「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判C


 4.日本人渡来説を補強する「日本語」「日本神話」起源論

  この教科書では、「日本語の起源と神話の発生」と題して、コラムと言う形ではあるが、一節を設けて説明している。日本・日本人・日本国というものを重視したこの教科書の性格からすれば当然であり、また日本語や日本神話の起源を考える事を大切である。
  

  (1)日本人渡来説を補強する、日本語起源論

  日本語の起源の所では、文字を借用した中国語と日本語との関係は、『遠い親戚ですらない』事実を指摘したあと、『大陸のどこにも日本語の祖語(共通の祖先にあたる言語)はまだ発見されていない』と述べ、さらに日本語の起源について、以下のように述べる(p30)。

 英語やフランス語やドイツ語などの西洋語と、インドの古い言語は、一つの祖語から枝分かれして、インド・ヨーロッパ語族という大きな系図をつくっている。同じように大陸にはセム語族、ウラル語族、ドラビダ語族、シナ・チベット語族などがある。日本語はそのどれにも属していない。言語学的には、系統関係が定かではない言語として、朝鮮語、アイヌ語、ギリアーク語などがあるが、日本語もまた、そのような系統不明の孤立言語の一つである。
 けれども、日本語は現在、地球上で話されている人口数で、七番目の大きな位置を占める言語である。起源は謎だが、基礎的な単語の音や用法が日本語に類似している例として、学者たちはビルマ系、カンボジア系、インドネシア系、オースロトネシア(マレー・ポリネシア語族など)系の言語をあげており、インド南部のタミル語と近似性を指摘する学者もいる。

 これは近年の新しい研究成果に基づいた優れた記述である。

@縄文人南方渡来説を補強

 長い間日本語の起源は明かではなく、「アルタイ語族」と一括されてはいるが、その系統や相互関係が明らかではない言語、すなわちトルコ語、ツングース語、満州語、モンゴル語、そして朝鮮語などと同じ系統に分類されて、かつては、朝鮮語との親近性が主張された時期もあった。しかし近年、比較言語学の研究が深化するとともに、少しずつ、日本語の系統性があきらかになっている。「つくる会」教科書のこの記述は、このあたらしい研究結果に基づいて記述されており、日本人の起源を考える上で参考となる良い記述である。

 そして新たな研究結果は、日本語と南方諸言語との親近性を明らかにし、日本人が南方から渡来した人々から成り立っていた可能性を示唆している。たとえば、崎山理氏の説は、上代日本語の語彙の大部分が、オーストロネシア語族(西はマダガスカル島から東はイースター島、北は台湾からハワイ、南はニュージーランドにおよぶ広い地帯に分布する800から1000にも及ぶ諸言語からなる)の言語の影響を受けているとする。つまり日本人南方渡来説を補強する見解である。

 しかし崎山氏の説は単純にそうは言い切れない。上代日本語の文法や語法はツングース語だという。つまりシベリア東部に住むツングースと日本語は文法や語法を共通しており、先の語彙の多くがオーストロネシア語族の影響を受けていることと併せると、日本人は、先住のツングース系の民族にあとから来た南方系のオーストロネシア語族に属する言語を持つ民族が混血して成り立ったのではないかと言う仮設が成り立つ。そして2つの言語が交じり合ったのは、5000年ほど前、縄文時代の中期以後のことではないかという。  

 縄文文化は前期以前と前期・中期以後とでは大きく変化する。すなわち集落が大規模化し、畑作農耕の大規模な展開が予想される遺構がたくさん見つかっている。この考古学的知見とも良く合う結果である。

 つまり日本人は、以前から住んでいた北方系の人々の所に、南方を起源とする縄文人が渡来して混ざり合って出来たものであると言えるのである。

A弥生人朝鮮渡来説とも親和する

 では、この言語学的知見は、従来唱えられていた弥生人朝鮮渡来説を否定するのだろうか。

 そうではない。先に弥生時代のところで触れたように、近年の人類学的研究の知見は、中国江南地方・中国山東地方・朝鮮南部・北九州の渡来系弥生人がほぼ同じ人類学的形質を持っているとしている。つまり、朝鮮南部の水田式稲作を行う人々と北九州北部の水田式稲作を行う人々が同じ人類学的形質を持っていることを明らかにしており、これ自身は、朝鮮と九州の前後関係を明かにはしないが、朝鮮南部のほうが北九州よりも早い時期から水田式稲作を行っていたと言う従来の考古学的知見を併せて考えてみれば、中国江南地方か中国山東地方から朝鮮南部に水田式稲作を伝えた人々が、さらに九州北部に移動し、そして列島全体に広がっていったという、弥生人の多くが朝鮮からの渡来人であったという従来説を、新しい人類学的学説は補強しているのである。

 そして古朝鮮語がどの系統の言語であるかということや、南部朝鮮と他の朝鮮各地との言語にどの程度の違いがあったのかという資料が存在しないが、中国の歴史書や朝鮮の歴史書に、紀元前後の朝鮮南部は「倭地」と認識されていたことを勘案してみれば、朝鮮南部の地域の人々は日本列島の人々が話していた上代日本語を話していたと考えても矛盾はなく、日本語が南方系の言語の影響を強く受けており日本語と朝鮮語とが系統関係がないという言語学の知見とも矛盾しない。

 「つくる会」教科書が、日本語の起源に関する「南方起源説」とも言うべき新しい言語学的知見を紹介したのは、この教科書が極力朝鮮からの影響を排除している傾向の中で、縄文人の南方起源説を強調し、さらには弥生人の形成において大量の渡来人の存在を無視したことを言語学的な新たな知見が補強するかのように見えたからであろう。

 しかし人類学における中国江南・山東地方と朝鮮南部そして北九州の渡来系弥生人がほぼ同じ人類学的形質を持っており水田式稲作もこの地域を通じて北九州にもたらされた可能性が高いという知見を併せて考えてみると、言語学の新しい知見も、日本人の形成に東北アジア(中国・朝鮮)からの渡来人が大きく関わっていたという説を補強するものである。

  (2)日本人渡来説を補強する、「日本神話」起源論

  日本神話の起源や系統関係についての記述も、日本人の起源を考える上で重要なものであり、これを教科書に載せたことは優れたことであるが、ここには一部歪められたところがある。

  この教科書は多様な要素をもった日本神話から、オオゲツヒメの死体から食物が生まれたという「死体化生神話」だけをとりあげ、この種類の神話の系統を、以下のように説明している(p31)。 

 オオゲツヒメという食物の女神は、口や鼻の穴や尻の穴からご馳走を出す。スサノオの命が怒って女神を殺害すると、死体の頭から蚕が、目から稲が、耳から粟が、鼻から小豆が、性器から麦が、尻から大豆が発生した。これにより農業が始まったとされる。
 解体された死体から食べ物が得られるこのような神話は、ニューギニアやメラネシアにかけて多く見出される。縄文時代に南から新しい文化の渡来があったのではないかともいわれている。切り刻んで、土の中に埋めて増殖をはかるイモの栽培と関係があるとも考えられている。女性をかたどった縄文土偶は、しばしば、ばらばらに壊され、分散して出土する。これも収穫への祈りと関係があるらしい。

  たしかにそうなのである。だがここには事実の一部捨象がある。

  この手の神話が広がっているのは、前記の地域とともに、東南アジア各地と中国南部なのである。なぜここでも中国南部の地域との神話の親近性が削除されねばならないのか。
  また、さらに付言すれば、有名な国生み神話は、東南アジアから中国南部の神話の「洪水神話」との親近性が高いそうである。つまり洪水を生き残った兄妹が結婚して人類の祖先となったという神話であるが、その一つの流れとして、洪水のことは説かずに、原初の島に天から兄と妹が降りてきて結婚するというかたちの神話が東南アジア島嶼部に点在するそうであり、中国南部にもその痕跡はあるそうである。

 つまり日本神話の基本的な構造は、東南アジアから中国南部にいたる広い地域との親近性を示しており、日本人が南方から渡来した人々からなっていることを示し、先の言語学的や知見や人類学的知見とも矛盾しない。

 しかし「つくる会」教科書の神話論は、日本神話の南方起源説だけを強調し、それも縄文文化との関係だけを強調するという歪みをもっている。これは先に縄文文化の所で縄文人南方起源説を強調し、弥生文化の所で縄文人が水田稲作文化を学んで弥生文化をつくりあげたという渡来系弥生人の決定的位置を無視したところとも共通するものである。つまり日本神話起源論においては、中国や、そして朝鮮などの東北アジアとの親近性が削除され、南方系との親近性のみが強調されているのである。

 これは間違った姿勢であろう。神話からわかることは、東南アジア・ミクロネシア・メラネシアそして中国南部と日本の神話がかなり共通した性格をもっていることだ。そしてさらに、「始祖が天から降って来る」という形の神話に注目すれば、朝鮮古代諸国の建国神話も同様な性格をもっており、朝鮮神話の一部にも南方系の要素が見られるのである。

  この新しい歴史教科書の記述は、言語学や神話学の知見を紹介することで日本人の起源という大きな問題を考える基礎となる事実を提示しているという点で、他の多くの教科書よりも優れている。しかし、この教科書の持つ、中国・朝鮮の日本への影響の過小評価の性格ゆえに、事物の複雑な側面を偏らずに述べるのではなく、その一部のみを強調するという、きわめて恣意的な記述が所々に見られるのは、とても残念なことである。

注:05年8月の新版では、この項は完全に削除されている。問題があるとはいえ日本文化論として興味深い記述であったのだが、「主張」とみなされて削除されたのであろう。普通の教科書にならうことで、かえってこの教科書の先進性=問題提起が損なわれた良い例である。

注:この項は、前掲隈元浩彦著「私たちはどこから来たのか」、崎山理ら著「日本語の系統と歴史」(1978年岩波書店刊「岩波講座日本語15」)、大林太良著「神話論」(1993年岩波書店刊「岩波講座日本通史1:日本列島と人類社会」所収)、日本大百科全書(小学館刊)の各該当項目の記述などによる。


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