「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第1章:原始と古代の日本」批判H
9.日本列島は「大和」の傘下にはないことを示す「倭建伝承」
4〜7世紀の東アジア情勢と日本について述べた後、この教科書はコラムとして「日本武尊と弟橘媛―国内統一に献身した勇者の物語」と題して、伝承を挿入している。位置付けとしては、「大和朝廷による国内の統一が進んだ4世紀前半ごろ、景行天皇の皇子に日本武尊という英雄がいたことを、古典は伝えている。」という教科書の記述で明らかであろう。
「4世紀における大和朝廷のよる日本統一」という命題を照明する人物の物語として、この伝承は位置付けられている。だがはたしてそうなのだろうか?。
まず、教科書の物語を読もう(p42)。
景行天皇の時代に、九州に反乱があったので、第2皇子の小碓命が、征伐のために派遣された。当時皇子はまだ、16歳の若さだったという。 皇子はクマソの国にいたり、少女の姿になって、反乱の指導者クマソタケルに近づき、これを見事に倒した。タケルは皇子の勇敢さをたたえ、「これからは、あなたがヤマトタケルと名乗られるがよい」と言って、息絶えた。 |
(1)「クマソ」の反乱はない!
「九州に反乱があった」「その指導者がクマソタケル」だというのは、日本書紀の主張である。古事記ではそうなってはいない。
古事記では、「西の方に熊襲建が二人いる。これは従わず、臣従の礼もとらない人々である。この人々をとれ」という「天皇」の命令として表現されている。つまり熊襲は「大和」の「天皇」には従わない人々だと言っているだけで、その人々が「大和に反乱した」とは一言も言ってはいないのである。
どちらが元の形なのか。古事記である。日本書紀は、昔より日本は「大和の天皇」の統治下にあったという大義名分論で記述しているからである。
(2)潜入=暗殺行としての「倭建の西征」
また同じことを、倭建の行動が示している。小碓の命は熊襲建に少女の姿になって近づく。そして酒宴の場に潜りこんで、熊襲建がその美しさに見とれて側に呼んだので酒の相手をし、人が少なくなった時に、熊襲建を殺したのである。これはどうみても、隠密に敵国に忍び込み、暗殺したというもので「征服」という類のものではない。
古事記では小碓の命は単独行であり、熊襲建を倒してから熊襲の国をどうしたという記事はまったくない。古事記では完全な潜入=暗殺行なのである。また、日本書紀でも小碓の命の供は、美濃の弟彦公と尾張の田子の稲置と乳近の稲置の3人、都合4人の旅であり、熊襲建を倒してから弟彦らをつかわして熊襲建の党類をことごとく討たせたというだけである。
なぜ潜入=暗殺なのか。それは熊襲が当時の「大和朝廷」には大軍を送って征服なぞできる相手ではなかったからである。熊襲のほうが大和より上位の国であり、大国であった。
(3)「名を与える」=上位者のすること
また、このことは、熊襲建が小碓の命に名前を与えると言う行為の中に示されていることである。
名を与えるとは、上位の位にあるものが下にいる者にすることである。つまり熊襲建は小碓の命より上位に位置するものなのである。したがて熊襲の国は、大和の国より上位にある大国なのである。
(4)「熊襲=倭王権」
さらにこの熊襲建が小碓の命に名前を与える場面を詳しく読むならば、熊襲が倭を代表する立場にあることが分かる。古事記では、熊襲建の言葉として、次の言葉を残している。
西の方に、我ら2人を除いて、建く強き人はなし。しかし大倭国には、我2人にまして、建き男がいた。それゆえ我が名を献じよう。 今より後は、倭建命というべし。 |
文意に従えば、この大倭国は西の方の熊襲の国と東の方の大和の国の全体をあらわす言葉である。だからこそ、この大倭国を代表する勇者という意味の「倭建命」という名が与えられるのである。そしてこの「大倭」は、あの倭の五王の時代の4〜5世紀の用語である。
熊襲の王が「倭の代表的勇者」という称号を小碓の命に与えたということは、熊襲の王が倭を代表する王であったこと、つまり中国などの文献に登場する「倭王」であったことを示している。
「倭建の命の熊襲『征伐』」の伝承は、その伝承を詳しく見ると、教科書の著者たちの意図に反して、この伝承が成立した当時は、大和によって日本は統一されていないことを示していたのである。
同じことは、次の「東国征伐」伝承でも言える。まず教科書の記述を見よう(p42)。
尊が相模の国(神奈川県)にいたったとき、賊にあざむかれて、野原の中に入ったところ、野に火をつけられて、あやうく焼き殺されそうになった。そこで剣を出して草を薙ぎ払い、逆に火をつけて、賊をほろぼしてしまった。 |
教科書はここで突然、古事記にしたがって物語を述べる。ここまでは日本書紀の記述に従ってきたが、この話しを「相模の国」の話としているのは古事記であり、日本書紀は「駿河の国」としている。この事件のあったところを、古事記では「焼遣」とかいて「やきづ」と読んでいる。相模の国に「焼遣」という地名はないので、日本書紀の編者が「焼津」のある「駿河の国」の話しに改めたのであろう。
しかしこのやり方は歴史の捏造になる。「焼遣」=「焼津」という先入観で資料原文を改定するのは間違いである。あくまでも相模の国の中で、「焼遣」に相当する地名を探すべきであろう。
しかし日本書紀の原文改定はこれだけではないのである。
(5)「大和朝廷」の任命しない国造(くにのみゃっこ)の存在
古事記では倭建の命をあざむいたのは「相模の国の国造」である。そして生還した倭建命に切り亡ぼされ焼かれたのも「国造」である。これを日本書紀では「賊」と原文を改定している。
なぜ改定したのか。それは古事記でも日本書紀でも、「国造」を任命した記事が、倭建の命の記事よりもあとの時代に出てくるからであり(倭建の母の違う兄弟にあたり、父景行『天皇』のあとを継いだ、若帯足日子の命(成務天皇)の時代)、このままでは相模の国造は「天皇が任命していない」国造になってしまうからである。
しかし、これは「日本は古来から大和の天皇家が治めていた」という大義名分に立つ原文改定である。これは歴史の捏造である。
古事記の原文を虚心坦懐に読むならば、「大和天皇」家が任命するよりさきに国造がいたということを示している。それはだれが任命したのか?。それは「倭王権」=熊襲である。九州の王権がすでに相模まで勢力を及ぼし、その地の王を「国造」に任命していたとしか考えようがない。したがって成務(天皇)の国造任命記事は、「大和」の王が支配する国々にはじめて国造を置いたという意味になる。
(6)大和の東の堺は「尾張の国」
ではこの当時の『大和』の東のはてはどこか?。それは尾張である。尾張では倭建は、尾張の国造の祖先である「美夜受比売」の家に逗留し、後の「東征」の帰りには、比売と結婚をしているからである。ただし、尾張の北部の美濃および近江は安定した領域ではなかった。そこには倭建に従わない「伊服岐山」の神がおり、それを武器も持たずに従わせようとした倭建を、氷雨降る環境に迷いこませて散々な目に会わせていたからである。
(7)戦のほとんどない「東征」!
最後にこの倭建の説話は、東の従わないものものどもを平定するといいながら、古事記ではほとんど戦闘らしき記事はない。あるのは相模の国の焼遣での出来事と、「伊服岐山」の神との出来事のみである。弟橘媛の入水の話しの後も「荒ぶる蝦夷どもを言向け、荒ぶる神たちを平らげ和す」と抽象的に描くだけで、ほとんど戦闘らしきものはない(日本書紀は大船をしたたて蝦夷の国へ侵入した話しが入っているが、これは別人の闘いを挿入したようである)。はたしてこれが「東征」なのだろうか。そういえば古事記では倭建がおばの倭比売命を伊勢に尋ねたときの言葉として、「軍衆もたまわずして、東の方の十二道の悪しき人々を平らげに遣わしす」と嘆いている言葉が伝わっている。
そう、この東への旅もまた、軍勢を伴った遠征ではないのである。では何か?。
これは東の「大和」の領域に属さない国々への隠密行ではなかったか。
ともかくも倭建の伝承は、詳しく検討してみれば、それはけして日本統一譚ではなかったのである。新しい歴史教科書の著者たちは、神話・伝承を数多く使って、日本古代史を語ろうとした。しかしその使い方は、「大和朝廷によって日本は昔から統治されていた」というイデオロギーに基づいて「大和天皇家」に伝承された神話・伝承をつくりかえてしまった日本書紀を、無批判につかっただけなのである。
注:05年8月の新版では、このコラムは全面削除されている。偏っているとの批判に配慮した結果であろう。また旧版でこのコラムの前には、「出土品から歴史を探る」と題するコラムが掲載されていた。そこには年代測定法の問題も記述され、歴史を考えるには、とても良い記述であった。このコラムもまた新版では全面削除されている。
新版は「問題」として非難された所の記述を削除したり表現をソフトにして批判を避け、採択されやすくしているのだが、それに伴って、旧版が持っていた長所、他の教科書よりは踏み込んだ記述のほとんどが削除されている。この「出土品から歴史を探る」というコラムの削除もその例である。
注:この項は、前掲古田武彦著「盗まれた神話」などを参照した。