「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:古代の日本」批判31・補遺2


 

31補遺2:間違いだらけの「紫式部と女流文学」

 05年8月に刊行された新版では、第1章古代の日本の最後に、「人物コラム:紫式部と女流文学」という特設の記述を設けてある。これは旧版では、『平安の文化』の中の「仮名文字の普及と文学の発展」の中で源氏物語について詳しく記述してあったのを新版では削除し、章末に特設コラムとして新しく設けたものである。

 ここに特設人物コラムとして紫式部をあげたのは、近代のところで津田梅子を特設人物コラムで取り上げている事と対になっているのかもしれない。旧版では特設人物コラムとして取り上げた女性は、津田梅子と与謝野晶子であり、「近・現代に偏る」という「批判」があり、「古代にも活躍した女性がいた」という観点から取り上げたのであろう。
 しかしその取り上げ方には問題がある、一つは大事な所でいくつか間違いがあること。もう一つは、当然出てくるであろう生徒の疑問、「なぜ古代において女流文学が栄えたのか」(これ以後の時代では、明治になって初めて女性文学者が取り上げられているのが通例であるから、こういう疑問が出てくるはずである)に全く答えていない事である。

(1)貴族の男女にとって漢文学の素養は必須事項

 まず最初の間違いは、「漢文学は女性は学ばないのがふつう」という記述の間違いである。教科書は紫式部という人物を紹介する中で、次のように記述している(p50)。

 紫式部は、幼い頃から聡明な女性だった。学者としても名高かった父が、彼女の弟に漢文を教えていると、そばで聞いていた式部のほうが先に覚えてしまった。父は「この子が男だったら」となげいたという。当時の学問の中心は、中国の書物から学ぶ漢学で、女性は学ばないのがふつうだった。

 紫式部の父藤原為時が式部の才能に「この子が男だったら」と嘆いたという逸話は有名である。しかし、この話しと当時の女性が漢学を学ばないということには何の繋がりもない。

 式部の時代は10世紀末から11世紀はじめのことであるが、この時代の貴族の教養は中国の古典籍を学ぶ事と、日本の和歌、そして日本書紀などに代表される歴史書を学ぶ事、そして朝廷の儀式や政務の慣習を学ぶ事が主であった。貴族の男子は父のあとを継いで官吏として活動するのだからこれらの知識が必須条件であったし、官人を育てる大学の必修教程でもあった。貴族の女子は男子と異なって官吏にはなれなかったが、この時代の上級貴族は男女ともに公的家政機関をもち、そこには家事・育児・教育や祭祀に関わる多数の女官がいたのである。紫式部が勤めたのは一条天皇の中宮である定子の後宮であるが、これは中宮の家の家事を指揮する所であると共に、やがて生まれるであろう中宮の子供の育児・教育機関でもあったのである。そしてこれらの公的家政機関に属する女官たちにとっても漢学や和歌・歴史などは必須の教養であったのだ。なぜなら彼女たちが養育する貴族の子供達にとってはそれが必須の教養であったのだから、「母」であり家庭教師でもあった彼女たちにとっても必須のものだったのである。
 さらに紫式部らが属した宮中における女官の地位は、男性の公卿たちと同列である。彼女たちは「女房」と呼ばれていたが、公卿達はこれに対して「男房」と呼ばれていた。つまりどちらもその才能をもって宮中で天皇・院につかえる官人だったのである。したがって公卿と女房は同格であり、彼らはしばしば夫婦となったし、彼らの間の恋のやりとりなどは、漢詩を含む古今の詩歌の知識を基礎にしたものなのであった。
 女性が読んだ漢詩が、平安時代の漢詩集には数多く存在する。「文華秀麗集」(817年)には宮女大伴氏の詩、「経国集」(827年)には、嵯峨天皇の第二皇女有智子内親王など多数の女性の作が載っているのである。さらに枕草子にみえる定子中宮と清少納言のやりとりなどには漢詩の知識を背景としたものも見え、多くの女性たちが漢詩を楽しんでいたことがわかる。

 「当時の女性は漢学を学ばない」という「つくる会」教科書の記述は完全な誤りである。これは、「紫式部日記」に、紫式部に対して同僚の女房が言った言葉として「どこの女が漢字の本を読むことだろう。むかしはお経を読むのですら縁起が悪いとして女性は憚ったものを」という言葉が載っているのを誤って解釈したものであろうか。この女房の言葉は「漢学を学んだところで女の幸せには結びつかない」と言った意味のもので、宮廷などの女官ぐらいしか公的な仕事につけなくなっていた女性の将来にとってしだいに漢学・漢詩の知識は必須のものではなくなり、しだいに避けられていたということを示すが、決して「女性が漢学を学ばない」ということを意味してはいない。むしろ古今・和漢を問わず深い知識を持っている紫式部に対するやっかみの言葉と解釈すべきであろう。ちなみにこの同僚の女房の言葉に対して紫式部は、「縁起をかついでいる人が行くすえ寿命が長いという例は見当たらない」といやみを返している。

(2)源氏物語執筆は女房出仕前から

 もう一つ紫式部と源氏物語についての記述には誤りがある。それは、源氏物語執筆の年次の問題である。教科書は次のように記述している(p50)。

 宮仕えを終えた式部は、1008年ごろから不朽の名作『源氏物語』の執筆に取りかかった。

 「つくる会」教科書は、源氏物語執筆年次を「1008年ごろから」としている。しかもこの年次は、「式部が宮仕えを終えたあと」と記述されている。

 源氏物語がいつ書かれたのか、また全54巻すべてが一度に書かれたのかどうかについてはまだ確定しがたく様々な説があるようである。しかし小学館の日本大百科全書に源氏物語の項を記述された秋山 虔氏は、次のように記述している。

 「紫式部が『源氏物語』の執筆に着手したのは、夫の藤原宣孝(のぶたか)に死別した1001年(長保3)から、一条(いちじょう)天皇中宮彰子(しょうし)のもとに出仕した1005、06年(寛弘2、3)までの間と推定されるが、54巻が、どの時点でどのあたりまで書かれたのかは明らかにしがたい。全部が完成したのちに発表されたのではなく、1巻ないし数巻ずつ世に問われたらしいが、まず最初の数巻が流布することによって文才を評価された式部は、そのために彰子付女房として起用されたのであろう。宮仕えののちも、しばしば里邸に下がって書き継いだとおぼしいが、また、すでに書かれた巻々の加筆改修も行われたらしいことが『紫式部日記』の記事によって知られる。なお、現行の巻序の順に書かれたのかどうか、現行の54巻の形態が当初のものであったのかどうかなど、論議が重ねられているが、決着をみない。その擱筆(かくひつ)の時期は、紫式部の没年について定説のないこととあわせて、明確にしがたい。」と。

 つまり紫式部が源氏物語を書き始めたのは、夫に死別した1001年から中宮彰子のもとに出仕した1005年ないし1006年の間。そして紫式部日記の記述から、その後も書きつづけられたりすでに書かれたものの加筆訂正がなされている事がわかるという。さらに、紫式部は中宮彰子の夫である一条天皇が死去した1011年以後も宮仕えを続け、1016年春頃没したという(1019年という説もあるそうである)(以上日本大百科全書:伊藤 博著「紫式部」の項による)。

 要するに紫式部が源氏物語を書き始めたのは出仕前の事であり、宮仕えを辞めたあとではないということである。

 では「つくる会」教科書の「1008年以後」はどのような根拠があるのだろうか。思うにこれは「紫式部日記」が1008年秋から1009年・1010年の記事を含んでおり、1010年頃になって回想として書かれたのではないかということを誤って「源氏物語」のこととしたのではないだろうか。1008年秋とは紫式部が仕える中宮彰子が待望の皇子敦成(あつひら)親王を出産した時であり、彰子の宮廷が最も華やかだったころである。紫式部がこの時期に宮仕えを辞めるはずもなく、源氏物語の執筆開始を1008年の宮仕えを辞めたあとという教科書の記述は完全な勘違いによる誤りであると思う。

(3)女房文学が栄えた背景は

 「つくる会」教科書の「紫式部と女流文学」と題する特設コラムの最大の欠点は、最初に記したように、「なぜこの時期だけに女流文学が栄えたのか」という重要な問いにまったく答えていないことである。

@宮廷女房という公的職業が背景

 では、なぜ平安時代という時期に女流文学が栄えたのか。

 国文学者の岩佐美代子氏は、これは「女房文学」と呼んだほうが正確だと述べている。なぜなら宮廷における女房として見聞きした事を自分が憧れて使えた主を中心として描いた「女房日記文学」(「紫式部日記」や「讃岐典侍日記」そして鎌倉時代の「弁内侍日記」など)以外の「日記文学」の作者たちの多くも宮廷女房を経験しており、もしくは上級貴族の妻や恋人として宮廷社会に出入りしていたからである。この観点から見ると、藤原道綱母の「蜻蛉(かげろう)日記」も、そして清少納言の「枕草子」もこの分野に入ってくる。さらに紫式部の「源氏物語」や赤染衛門の「栄花物語」などの物語も同様である。
 つまりこの時代の貴族の女性たちは、宮廷と言う公的な場に置いて、女房という公卿ともならぶ公的な地位を得て、貴族政治の世界に裏面から関わっていた。だからこそ宮廷世界や宮廷世界から見た政治の世界、そして宮廷における上級貴族の生活を生き生きと描けたというのだ。そしてこの伝統は平安時代に限らず、鎌倉時代・南北朝時代と続き、この時代にも「十六夜日記」の作者・阿仏尼などによる「女房日記文学」として継続された。しかし南北朝時代の最末期の日野資名女による「竹むきが記」を最後に「女房日記」は途絶え、これとともに女房文学そのものが絶えてしまう。

 南北朝時代とはまさに、院・天皇を初めとする貴族たちの所領の多くが武家に奪われ、貴族も有力武家の庇護に頼って生きていかねばならなくなった時代である。したがって、豊かな財力を背景にした後宮を維持する事が不可能になり、宮廷女房という公卿とも並ぶ公家女性の公的職業そのものが廃絶したのである。

 平安時代(およびその後の鎌倉・南北朝時代)に女流文学が栄えたのは、公家の女性たちに女房という公的職業が存在し、女性も男に伍して政治の世界で活動し自分やその周りの世界を客観的にとらえられる環境があったからなのだ。

A神に仕える”巫女”の系譜を引く女官たち

 しかし女房という公家女性の公的職業が廃絶した背景は、南北朝時代における貴族たちの政治的・経済的地位の没落だけではなかった。

 そもそも女房という職業は広い意味でも「女官」に含まれるものであった。
 律令官制は男中心に作られていたが、それ以前の共同体祭祀の系譜を引く分野では女性の官人によって担うしかなかった。それが、『後宮職員令(ごくしきいんりよう)』に定められた内侍司(ないしのつかさ)・蔵司(くらのつかさ)などの十二司に勤務する女子(宮人(くにん))であった。 内侍司は天皇への常侍、奏請・伝宣(→内侍宣)、女孺(内侍司に務める下級女官)の統括、,命婦(上級の女官・五位以上)の朝参、後宮の礼式の管理などを掌り、蔵司は、神璽・関契等の重器や天皇の衣服・宝物・賞賜などを掌った。つまり宮廷における天皇家の祖先神の祭祀やそれに伴うさまざまな儀式や儀式に必要な品々を用意し、儀式を運営する部署なのだ。言いかえれば巫女の仕事と天皇の家政機関における家事の仕事。

  律令制以前の社会に置いては、一つの祖先神を共有する血縁的共同体が社会の単位であった。そしてその共同体を単位として生産や消費がなされ、共同体の長(=王)は、祖先神を祭ることを主な職掌としながら、共同体全体の先頭に立っていた。この共同体における神を祭る仕事は主に女性の仕事であり、これは古代における母系制社会のなごりでもあった。共同体の長の妻は共同体の女性たちを指揮して神に仕え、その祭りを司った。この長の妻を刀自(とじ)と呼ぶ。
 この伝統は律令制になっても続き、刀自たちは公的な役職ではなかったが、律令制の基礎単位である里や郡において、郡司や国司を供応するに際しては、それぞれの共同体の長の妻(刀自)たちを中心として供応の祭りが催されるという形を継続していた。このような公的な仕事を司る女性たちは里刀自と呼ばれた。一方、それぞれの家において家の祖先神を祭り、家事を指揮する女性のことを家刀自と呼ぶようになった。

 この刀自の仕事を社会の頂点において担ったのが宮廷の女官なのである。
 こうして女性たちは律令官制の下に置いても上は宮廷における女官、下は里や郡における里刀自、そして各家においては家刀自という形で、神事と家事とを司る半ば公的な地位を担っていたのである。

 しかし平安時代に入るとともにこれらの後宮女官組織は衰退して内侍司に統合され、さらに上級貴族個々に付属する公的家政機関がそれに取って代わって隆盛し、そこに近侍する女官たちを「女房」と呼ぶようになった。そして女房たちの仕事は、主人の家の中のこと、つまり家事・育児がその主な職掌となっていったのであった。

 こうして女性たちの仕事は次第に公的な意味を失い、家の中における私的な労働にその意味を押し込められていったのである。そしてこれは、社会全体において祖先を共有する氏という血縁共同体所有が崩れ、家という夫婦を単位とした血縁共同体が社会の単位になる過程でもあった。これと共に、今まで女系で継承される事もあった財産が夫婦共有財産となり、さらには夫の単独の財産へと移行し、女性が所有する場合には、夫の死後、息子や親族共同体における男達の保障を背景としてのみ許されることとなる。
 またこの過程は、神を祭ることが女性の専権事項であった時代から男性中心の物となり、祭祀において主役であった巫女が神主の脇役になっていった過程でもあった。そして神そのものの地位が低下し、神をも恐れぬ所業が広がっていく時代でもあった。

 こうして女性たちは社会の公的地位から追われ、家庭の中に押し込められる事となっていった。宮廷女房という公的職業が廃絶される背景には、このような社会一般における動向もあったのである。
 かくして公的地位を持たない女性たちは、文学を生み出す力を失っていったのである。

 しかしこれは社会における女性の地位の全般的後退を意味してはいない。以上の過程はまた、貨幣経済の発展の過程とも対になっていた。そして貨幣はそのそもの最初の形からして神に仕えるものであった。それゆえ貨幣を司る職業、すなわち商人や金貸しという職業は広く女性に開かれてもいた。上級貴族の女性たちは公的な地位を追われ家庭に閉じこもっていったが、中・下層の社会の女性はそうではなく、貨幣と交わる事を通じて広く社会の中に活躍の場を求めていったのである(この点については、第二章「中世の日本」批判の「手工業・商業の発展」の項で詳述する)。この女性たちの中から、再び文学に携わる人々が出てくるのは、貨幣経済が広く日本中を蔽い、そして長い平和な豊かな時代が現実のものになった江戸時代のことなのである。

 「つくる」会教科書は、せっかく平安時代における女流文学の隆盛ということを特設コラムにしておきながら、その記述は単に貴族女性たちによって多くの優れた文学作品が生み出されたという事実の記述に終始し、そのことが持っている意味をきちんと記述しないままで終わってしまった。
 一般に教科書があつかっている歴史の叙述は男中心であり、社会の中において女性がどのような役割を担っていたかを記述するという視点はほとんどない。しかし平安時代から南北朝時代における女流文学の隆盛という事実は、女性が社会の中で大きな役割を担っていたことに気づかせる契機ともなるものである。それを特設コラムに取り上げながら果たせなかったのは、この教科書の筆者たちに女性の役割の歴史的叙述をすることの意義がまったく理解されていなかった結果であろう。

:この項は、岩佐美代子著「宮廷に生きるー天皇と女房と」(1997年笠間書院刊)、津島佑子・藤井貞和著「王朝文学の女性」(「女と男の時空」Uおんなとおとこの誕生ー古代から中世へ」:1996年藤原書店刊所収)、田畑泰子著「中世前期における女性の財産権」(前掲「女と男の時空」U所収)、義江明子著「古代の家族と女性」(「岩波講座日本通史第6巻古代5」1995年岩波書店刊所収)、門 玲子著「江戸女流文学の発見」(1998年藤原書店刊)などを参照した。


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