「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判1


 1.「武者の世」=武士が政治の実権を握った時代という誤解

  この教科書は、中世の始まりとして「保元・平治の乱」を置いている。従来の教科書が「鎌倉幕府の成立」をもって中世の始まりとしてるのと比べればより真実に近い記述と言えるが、ここの記述にも問題がいくつかある。

  この教科書は「保元・平治の乱」を評して、以下のように記述した(p82)。

  都を舞台とした天皇と上皇の争いに、武士が大きな力を発揮したことで、この乱は武士が政治への発言力を増していく転機となった。藤原氏出身の僧である慈円が書いた『愚管抄』という歴史書では、この乱から「武者の世」に移ったとしている。

  この慈円の「武者の世」という評価は、従来からよく使われる用語であるが、この語は従来は、「ここから武士が政治の実権を握ることとなり、これ以後、貴族・天皇の力は急速に衰えた」という意味に使ってきた言葉である。そしてこれはこの教科書でも同様であることは、後の鎌倉幕府の成立の所で、これを「武家政治の始まり」と評価したりしていることからもわかる。「武家政治」とは、「武士が政治全般の実権を握った」という意味の言葉だからである。

  しかしこの慈円の言葉をこのように受けとって良いのであろうか。

 (1)「武者の世」とは「政治=暴力の時代」という意味に過ぎない

  慈円は、この言葉をどのような意味で使っているのであろうか。これは『愚管抄』という「歴史書」の性格を押さえなければわからない。

  『愚管抄』は、慈円が、時の上皇であり、一の人として天皇家の頂点にあって、王朝国家政治の主人公であった、後鳥羽上皇を諌めるために書いた書である。何を諌めたかというと、後鳥羽上皇が北条義時討伐の院宣を発して、幕府との直接対決をしようとしたことを諌めたのである。

  諸貴族の荘園からの年貢徴収を行う代わりとして一律に「兵糧米」を取ろうとした鎌倉幕府に対して反発し、その寵愛する女房の荘園地頭の罷免と、その荘園がある河内の国の守護の廃止とを受け入れよとの後鳥羽上皇の命令を拒否した執権北条義時との対立を直接のきっかけとして、武力討伐へと動いた上皇。それに対して、その歌の師匠でもあり、政治の師匠でもあった摂関家九条家の出である天台座主慈円は、この行動は 天皇家の断絶と貴族政治の終焉に到る危険を孕んでいると判断し、さいさん上皇を諌めた。だがその慈円の言葉に耳を貸さず、上皇の歌の師匠としての慈円の役割も取あげた上皇に対して、慈円は、天皇家と貴族政治の歴史的由来を紐解く事を通じて、幕府と王朝国家との共存を説いたのである。

  この時の慈円の歴史的認識は、今の時代は、平安時代初めの延喜・天暦の時代のような、「律令」と「先例」にそって政治が粛々と行われる時代ではなく、末法の世である現代は「政治を行うに暴力をもってするしかない」時代であるというものであった。

  つまり、保元の乱で、上皇と天皇が争ったとき、源平二氏の武力を双方が用いて対立を決着しようとした時から、「政治を行うに暴力をもってするしかない」時代になったという認識である。「武者」とは、「暴力を生業とする人々」という事であり、この人々を活用しないでは、天皇・貴族の政治も立ち行かない時代なのだから、この人々と共存するしかないと説いたのであった。

 (2)「朝家の守り」としての幕府

  だが、この慈円の考えは、「政治全般を幕府=武士に任せる」という考えとは程遠いし、後鳥羽上皇の企て(=承久の乱)以後の、幕府と朝廷の関係からみても、「政治全般を幕府=武士に任せる」という考えと当時の実態とは、大きな隔たりがある。

  慈円は言う。「朝家(=天皇家)は昔は自ら武器をとって闘いの先頭に立ち、この国を治めてきた」。このことの証が「3種の神器」の1つである「草薙の剣」である。しかし延喜・天暦の時代以後は、「朝家は、国の守り・朝家の守りとして源平二氏をつかって政治を行って」きた。そして保元の乱以後はまさしく、源平二氏の武力を使わずしては政治がなりたたなくなったのである。

  その闘いの最後の場面である「壇ノ浦の合戦」において「草薙の剣」が海中に落ち、そのまま行方知らずとなったことは、「朝家が自ら武器をとって闘いの先頭に立って国を治める」時代から、「武者を朝家の守り」として、彼らに軍事的検断権(警察・裁判、もしくは軍事的行動をとること)を委ねる時代へと変化したことを物語っている。だから幕府といたずらに対立するのではなく、任せるべき所は任せて、朝家の安泰=国の安泰をはかるのが、一の人の務めである。

  慈円はこのように、後鳥羽上皇に説いたのであった。

  彼の認識に置いては、幕府は天皇を頂点とした王朝国家と対立する物ではなく、それから軍事的検断権を任され、天皇の下で、国の安泰をはかる任務を帯びた機関なのであった。そしてこの認識は、多くの貴族にも共通した認識であったし、かの源頼朝以下の源氏将軍の認識でもあったし、幕府執権たる北条氏やその他の有力御家人たちにとっても共通した認識だった。すくなくとも武士たちの主観においてはそうだったのであり、 武士たちが自分たちこそが政治的主人公であることに目覚めたのは、ずっと後の、戦国時代後期であったのである。

  これは当然の事である、前に武士のことを論じた個所でも書いたが、武士は「軍事部門を司る有力貴族」から派生したものであり、少なくともその棟梁格の武士たちにとっては、自分たちは天皇家の下で国の守りを司る貴族という意識なのであったから。

  彼ら武士の行動の基準は、『主人』である天皇や上級貴族のために動くとこであった。

  こう考えてくると、「武者の世」とは、けして「武士が政治全般の実権を握った」時代ではなかったのである。この時代の天皇・貴族・武士たちの意識の面でもそうであったし、実態としてもそうであったのである。

  だがこの認識にたつと、この教科書の「保元・平治の乱」の記述には、上に述べたこと以外にも、多くの不充分な点や、間違いとも言える点があることに気付かされる。

 (3)「王朝の分裂の清算」としての保元の乱

  教科書は、保元の乱の原因を、以下のように記述する(p82)。

  1156(保元元)年、後白河天皇と崇徳上皇が皇位の継承をめぐってはげしく対立した。これに、藤原氏も、兄弟の争いがもとで、二手に分かれて荷担し、ついに戦いの火ぶたが切って落された(保元の乱)。

  ここでは単に天皇と上皇が対立したのではなく、「皇位継承」についての対立であったことが明確に述べられている。この点は、多くの教科書よりも正確な記述である。

  だがこの記述では、天皇と上皇の個人的な対立と摂関家の中の兄弟の個人的な対立のように受け取られてしまう。

  保元の乱の原因は、後白河とその兄崇徳の対立ではなく、後白河の息子でこの時皇太子になった後の二条を天皇にすえようとする天皇家の一派と、崇徳の息子を皇太子とし、それを天皇にしようとする、崇徳とそれを支える摂関家の庶流藤原頼長やかつての冷泉系王統を支えた貴族たち、とりわけ武家源氏の一派の対立なのであった。後白河は、二条を天皇にしようとする一派に担がれて心ならずも天皇になり、そして皇太子の選定において、同じく心ならずも同腹の兄崇徳と対立せざるを得なかっただけである。

  ではその、二条を天皇にすえようとする一派とは誰のことなのか。それは1156年に死去した鳥羽法皇の妻藤原得子(美福門院)とそれを支える得子の家である善勝寺流藤原家を中心とした院近臣と、同じく美福門院を支える摂関家嫡流の関白藤原忠通らであった。

  そしてこの一派と崇徳との対立の原因は、崇徳の「父」である鳥羽と崇徳との対立にあり、さらにこれは鳥羽の父である白河と鳥羽の対立に端を発していたのである。

  そもそもの発端は、白河が父後三条の遺志に反して、彼の弟である実仁や輔仁に皇統を譲らず、これと対立しながら、自己の血統に皇統をつたえようと画策した事にある。彼は貴族層の多数の輿望を担った三宮輔仁を抑圧し、それを支えた冷泉系王統に繋がる貴族層や武家源氏の棟梁源義家らを抑圧しながら、子どもの堀河を天皇位につけ、さらに堀河が29歳で夭折するや、貴族層の輿望を担った三宮輔仁をさしおいて、堀河の遺児であり自己の孫である鳥羽をわずか5歳で即位させた。しかし鳥羽が病弱であり、なかなか子どもができなかったことに危機感を持った白河は、自己の血脈を維持させるために鳥羽の后である藤原璋子と通じ、2人の間に息子(後の崇徳)が生まれたのである。そして、1123年、21歳の鳥羽を退位させ、わずか5歳の崇徳を天皇位につけ、性急に自己の王統の継続を図ろうとした。

  ここに父白河によって妻を奪われ、自己の意思を無視された鳥羽と白河の対立が顕在化したのである。

  鳥羽は、閑院流藤原氏を母にもつ白河が拒否した摂関家嫡流の藤原忠実の娘泰子を入内させ、忠実の息子の忠通を関白にすえ、父白河に反抗した。白河が生きているときは、これ以上の対立にならなかったが、1127年に白河が77歳で死去するや、対立は王統の分裂の様相を見せ始める。鳥羽は、1139年に、自身の愛する后、藤原得子が男子(後の近衛天皇)を生むや、彼を皇位につけて自己の血脈に皇統を継がせることとし、 1141年、まだ23歳の崇徳を退位させて、2歳の息子近衛を天皇位につけた。さらにその近衛が1155年に、わずか17歳で子どももないまま死去するや、崇徳の息子の重仁をさしおいて、妻の得子の養子になっていた後白河の息子(後の二条)を立太子させ、その父である後白河を天皇位につけたのである。ここに鳥羽は、父白河の遺志を完全に無視して、崇徳の血脈には皇統を伝えさせない意思を、断固として示したのである。

  おさまらないのは無視された崇徳である。そして崇徳の下には、かつて白河院政のもとで不遇をかこった三宮輔仁をささえた一派、すなわちかつての冷泉王統を支えた武家源氏の棟梁である源為義らが復権をかけて結集し、同時に摂関家の庶流の藤原頼長が、2人の妻が閑院流藤原氏の出であるという縁で結集していた。

  つまり保元の乱以前に、天皇家は分裂しており、それは、白河の王統にさからって自己の王統を確立しようとした鳥羽の王統と、鳥羽が無視した白河の王統とその白河に無視された三宮輔仁の流れ、つまりかつての冷泉王統につながるという二つの矛盾した王統の結合である崇徳の王統に分裂していた。したがって貴族層もいくつかに分裂しており、その対立が頂点に達して、武力をもってしか清算できなくなったのが、保元の乱であったのである。切っ掛けは崇徳と対立した鳥羽の死であった。チャンスと見た崇徳は自己の復権をかけて清和源氏源為義の軍勢をもって内裏を攻めせめようとし、対する鳥羽の一派は天皇後白河と皇太子、のちの二条を擁して、白河・鳥羽をささえた武家の棟梁、桓武平氏平清盛の軍勢と、父爲義との対立から、冷泉系を支えるという源氏の伝統に反して鳥羽派についた清和源氏源義朝の軍勢をもって、崇徳の屋敷を先制攻撃したのである。

  言いかえれば、かの10世紀中ごろにはじまる王統の分裂と対立の歴史の極点として保元の乱はあり、政治的妥協では解消できなくなった対立を武力で解消しようとしておきたのが保元の乱であったのである。

 (4)「院と天皇」の対立を胚胎した平治の乱

  武士が政治の前面に出たといっても、それは天皇・貴族内部の争いに決着をつける「暴力行使を生業とする」ものとしての動きだった。そしてこのことは、続いて起きた平治の乱についても言える。

  教科書は、平治の乱の原因について、以下のように記述している(p82)。

  保元の乱ののち、源氏と平氏の対立が深まり、1159(平治元)年に争いがおこった(平治の乱)。この争いで、平清盛が源義朝を破り、平氏が武士の中でもっとも有力な勢力にのしあがった。

  ここでは前の保元の乱とは違って、まさしく政治の主役が武士という書き方になっている(多くの教科書もこう記述しているが)。

  しかしこれは完全な間違いである。

  平治の乱の背景には、後の後白河と二条との対立が胚胎されていた。

  1158年に後白河は譲位し、息子の二条が天皇についた。いわば後白河が「院政」を敷く形になったが、ことはそう単純ではない。後白河の退位は彼の意思ではなく、後白河を天皇位につけたな亡き鳥羽の一派、すなわち美福門院を頂点とする一派の意思であり、後白河即位の条件でもあった。だから引退後の後白河が政務全般を見たのではなく、彼の乳母の夫であり、美福門院を頂点とする鳥羽院政の中心人物でもあった藤原信西が政務全般を取り仕切った。いわば二条を支える一派が政治を握っていたのである。後白河は単なる飾りに過ぎない。

  しかし人は飾りの地位に甘んじるものではない。後白河も天皇家に生まれた人物である。鳥羽の四男に生まれ、しかも鳥羽が憎む妻璋子と鳥羽との間の子であってみれば、かれが天皇位につくことなどありえなかった。その彼が時代の激変によって心ならずも天皇になったのだが、なってみると自分の意思で政治を取り仕切り、とりわけ皇位継承を取り仕切りたくなるのは人情である。

  政務から遠ざけられた後白河は、鬱々とした気持ちを今様三昧と男色趣味に走ることで紛らしていた。その男色相手でもあった藤原信頼。当時わずかに27歳。その彼が後白河の寵愛を武器に、時の執政である藤原信西に挑戦したのである。彼は自分が後白河を擁して政治全般を行うべく、保元の乱で功績があったにも関わらず、信西執政のもとで不遇をかこっていた源義朝を誘い、彼の武力を背景にしてクーデターで実権を握ろうとした。これが平治の乱の原因である。そして藤原信頼は二条派の貴族の中で藤原信西の執政に不満をもった貴族たちと語らって、武力をもって 内裏から院と天皇を拉致し、藤原信西とそれを支える武家棟梁の平清盛の一派を排除しようとしたのである。

  つまり平治の乱は、二条天皇を支え、それを通じて鳥羽派の皇統をつなげようとした藤原信西と、そのことに不満をもつ後白河を擁して、彼に自己の意思で政治を行わせ、その下で執政の任につこうとした藤原信頼の対立なのである。二条天皇はまだ子どもであるので、父後白河との対立はまだ表面化していないが、自分の意思を無視された後白河の二条親政への不満が、この乱を生み出した原因なのである。

  そして信頼の敗北の原因は、後白河が信頼の思惑に反して、二条・信西の方についたことである。1159年の時点に置いては、後白河はまだ、鳥羽派に逆らって、自己の院政を強化する意思はなかったのである。

  平清盛と源義朝との対立は、清盛が鳥羽派の王統に仕え、義朝がそれと心情的に対立する後白河派に仕えた結果に過ぎないのである。そして 義朝の敗北の原因もまた、その後白河が鳥羽派=二条派に叛旗を翻す意思を持っていなかったことにある。

  平治の乱においても、政治の主人公は天皇・貴族であり、武士はあいかわらず「暴力の執行者」としてそれに奉仕したに過ぎないのである。

  この乱においても「武士が政治全般を握る」という意味ではなかったのであり、乱の主語を、武士の棟梁に置くことは、誤った歴史認識を生み出すもとなのである。

  扶桑社の教科書は、きわめて天皇の地位を強調する教科書ではあるが、ここでも従来の定説に無批判に乗っかっているだけであった。

(5)平氏は乱の以前から最大の武家の頭領であった

  最後に一言補足しておこう。この教科書は、平治の乱における勝利ではじめて「平氏が武士の中でもっとも有力な勢力になった」かのような記述 をしている(他の多くの教科書も同じ)が、平氏が武士の最有力のものとなり、「朝家の守り」として脚光を浴びたのは、平治の乱以後ではなく、もっと昔から、かの白河院政の時代からであったことを明記しておく。

  白河は、自己に対立する三宮輔仁を支える清和源氏に対抗して、一地方武士の棟梁に身をやつしていた平維衡流の伊勢平氏の棟梁平正盛を抜擢し、その息子忠盛は鳥羽に奉仕することで西国一帯に基盤を築き、武家源氏を凌ぐ武家の棟梁となっていたのである。そしてこのことは忠盛の息子で、白河帝の落し胤といわれた清盛の代にも継承され、桓武平氏が武家の棟梁としての地位をすでに築いていたのである。

  白河院政に反抗した清和源氏は力を削がれ、そしてこの保元の乱・平治の乱を通じて都ではその勢力は解体された。武士の問題で言えば、平治の乱は、清和源氏が「朝家の守り」としての地位を完全に失い、関東における一地方武士の棟梁の地位へと陥落したことを意味している。

:05年8月刊の新版における「保元・平治の乱」の記述は、旧版とほとんど同じである。したがって「武者の世」の意味の取り違えを始めとして、先に示した批判は、新版にもそのままあてはまる。

:この項は、保立道久著「平安王朝」(1996年岩波新書刊)、大隈和雄著「慈円の生涯」「『愚管抄』の世界(1983年中央公論社刊日本の名著9永原慶二編「慈円・北畠親房」所収)、河内祥輔著「保元の乱・平治の乱」(2002年吉川弘文館刊)、元木泰雄著「保元・平治の乱を読みなおす」(2004年日本放送出版協会刊)などを参照した。


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