「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:古代の日本」批判30・補遺1


 

30補遺1:完全に無視された奥州・蝦夷ヶ島・東アジア交易網

 最後に、古代日本についての記述を通観してみると、この教科書には、奥州・蝦夷ヶ島・琉球という当時の辺境地域であり現在では日本国に統合されていてさまざまな問題がある地域についての記述が極めて希薄である事に気がつく。そしてこれは同時に、古代における産業の発展と交通・交易の発展が、完全に無視されていることとも繋がっている。

 この教科書は、奥州と蝦夷ヶ島については、ほんのわずかしか記述していない。古代の「律令政治の展開」の項で、「東北の蝦夷が大和朝廷に服属しなかった」と述べたのが最初で、次は、「律令制の拡大」の項で、「東北の蝦夷の反乱にたいしては軍勢をおくり、これをしずめた」とだけ記述する。その次は、「武士の登場」の項で、前九年の役・後三年の役について記述するが、これは「源氏の勢力が大きくなった」ことの関係のみ記述する。そしてそのまま中世の記述に入ってしまう。また琉球については、同じく古代の「律令政治の展開」で、「琉球諸島の最南端の信覚(石垣島)や球美(久米島)の人々も、早くも8世紀初頭に平城京を訪れ、朝貢した」と記述するだけである。
 さらに産業・交通・交易の発展については、遣隋使・遣唐使の記述と「平城京」の項に「公民には租庸調の税を全国一律に課した」とあるだけで、各地からどのような産物が税として都に運ばれたのか(これ自身が当時の産業の様子と全国的な交通・流通の実態を示すわけだが)ということが全く記述されていない。交通については同じく「律令政治の展開」の項に、「中央と地方とを結ぶ大きな道路には、駅が設けられ、役人が乗り継ぐ馬が用意された」という記述が古代においては唯一のものであり、税を運んだり都での労役につくためにどのような交通手段が用意されていたのかすら記述していないのである。

 はたしてこれでは「日本人とはいかなるものか」という問題の認識が辺境地帯を無視したものになるし、古代における人々の生活は水田農耕による自給自足になっていたかの観を呈し、あやまった認識を育てる結果となるのである。

(1)他の教科書でも不充分な奥州・蝦夷ヶ島・東アジア交易網の記述

 しかしこの欠点は、何も「つくる会」教科書だけのものではなく、他の多くの教科書も共通してもつ欠点である。例えば私が授業で使ってきた清水書院の教科書では、東アジア交易ネットワークとこれに連動した列島内交易ネットワークについての記述は古代にはまったくなく、中世室町時代になって不充分ではあるが初めて記述されるということは、「つくる会」教科書と同じである。ただ少し違う事は、律令国家の成立の所で、都と国府を結ぶ道路がととのえられ、「その道を通って全国から税として都に運ばれた物資が市で取引された」と記述され、さらには、各国国府から都まで調や庸を運ぶための日数が地図上に図示されている。そして「深める歴史2 木簡を読む」と題したコラムに都に贄(にえ)として運ばれた各地の特産物が図示されており、交通ネットワークを介した全国的な物資の流通が行われていたらしいことがうかがえるようにはなっているが、このネットワークが北方世界や中国や東南アジアにつながるものとしては記述されてはいない。そして、これがその後の平安時代の中でどう発展したのかについてはまったく触れられていない。

 また奥州・蝦夷ヶ島・琉球については、律令国家の成立で朝廷に従わない勢力として蝦夷と隼人が指摘され、平安時代の冒頭で坂上田村麻呂が蝦夷の抵抗を抑えたと記述されるだけ。中尊寺の金色堂は文化の項で紹介されてはいるが、その背景となる奥州の動向については古代の章ではまったく記述されず、琉球・蝦夷ヶ島はまったく出てこないのが実情である(中世の個所で頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたこと、コラムで擦文文化を紹介したこと、日明貿易の所で琉球王国と貿易のことが紹介されただけである)

 では古代において、列島内外の交通ネットワークはどうなっていたのか、そして奥州・蝦夷ヶ島はどうなっていたのであろうか(琉球は中世の時期に日本との関係が深くなったので、中世で詳述する)

(2)税の運搬に見られる産業と交通・交易網の発達

 @先史時代から存在した東アジア交易ネットワーク

 日本列島も含む東アジア全域に交通・交易ネットワークが早くから存在していたことは、縄文時代においてすでに貝という当時の装飾品になる貴重品や石器の材料としての黒曜石や白曜石や翡翠などが、産地を超えてかなり広い範囲から出土するという事実から伺われる。そして縄文時代の遺跡においてすでに中国戦国時代の刀布銭が出土することや、紀元前1100年頃の中国周王朝に対して「倭人」がすでに朝貢していたという事実によって、この東アジア交易ネットワークがさらに発展し、それぞれの地域・国家を結びつけるものになっていたことはすでに述べた。
 そしてこのような東アジア交易ネットワークと日本列島内の交易ネットワークが存在したがゆえに、朝鮮半島南部または中国南部から水田稲作農耕と金属器を持ってすでに王を戴いていた人々が大量に日本列島に移り住み、列島各地にその文化を伝えながら広がっていったことも可能であったのである。

 あの3世紀の魏志倭人伝にも「対海国に至る。・・・・南北に市擢(てき)す。」と。つまり3世紀に倭国においてすでに韓国との境にある対馬国では船をつかった交易が行われていたと。

 この同じ東アジア交易ネットワークに乗って遣随使も遣唐使も行われたのである。
 だから日本において初めて統一国家が出来た時には、その国内外の交易ネットワークを介して、都に各地の産物が税として運ばれたわけだし、それ以外にも都の市に各地の産物が運ばれていたからこそ、大宰府や平城京、そして平安京という統一国家の首都の都市的生活が維持されていたのだ。

 市の発生自体はかなり古いものである。
 3世紀の魏志倭人伝には「国国市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」と。つまり3世紀に倭国においてすでに国々に市が開かれており、それを「大倭」(=倭国の中心邪馬一国)が監督していた。
 市はかなり昔から開かれていたのである。大和の国でも諸所で市が開かれていた事は古事記や万葉集からもわかる。

 それゆえ発展した交易を背景に通貨が発行されたのだし、その日本最初のものが九州王朝=倭国の発行した「無紋銀銭」であり、倭国を滅ぼしたあとで大和朝廷が全国的に流通させようとして作ったのが「和同開珎」銀銭・銅銭だったのである(「和同開珎」はなかなか流通せず政府は苦労した事についてはすでに述べた)。

 しかし多くの教科書は、そして「つくる会」教科書もまた、これらの事実を完全に無視して記述されている。

 A律令国家の諸税に見られる交易のありさま

 では律令国家が出来た時、各地からはどのような産物が税として都に運ばれたのであろうか。平城京から出土した木簡から推定される各地の産物(調・贄として都に送られたもの)は次の通りである。

米・麦 肥後国・周防国・伊予国・備後国・備中国・備前国・讃岐国・播磨国・阿波国・淡路国・伯耆国・美作国・但馬国・丹後国・丹波国・紀伊国・大和国・若狭国・近江国・越前国・能登国・越中国・美濃国・尾張国・参河国
綿 筑前国・筑後国・肥前国・豊前国・豊後国
その他 越前国(大豆)・武蔵国(味噌)・駿河国(みかん)・近江国(乳製品)・甲斐国(クルミ)
周防国・備前国・讃岐国・淡路国・紀伊国・若狭国・尾張国・参河国・
鉄・鍬 備後国・備中国・備前国
播磨国・摂津国・大和国・近江国・越前国
その他 日向国(牛皮)・土佐国(かご)・備前国(しょうゆ)・和泉国(酒)・美作国(すのこ)・
魚介類 筑後国(あゆ)・肥後国(ひもの)・豊後国・伊予国(さば)・備前国(タニシ・くらげ)・伯耆国(ひもの)・因幡国(ひもの)・但馬国(ひもの)・丹後国(イカ)・若狭国(いわし・イノガイ・鯛すし)・能登国(ナマコ)・越中国(サバ・フナ)・紀伊国(イソガイ・カラニシ)・伊勢国(クロダイ)・志摩国(アワビ)・参河国(さめ・アカウオ)・遠江国(カツオ・ザコ)・駿河国(カツオ)・伊豆国(カツオ)・安房国(アワビ)・武蔵国(フナ)・下総国(アワビ)
海草 長門国・因幡国・但馬国・丹後国・阿波国・伊勢国・志摩国・参河国・上総国・常陸国
その他 上野(シカ)・下総(イノシシ)

 これで全てではないだろうが、全国にわたって農産物から海産物、そして工業製品に至るまでの多くの産物が調・贄として課せられ、これらが都へ運ばれていたのである。
 運送手段としては、陸路(大道は幅10メートル前後で、砕石または石で蔽われていた)を馬や牛、そして牛車などで運ぶ方法と、水路(河川・海路)を船で運ぶ方法とがあったであろう。律令制度における交通は文献で見る限りでは陸路偏重に見えるが、その前の時代から水路による運送は列島各地で盛んに行われていたのであるから、水路での運送が廃れたはずはない。

 たとえば米を都に供給する国々のうち、周防・伊予・備後・備前・備中・讃岐・播磨・阿波・淡路の国々は瀬戸内海の地域である。この地域の米の輸送は、米という嵩がはり重たい荷物を運ぶ性質上、船による輸送であっただろう。延喜式における長門の国の輸送費は、米一石あたり海路では二斗二升五合、陸路では二石一斗で、その差は歴然としている。後の平安時代のことであるが、藤原純友の乱で瀬戸内海の水路が使えなくなり平安京に入る米が不足して非常な値上がりが起きた事が記録にも見えている。さらには奈良時代は製塩方の革新期であり、それまでの製塩土器による煮沸で塩を得る方法から、瀬戸内地方では、塩田を敷設して塩をとる方法が開始され、多量の塩が手に入るようになった。この瀬戸内地方からの塩も水路で運ばれたのではないだろうか。また北陸の越後の国からの物資を都に運ぶには、船で越前まで運んでから陸路で琵琶湖岸まで運び、その後は琵琶湖の水運を利用して近江坂本まで運び、陸路で京に運んだという。
 遠路からの嵩のはる荷物については陸路ではなく、水路を利用したであろう。遠江の浜松のあたりで発見された伊庭遺跡は、海から運河を引きこんだ所に駅が置かれており、そのような水運の拠点であったと見られている。おそらく各地に港が設けられていたものと思われる。

 そしてこれらの内国水路と陸路は、諸外国に向けた海路と連結していた。
 西国では大宰府とそれの外港である博多からは中国・朝鮮に渡る海路が開けていたし、北国には新羅や渤海に至る海路が能登や出羽を拠点に開けていた。特に後者の渤海との交流は、遣唐使よりも頻度が高く、遣唐使の平均14年に1回に比べ、渤海使は5年に1回の頻度で送られており、さらに渤海から日本に渡航してくる民もおり、それが北は出羽の国や越後、南は越前の国や若狭の国に来たっていたのである。

 B平安時代における交易の発展

 この陸路と水路併用の傾向は平安時代になってさらに発展したものと思われる。特に遠隔地からの運送は重量物に付いてはますます水路に依存したであろう。
 次に述べる奥州とのつながりではそうである。
 例えば奥州平泉に拠点を置いた奥州藤原氏は、平泉に多くの寺院を建立して多数の仏像を安置した。この時仏像の多くは京で作られて分解して平泉に運ばれてそこで再度組みたてられたものであり、寺院の建物も平泉で作るのではなく、京で部材を造った上で平泉まで運び、平泉で組みたてたという。おそらくこれは海路を利用したものであり、それには日本海経由と太平洋経由があったと思われる。日本海経由は、京から陸路と琵琶湖水運を利用して若狭国府の小浜か敦賀まで運び、そこから海路、出羽の国の坂田港か秋田港まで運び、陸路で奥羽山脈を越して平泉に至るもの。そして太平洋経由は、淀川の水運を利用して摂津の国の渡辺の津まで運び、そこから外洋船に積み替えて陸奥塩釜、そして牡鹿港まで運び、そこから北上川の水運を利用して直接平泉に運び入れるもの。寺院の部材や仏像という大荷物は、荒海の航海が危険だとはいえ、直接平泉に乗り入れることのできる太平洋航路を利用したのではないかと推定されている。
 日本海航路は文献などでも見られるが、太平洋航路の利用の証拠は少ない。しかし伊豆地方などには京でつくられたと見られる平安仏が多数見うけられ、中には沖で難破した船から漂着したとの伝承を持つものもある。また、法住寺での狼藉の咎で伊豆に流された文覚上人は、ちょうど伊豆から船で年貢を鳥羽まで運んできた伊豆国府の在庁官人の戻り舟に同乗して伊豆に至ったと伝えられている。これらのことから、太平洋航路も平安時代後期には頻繁に利用されていたと推定される。
 仏像や寺院の部材などの大きいものを除くその他の小さい調度品は、陸路で東海道・奥大道をへて平泉に送られた(詳しくは角田文衛著「平泉と平安京ー藤原三代の外交政策」参照)。そしてこの奥州平泉は次に述べるように、奥州よりさらに北の、蝦夷ヶ島・サハリン・東シベリア・カムチャッカ・アリューシャンの地域とも交易路を通じて繋がっていたのである。
 西国の方では、宋との貿易船が瀬戸内海を往来し、摂津まで至っていた事は良く知られており、平清盛が安芸厳島に詣でた時などは船を利用したこと、そして清盛が宋船を直接停泊させるための港を彼の別荘のある福原に造らせたことなどからも、瀬戸内海航路は、より盛んに利用されていた事がわかる。

 そしてこのような交易の発展に伴って各地には都市が発達した。各地の港や街道の交差地点には都市が形成され、国府も交通の要衝に移動し、街道もしくは港の傍に国府政庁を中心として商家が集住する中世都市となった。さらに首都の平安京も政治の中心が淀川の水運の拠点である鳥羽や東の近江への出入り口に近い北白河は六波羅のあたりに移り、院の御所を中心として商家が集住する中世都市へと変貌したのであった。

(3)北方世界との窓口としての奥州

 @奥州の産物

 奥州は、平安時代初頭の坂上田村麻呂による平定以後、その南の関東などから多数の移民が送られ、大河川流域などでは大規模な水田開発が行われ、出羽・陸奥の2国は面積も大きいため、日本を代表する米と布の産地となっていった。しかし奥州の地はこれと平行して、従来この地に生活していた蝦夷の人々によってなされる馬の飼育や金・鉄の採掘によっても富みをなしていた。
 特に馬は、9・10世紀以後に各地に馬牧が設けられてその地が摂関家などの荘園となるや、奥州の馬は奥州を代表する産物となった。そして各地に金や鉄を採掘する鉱山が設けられ、そこは他からは独立した都市的な場としての「保」という行政単位となり、金や鉄が税として徴収されるようになったのである。
 また奥州はその地の産物によって重要視されただけではなく、北の地方、すなわち蝦夷ヶ島やサハリン・東シベリア・カムチャッカ・アリューシャンとの交易によって得られる北の産物の供給地としても重要視された。北の地方からは、鷹の羽やアザラシの皮やラッコの皮などが税としても都に送られている。例えば摂関家の荘園から都に送られる税は、金・布・馬が主であったが、それ以外にも奥州では取れない鷹の羽などが入っており、それはどこでも取れる布と北方からの産物を交換して手に入れ、都に送られたものであった。

 A奥州の覇者は朝廷の出先機関

 そしてこれらの奥州の各地の「日本人」「蝦夷」を統括して税を徴収して都に送り、さらには北方世界との交易を統括して北の世界の産物を得て都に送る現地における朝廷の代理人が、「俘囚の上頭」とか「東夷の遠酋」と呼ばれていた人々、すなわち陸奥の安倍氏や出羽の清原氏、そして陸奥・出羽両国を治めた奥州藤原氏であったのである。
 したがって奥州は、それ自身として豊かな米産地であり、多量の布を産する大国であっただけではなく、この地に産する金・鉄、そして馬の産地として、さらにはその北に広がる異国との交易によって得た、鷹の羽・アザラシの皮、さらには中国北方の民族との交易で手に入れた絹織物(いわゆる蝦夷錦)を日本各地に供給する重要な地帯であった。安倍氏・清原氏・奥州平泉の藤原氏は、これらの産物を朝廷を初めとして日本各地に供給する事によってその富みを得、その在地権力を確立していたのである。

 B北方世界と日本の双方の波に洗われる奥州

 したがって奥州は日本と北方世界の接点であったがゆえに、北方世界と日本とのそれぞれの動きに影響されて、この地の文化・政治は動くことになる。
 奥州は、北方世界の動きにも規定される。
 この北方世界は中国の東北地方にあたるわけだが、中華帝国の勢力の盛衰によって北方地方の各民族の盛衰も影響され、それが奥州にも波及してくるのである。
 例えば前九年の役と後三年の役の間、延久2(1070)年、陸奥・出羽の奥6郡・出羽山北3郡の北の「蝦夷」の地に突如陸奥守源頼俊と鎮守府将軍清原真衛の連合軍が襲いかかり、蝦夷の人々を殺したり捕虜とした。そして以後この地にも郡が設置され馬牧などが設置されていったのである。この事件の直接の切っ掛けは蝦夷ヶ島の蝦夷たちが挙兵し、奥州の俘囚たちにも動揺が見られたことに対して、鎮守府の方でこれに対する鎮圧軍を送り、奥州北部の蝦夷を「平定」しさらに蝦夷ヶ島にまで渡海して「敵」を討ったと報告されている。この事件は唐の滅亡・渤海の滅亡を受けて北方世界の政治的安定が崩れ、それに連動して北方諸民族の争いが激化したことと関連があるのではないかと推定されている(中世鎌倉時代の幕府滅亡の原因となった「蝦夷」反乱・安藤氏の内紛も同様のものと考えられている)。
 さらに奥州は、日本の動きにも規定される。
 日本の朝廷とそこに集う貴族たちは、奥州の富を独り占めせんと画策し、これを許さぬ現地勢力と対立することとなる。10世紀・11世紀と立て続いて起きた前九年の役・後三年の役は、まさにそうした例であった(中世鎌倉時代の、源頼朝・幕府による奥州「征伐」も同じであろう)。この二つの戦いは都の軍事貴族清和源氏が奥州の富を独り占めせんと動いて起こしたものであったが、後三年の役の直後、都において王位継承戦争に敗れて清和源氏が没落するに至って、奥州の富は、二つの戦乱を通じて生き残った清原清衡(藤原清衡)の手に帰することとなった。しかしこの奥州藤原氏も摂関家藤原氏の家人として、その荘園を管理する荘官としての地位を背景としていたのであり、朝廷の官としては陸奥・出羽両国の押領使(警察・軍事指揮権を行使する官、両国においては、守・鎮守府将軍または秋田城介につぐ第3位の官であった)について権力を行使するものであり、朝廷から決して独立したものではなかった。

 C奥州藤原氏の繁栄

 この奥州藤原氏初代の清衡は奥州の真中に位置し、しかも俘囚の地と内国としての陸奥の国の境界線の南に位置する所に平泉を築き、北側の衣河の町と一体のものとすることで、奥州全体の覇者たらんとする動きを示した。そして彼は境界線の関山に中尊寺を建立し奥州の地を仏法によって治める楽土たらんとしたのであった。さらに彼は晩年には、中尊寺に金色の阿弥陀堂(金色堂)を築いて自らの死後にはその堂の下に遺体を保存させ、平泉には京都白河の法勝寺を模した大規模な寺院(毛越寺)を白河法皇の勅願寺として建立し、この路線を拡大した。この路線はさらに2代基衛・3代秀衛によって継承され、奥州藤原氏の富と権力は3代藤原秀衛の時に頂点に達した。
 彼の代の平泉は、先代までの館を廃してその菩提を弔う寺院(観自在王院)を建立し、その北に新たな館(平泉政庁)と秀衛の御所(伽羅の御所)と持仏堂(無量光院=宇治平等院の拡大コピー)が建設され、中尊寺を中心として、その南の都市平泉とその北の都市衣河を一体のものとした、中世奥州最大の都市へと発展していた事は近年の発掘で明らかになりつつある。この都市跡からは大量の畿内産の陶器や中国陶磁器が出土し、多くの寺院の装飾には南方東南アジア産の貝や紫檀・黒檀などの木材が多数使われていた事は、唯一残った中尊寺金色堂によっても示されている。そしてこのことは、この都市が北方交易ネットワークと列島内交易ネットワーク、そして中国や東南アジアにまで至る東アジア交易ネットワークの北の拠点であったことを物語っている。

(4)北方世界と通交する蝦夷

 では、この安倍氏・清原氏・奥州平泉藤原氏を介して日本と通交していた蝦夷ヶ島の蝦夷の人々とはどのような文化をもった人々であったのだろうか。
 彼らは、奥州において「蝦夷」と呼ばれた人々とほぼ同じ文化を持つ人々であり、蝦夷ヶ島では稲作農耕が伝わらず縄文文化が長く続いた(続縄文文化)。そして8世紀頃には擦文文化と呼ばれる新たな文化が生まれ、それは、9世紀にはすでに、従来の狩猟・採集・漁労の生活に加えて、鉄器を使用し、あわやひえなどの雑穀の栽培を開始していた。そしてこの文化に特徴的な擦文土器と呼ばれるものは、古代日本の土師器の影響を受けたものであり、鉄器の使用や畑作農耕の開始も、奥州の「日本人」との交流を通じて広がったものである可能性が推定されている。
 さらにこの擦文文化の広がりは、今の北海道東南部から西南部、そして東北北部に広がっており、この文化を担う人々が、蝦夷とよばれ大和朝廷から討伐の対象となっていた人々、そして征服後は俘囚と呼ばれた人々との頻繁な交流をもっていたことを物語り、彼らは安倍氏などを通じて、奥州の蝦夷とも継続的な交流を持っていたことが伺われる。
 またこの擦文文化の北側、オホーツク海沿岸には、文化の特徴としてはサハリンや東シベリアの民族の影響を強くうけ、それとの交易で成り立っていたが、鉄器の使用・畑作農耕の開始など擦文文化とほぼ同じ生活様式をもったオホーツク文化が存在していた(この二つの文化は、やがて13〜14世紀頃に統合され、現在アイヌと呼ばれる民族とその文化が成立したと考えられている)。このオホーツク文化の住民たちは、北のサハリンやその対岸のアムール川河口付近に住む民族との交流が深く、それを介して中国帝国や中国北方の渤海・女真などの国々とも交易を行っていたと見られる。そしてこのオホーツク文化が13・4世紀に衰退し擦文文化に吸収されていった背景には、モンゴルによる征服により、サハリンやアムール河口の民族がモンゴルの統治下に入り、今までのようには自由に交易が出来なくなったことがあったのではないかと推定されている。

 蝦夷ヶ島の「蝦夷」とは、主に擦文文化を担った人々であった。この人々は、南は奥州の蝦夷・「日本人」と交易し、北は、オホーツク文化を担った人々やサハリン・アムール河口の人々、そしてその北や東のカムチャッカ・アリューシャンの人々とも交易していた。彼らは北からはアザラシやラッコの皮や鷹の羽などを奥州にもたらし、南からは鉄器などを持ちかえったのであった。

:05年8月の新版でも、ここで指摘した問題は、あまり改善されていない。奥州についての記述は旧版とほぼ同じである。少し違うのは、「平安時代の文化」の項に中尊寺金色堂を挙げたことだが、その背景になる奥州・北方世界の記述は全くない。また東アジア交易ネットワークについても、旧版と同様にほとんど記述されていない。記述がない中で突如、遣隋使・遣唐使の記述が出てくる状態は、旧版と変わらない。「律令国家」の項で、古代の国を図示しておきながら、そこには陸路・海路の交通網の記述も、各地から都にもたらされた諸税としての特産物すら図示されておらず、何のための地図なのか首をかしげたくなる。

:この項は、講談社1974年刊「古代史発掘10:都とむらの暮らし」所収の諸論文、岩波書店1986年刊「岩波講座日本考古学3:生産と流通」所収の諸論文、榎森進著「『蝦夷地』の歴史と日本社会」・大石直正著「東国・東北の自立と『日本国』・渡辺則文著「日本社会における瀬戸内海地域」・浅香年木著「日本社会における日本海地域」(すべて、岩波書店1987年刊日本の社会史第1巻「列島内外の交通と国家」所収)、角田文衛著「平泉と平安京ー藤原3代の外交政策」(新潮社1987年刊「とんぼの本:奥州平泉黄金の世紀」所収)、斉藤利男著「平泉 よみがえる中世都市」(岩波新書1992年刊)、佐々木史郎著「北海の交易―大陸の情勢と中世蝦夷の動向」(岩波書店1994年刊岩波講座日本通史第10巻中世4所収)、前掲入間田宣夫・豊見山和行著「北の平泉、南の琉球」などを参照した。


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