「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第1章:原始と古代の日本」批判E


 6.幻の『大和朝廷』による『日本統一』

  (1)幻の『大和朝廷』

 古代史の次の節は、「古墳の広まりと大和朝廷」と題し、のちの大和天皇家のもとで日本の統一が進められたということを記述する節である。
  この部分の記述も、「新しい歴史教科書」と他の教科書との間には、記述には大差がない。その分、問題がないように見えるが、実はこの部分にも日本古代史学会公認の歴史捏造がなされているのである。

  いわく、『4世紀から5世紀にかけて、大和の諸豪族が大王家(後の天皇家)を戴いて立ち上げた統一権力(大和朝廷)が、日本の大部分を統一した』と。

  この仮説は、日本古代史学会公認の「定説」として一般に流布している。
  しかしこの仮説の根拠はとても脆弱である。

  この教科書の記述を見よう(p34)。   

 古代国家は、どこでもたいてい王の巨大な墳墓を残す。日本列島でも3世紀以降、最初は近畿地方や瀬戸内海沿岸に、やがて広い地域に、まるで小山のように盛り上がった、方形と円形を組み合せた古墳が数多くつくられた。これを前方後円墳という。(中略)ほうむられているのは、おもに地域の支配者であった豪族たちである。大和(奈良県)や河内(大阪府)には、ひときわ巨大な古墳が多かった。この地の豪族たちが連合して統一権力を立ち上げたためと考えられ、これは大和朝廷とよばれている。
 地方の豪族たちの上に立つ大王の古墳は、ひときわ巨大であった。わけても、日本最大の大仙古墳(仁徳天皇陵)の底辺部は、エジプトでも最大のクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きかった。古墳は3世紀ごろに造営が始まり、7世紀ごろまでつくられた。
 いったいこれほど大きな権力はいつ始まり、いつ大きくなったのだろう。
 いつ始まったかは深い謎につつまれているが、いつ大きくなったかはだいたいわかっている。4世紀である。これは古墳の普及のようすから判断できる。

  まずこの教科書の記述の誤りから指摘しておこう。

  それは、この教科書では「古墳」と「前方後円墳」とが、ほぼ同義にあつかわれていることである。
  上の文の下線の部分は、「大和朝廷」による統一の根拠を述べたものであるが、ここでいう「古墳」とは、正しくは「前方後円墳」のことである。
 古墳は、巨大な墳丘をもった首長の墓であり、それ以前の弥生時代の首長の墓と区別して「古墳」と呼ばれる。古墳にはいろいろな形があり、もっとも多いのは平面形が円形の円墳で、小は直径10mぐらいから大は直径100mぐらいまである。これが一般的な王墓(首長墓)であるが、地域によってこれ以外にさまざまな形の違いがある。

 たとえば島根県などの昔の出雲地方の王墓は、長い間、平面が方形の方墳であったし、関東地方南部でも方墳であった。中には最大一辺が100mにもなるものがある。また東北から九州まで分布する一つの形として、方墳の前に方形の祭壇がついた形の前方後方墳というものもあり、最大のものは全長150mを越える。

 前方後円墳というのは、これらの多くの古墳の中の一つの形であり、その初源のころの分布範囲が、瀬戸内海周辺から近畿地方(正しくは奈良県)のみに限られた特殊な墳形をした古墳である。そしてこの中でも最も古い形を持ったものと考えられる古墳が奈良県の三輪山周辺にあり、この特異な形をした古墳が、その後全国に広がっていることと、その最大級のものが近畿地方(正しくは、大阪府=河内の国と奈良県=大和の国)に集中しており、それらが大和天皇家の祖先の墳墓との伝承があることから、この古墳の発生と広がりとが、大和の権力の広がりの根拠と考えられたのである。

 しかし、この古墳の広がりが大和の権力の広がりと断定する根拠は乏しい。

 その理由の一つは、古墳は築造された年代がわからないということである。そんなことはない。「○○世紀前半に作られた古墳」などとよくいうではないかと思うだろうが、そこが味噌である。この○○世紀前半という年代は、前方後円墳という形の変化の激しくかつ統一的な規格の古墳の分布をもとに考えられた年代で、その前提は、『最も古い形の前方後円墳は大和盆地にある箸墓などの古墳であり、これらの古墳が三世紀後半のもの』と考えられ、それを基準作られた年代である。したがってこの年代自体が仮説なのである。

 その理由の二つは、最も古い前方後円墳の年代が3世紀後半と比定された理由が、全くの臆説に根拠をおいているということである。それは、これらの古墳から「三角縁神獣鏡」と呼ばれる「古鏡」が大量に出土し、その中には、あの「邪馬台国」の女王卑弥呼が魏の皇帝から鏡を下賜されたとされる年代の「景初」の年号をもったものもあるので、この三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」と考えられたからである。そして卑弥呼が死んだのは250年ごろであるから、その子孫の王に代々伝承されたあと墓に埋められたとすれば三世紀の後半だというわけである。さらに、この鏡は全国の多くの前方後円墳から出土しているので、大和朝廷がそれに服属した各地の王たちに、このかたちの墓をつくることを許すと共に、権威の象徴である鏡を下賜したと考えられたのである。

 しかしこの三角縁神獣鏡は中国ではまったく出土せず、日本のみの鏡である。そして文字が鋳込まれているものでも、文字の形に間違いが多く、とても中国で作られたものとは思われないこと。そして卑弥呼が下賜された鏡は100枚と魏志倭人伝などに記されているのに、出土した三角縁神獣鏡は3000枚を越えている事。さらに卑弥呼が魏に朝貢したのは景初ではなく、次の年号の正始年間であることから、「卑弥呼の鏡に景初の年号が入っているのはおかしい」ことと、その「景初年号」の三角縁神獣鏡の年号を良く見ると、「初」の部分ははっきりせず、100年ほど後の年号にも読める事などから、近年ではこの鏡が中国の鏡であることに疑問が持たれている。

 研究史をたどってみるとわかることだが、これを「景初」と読んだ事自体、はじめから「卑弥呼の鏡」との思いこみがあったのであり、「邪馬台国は大和だ」との前提があって研究されたことなのである。証明すべきことを前提にして資料を解釈する。ここにも「邪馬台国論争」と同質の、歴史の捏造ともいえるものがあったのである。

 こうして三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」であるという前提がくずれれば、初期の前方後円墳が3世紀後半という根拠は全くなくなるのであり、その権威の象徴として鏡を全国の王に下賜したという仮設も幻に終わる。
 また理由の3として、前方後円墳の発生そのものが最近解明されつつあると言う事をあげよう。前方後円墳の形をもった墳墓の中でもっとも古いものは岡山県に広がる弥生時代の墳墓である。
 弥生時代の王墓の形は基本的に平面形が方形である。方形の山を築き、その頂に王の遺骸を埋めるのが通例で、その変形として、その山のまわりを堀で囲むと言う形がある。それが岡山では弥生時代に、方形の墳墓の全面に低い方形の(正確には三味線の撥のような末広がりの形)祭壇を作りつけ、その墳丘の頂や裾野に円筒形の土器を立てるという形が行われていた。まさに前方後円墳であり円筒埴輪である。

 この岡山の弥生の王墓に、王の遺骸を入れるものとして高野槙をくりぬいた棺を入れ、内部に鏡と玉と剣という3種の神器(これは北九州の弥生の王墓で見られる副葬品の形である)をいれれば、初期の前方後円墳そのものなのである。

 つまり前方後円墳は弥生時代の岡山の王墓の形に、弥生時代の北九州の王の墓の副葬品を加えた形をもっているのである。二つの地域の文化を背景としてつくられた王墓の特殊な形なのである。

 いいかえれば、前方後円墳として最も古いものの一つとしてこの教科書でも取り上げている奈良県の箸墓は、「巨大な王墓」としての「前方後円墳」の始まりの一つなのであって、前方後円という形の王墓としては最古の物ではないということであり、前方後円墳が「大和ではじまった」と言われる通説は、まったく根拠がないのである。

 年代が限定できず、その根拠であった「卑弥呼の鏡」が幻となり、その古墳の始まりが大和ではないとすれば、「大和朝廷の全国統一」なるものも、完全な幻になってしまうのである。

 なぜこんなことになったのか。理由は簡単である。日本古代史の基本文献の一つである「古事記」では、神武以来「天皇」とおくりなし、まるで神武の子孫が代々日本の王であったかのように見せかけている。さすがに戦後はこの神話をそのまま信じるのは憚られたので、古事記で「ハツクニシラシスメラミコト」と書かれたこの「天皇」の墓と伝承されているのは、奈良県三輪山山麓の前方後円墳であり、その周辺には古い形の前方後円墳がたくさんあった。「ハツクニシラシ」という言葉を「日本統一」と読み替えて、その考古学的根拠として、前方後円墳の発生と広がりと、三角縁神獣鏡の広がりをあげたのである。

 ここでも結論が先にあって、それを理由付けるために、考古資料という原典資料を恣意的に操作するという、捏造ともいえる歴史分析手法がとられていたのである。

 4世紀から5世紀における大和朝廷による日本統一は、完全な幻である。

 最後に一つ付言しておこう。

 この新しい歴史教科書は、大阪の伝仁徳天皇陵をエジプトのクフ王や秦の始皇帝の墓と大きさを比較し、「それらよりも底辺の大きさが大きい」ことをもって、この墓をつくった権力の大きさをはかっている。
 だが古代国家はいつでもどこでも大きな王の墓をつくったのだろうか。

 ピラミッドは最近の研究によって王の墓ではなく、王権の正統性をしめすための一大記念碑であり大規模な儀式の装置だったのではないかと考えられている。つまり王の再生の儀式の。そしてピラミッドという巨大な建造物が作られたのはエジプト古王国の歴史の中のわずか100年ほどである。

 秦の始皇帝の墓も、墓というより巨大な記念碑であることは、地下から発見された兵馬踊の巨大さからも想像できるであろう。やはり数百年ぶりに中国を統一したということを示すものであろうか。

 ではなぜ、近畿地方の前方後円墳、とりわけ大王の墓とされたそれは巨大なのか。通説ではそれは権力の巨大さ、日本の統一権力としても記念碑と説明している。しかしこの説明には根拠がない。「大和朝廷」という統一権力があったということを前提として、この説明は成り立っているのであり、その前提が崩壊してしまえば、この地の王墓の異常な大きさ(通常はせいぜい全長200m。大仙古墳は480m。異常な大きさである)を説明することができない。

 ここで最後に、この王墓の異常なまでの大きさを、統一権力としての大和朝廷を前提としないで説明した唯一の説である、古田武彦氏の説明をあげておこう。

 古田氏は巨大な前方後円墳の出現を、神武(もちろん天皇ではない。倭の伊波礼地方の王としてのカムヤマトイワレヒコノミコトである)以来、銅鐸文明圏に武装侵略を試みた集団が、ついに10代の後になってその銅鐸勢力の中心地を陥落させ、九州の倭王の分王朝として成立したという一大モニュメントと解釈する。その始まりが崇神などの大和盆地の巨大古墳である。そして14代の応神の時代に至ってその勢力は銅鐸文明圏をほぼ席巻し、母なる国・九州の倭王朝と闘えるようになった(仲哀が熊襲=九州王朝との闘いに敗れて死んだあと、応神を身ごもった神功は敗軍を率いて、仲哀のあとを継いだ二人の息子たちを倒し、息子の応神にあとを継がせた)。このことを誇る記念碑として建てられたのが大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳【こんだごびょうやまこふん】(伝応神天皇陵)であり、難波津に入る船に見えるように立てられたのが大仙古墳【だいせんこふん】(伝仁徳天皇陵)であると。そしてあの三角縁神獣鏡の大規模な鋳造は、母なる祖国・倭王朝の鏡の文明の流れをくむことの誇りと崇拝が、それを生み出したもとであろうと。

  (2)「王国」の分立の時代へ!

 大和や河内の前方後円墳が異常に巨大であることを以上のようにとらえると、そこから新たな問題が立ち現れてくる。

 それは、「大和朝廷による日本統一」ではなく、「王国の分立と戦乱の時代の出現」である。

 この時代のことを、新しい歴史教科書はつぎのように記述している(p35)。

 ちょうどこのころ、中国は内乱で勢力が弱まっていた。その間に、朝鮮半島の北部では高句麗が強国となり、南部では百済や新羅が台頭した。
 一方、中国の歴史書で「倭」とよばれていた当時の日本は、3世紀後半から5世紀のはじめまで、中国の文字記録からまったく姿を消す。日本列島でも、中国の影響力が弱まったこの時期に、こうした周辺諸国の動きに合わせるかのように、大和朝廷による国内の統一が進められたのである。

 おかしな記述である。中国では内乱がおこり、南北朝時代という長い戦乱の時代に入り、王朝がいくつも乱立し、天子が多数並立するという内乱の時代にはいった。そしてこれと歩調をあわせて、朝鮮半島でも高句麗・百済・新羅、そして倭による戦乱の時代がはじまったのである。つまり中国が内乱状態になるとその影響力は弱まり、周辺の諸国でも権力が分立し、内乱状態となるということである。これは東アジアの歴史の流れであり、何度となく繰り返されたことである。

 しかしこの4〜5世紀は違っていた。日本では周辺諸国の動きに反して、「統一」が進んだのである。そう。『周辺諸国の動きに反して』と記述すべきであったのである。

 4〜5世紀に大和朝廷による日本統一が進んだと考えると、周辺諸国の状況と違う事態が生まれたことになる。だが、記紀の仲哀による熊襲征伐を九州王朝の本拠地の筑紫に攻め入った仲哀が、九州王朝軍とそれを支援する百済・新羅軍との闘いに敗れて敗死したと捉えるなら、これは日本における「王国の分立と対立の時代」が始まったことを意味している。
 つまり紀元前の漢王朝の時代から倭の正統王朝として認められてきた北九州の王朝に対して、その分王朝である大和王権が敵対し、激しく戦ったわけである。しかしこのような事態は何もこれが始めてではない。「邪馬台国」の女王卑弥呼が魏に朝貢したのも、その分王国である狗奴国の反乱と対立に対処するためであった。つまり中国における漢王朝の滅亡・三国の対立の始まりは、日本にも影響し、複数の王国が対立する時代の幕を開けたのである。これが3世紀の中ごろのことである。そして仲哀と熊襲のたたかい。これは4世紀終わりから5世紀はじめ。まさに日本列島も王国の分立と対立の時代に入っていたのである。

 この観点から見るとき、河内の300mを越す前方後円墳群と対をなすようにしてそびえる300m級の前方後円墳が瀬戸内海の吉備地方(岡山)に存在している意味も、自ずから明らかであろう。5世紀は、少なくとも、九州王朝(倭王権)・吉備王権・大和王権の3つの王国の対立と抗争の時代であったのである。そしてこの対立は東国にも波及していたであろう。

 だからこの時期に全国で多くの巨大な前方後円墳が立てられたと解釈できないだろうか。

 そしてこの闘いはさらに続く。それは西では527年の大和の王・継体が九州筑紫に攻めこみ、九州王朝の王者・筑紫の君磐井を倒し、その子の葛子の軍と激しく戦うという事態にまでいたり、東では534年の武蔵国造の内紛に、北の大国毛の国の大軍と、西の朝廷(日本書紀は大和を指しているように書かれているが、この時代『朝廷』といえば、九州筑紫以外にない)の大軍が介入し、「朝廷」側が勝利するという事態にまで発展するのである。

 従来の日本古代史学会の定説では、このような統一的なとらえかたはしていない。だがしかし、前方後円墳の発生と普及の事実と、神話や古記録における記事とを統一的に把握すると、従来の定説とはまったくちがった位相の歴史が出現するのである。

 そしてこの『3世紀から5・6世紀まで日本は王国の分立と対立の状態が続いた』との新しい理解は、中国・朝鮮など周辺諸国の動きとも完全に一致しており、日本国内の動きと国際情勢とを、一体のものとして理解できるのである。

 日本古代史学会は、考古学的事実と、神話や古記録とを、それぞれバラバラに解釈して、それを「大和朝廷による日本統一」という、すぐれて皇国史観にたつ政治イデオロギーで粉飾してしまったため、まったく特異な歴史を作り上げてしまったのである。

 「新しい歴史教科書」の皇国史観に立つ歴史捏造の源は、ここにあったのである。

注:05年8月の新版の記述は、旧版とほぼ同じであるが、一点完全な捏造と言える記述が挿入されている(p28・29)。それは当時の東アジアの動きについてだが、中国が分裂して対外的な影響力が弱まったと記述したあと、「朝鮮半島では、北部で高句麗が強国となり、南部では百済や新羅が台頭して、統一国家への動きがつよまった」(p28)と述べた部分である。この記述の下線部分が完全な捏造である。この高句麗・百済・新羅の台頭は、朝鮮半島内のそれぞれの地域の統一行動ではあるが、半島全体の統一国家への動きではまだない。正しくは半島内に複数の王朝が成立して、分裂抗争している時代である。これを「統一国家への動き」と強弁した理由は、そのすぐあとで、「こうした周辺国家の動きに合わせるかのように、日本列島でも、小国を合わせて統一国家をつくる動きが生まれた。その中心が大和を基盤にした大和朝廷とよばれる政権だった」と述べる事の理由づけだったのである。

 すなわち私も指摘した「東アジア規模での流動」に反して日本だけが統一国家の成立という矛盾を矛盾ではなくすために、朝鮮半島における動きを「統一国家への動き」と強弁して歴史を捏造しようとしたのである。これは汚い歴史の改作・偽造である。

 もうひとつ旧版と異なるのは、項の記述の最後に「大和の氏姓制度」についての記述を挿入したことである(p29)。これは旧版では、「大和朝廷の外交政策」の中にあった「技術の伝来と氏姓制度」の記述を前にもってきただけである。「統一国家」の仕組みを示しておきたいという意図であろう。しかしこの記述も「氏ごとに決まった仕事を受け持った」と書くだけなので、実は「大和朝廷」は有力な氏の連合体に過ぎないという実態が見えない記述になっている。

注:この項は、森浩一編著「シンポジウム古墳時代の考古学」(学生社1970年刊)、古田武彦著「失われた九州王朝:天皇家以前の古代史」(朝日新聞社1973年刊)、近藤義郎著「前方後円墳の誕生」(1986年岩波書店刊:岩波講座 日本考古学6「変化と画期」所収)などを参照した。


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