削除したことで他の教科書と、平安時代の文化史の記述においてほとんど同じになったわけだが、面白い鋭い試みであっただけに、惜しまれる。

 :本稿は、小松茂美編「日本の絵巻」「続日本の絵巻」中央公論社刊の各該当の絵巻とその解説、および、棚橋光男著「後白河法皇」(講談社メチエ95年刊)、五味文彦著「梁塵秘抄のうたと絵」(2002年文芸春秋社刊)、佐野みどり著「物語る力ー中世美術の場と構想力」(2002年中央公論新社刊「日本の中世7「中世文化の美と力」所収)、細川涼一著「中世の遊び」(1994年岩波書店刊「講座日本通史第9巻中世3」所収)、などを参照した。


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