「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:古代の日本」批判32・補遺3


 

32補遺3:「女性天皇」の位置付けー古代社会の女性

 05年8月に刊行された新版では、第1章古代の日本の最後に、「人物コラム:紫式部と女流文学」という特設の記述を設けてある。これは第4章「近代日本の建設」における「人物コラム:津田梅子」とともに、日本の歴史における女性の活動を位置付けようと言う意図で設けられたものであろう。

 しかしなぜ文学者なのか。文学者を女性の代表としてあつかったために、第2章「中世の日本」や第3章「近世の日本」には「人物コラム」として女性を描くことができなくなっている。なぜなら、この時代には著名な女流文学者が存在しないと従来は考えられていたからである。
 それぞれの時代において活躍した女性を一人選んでその時代における女性像を描こうというのならば、なにも文学者に限る必要はない。どの教科書においても古代においてもっとも多く名前があげられた女性は、「女帝」なのであり、女性の王者を描くことで、政治や社会における女性の位置を描けるし、そうすることで、古代・中世・近世・近代・現代と、通史的に描くことも可能だからである。

 「つくる会」教科書において名前をあげられた女性は以下のとうり。

 旧版では、260人中の17人。古代が10人。イザナミの命・天照大神・クシナダ姫・アメノウズメの命・弟橘姫・卑弥呼・推古天皇・持統天皇・清少納言・紫式部。中世が1人。北条政子。近世が2人。出雲のお国・和宮。そして近代が4人。与謝野晶子・津田梅子・平塚らいてう・市川房枝。新版では、162人中の14人。古代の弟橘姫と近世の和宮、そして近代の市川房枝が削除されている。すべての時代を通して「女性史:人物コラム」を設けるのであれば、それぞれの時代における政治的存在をとりあげることが適当であることがわかるであろう。「つくる会」教科書であれば、古代は女性天皇の誰か。中世は北条政子。近世は和宮。近代は、どの人物でも可能だろう。

 では古代において女性の王者が頻出するのはなぜだろうか。この問いは、今日話題となっている「女性天皇」の位置付けを含めて、社会における女性の位置を描くに格好の問題であるので、ここに概略をのべておきたい。

(1)皇位継承の危機の時代に現われた女性天皇

 日本の天皇家の歴史においては、その正史によるかぎり、10代8人の「女帝」がいた。古代においては8代6人。推古・皇極(=斉明)・持統・元明・元正・孝謙(=称徳)である。そしてあとは近世において2代2人。明正・後桜町である。
 では、天皇家の歴史において女性の天皇が現われた理由はなんであろうか。ここでは古代の8代6人について概略を見ておこう。

@推古即位の事情

 推古天皇が即位したのは、「11:聖徳太子の政治」の項で説明したように、夫の敏達が死去した際に、2人の息子であり、父母ともに大王の子(敏達も推古も欽明の子である)という大王の条件を備えた次代の有力な大王位(当時は天皇と名乗っていない)継承の有力候補である竹田皇子がまだ幼かったことにそもそもの原因がある。したがって竹田への中継ぎとして敏達の弟・用明(聖徳太子の父)が即位した。そして用明が死去したので、さらにその弟・崇俊が即位して大王位を竹田に繋ごうとした。しかし有力候補の竹田は成人することなくして死去してしまったのである。これで大王選びは頓挫してしまった。
 最有力候補が居なくなっては候補選びを最初からやらねばならなくなる。
 有力候補は、敏達の長子である押坂彦人大兄皇子と、用明の長子である厩戸皇子。押坂彦人は母は息長真手王の娘・広姫、厩戸は父母ともに大王の子(彼の父・用明と母・穴穂部間人皇女は共に欽明の子)という条件を持っていたため、次ぎの大王候補は厩戸と決まった。しかし彼には父母ともに大王の子という条件の子がまだいなかったので大王に即位せず、その条件を満たすまで猶予の期間が置かれた。そして、敏達・用明・崇俊と同世代の王族であり欽明(天皇)の皇女で厩戸の父・用明の同母妹で敏達の后であった炊屋姫が、厩戸の後見として即位した。これが推古(天皇)である。次ぎの大王が決まったので、大王崇俊は殺された。
 したがって推古即位は、次ぎの大王である厩戸への継承を保障する権威としてであったと見ることができる。
 だがしかし、厩戸は次ぎの世代の候補を生み出すことなく死去し、推古も死去してしまった。大王選びはまたも頓挫してしまった。有力候補は複数いたが、とりあえず敏達長子である押坂彦人大兄皇子の子・田村皇子(その母の糠手姫皇女も父と同様に敏達の子であったため、両親ともに大王の子に最も近い条件を持っていた)を、先帝推古の遺勅ということで大王として一応の決着をつけたのである。

A皇極即位の事情

 皇極天皇が即位したのは、「12:大化の改新」で述べたように、先帝推古の遺勅によって大王となった田村皇子・舒明が641年に死した後、大王位を継ぐべき「両親ともに大王の子」という皇族は一人もいず、有力な皇族同士が王位を争う形になったからである。
 そして有力な皇族は4人いた。一番年長者は舒明の従兄弟にあたる同世代の王、山背大兄王(聖徳の息子)。次は舒明の甥であり(押坂彦人大兄の子の茅淳王の息子)、舒明の后である宝皇女の弟である軽皇子(母は吉備姫王)。そして舒明の息子である古人大兄皇子(母は蘇我氏)と、舒明と宝皇女との間の子である中大兄皇子や大海人皇子である。四人とも「父母ともに大王の子」という大王の資格要件を満たしておらず、大王候補を一人に絞ることはできなかった。
 そこで舒明の后であった宝皇女を即位させたのである(皇極)。
 この宝皇女と舒明の結婚は、これによって次世代の有力大王候補を生み出すと言う目的によってなされていた。どちらも敏達の子の押坂彦人の子および孫である王族であったので、押坂彦人の血をひく王族へと大王位を安定的に継承させようというものであろう。
 しかしこの婚姻によって生まれた中大兄・大海人の2人が成人しないうちに大王:舒明は死してしまった。したがって次の大王候補はみな横並びの状態になってしまったのである。このままでは大規模な王位継承戦争が勃発する。したがって大王位の安定のために宝皇女が即位したのである。そしてこのことは、大王位を押坂彦人系に継承させるための布石とも考えられる。

:宝皇女は大王の曾孫なので皇女でないが、大王・舒明との結婚によって大王の娘と同格の皇女とされ、これに伴い、彼女の弟の軽王も軽皇子となったものと考えられる。

 問題は、次ぎの候補を絞る事である。
 まず最初は、上宮王家の山背大兄王が排除された。これは、他の4人の候補はみな押坂彦人大兄皇子の孫にあたり、大王・用明の孫・山背大兄王を代表とする上宮王家とは対立する関係にあったから、協力して山背大兄王一族を抹殺した。
 そして続いて起きた争いは、軽皇子と古人大兄皇子との争いである。
 古人大兄は舒明の息子であるが母は蘇我氏であり、押坂彦人の血縁の王族の間での婚姻で生まれた他の3人とは系統を異にしていた。したがって軽皇子を首班とする王家の一族とそれを支持する貴族たちは、古人大兄とそれを支持する蘇我本宗家を抹殺して、大王位継承の戦争に決着をつけた。
 こうして大王位は押坂彦人直系の王家に絞られ、最年長者である軽皇子が次期大王に選出され、皇極から譲位されて大王位についた(孝徳)。そして彼は、皇極と舒明との娘である間人皇女を妻として、次代の大王候補を作ることが期待された。
 皇極の即位は、次ぎの大王を決めるまでの権力の空白を埋めるという意味では「中継ぎ」的ではあるが、皇極も大王敏達の子である押坂彦人の孫なのであるから、大王位を押坂彦人直系に継承させるための権威と見る事ができる。

B斉明即位の事情

 では、一度大王位を退いた宝皇女がなぜふたたび大王となったのか(斉明)。
 これについても
「12:大化の改新」で説明したが、大王となった孝徳が654年に死んだとき、再び次期大王の候補者が複数おり、しかも誰一人として「父母ともに大王の子」という条件を備えず、再び大規模な王位継承戦争がおきそうになったからである。有力候補は3人。孝徳の子の有間皇子(母は安倍氏)と皇極の子の中大兄皇子と大海人皇子。3人とも大王の息子であるが、母は大王の子ではない。条件は同じである。そこで再び宝皇女の再登板となったのであろう。

 ここでも候補者が絞られる。中大兄は有間が大王への謀反を企てたという口実を作って彼を捕らえて殺してしまった。こうして大王候補は絞られたわけである。しかし中大兄はなかなか大王として即位しなかった。この理由は、彼には次代の大王候補を生み出す「大王の娘」を妻にすることができず、したがって大王候補として貴族全体に認められるには至らなかったからであろう。
 このことが後に彼が天皇(九州倭王権を乗っ取って天皇と称した)となって671年に死した後、彼の息子の大友皇子と彼の弟の大海人皇子(後の天武天皇)との間に、皇位継承戦争(壬申の乱)がおきた理由であろう。大海人には、天智の娘・讃良皇女(後の持統天皇)との間に草壁皇子、太田皇女との間に大津皇子、新田部皇女との間には舎人皇子、大江皇女との間には長皇子と弓削皇子がいたのだから、彼に貴族の多数派の支持が集まるのは当然のことであろう。
 斉明即位は、次ぎの大王を決める間の権力の空白を埋めるという意味では、これも「中継ぎ」ではある。しかし押坂彦人直系内部での大王継承争いにおいて、中大兄と大海人は舒明の子で斉明は舒明の后で彼らの母、そして有間は舒明の従兄弟である孝徳の子であり、この対立は、押坂彦人直系内部での舒明系と孝徳系という2つの王家の対立と見ることができる。斉明は舒明系王族の筆頭である中大兄の母でもあることから、中大兄への継承に権威を与える立場にあったと見る事ができよう。

C持統即位の事情

 天武の后であった讃良皇女が即位した事情はどうであったのか。
 686年に天武天皇が死去した時、ここでも次ぎの天皇候補は複数いたのである。
 天武には多数の子女がおり、男子は先にあげた天智天皇の娘達を母とした5人以外にも、氏の娘を母とした高市皇子・忍壁皇子・磯城皇子・穂積皇子・新田部皇子の5人がいた。このうち天皇の条件である「父母ともに天皇」という条件をもった皇子は、先の5人。どう考えても皇位継承戦争が勃発する。最有力候補は皇后であった讃良皇女との間の息子の草壁皇子。しかし彼は天武の死(686年)の三年後(689年)に死去。
 そこで689年、即位したのが天武の皇后であった讃良皇女。つまり天武死後、天皇位は三年間空位であったのだ(日本書紀ではその間・皇后が即位せずに事実上天皇となる=潜称したとしているが、このことを背景として皇位継承戦争が起きていたのが正確なところではないか。讃良皇女の天皇潜称は草壁への皇位継承をはかる権威の確立だった可能性が高い。そして天武死去の直後に、大津皇子は謀反の罪で殺された)。
 そして彼女は草壁の忘れ形見である軽皇子(父・草壁死去の時は6歳。母は天智天皇の娘・阿閉皇女)が14歳になるや697年、譲位して彼を即位させ(文武天皇)、自身は上皇として政務をとったのであった。天武の子で天皇の娘を母とする皇子は草壁・大津以外にもいたのに、その草壁の子を天皇にしたのである。
 持統天皇即位は、その息子である草壁皇子の血統に皇位を継がせることを目的としていたのであり、文武即位に向けて権威を与えるためになされたと考えられる。

D元明即位の事情

 文武の次ぎの天皇になった元明即位の事情はどうであったのか。
 これは文武が死去したとき(707年)、そのただ一人の息子である首皇子がまだ6歳であり、このままでは草壁の系統に皇位を継承させることができなくなったからである。そこで文武の母であり、首皇子の祖母である阿閉皇女が即位して、首皇子の成人をまったのであった。
 これは強引な皇位継承であった。草壁の系統での皇位継承がうまくいかないのだから、この際、天武天皇の息子たちのうちの天皇の娘を母とする他の皇子たちに天皇位を譲るべきであるという主張が貴族たちの間に出た事であろう。その一人舎人皇子はこのとき31歳、首皇子の母は藤原氏であり、天皇の条件を備えていなかったのであるからなおさらであった。

 したがって元明即位の時には、この即位は「持統天皇が譲位して孫の文武天皇とともに天下を治めたのは、かの天智天皇がさだめた決まり(=不改常典:天智は律令は定めておらず、意味上から解釈すれば、直系によって皇統は継続すべしということか)によってであり、今また自分が即位したのは、先帝である文武の遺勅によってである」と、先帝の意思を盾にして、天武→草壁→文武→首と直系で継承することを、貴族たちの反対を押し切っていかざるをえなかったのである。
 元明即位は、孫の首に皇位を継承させるためであり、それを保障する権威だったのだ。

E元正即位の事情

 次ぎの元正即位の事情も同じである。元明が老齢を理由に譲位した時(715年)、首皇子はまだ14歳であった。母が氏の出(藤原氏)である彼が即位するには若すぎて実績もなく、貴族の反対は不可避であった。他にも天皇の資格をもった有力な皇族はいたからである。そこで、元明の妹の氷高皇女が即位したのである。これが元正天皇。この時も先帝の詔を盾にして彼女は即位した。これはもう、首皇子への強引な皇位継承策と言って間違いない。直系継承を守るためが彼女の即位の理由である。

 2代続く女帝の登場によって直系継承が強行されていく。これを貴族たちが容認したのは、かつてのような血で血を洗う皇位継承戦争の再来を恐れたためではないだろうか。

F孝謙即位の事情

 では古代最後の女帝・孝謙天皇が即位した事情はなんであったのか。「15:律令政治の展開」で説明したが、以下に短く再論する。
 2代も続けて女帝が即位するという「異常事態」を強行してまで即位させた首皇子(聖武天皇)には、「父母ともに天皇の子」という後継者をつくるに適当な皇族女子がおらず、そのため彼自身と同じく藤原氏を母とする跡継ぎしか存在しなかった。しかし藤原光明子との間の男子・基王は728年、1歳にならずに死去し、彼の構想は挫折した。彼の息子は県犬養広刀自を母とする安積しかおらず、有力な天皇候補が他にいる状況では、聖武天皇の系統に皇統を伝える事は難しくなったのである。
 この時聖武がとった方法は、天武天皇の第1皇子・高市皇子と天智天皇の娘の御名部皇女を母とする左大臣長屋王を排除する事であった。彼は草壁皇子の娘で文武天皇の姉妹である吉備内親王を妻としており、2人の間には4人の男子があったのである。内親王を妻とした長屋はその縁で親王となっており、彼および彼の4人の息子は有力な天皇候補であった。この長屋親王と吉備内親王、そして4人の息子を「国家を傾けようとした」との罪をでっちあげて729年、彼らを捕らえて殺害したのである。こうして有力な対抗馬を抹殺したが、安積はまだ幼いので代りに、738年娘の阿倍内親王を皇太子として時間を稼ぎ、安積の成人をまった。しかし期待の安積は、744年、17歳で死去してしまった。ここに聖武天皇の系統が天皇位を継ぐことは全く頓挫してしまったのである。
 だが聖武はあきらめなかった。彼は伊勢斎宮にいた娘の井上内親王を746年に呼び戻し、天智天皇の孫の白壁王と娶わせて2人の間に男子が生まれることを期待し、その男子に皇位を継承させようと画策した。しかし跡継ぎは生まれず、749年に聖武天皇は娘(孝謙天皇)に譲位したのであった。孝謙天皇が女性皇族として始めて立太子してさらに即位したのは、聖武天皇の系統に皇統を伝えるためであったのだ。孝謙天皇即位の時も、天智天皇が定めたという直系継承を理由として彼女が父・聖武天皇から皇位を譲られたことが宣言されていた。しかし孝謙天皇の下では天武天皇の孫である道祖王が皇太子となっていたのだから、聖武天皇の系統に皇位を継承させるという合意はできていなかったのである(749年には井上と白壁の間にはまだ男子はなかった)。
 孝謙天皇即位は、貴族の合意としては次ぎの天皇が決まるまでの「中継ぎ」であるが、主観的には、生まれてくるであろう継承者への皇位継承を保障する権威でもある。だからこそ、聖武上皇が死去しその血統による継承が不可能となった時に彼女は退位するしなかなったのだ。

G称徳即位の事情

 その孝謙天皇が一旦譲位したあとで再度即位した事情はなんであったのか(称徳天皇)。
 孝謙天皇は756年の聖武上皇の死にともなって、新たに立太子された天武天皇の孫(父は舎人親王)の大炊王に758年に譲位した(淳仁天皇)。つまり、758年の時点において、貴族たちは聖武天皇の系統、つまり天武天皇の子である草壁親王の系統に皇統を継がせることを諦め、舎人親王の系統に替える事を決めたと言う事である。
 しかし事態は761年、急展開する。井上と白壁の間に、待望の男子が誕生したのである(他戸王)。762年になると孝謙上皇は淳仁廃位に向けて動き出し、764年には謀反の罪で、氷上塩焼(天武の子の新田部親王と聖武天皇の娘の不破内親王を母とする有力な天皇候補。塩焼王。757年の橘奈良麻呂の乱に連座して皇族の身分を奪われていた)を彼を支持する藤原仲麻呂とともに葬り去った(この時に、舎人親王の子である船親王と池田親王も処罰された)。そして仲麻呂との謀議の疑いをかけられた淳仁天皇は拘束されて淡路に流され、765年、配流先で死去したのである。この過程で764年、孝謙上皇は再び即位したのである(称徳)。
 つまりこの再度の即位は、聖武天皇の孫である他戸王に皇位を継承させるために、じゃまになる他の候補者を抹殺し、皇位継承を円滑になさしめることを目的としていたのである。従来は、この過程で孝謙天皇が僧侶の道鏡を重用し、のちにかれを太上法皇につけようとしたことから、道鏡との愛に狂った孝謙上皇の行動と解釈されていたのだが、奈良時代政治史を天皇を主語として読み解いた河内祥輔によって、聖武天皇の孫の他戸王への皇位継承を図った動きであったことが確認されている。
 だが女帝は770年、53歳で死去。彼女が後継者と目していた他戸王はまだ10歳であった。貴族たちの合議によって他戸王を次代の天皇とすることについて合意がなされ、他戸王の父の白壁王が中継ぎとして即位(光仁天皇)して井上内親王を皇后とし、771年には他戸親王が皇太子となった。聖武天皇の系統に天皇位を継がせようとする彼女の執念が実ったかに見えたのだが、772年に皇后・皇太子が謀反の罪で捕らえられて殺された事により、実現はしなかったことについては、
「20:平安の都」で詳しく説明した。
 孝謙天皇が退位した後に再度即位したのは、聖武天皇の孫の他戸王に皇位を継承することを保障する権威として存在するためであったと言えよう。

 8代6人の女性天皇の即位の事情を見てみると、彼女たちの即位はみな、次代の皇位候補者がその資格を備えていないか、または資格を備えた候補者が複数おり皇位継承戦争がおきかねないという皇位継承の危機の時代になされていることが明かである。この中で彼女たちはみな、次ぎの皇位継承者に最終的に決まった者に権威を与える庇護者として即位している。
 女性天皇は、正当な資格を持つ竹田皇子の即位までの中継ぎとして即位した用明・崇俊などとは違い、次ぎの候補の中の最有力の候補との直接の血縁関係を背景にしてそれへの皇位継承を保障する権威として存在していた。これは次ぎの候補がまだ絞られていない、皇極・斉明の場合でもそうだし、次ぎの候補がまだ生まれていない孝謙の場合もそうである。そして彼女たちは、天皇としての権威を有しており、孝謙・称徳天皇の所で顕著に見られるように、彼女たちの血統の候補者への王位継承の障害となる他の候補を排除するだけの力を持っていた。彼女たちは、「中継ぎ」などではなかったのである。

 従来は女性天皇の即位を「次ぎの天皇の即位までの中継ぎ」であり、それは「彼女が前天皇の后として天皇の権能を分有して」おり、同時に「次ぎの天皇の祖母・叔母・母などの血縁者」だったからだと解されて来た。しかしこの理解だと、皇極即位の場合は次ぎの天皇・孝徳の姉であり、元正の場合は、前天皇の娘である。さらに孝謙になると次ぎの天皇は血縁とは言っても遠いし、彼女は前天皇の娘であっても后ではなかった。そして再度即位した時(称徳)では、次ぎの天皇は決まっておらず、結果として次ぎに天皇となった白壁は、さらに遠い血縁者であり、この3例は特異な例として解釈するしかなかった。
 だが、河内祥輔の研究は、この古代における8代6人の女性天皇全てに共通する説明を可能とした。これがまさに「次代の天皇の血縁者として彼への皇位継承を保障する権威=障害となるものを排除する権力をもった存在」としての即位であったのである。

:近世の2人の女性天皇のうち、117代の後桜町の即位は、兄である桃園天皇が死去したとき、その継承者である息子・後の後桃園天皇が4歳と幼いため、その成長を待って即位させるための権威と見られない事もない。しかし後桃園天皇が即位したのは12歳なのに、彼女は即皇位を退いている。これは完全な中継ぎと見られる。また、109代の明正の即位の事情は全く異なり特異な条件であるが、これについては第3章「近世の日本」批判の徳川幕府と天皇家の関係の項で説明したい。

(2)なぜ危機の時代に女性が即位するのか

 しかしここで問題になるのは、なぜ皇位継承の危機の時代には女性天皇が必要と判断されたのか、なぜ次代の天皇への皇位継承を保障する権威的存在が女性だったのかということである(ここに古代における女性の社会的地位の問題があらわれる)。

@中世の場合

 視点を平安時代、とりわけ中世に移行する平安中期以後に移して見ると、この時代には皇位継承を保障する存在としては、次ぎの天皇の母方の祖父または叔父が摂政となる場合(「22:摂関政治」参照)と、次ぎの天皇の父(前天皇)が退位して上皇となり(「25:院政」参照)、これら2つの形で次ぎの幼い天皇に代って政治権力を行使する形態が取られている。そして、摂政・関白や上皇は、彼らの子や孫への皇位継承の障害となる皇族とそれを支持する貴族たちを、暴力的に排除していたのである。つまり中世の始まりとも見られるこの時代になると、皇位継承を保障する権威は女性ではなく、血縁の男性となっているのだ。
 また、平安時代末期の近衛天皇が継嗣もなく死去した時(1155年)には、彼の同母の妹である八条院(ワ子内親王)の即位が検討されたという。だが結果として、近衛天皇の母の美福門院の猶子として養育されていた、近衛の異腹の兄の子(後の二条天皇)を即位させるために、父である近衛の兄を即位させ(後白河天皇)、祖父である鳥羽上皇が引き続き政治権力を握って二条への継承を保障し、鳥羽の死後はその妻・美福門院がその位置についたのである。

:この措置は、崇徳上皇の皇子に皇位を継承させないためのものであり、だからこそ、鳥羽の死後に皇位継承をめぐる戦争=保元の乱が起きたことは、「中世1:保元・平治の乱」で詳しく述べる。そして美福門院の死後は、二条即位にともなってその准母として院号を授かった八条院がその位置についた。

 中世においては、天皇継承を保障する権威は血縁の男性となり、女性が行う場合は、権力者の妻・母という資格が必要という形に変化しているのである。これは財産継承が次第に男性継承へと移行していき、女性の権利が縮小されていく中世という時代に相応しているかのような変化である。
 つまり次代の天皇の即位を保障する権威として女性天皇が即位したのは、古代だけに限られる事だったといえよう。

A皇統を継ぐ権威をもつ皇女

 ではなぜ古代においては女性がそのような権威を持てたのか。

 この問題を考える時、古代の女性天皇(近世の2人も同じだが)は全て天皇の娘であったという共通点に注目したい(平安末期の八条院の場合も天皇の娘である)。つまり古代においては、次ぎの天皇の母とか叔母とか祖母とかとの関係にかかわりなく、天皇の娘という存在は、天皇と同等の権威を帯びていたのではないかということが想定されるのである。

 では皇女とはどのような力をもった存在なのだろうか。
 ここで注目したいのは、天皇が皇女を后とした例が古代だけではなく、中世・近世にいたるまで続き、しかもそれは皇位継承の危機の時代にのみ存在する事例だということである。つまり言い換えれば、先に河内祥輔の研究によって示された「父母ともに天皇の子」という条件をもつ皇子を生み出すための天皇と前・元天皇の皇女との婚姻は、これ自身が皇位継承の危機の産物だったということである。
 具体的に事例を見ておこう。

(a)安定しない応神王朝の中で

 天皇が皇女を后にする例が続いた最初は、16代仁徳・17代履中の時代である。仁徳は異母妹である八田皇女と宇遅若郎女皇女を后とし、履中も異母妹である幡梭皇女を后としている(この時代は天皇ではなく、大和の大王なのであるが)。
 この2人が異母妹を后とした背景には、仁徳の父・応神の性格を問題にしなければならない。
 15代応神は14代仲哀の第4子、息長足姫(いわゆる神功皇后)との間の子である。しかし彼の即位に際しては王位継承戦争があったことを古田武彦は指摘している。
 すなわち応神が生まれたのは仲哀が筑紫に遠征した中でのこと。そこで熊襲に仲哀が討たれた(古田はこの熊襲が倭王朝であり、仲哀は倭王朝を倒そうとして敗れたと分析している)ことにより、大和の大王位は仲哀の子の香坂王と忍熊王の兄弟のものとなった。この体制を、息長足姫が率いる軍勢の力でひっくり返し、息長足姫摂政の下で、応神が即位したのである。
 香坂・忍熊王の母の大中津姫は仲哀と同じく12代景行の孫であり、大王・開化の5世の孫とも4世の孫とも言われる息長足姫を母とする応神よりも、香坂・忍熊の方が大王としては正統である。これを軍勢の力でひっくり返したのだから、王位継承戦争の末に応神は大王位についたものと思われる。
 こう考えると応神は正統な大王と認められていない可能性があり、大王の后として適当な年齢の皇女にめぐまれなかったゆえに、彼の息子達はみな氏の娘を母としていた。だからこそ、その子の代にも王位継承戦争が起こったのであろう。
 応神の死後、大山守皇子と大雀皇子・宇遅和気郎子皇子との間に王位継承戦争が起きたのは、彼らの内誰一人として「父母ともに大王の子」という資格を持っていなかったからであろう。継承戦争に勝った大雀は即位して仁徳となり、その異母妹を后として正当な王位継承者をつくろうとしたのではないか。しかし彼の跡継ぎはみな氏の娘を母とするものたちであり、したがって仁徳の死後も王位継承戦争が頻発したのであろう。
 その中で勝ちぬいた伊邪本和気皇子が即位して(履中)異母妹を后としたが後継者は生まれず、彼の死後、同母弟の反正・允恭と大王がめまぐるしく替った。それぞれの大王の治世は、履中・6年、反正・5年にしかすぎず、古田の「2倍年暦説」にそえばそれぞれ3年・2年半と短命で、ここでも争いは続いていた可能性がある。そして允恭でしばしの安定を得た(42年、半分にして21年)が、その子の安康は兄の木梨軽皇子を殺して即位したが、3年(1年半)で自分が殺した父の従兄弟の大日下王の息子に殺され、次の雄略で安定するという具合に王位を巡る争いは長く続いた。
 このように応神から始まる王朝の歴史の中に仁徳・履中2代にわたって異母妹である皇女を后にしたということを置いて見ると、これは正統な王位継承者を生み出そうとする行為であった可能性が高い。

:2倍年暦説=魏志の注に引用された魏略によると、倭では春耕・秋収で一年をそれぞれ区切っていたから、倭国の歴史を記した「魏志倭人伝」や古事記や日本書紀の年代は、かなり後の時代まで、年数が2倍になっているとした説。

(b)応神王朝の分裂の中で

 次ぎに大王が皇女を后とした例が続くのは、21代雄略・24代仁賢の時代である。
 雄略は履中の后であった幡梭皇女(雄略からは叔母にあたる)を后とし、仁賢は雄略の娘の春日大娘皇女を后としている。
 この時代も王位継承戦争が続いた時代である。
 雄略は兄・安康が眉輪王によって殺されたあと、同母兄の八釣白彦皇子と坂合黒彦皇子とを殺害して大王位についた。正統な大王ではないがゆえに、叔母にあたる皇女を后として自らの正統性を確立しようとしたのではないか。しかし2人の間には子はなく、雄略の死後もまた王位継承戦争が起きたのであった。雄略の子の星川皇子と白髪皇子との間に争いが起き、勝った白髪が即位した(清寧)。しかし彼の治世は5年(2倍年暦なら2年半)しか続かず跡継ぎもなかった。
 この時履中の娘である飯豊皇女が即位して後継者を探し、雄略によって殺された兄・市辺押磐皇子の息子の億計王と弘計王を見つけ出し、弟の弘計王が即位して(顕宗)3年(2倍年暦なら1年半)、さらに兄の億計王が即位した(仁賢)との伝承がある。つまり20代安康・21代雄略・22代清寧・23代顕宗・24代仁賢と続く時代は王位継承戦争が続いていたということであり、応神王朝が、履中と允恭の2王家に分かれて対立していた時代と読み取ることができる。また、飯豊王女は女性の大王として即位していた可能性があるのだ。
 こう見ていくと、24代仁賢が21代雄略の皇女を后としたということは、先行する允恭王朝の最後の王の血筋と自らの履中王朝の血筋を合わせた皇子をもうけることで、自らの正統性を確立しようとする行為だと解釈できよう。そしてこの策は実り、若雀皇子が生まれ、仁賢の死後彼が即位した(武烈)。しかし彼の治世は8年(2倍年暦なら4年)で跡継ぎはなく、ここに応神王朝は滅びるのであった。
 こう見ると、雄略・仁賢が皇女を后にしたのは、分裂する王家を統一する権威を得る事が目的であったと見られる。

(c)継体王朝成立の中で 

 次ぎに大王が皇女を后とした例が続くのは、26代継体・27安閑・28代宣化・29代欽明・30代敏達の時代である。
 継体は仁賢の皇女の手白香皇女を后とし、安閑は同じく仁賢の皇女の春日山田皇女を、そして宣化も同じく仁賢の皇女の橘仲皇女、欽明は宣化の皇女の石姫皇女をそれぞれ后としている。さらに敏達は異母妹の炊屋姫皇女(後の推古女帝)を后としている。
 継体の即位の事情を見れば、彼は応神天皇5世の孫と称する北陸の王であり、分裂し王位継承戦争を繰り広げる応神王朝の混乱の中で、大和の貴族たちに推戴されて大王位についたものである。言い換えれば、あらたな王朝が成立したといっても過言ではない。
 こう考えてみれば、継体・安閑・宣化の父子がそろって仁賢の皇女を后としたということは、前王朝の皇女を后とする事で前王朝の権威を引き継ぐとともに、名実ともに貴族によって大王に推戴される「父母ともに大王の子」という条件を持った後継者を作って、新たな王朝に正統性を与えて安定させようという試みと取れよう。

 したがって安閑が在位2年(2倍年暦なら1年)、70歳(2倍年暦なら35歳)で死去し、宣化が4年(2年)、73歳(36歳)で死去し、このあとに大王となった欽明が幼年であることを理由として安閑の后であった春日山田皇女に「政務をとってほしい」との要請がなされたが結局欽明が即位したという伝承は、継体死後に皇子たちの間で王位継承戦争がおき、その中で「父母ともに大王の子」という資格を持ち、前王朝の血筋を引く欽明(母は手白香皇女である)に大王位が定まったということであり、ここでも、欽明に大王位を継承させるために、叔母である春日山田皇女が大王に即位していた可能性があることが見て取れる。
 しかも継体の3皇子の内で「父母ともに大王の子」という息子をもうけたのは欽明だけであり、その子の渟中倉皇子(後の敏達)は母・祖母ともに仁賢の孫・娘であるので、父系・母系ともに前王朝の血筋を色濃く継承した存在であった。これでは貴族たちの間に、欽明への支持が集まるのは当然であろう。そしてこの敏達と炊屋姫皇女との間には竹田皇子が生まれ、彼が成長して即位しておれば、継体・欽明・敏達と続く王朝は安定して継承されたであろう。

 このように見てくると、26代継体から30代敏達まで父子代々にわたって皇女を后としたのは、継体から始まる新王朝の権威を確立するためのものと思われる。

(d)継体王朝の分裂を生み出す

 この次ぎに大王が皇女を后にした例は、31代用明と36代孝徳である。
 用明即位の経過は、さきに推古女帝即位の経過の中で説明した。要するに継体王朝をつぐべき竹田皇子が敏達の死亡時に幼年であったために、中継ぎとして彼は即位したのであった。しかし彼の后も欽明の娘である穴穂部間人皇女であり、2人の間には厩戸皇子があったため、大王候補の竹田が死去した後には、継体王朝は、敏達の系統の王家(押坂彦人大兄ら)と用明の系統の王家(厩戸=聖徳の上宮王家)に分裂してしまった。しかも用明・竹田死後の混乱の中で大王候補とされた厩戸(=聖徳)が有力な大王候補を生み出せなかたゆえに、2つの王家の間に、血で血を洗う王位継承戦争を生み出してしまったことは、先に説明した。
 この用明が異母妹の皇女を后としたのも、欽明以後の王位の安定のためであったと思われるが、結果として王朝の分裂を招いたのである。
 この王朝の分裂の中で即位したのが36代孝徳であった。彼は皇極と舒明との娘である間人皇女を妻として、次代の大王候補を作ることが期待された。しかしこれはならず、孝徳の死後も、王位継承戦争が継続したことは先にみた。

 31代用明・36代孝徳の皇女との結婚も王位継承の安定のためだったと言えよう。

(e)皇統の安定を図る中で

 次ぎに大王が皇女を后とする例は、39代弘文と40代天武である。
 39代弘文=大友皇子は天武の娘・十市皇女を后としている。そして天武は大友の父の天智天皇の娘である讃良皇女(後の持統天皇)との間に草壁皇子、太田皇女との間に大津皇子、新田部皇女との間には舎人皇子、大江皇女との間には長皇子と弓削皇子がいた。

 この時代において天智の息子・大友と天智の弟の大海人との間で相互の娘を娶るという方法が取られたのはなぜであろうか。
 これは先に女帝の例の中で述べた「推古・皇極・斉明」即位の事情を思い返してみれば良く分かる。
 継体王朝を継ぐ欽明以後の王位継承が、敏達の子・竹田皇子の早世によって頓挫して以後、この王朝は安定するどころか王朝の分裂すら招き、血で血を洗う王位継承戦争が続いてきた。その果てにようやくにして敏達の孫の舒明の息子・中大兄(正しくは葛城皇子)へ王位は収斂されたのである。
 だが彼には大王としての条件を満たす息子がおらず、彼の死後はかならずや、大友と大海人との間で王位継承戦争が起きる事が予測された。それを防ぎ大友への皇位継承を確実にする融和策として、大友の后に大海人の娘・十市皇女が配されたのではなかったのか。二人の間に男子が生まれれば、その皇子は大友・大海人の2つの皇統を融合する存在になるからである。そしてこの皇子への将来の皇位継承を視野に入れて、大友が中継ぎとして即位する。これが天智の構想であったろう。
 待望の男子は669年誕生した。葛野王である。だからこそ671年、大友は太政大臣となり、即位への布石を行ったのであろう。
 だがこの構想は、天智の死と直後の大海人の出奔と挙兵によって潰えたのである。

 では、大海人と天智の4人の娘達の婚姻の意味は何であったろうか。
 太田皇女との婚姻は、2人の間の第1子である大来皇女の誕生が661年、倭国・百済連合軍による百済復興戦争(白村江の戦いで終了する)への出兵の途中、備前大伯(おおく)海で誕生したのだから、それ以前のこととなる。そして讃良皇女との婚姻は、2人の間の第1子の草壁皇子の誕生が662年なのだから、それ以前のことである。つまり、どちらも大海人の娘と大友の婚姻よりも前で、天智の即位以前のことなのである。したがって天智は即位以前においては、弟に自身の娘を配することで2人の間に男子をもうけ、その男子に大王位を継承させようと考えていた可能性があるのだ。
 この構想を天智が捨てて大友への継承へ転換した画期。それこそ663年の白村江での倭国軍の大敗と事実上の倭国の滅亡を受けて、668年、天智が天皇へと即位したことにあったのであろう。大和の大王ではなく、日本列島の統一王権の王者・天皇への即位が、天智の王位継承構想に変化を与えたのであろうか。

 どちらにしても、大海人・大友がそれぞれ皇女を后としたのは、そこで皇位を安定させようとしたことは確かなことである。

(f)新王朝の安定を図る中で

 天武以後の天皇で皇女を后とした例は、49代光仁・50代桓武・51代平城・52代嵯峨・53代淳和である。
 光仁は聖武天皇の皇女・井上内親王を后とし、二人の間には他戸王が生まれた。これは聖武天皇直系の男子が死に絶えたために、女系によってその皇統を繋ごうとしたものであることは、先に示した。
 また桓武は異母妹の酒人皇女を、平城は異母妹の朝原皇女と大宅皇女を、嵯峨は異母妹の高津皇女を、さらに淳和は異母妹の高志皇女と兄・嵯峨の娘の正子皇女をそれぞれ后としている。

 これらの婚姻の性格を考察するには、「20:平安の都」で見た桓武天皇即位の事情を押さえておく必要がある。
 桓武天皇は49代光仁の長子であるが、皇位を継ぐ存在は桓武の異母弟の他戸親王であった。しかし772年に、皇太子他戸親王と皇后井上内親王は天皇を呪詛したとの罪で捕らえれ翌年毒殺された。これにともなって皇太子となったのが氏の女を母とする山辺親王(後の桓武)であり、彼は781年父・光仁の死去と共に即位した。
 要するに桓武天皇の即位は、聖武天皇の血を引く異母弟から皇位を奪ってのものだったのである。当然彼の即位には疑問がつけられる。
 桓武の后となった酒人皇女は光仁と井上との間の娘であり、聖武天皇の孫娘である。二人の婚姻は、これによって光仁系と聖武系との皇統の融合を図ったものに違いない。しかし2人の間には男子は生まれず(生まれたのは朝原皇女)、桓武天皇の息子3人は全て氏の女を母とするものであった。
 したがって桓武の3人の皇子たちが異母妹を后とした理由は、それによって「父母ともに天皇の子」という条件の男子をもうけ、桓武以後の皇統の継承に権威を持たせることに主眼があったはずである。そして期待どうりに、嵯峨と高津の間には業良親王が、淳和と高志の間には恒世親王が生まれたのであった。しかし桓武の長子の平城と朝原・大宅との間には男子に恵まれず、嵯峨と高津との間の業良には精神障害があり、桓武の後の皇位継承の最有力候補は末っ子の淳和となったのだ。
 だが、806年の桓武天皇の死後、皇位を決める事ができず、3ヶ月の空位となる。皇位継承をめぐる争いが起こったのだ。ようやく3ヶ月後に末子の淳和が即位する事を辞退したので、長子が即位(平城)したが皇太子は弟(嵯峨)であり、彼は中継ぎであった。そして809年、平城が病のために在位3年にして退位した時、争いは激化した。皇位継承の順位では、平城の次には弟嵯峨が即位し、その皇太子には末っ子の大伴(淳和)がなるはずであったが、平城は息子の高丘親王を皇太子とすることを条件にして退位した。したがって平城と嵯峨天皇・大伴皇子との間には軋轢が生じ、810年、平城上皇が平城京遷都を命令したことを契機に両者は武力衝突にいたり(薬子の乱)、敗北した上皇は平城京に幽閉され、子の高丘親王は皇太子を廃され、皇太子には嵯峨天皇の弟の大伴皇子がついた(後の淳和)。これで平和裏に皇位が継承されるかに見えた。
 だが823年、嵯峨が弟に譲位して淳和が即位した時、皇太子には嵯峨の息子の正良親王が立てられた。嵯峨は父・桓武の構想した淳和系への皇統の継承という方針に逆らったのだ。しかも淳和の皇子・恒世は826年成人せずに死去(19歳)。そして833年淳和の死去に伴い正良は即位(仁明)し、皇太子には淳和の皇子・恒貞親王(母は嵯峨の皇女・正子内親王)が立てられたのである。こうして皇統は嵯峨の系統に収斂されていったのであり、このまま平和な皇位継承が続くかに見えた。
 しかし事態は急展開をとげる。840年淳和上皇が死去、続いて842年7月嵯峨上皇が死去するに伴って事件が起こる。承和の変である。平城上皇の子である阿保親王の密告をもとに,皇太子恒貞親王を奉じて東国に赴く反乱を計画したとして、東宮坊帯刀伴健岑・但馬権守橘逸勢らが逮捕され、皇太子恒貞親王が廃された(彼は出家した)。この事件により公卿を含めた多数の官人が流罪や左遷となり、道康親王(父仁明、母藤原良房妹順子。のち文徳天皇)が皇太子となった。
 この事件は、皇統を自己の直系に継承させようとする仁明天皇の意思に基づくものと思われる。血統の上では父母ともに天皇という条件を持つ恒貞より劣る仁明天皇(母は橘氏の娘)は、后の順子の実家の藤原冬嗣・良房父子と組んで自己の皇統の確立を図り、障害となる恒貞を排除したのであろう。以後仁明の皇統は冬嗣の家系の娘を后としつつ、仁明・文徳・清和・陽成と直系で継承していったのである。

 このように経過を辿ってみると、桓武・平城・嵯峨・淳和と皇女を后としたのは、あらたな王朝の権威を高め、皇位の継承を順調にするという意図があったことが読み取れる。

 これ以後、天皇が皇女を后とする事はしばらく絶える。
 次ぎに皇女を后としたのは60代醍醐、69代後朱雀である。

 醍醐は父・宇多の同母妹の為子内親王を后としている。これは宇多が皇位継承の資格を持っていないのに即位したという事情に発している。
 宇多の父・光孝の突然の即位(仁明王朝の最後の王の陽成が殺人を相次いで起こしたことにより、貴族が陽成を退位させ、彼の系統を避けて3代前の仁明の子であった光孝を即位させた)と、その光孝が即位に伴って子息を全て臣下に下ろしたが他に皇位継承者がいないため、光孝が病の床についたとき、光孝の子の中で唯一臣下として官についていなかった源定省を貴族の総意を持って887年に即位させた(宇多天皇)。宇多は一度臣下の身に下ったにも関らず天皇となった人物で、天皇としての権威に欠けていたのである。
 宇多は自身の長子(醍醐)に異母妹を配する事で、2人の間に父母ともに天皇の子という跡継ぎを誕生させ、自己の皇統に権威を付与しようとしたに違いない(しかしその跡継ぎは生まれず、彼の代にも皇位継承をめぐる争いが絶えなかった。この経過については
「24:武士の登場」で説明した)。

 後朱雀は三条天皇の皇女・禎子内親王を后とし、尊仁親王(後の後三条)をもうけている。
 この時代には皇統は、円融・冷泉系の2つの皇統に分裂しており、冷泉系の三条天皇まで両統から交互に天皇が出ており、皇位継承をめぐる争いが絶えなかった。これを強引に一本化したのが藤原道長であった。
 道長は三条天皇の病に際して円融系の後一条へ強引に譲位させ、その皇太子には三条の希望で一旦は三条の息子・敦明親王をつけたが(1016年)、1017年に三条上皇が死去すると道長は、皇太子敦明親王に「小一条院」という院号を得て前天皇のあつかいをうけることを条件に皇太子を辞退させ、あらたに皇太子には、後一条の弟の敦良親王をつけてしまった。こうして皇統は強引に円融系に統合されたのである。そして1036年、後一条は弟に譲位し、ここに後朱雀天皇が即位した。
 この後朱雀が冷泉系の三条天皇の皇女・禎子内親王を后としたということは、冷泉系と円融系の2つの皇統を融合させることが目的であろう(2人の間には尊仁親王、のちの後三条天皇が誕生した)。
 後朱雀は1045年病で死去し、長子の親仁(母は藤原道長の娘)が即位した(後冷泉)、しかし彼には子ができず、しばしば重病に陥ったため、皇太子には弟の尊仁がついた。そして1068年後冷泉の死去に伴って尊仁は即位した(後三条)。
 ひさしぶりの「父母ともに天皇の子」という条件をもった文字通りに円融・冷泉両皇統を統合した天皇が生まれたのである。

 以上少し長くなったが、ここまで古代における大王・天皇が皇女を后とした例を見てきた。
 ここで明かになったことは、天皇が皇女を后としたときは、一つは、前の皇統に跡継ぎがなくて、天皇としての資格が薄弱な他の皇統に皇位が継承された時。この場合には前皇統の皇女を后として新たな皇統に権威を与えると共に、2つの皇統を統合した次代の王を生み出す事に目的があった。もう一つは、皇統が2つに分裂していた時に、両者の統合を意図して行われた時。
 どちらの例でもわかることは、天皇の娘は、天皇・皇子とともに皇統を継ぐという権威は同じだということである。つまり男系で継承しようと女系で継承しようと、皇位が継承されたことには変わりはないという認識が古代にはあり、男系継承が原則となっていた時代にあっても、皇統の継承に危機が訪れた時には女系での継承が図られたり、新たな皇位継承者に前天皇の皇女を配することで、新たな皇統の権威を確立することが意図されたのであった。

 前に検討した女性天皇の例も同じ状況の中で行われ、皇女が天皇になる例も、皇女が天皇の后になる例もともに、皇位継承が危機になったときのことであり、皇女には皇統を継ぐ権威があると当時の人が考えていた事がわかるのである。

:以後の例は、以下のとおり。@中世初頭の二条天皇(1158年即位)も父・後白河天皇の異母妹で自身には叔母にあたる鳥羽天皇の皇女・よし(女偏に朱)子内親王を東宮時代に后としている。これは鳥羽の息子・近衛天皇が死去して鳥羽系で皇位継承ができなくなったときに、娘を猶子にしていた二条の后とすることで、2人の間に女系での鳥羽の孫にあたる男子を誕生させ、皇位を継承させようとしたと見られる。この例も皇位継承の危機に際した例である。A1274年に即位した後宇多天皇も後深草天皇の皇女・れい(女偏に令)子内親王を皇后とした。この時皇統は後深草系と亀山系に分裂しており、亀山の第二皇子である後宇多が後深草の皇女を后とする事で両統の融合を図ったものか。この持明院統と大覚寺統との対立の中では、あと2例、B1318年即位の後醍醐天皇とC1331年即位の光厳天皇がそれぞれ対立する皇統の皇女を后として両統を融合しようとしている。以後、天皇が皇女を后とした例は、D近世・1779年に即位した光格天皇が後桃園天皇の皇女欣子内親王を皇后とした例だけである。これは、後桃園天皇に男子がないため、閑院宮家の第六皇子を養子として皇統を継がしたため、前天皇の娘を后として血統をつなげようとしたもの。中世・近世においても、新たな皇統の権威を作るためや、対立する皇統を融和するために、天皇が皇女を后としていたのである。

B巫女の権能で王に即位した倭女王・卑弥呼・壱予

 皇統の危機を救う権威をもった存在として皇女があったということを見てきた。そしてこれは皇女もまた天皇と同じ権威を持つ存在である事が明かとなった。だが、なぜ危機を救う存在がどちらも天皇と同じ権威を持つ男性皇族ではなく女性皇族なのかという疑問がただちに出されるであろう(王位を継承すべき男性皇族が複数いるか一人もいない状態が危機なのであり、複数いるときに男性皇族を立てれば、それはそのまま入り乱れた王位継承戦争・国家の分裂になるという事情もあるのではあるが)。

 ここで想起される事は、歴史上最初に皇統の危機において冊立された倭女王・卑弥呼のことである。
 卑弥呼の即位の事情は「魏志倭人伝」に詳しく記され、女王卑弥呼の権能についても倭人伝はくわしく記している。

 「その国(女王国=邪馬壱国)は、もとは7・80年(2倍年暦なら3・40年)の間、男子を王となしていた。しかし倭国が乱れて暦年互いに戦火をまみえた(倭国を構成する国々が互いに争った)。そこで(諸王が)共に一女子を立てて倭王とした。名づけて卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年はすでに長大(3・40歳)であるが夫はなく、男弟があって、卑弥呼を補佐して国を治めていた。卑弥呼は王となって以来見る人は少なく、奴婢1000人をはべらせていた。」と。

 つまり倭国を構成する諸国が互いに争って戦争となり収まらなかったので、王たちが卑弥呼を立てて倭王としそれによって争いが収まったというもの。
 しかしこの争いは完全には収まらず、卑弥呼が魏に使いを送って倭王に封じられたのは、女王国の南に位置する大国・狗奴国との対立がやまなかったからであった。卑弥呼の治世下でも狗奴国と女王国とは戦火を交え、卑弥呼は247年にも三度魏に使いを送り、平定のための詔書を手に入れている。また彼女が死んだあと男王を立てたがやはり倭国はまとまらず、戦が続いて1000余人が死んだことも倭人伝には書かれている。そして倭国では卑弥呼の一族の13歳の(2倍年暦なら7歳)娘・壱与を立てて王となしてやっと争いはおわり、魏はこの壱与にも招書を下して倭国王に封じたのであった。

 倭国女王の卑弥呼と壱与はともに、国家の危機に際して諸王(貴族・豪族)たちに推戴されて王位についたのであった。男性の王では争いを収めることができなかったのである。

 ではなぜ彼女たちは王となったのか。

 それは、卑弥呼が鬼道につかえということに関係があったのではないか。おそらく呪術をもって神に仕えたということであろう。卑弥呼も壱与も巫女であったのだ。
 さらに魏志倭人伝における倭女王卑弥呼は、筑後風土記に記されている筑紫君の祖先の甕依姫(みかよりひめ)と同一人物であることを、古田武彦が論証しているが、その甕依姫には興味深い伝承がある。

:古田は卑弥呼の読みを「ひみか」だとし、「ひ」は尊称であって「太陽の子」という意味での「日」であろうと推定し、「みか」は神に捧げる酒を醸す甕のことで、卑弥呼(ひみか)とは、「輝く太陽の甕」の意味で、その音を中国の歴史官が「卑弥呼」の字をあてたと推定。そして風土記の「甕依姫」とは「みか」の語を共有しており、「みかよりひめ」も「依る」とは「憑り代(よりしろ)」を持って神につかえ神の意思を聞くことであるので、「甕(みか)」を「憑り代(よりしろ)」として神に仕えたものであるとし、両者は共通の権能を持っている事を明かにした。

 それは、筑後風土記の甕依姫の登場の話である。

 「昔筑前と筑後の国の間にある基山に荒ぶる神がいて往来の人が多数死んだ。筑紫君と肥君らが占って、今の筑紫君の祖先である甕依姫を「祝り」(はふり=神を憑り代に憑かして神の意思を聞き、それを祭ること)とした所、以後その荒ぶる神は暴れなくなった。そこでこの神を筑紫の神と呼ぶようになった。」というものである。

 この話しから分かる事は、甕依姫がまさに巫女であったということと、この荒ぶる神を甕依姫が平定したことによって、これを平定できなかったそれまでの筑紫君に替わって甕依姫が筑紫君となり以後彼女の子孫が筑紫君となったということを示している。この荒ぶる神の名は「ソノタケルノカミ」と読め、基山の山ろくにある筑紫神社の祭神・八十猛尊(ヤソタケルノミコト)の可能性が高いと古田氏は示唆している。
 この甕依姫が筑紫君や肥君らが平定できなかった「神」を平定したという話しは、その神の所在地が女王国の南に位置することから、この説話で甕依姫が平定した神の地は、卑弥呼が平定した狗奴国の地である可能性を示しており、卑弥呼はその「鬼道につかえる」力をもってして狗奴国を平定した可能性をも示唆しているのである。

 卑弥呼も壱与も巫女としての権能をもった王者であり、その力は国家の危機も救ったのである。

 そして興味深いことは、大和の大王家における最初の女性大王と見られる飯豊王女も独身であり、最初の女帝として記録された推古の名は、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)であり、農耕祭祀に関る王族であった可能性があること。また皇極も雨乞いの儀礼を執行していることから、これらの女帝たちにも巫女としての権能があったことが推定され、卑弥呼や壱与との近似性が伺われる。
 ただし大王・天皇もまた自ら祭祀を司ったことは様々な記録に見られることであるから、女性の皇族だけが巫(かんなぎ:憑り代として神の意思をこの世にあらわすこと)であったのではなく、男性の皇族も巫(かんなぎ)であり、大王・天皇そのものが巫(かんなぎ)としての権能を持っていた可能性は高い。そういう意味で女性皇族と男性皇族の権威は同等であろう。
 だが巫(かんなぎ)には女と男のそれがあり、男の巫(かんなぎ)には、巫の字の右に男をつけて「かんなぎ」と読ませていることから、もともと巫(かんなぎ)は女性のみがなせるわざであった。だからこそ女性の王は神に近い存在であり、彼女の言葉は神の言葉と受け取られたのではないだろうか。卑弥呼の例はこのことを示すものであろう。

 そして卑弥呼=甕依姫や壱与の例は例外ではなく、古代においては各地に女性の王がいたことは、伝説や考古学史料によっても確かめる事ができる。
 古事記や日本書紀の記述、そして風土記の記述には、各地に○○ヒメ・○○ヒメノミコトと名乗る女性の王がいたことを記録している。また、弥生時代の王の墓でも女性の王ではないかと推定される例は多いし、古墳時代においても、前半期においては単体埋葬の40%が女性であり、同一墳丘に複数埋葬された例でも女性は40%以上を占めていた。さらに後半期においても、単体埋葬の約30%が女性であり、複数埋葬の約20%が女性であったのである。
 女性が王として君臨した例は多いのである。

 したがって皇女が皇統の危機に際して推戴されて女帝となった理由は、大王・天皇がもっている神につかえるという権能が本来女性のものであったという始源の記憶の存在が背景にあったのではなかろうか。

C女性も男性と同等に財産を分与された

 ただし、女性皇族が男性皇族と同等の権威を有したということは、女性皇族が有した巫女としての権能ゆえとだけ考える事はできない。

(a)経営拠点をもつ皇族・豪族の女たち

 古代においては、女性も財産を保持していた。皇族や豪族の女たちもまた「王」として、その経営拠点を持っていたのである。
 大王の后は后宮(きさきのみや)を持っていたが、これは大王の宮とは別の所にあり、独立した経済機能をもっており、独立した官吏たちによって経営されていた。大王の后と言っても、夫である大王と同居はしていなかったのである。そしてこれは奈良時代になっても続き、天皇の后たちは、天皇とは別の所に宮をもち、独自の経済生活を送っていた事は、平城宮の発掘結果によって明らかとなっている。皇后の居所が宮廷内に定まるのは8世紀も終わり、光仁天皇の井上皇后のあたりからだという。
 これは大王・天皇の后となった女性たちだけではない。皇女たちもまた、同様な独自な経営拠点を持っていた。即位以前の元明天皇は、皇太妃宮を持ち、御名部皇女(高市親王の妻)は御名部内親王宮を、元正天皇もまた即位前には、氷高内親王宮を持っていたことは、出土した木簡で確認されている。

 またこれは、大王家の女性たちだけのことではなく、豪族層一般も同様であった。豪族層の女もまた独自の経営拠点としての宅を持っていた。例えば、聖武天皇の妃となった藤原光明子は父・不比等の邸宅を相続し、そこに聖武夫人としての家産運営機構である藤原夫人宅を設け、皇后となった後には、そこに国家機構としての皇后宮職を置いたのである。そして長屋親王夫妻を滅ぼしたのちは、その邸宅跡にその皇后宮職を移したのである。

 豪族や皇族の女性たちは、それぞれ「王」としての権威を分有し、それぞれの氏族の支配する経営拠点をもまた相続していたのであり、それぞれが独立した豪族・皇族として社会的には自立していた。だからこそ、皇位継承に際しては、皇女が皇子とも対等の政治的主体として行動できたのである。

(b)女性にも財産は相続されていた

 豪族や皇族の女性がそれぞれの「王」としての経営拠点を受け継いでいたことでもわかるように、古代においては女性にも財産が相続されていたのである。

 このことは、さまざまな例から示す事ができる。

 例えば、正倉院文書などに残された戸籍の断片から、財産としての奴隷の所有状況を見ると、女性も多くの奴婢を所有していた。そしてこれは、その女性が未婚・既婚を問わないので、古代においては、女性は財産としての奴隷を所有していた事は間違いない。
 また、残された財産処分状や譲状や売券から財産の処分状況を見ると、家地や田畑などの「私地」を処分したものの30〜40%が女性となり、この傾向は9世紀から12世紀ごろまで一貫している。これは、処分された「所職・所領」などの公的な性格を持つ財産については女性の割合は3〜5%と低いので、公的側面においては女性の財産所有は制限されていたとはいえ、私的な側面では、女性も財産を相続していることを意味している。

 また、古代の令で遺産相続を定めたものをこれが参考にした中国・唐の令と比較して見ても、古代における女性の財産相続の姿を窺い知ることができる。
 701年制定の大宝令では、唐令に比べて嫡子相続を強化し、嫡子は財産の半分を相続し庶子は残りを均分するという形になっており、唐令では女性にも結婚資金という形で未婚・既婚をとわず財産の一部相続を見とめていたのに大宝令ではこの規定は削除され、妻の財産は相続の対象とはならないと定めてあるとはいえ、女性の財産相続は否定された形となっている。しかし、718年に制定された養老令ではこの規定は改められ、嫡子相続は後退して、妻と嫡子とが庶子の2倍相続する形になり、娘たちには、既婚・未婚をとわず、男子の半分の額だが遺産相続が認められる事となった(妻の財産は相続の対象とはされないという規定はそのまま)。
 つまり大宝令は、当時の一般的な財産相続であった子供の均分相続を改め、さらに女性の相続権を否定する事で嫡子相続を強引に進め、諸氏族の力を弱めて家父長制家族を成立させようとしたのではないか。しかしこの急進的改革は社会的に反撃にあい、嫡子は庶子の倍という差は設けたものの均分相続へと後退し、妻も嫡子と同等に相続し娘たちも男子の半分ではあるが相続する形となったものと見られる。

 古代においては女子も男子と同等に、親の財産を相続していたのであろう。そして女性が親から相続した財産は結婚しても夫の財産とはならず、妻の独自の財産として所有され続けたのである(この財産は妻の死後は、妻の父方の氏族の相続者に返還されたのか、娘に相続されたのかは確定できないが)。

 このように古代においては、女性も氏族の一員として財産を相続され結婚してからも夫とは別に財産を所有していたのである(夫とも別居であった)。女性も氏族制の中での独立した個人だったのである。

:中世においてもこの傾向は残存している。先に述べた鳥羽天皇皇女のワ子内親王は、1161年の二条天皇即位にともなって院号をうけて八条院となったが、父鳥羽上皇から、上皇が白河天皇以来受け継いできた皇室領の荘園の大部分をしめる所領を受け継ぎ、この所領は1211年の八条院の死後は、その養女であった春華門院に受け継がれた(八条院領)。この所領は1283年に鎌倉幕府の承認を得て亀山上皇の管轄となり、代々大覚寺統のものとなった。南北朝時代における南朝の主な経済基盤となったものである。

 このように見てくると、なぜ古代において女性の大王・天皇が数多く輩出したかはかなり明らかとなろう。
 当時は後の中世以後において成立したような家父長制家族はまだ成立していなかった。人々はまだ氏族制の下で生活していたのである。したがって豪族や王族(皇族)の「王」としての財産はその子女によって平等に継承されていたのであり、豪族や王族(皇族)の娘も、「王」としての経営拠点をもち、そこを管理する多数の氏族民を従えていたのである。それゆえ豪族や王族(皇族)の娘もまた「王」としての権威を男性とともに分有し、「王」としての経営手腕もまたそなえていたのである(巫=かんなぎとして神につかえ、政治を行うと言う意味も含めて)。
 したがって王族・皇族において王位・皇位継承の権利は男性・女性ともに等しく分有していた。だからこそ、古代においては各地に女性の首長(王)が存在し得たのだ。しかも、王としての本来的権能である神に仕えること(=巫として神の意思を代弁する事)は本来女性のみに許された行為であった。それゆえ、国家の危機や王位・皇位継承の危機に際しては、女性の王族・皇族の神に近い権威に依存して、危機を救おうということになる。魏志倭人伝に記された3世紀の倭国の危機に際しての卑弥呼女王や壱与女王の登場の背景は、そういうことだったのである。
 そして、男性継承が次第に支配的になっていった古代末期・6世紀以降においても、女性王族・皇族の持つ権威は変わらず、それゆえに国家の危機・王位(皇位)継承の危機に際しては、女性の王の登場となったのであろう。

 古代における女性の天皇の頻出の背景は、こういうことだったのである。氏族の神と直接つながることのできる巫(かんなぎ)を必要とした氏族制社会であった古代においては、本来的な巫である女性の権威は依然として高く、王としての権威もまた高いものであった。この事実を背景に女性天皇が存在しえたのだ。そしてこれは社会一般における女性の地位の高さに比例し、女性の地位がその後次第に低下していった時期においてもこの記憶は残存し、それゆえ中世においても皇女の権威は残存した。
 古代における女性天皇の存在は、古代社会における女性の地位をそのまま写す鏡である。女性天皇を描く事で古代社会とそこにおける女性の姿を活写できるのである。このような格好の材料を手にしながら、「つくる会」教科書は、その可能性を自ら摘んでしまった。人物コラムで取り上げる女性を文学者に限定することでそうしたのである。
 古代人物コラムにとりあげる女性は、紫式部よりも孝謙天皇が適当であろう。男性継承が優位となった8世紀においても女性での皇位継承も承認されたことと、女性天皇が対立者を排除できるだけの天皇としての権力も行使し得た存在である事が見事に示された例だからである。

:この項は、前掲・河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」・遠山美都男著「大化の改新」「壬申の乱」・保立道久著「平安王朝」、古田武彦著「よみがえる卑弥呼ー日本国はいつ始まったか」(1987年駸々堂刊)、奥田暁子著「王権と女性」・野村知子、河野裕子著「律令期 族制・婚制をめぐる問題点」(以上、藤原書店1995年刊「女と男の時空:日本女性史再考1・ヒメとヒコの時代ー原始・古代」所収)、笠原英彦著「歴代天皇総覧ー皇位はどう継承されたか」(2001年中央公論新書刊)、義江明子著「古代女帝論の過去と現在」(岩波書店2002年刊「講座天皇と王権を考える第7巻:ジェンダーと差別」所収)、成清弘和著「女帝の古代史」(講談社現代新書2005年刊)、などを参照した。


目次へ 次のページへ HPTOPへ