「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第1章:原始と古代の日本」批判D
5.『元祖歴史捏造』としての「邪馬台国」論
古代の第二節、古代国家の形成の最初の項は、「東アジアの日本」と題して、紀元前後から紀元後3世紀頃の日本の様子を述べたものである。この部分は、他の教科書と大同小異であり、むしろ詳しく記述されている。例えば「中国が周辺諸国につける名は、まわりの国々を見下す観点から、用いる文字も『卑字』が用いられている」例として、「東夷」の言葉を挙げていることや、「邪馬台国」の場所が確定せず、今だ論争中であることなど、他の教科書より詳しく述べられている。
また、日本の古代国家の成立を、日本一国の視点ではなく、中国を中心とする東アジアの歴史の流れの中に位置付けていることは、日本の歴史を見る上で大切な視点である。(卑字の指摘などは、中国の中華思想が昔からのものであり、後にその蒙昧性を批判する上で必要な記述であった可能性が高いが・・・。)
しかしこの部分の記述にも問題はある。いや、この問題は、「新しい歴史教科書」のみの問題なのではなく、全ての教科書に共通した問題であり、これが新しい歴史教科書の歴史捏造の前例であり、それを生み出した揺りかごだからである。
それは何か。
それは日本の中心は、大和地方(奈良県および近畿地方)という固定観念である。そして、戦後の全ての教科書が(いや、日本古代史の研究者のほとんどが)、現天皇家(いうならば「大和天皇家」)が先祖代々、日本列島の王者の中心であったという考え方(=皇国史観)に、いまだに毒されて、資料すらまともにあつかえないで、歴史を捏造してきたということである。
(1)「倭奴国」を倭の一小国に切り縮める意図は?
この教科書の部分で言うと、一つは『志賀の島の金印』の問題である。
この教科書には、次のように記述してある(p32)。
『後漢書』の「東夷伝」には、1世紀中ごろ、「倭の奴国」が漢に使いを送ってきたので、皇帝が印を授けたと記されている。(中略)このとき授けられたと思われる金印が、江戸時代に志賀の島(福岡県)で発見されたので、中国皇帝と日本列島の使者との交渉はあったと考えられている。 |
そしてページの上部には金印の朱印が印刷されており、そばに置かれた地図には、日本列島に「倭」と記し、その一部の九州の博多付近に「奴」と書き、この金印をもらった国が、北九州の小国であったと明示している。
この金印に記された国を「倭の奴の国」と読むようになったのは明治時代になってからであり、この奴の国を後述する魏志倭人伝中の第三の大国「奴国」に比定し、「邪馬台国」を近畿地方の大和に比定する論を立てるために出された読み方である。それまでは「倭奴=いと=伊都」と読み、同じく魏志倭人伝の伊都国(福岡県の糸島半島付近)に比定するものであった。
なぜ読みを変えたかというと、魏志倭人伝の魏の使いの行程記録にある奴国を那珂川の河口付近に比定すれば、その前の国である伊都国からの方角が北東となり、倭人伝の「東南」と矛盾し、『倭人伝の方角記述は信用できない』という論理の根拠となり、「邪馬台国」を倭人伝の行程記事から切り離して、かってに大和にまで持ってくることが可能になるからである。つまりこの「倭の奴の国」という読みかたの成立の背景には、「倭人伝の記事をその話法の解析からはじめて正確に読み取る」という資料批判の正道に従わず、その地名を勝手に現実のある場所に比定してから、その上で「資料の記述の誤り」を指摘するという、本末転倒の資料操作があったのである。いいかえれば、結論が先にあって、その上で原典資料を改作するという、「歴史捏造」という手口が、すでに明治時代に行われていたのである。
何のためか。「邪馬台国」を近畿大和地方に比定するためである。
だがこの歴史捏造は、その結果かえって齟齬を生じることとなった。それが「漢倭奴国王」の読みである。
中国の皇帝が服属する諸民族の王に印を贈る場合、金印は一民族の代表者を意味する統一権力に送っていた。そして印を贈る主体であり、上位者である皇帝の国号(この場合は漢)のすぐ下にくる文字は、皇帝に服属する夷蛮の国号を載せる。したがって「漢倭奴国王」は「漢の倭奴国王」と読むのが正しい。
これを無理して博多湾岸の奴国にあてたために、中国の印の読みの通例から外れた、無理な読みをしたのである。
倭奴は、漢を北方から脅かしていた匈奴に対する語であり、匈奴の「おじけづいて騒がしい」蛮族に対する、「おだやかに従う」蛮族という意味で、倭奴という字を用いたものであろう。そしてこの倭奴は倭と同義であり、金印をもらったのは倭の国王なのである。
要するに金印が出た博多湾の志賀の島こそが倭国の王家の谷であり、その対岸の博多が倭国の中心なのである(この点、古田武彦氏の説に従う)。しかし、この古田氏の説を、日本の古代史家の多くは認めない。理由は、彼らの多くがいまだに抱いている「大和中心史観」に、この説が抵触するからである。
弥生時代の金属器の出土の中心は北九州博多付近。同じく弥生時代の絹の出土の中心は北九州博多付近。そして3種の神器をともなう弥生の王墓の集中地域も北九州の博多付近。これらの考古学遺物の指し示す事実を見ようともせず、いまだに日本列島の中心は昔から大和であるという固定観念に縛られた結果。金印の示す意味すら読み取れないのが、現在の日本古代史学会なのである。
「新しい歴史教科書」の著者たちの古代史捏造は、この日本古代史学会の「大和天皇家中心史観」を拡大したにすぎないのである。
(2)「邪馬台国」は存在しない
同じことが、次の「邪馬台国と卑弥呼」のところでも言える。
この教科書では「邪馬台国」のことを魏志倭人伝に依拠して説明しながら、いまだにその位置がはっきりしないことを次のように記述している(p33)。
しかし、魏志倭人伝を書いた歴史家は、日本列島に来ていない。それより約40年前に日本を訪れた使者が聞いたことを歴史家が記していると想像されているにすぎない。また、その使者にしても、列島の玄関口にあたる福岡県のある地点にとどまり、邪馬台国を訪れていないし、日本列島を旅してもいない。記事はかならずしも正確とはいえず、邪馬台国が日本のどこにあったのかはっきりしていない。 大和(奈良県)説、九州説など、いまだに論争が続いている。 |
この記述は多くの教科書の中では詳しいほうである。中には「邪馬台国」論争の存在すら示していない教科書もあるくらいである。
だがこの記述には大いなる嘘がある。それもこの教科書の著者たちだけの嘘ではなく、日本古代史学会の公認の嘘が。
それは何か。その一つは魏志倭人伝の記事が正しくないということ。これは前述のように、「邪馬台国」などの国の場所をあらかじめ論者の好きな所に比定しておいて、自分の説にあわないから「資料が正しくない」という論から生まれたもの。魏の使者が「邪馬台国」にいっていないというのも古代史家の勝手な解釈。倭国王に会いに行った使者が国王に会わないはずがない。第一それでは倭女王の生活についての詳しい記述や、女王の風貌についての詳しい記述もできるわけはない。魏使は20年にわたって倭の地にとどまり、女王が魏の皇帝の冊封を受けた倭王であることを倭国の人々に知らせつつ、女王国に敵対する狗奴国などとの闘いの先頭にも立ったのである(これこそ卑弥呼が魏に朝貢した理由に他ならないのである)。
ではなぜ使者が福岡県のある地点にとどまり、「邪馬台国」に行っていないという説が生まれたのか。それは魏志倭人伝にすなおに従うかぎり、魏の使いは九州から出ていないからである。つまり「邪馬台国」は九州の中心の福岡にあるからであり、それでは、近畿大和説が根本的に成り立たないからである。
ここも自説が最初にあり、それにあわないからといって原典資料を間違いだとする、歴史捏造の姿勢の現われなのである。
また第二に、この記述では「邪馬台国」の場所がはっきりしないのは、魏志倭人伝が不正確だからと読めてしまう。
事実は逆である。今までの多くの学者は、近畿大和説にしても九州山門(やまと)説にしても、「邪馬台国」の場所を最初から決めてかかり、原典資料である魏志倭人伝をかってに作り変えてしまうという歴史捏造をやってきた。そのため、「邪馬台国」の所在は、論者の数だけ存在してしまったのであり、資料が不正確だったからではないのである。
資料が不正確なら、そんな資料をつかって古代を論じる事自体がおかしいではないか。
最後に1点付記しておこう。それは「邪馬台国」の国号問題である。
結論を先に言おう。魏志倭人伝では「邪馬台国」とも書いていないし、その旧字体である「邪馬臺国」でさえない。あたりまえである。「臺」の字は「中央権力の中心の役所」を指す文字であり、魏志倭人伝が書かれた時代では、天子の居所=宮殿を示す言葉である。
天子と言えばこの時代は、中国の皇帝以外のなにものでもない。中国皇帝の家来である「蛮族」の王の居所に「臺」の字は使えないのである。
ではなんと書いてあったか。「邪馬壹国」である。呉音で読めば「やまいちこく」。漢音で読めば「やまいつこく」または「やまいこく」である。
「やまい」と読むのが良いのではないか。字は「邪馬倭国」または「山倭国」である。つまり倭国のなかの「やま」とよばれる国。それが女王の都する国であった。邪馬の字は「やま」の音を卑字で現したもの。壹は「い」の音を現してはいるが、「もっぱら」とか「専心する」という「佳字」を用い、漢王朝に敵対せず、もっぱら恭順の意を示している国という意味で、前述の「倭奴」と同じような使用のしかたであろう。
「邪馬壹国」では、どうやっても近畿大和に比定することはできない。そこで「壹」の字に字形が似ている「臺」の字をあて、それを強引に「やまと」と呼ぼうとした。それが「邪馬台国」の国号の由来である。この国号自体が歴史捏造の結果なのである。
ただ「邪馬臺国」には根拠がある。後漢書には『大倭王は邪馬臺国に居するなり』と記している。これは「やまだいこく」であり、字を変えれば「邪馬大倭国」または「山大倭国」である。
後漢書の列伝を書いた范曄は5世紀の人であり、このころには中国は分裂し大勢の天子がいた。つまり複数の「臺」が存在したのである。したがって范曄が倭国の都を記述するとき、「だい」を「臺」と記述したのかもしれないし、倭国の王自身が、天子を標榜し「山臺」と名乗ったのかもしれない。またこれは「山大倭」の意味でもあるかもしれない。
いずれにしてもこの字を使うには5世紀という後の時代の状況があってのことであり、それでも「臺」を「と」と呼ぶこともできないのである。
「邪馬台国」という国号の使い方。このこと自身に、日本の歴史を「大和天皇家中心史観」をつかって捏造しようとする日本古代史家の傾向が要約されているのであり、それをそのまま無批判に使っている所が、「新しい歴史教科書」の著者たちが、日本古代史学会の忠実な弟子である事の自己表明でもあるのである。
注:05年8月の新版の記述は、ほぼ旧版と同じである(p26・27)。異なるのは二つ。一つは、「倭人伝」の記事が不正確だとする理由を旧版ではくわしく述べていたのが全面削除され、ただ「倭人伝の記述には不正確な内容も多く」とされたこと。これではどうして「不正確」と判断されてきたかがわからず、魏志倭人伝の倭についても詳しい記述と合わせて本当に不正確なのか考える事ができなくなっている。この「不正確な理由」が削除されたかわりに、「中国を中心とした国際関係」という一文が挿入されている(p27)。これは旧版で「大和朝廷の外交政策」の項に載せられていた「中華秩序と朝貢」の記述を拡大し、この項の内容にあわせて記述したもの。倭の国の最初の朝貢の所に入れたのは、事実の理解に大いに役立つ。
注:この項は、古田武彦著「邪馬台国はなかった:解読された倭人伝の謎」(朝日新聞社1971年刊)、「ここに古代王朝ありき:邪馬一国の考古学」(朝日新聞社1979年刊)、「倭人伝を徹底して読む」(大坂書籍1987年刊・朝日カルチャーブックス76)、和田清・石原道博編訳「魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」(岩波文庫1971年刊)などを参照した。