「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第2章:中世の日本」批判2


 2.「平氏政権」という幻想:権力を握っていたのは後白河だ!

  「鎌倉幕府」の項目の二つ目は「平氏の政権」である。ここの記述は「平氏の政権」という表題の付け方からもわかるように、「武家平氏が武士として政治の実権を握った」という認識に基づいている。

  教科書の記述を見てみよう(p82〜83)。

  平清盛は、後白河上皇との関係を深め、力を貯えて、武士として初めて朝廷の最高の地位である太政大臣にまでのぼりつめた。また、藤原氏と同様に娘を天皇の后とし、生まれた皇子を天皇に立て、その外戚となって、いよいよ大きな権力をわがものにした。

  たしかに平氏は多くの荘園を手に入れ、全国の半分の地方を治める権限を握り、大きな力を手に入れた。だがこれははたして、この教科書が 暗示するような「平氏が天皇を押さえて政治全般にわたる実権を掌握した」というものであったのだろうか。

  この記述は、「藤原氏と同様に」と書いていることからわかるように、「摂関政治」と「平氏の政治」が似ていることからくるものである。

  だが先に「摂関政治」のところで記述したように、藤原氏と同様に平氏の場合もまた、その権力は一の人である後白河上皇に発しており、その承認と庇護があってのことであり、平氏が後白河の直系王統づくりに奉仕したからこそなし得たのだということを、この教科書の記述は度外視しているのである。

  平清盛は後白河王朝の執政であり、この意味で平治の乱で註せられた藤原信西と同じ地位なのである。権力を握っていたのは平清盛ではなく、後白河の方なのだ。

  だが、後白河と平清盛の関係は、簡単にそのようになったわけではない。

 (1)「二条親政」の踏み台に過ぎない後白河

  先にも述べたように、後白河は二条を天皇に据え、その血脈に皇統を伝えさせるための「中継ぎ」の天皇に過ぎず、いわば、ワンポイント・リリーフに過ぎなかった。彼の在位の時期と、息子の二条に位を譲って上皇となった時期でも、政治全般を司ったのは執政である藤原信西であり、彼の背後には、美福門院を頂点とした「鳥羽派」の皇族とそれを支える上級貴族の一派があった。

  この状態は平治の乱で藤原信西が誅せられたあとでも変らなかった。

  むしろ平治の乱は、後白河近臣の間での内乱であり、後白河の王としての資質に疑問を感じた「鳥羽派」の人々は、乱の直後から、後白河の院政を廃止して、二条の天皇親政を推し進める方向に動いたのである。

  平治の乱の翌月、二条天皇は、先の近衛天皇の后であった藤原多子を后とした。二条18歳。多子21歳。この婚儀の背後には、我子の近衛の代わりに養い子の二条を通じて鳥羽の王朝を継続させようとした美福門院の強い意向と、それを支える関白藤原基実と前関白藤原忠通、そして太政大臣の藤原伊通らの、貴族中枢の意向があった。そして二条天皇は天下の政務を自らとり、父である上皇後白河にはなんら相談もせず、もっぱら関白の藤原基実と相談してことを運んだのであった。

  要するに貴族中枢は、後白河を中継ぎの天皇としてしか遇せず、二条こそが鳥羽王朝の正当な皇統を継ぐものと考えていたのである。そしてこの姿勢は平清盛にとっても同様であり、彼は二条を支える関白基実の妻に自身の娘の盛子をいれて摂関家ともつながり、二条の内裏となった基実の邸宅の周りに自身の家人を多数住まわせ、その警護など二条に奉仕していたのである。

 (2)「二条親政」と対峙した後白河

  しかし二条天皇を担いだ「鳥羽派」に後白河が屈服していたのは、1161年までであった。

  この前年に後白河の後宮にあがった平滋子(清盛の妻で、文人貴族である堂上平氏の平時子の妹)が、この年に、後白河の三番目の皇子を生んだことが後白河の転機になった。なぜなら上の2人の息子である二条と以仁王とは、美福門院得子の養子とされ、鳥羽王朝継続の玉として使われて、後白河と対立する動きをとっていたが、この三番目の皇子は、美福門院が死去したあとで生まれたはじめての皇子であり、ここに後白河は初めて、自己の意思で、自己の血脈に皇統を伝える可能性を持ったからである。

  そしてこのことはすぐさま二条と後白河の対立として顕在化する。この年、平時忠と平頼盛とが、後白河と滋子の間の皇子である憲仁を二条の意思に反して立太子させようとして謀反の罪で囚われ官を解かれた。時忠は時子の兄であり、頼盛は清盛の弟であり、この裏には自己の血脈を天皇位につけようとする後白河とそれをささえる平清盛、そしてこれを阻止しようとする二条と摂関家の確執があったのである。

  さらにこの年の3年後の暮れに、二条に初の男子が生まれるや対立は激化し、二条は後白河に対立して代替わりの新政を宣言したのである。

 (3)「鳥羽派」の重鎮の相次ぐ死去により権力を握った後白河

  しかしこの対立の結末はあっけなかった。1160年に二条を支える鳥羽派の頂点に立つ美福門院得子が死去し、二条に初の息子が生まれたその年に、二条を支えた摂関家の当主の藤原忠通が死去し。さらに翌年の1165年には、太政大臣藤原伊通も死去。そして同じ年に、肝心の二条が病をえて、2歳の息子六条に譲位したのちに23歳で死去。そしてさらに翌1166年には、関白の藤原基実も死去してしまう。

  後白河を『中継ぎ』として鳥羽王朝をつなげようとした王家と貴族の重鎮たちのほとんどが死に、残ったのはわずか2歳の天皇六条だけ。摂関家の後継ぎたちも若年で、後白河の前に立ちふさがるものは誰もいなくなったのである。

  後白河は二条の死後すぐに平滋子との間の息子憲仁6歳を立太子させ、その後1168年には6歳になったばかりの六条を退位させ、8歳になった憲仁を即位させた(高倉天皇)。ここに後白河は、自己の直系王統を確立する道へと踏み出したのである。

  ことここに到っては貴族上層部も後白河の動きを追認せざるをえなくなったのである。

 (4)平氏に支えられた「後白河王朝」

  この滋子入内から六条退位にいたる時期の政治を、後白河の意を受けて実行したのは平清盛とその妻の兄である平時忠であった。

  そしてとりわけ清盛の立身はすばやかった。滋子入内の1160年には武家としてはじめて正三位参議として太政官に列し、翌年には検非違使別当と右衛門督を兼ね、都の警察と軍事の実権を握り、二条死去の1165年には従二位権中納言、そして翌年の六条即位のときに正二位内大臣となり、1167年には太政大臣にまで上ったのである。

  この清盛の出世が、後白河の跡取である憲仁の外戚として、後白河・憲仁の直系王統を支えたことへの褒賞であり、後白河王朝を支えるものとして期待された結果であることは明白である。

  後白河は妻滋子を通じて武門平家の棟梁たる清盛と、堂上貴族平家の氏の上である時忠に支えられて、自己の王朝を確立した。平氏が『公卿16人、殿上人30人あまり、諸国の受領や衛府・諸司の長官は60人あまり。平家でなければ人ではないと言われるほど、全国66国のうち30国あまり を知行し、その荘園となる田畑は数知れず』(平家物語)となったのは、彼らが後白河王朝を支えた見かえりであった。

  そして、平滋子の腹に生まれた高倉天皇の后には、1171年に清盛の娘徳子が配され、1178年にはその腹に皇子(後の安徳)が生まれ、後白河王朝は、院・天皇・皇太子を独占し、それを支える執政として清盛が腕を振るったのである。

   この自己の王朝の安泰を背景にして、上皇後白河は、自己の趣味にふけり、当時の今様の集大成である『梁塵秘抄』を完成させた。

 (5)内乱の時代を背景とした「武門貴族」としての『平氏政権』

   だが平清盛は「武士」として政治を行ったのではない。平氏は『武門貴族』である。その流れをたどれば桓武天皇に発する王族であり、「朝家の守り」として軍事部門で天皇に奉仕する貴族であった。そしてさらに白河天皇に抜擢され、中央政界で活躍するようになってからは、白河・鳥羽の王朝の中枢に仕え、その王朝の継続に力を注いできた。

   保元の乱で後白河の側で戦ったのも、後白河を中継ぎとして鳥羽王朝を継続させる「鳥羽派」の貴族としての行動であったし、平治の乱で藤原信西の側に立ち、藤原信頼・源義朝と闘ったのも、鳥羽王朝の直系としての二条を支えるためであった。そして後白河と二条の対立が顕在化する中では、両者と婚姻を通じて二股かけるという行動をとったのも、王朝が分裂している時代における貴族の、普通の行動であった。

   さらに鳥羽派の重鎮たちが次々と死去し、皇統が後白河→高倉に収斂するや、それを支えて軍事を司り、さらにはその執政として行動したのも、皇統を支える貴族としての行動であった。

   そして平氏は藤原摂関家などの貴族と対立して動いたわけではない。このことは清盛の子女の多くが藤原摂関家や閑院流藤原氏らの院近臣とも婚姻を通じてつながっていることも、平家の主だったものが「公達」と呼ばれている事からも、彼ら平氏は天皇を頂点とした貴族の一員として行動していることを示しているのである。彼らが他の貴族と対立した時はすべて、彼らが仕える王朝が分裂していたときであり、主人たちの対立に応じて、その家人たる諸貴族と対立したのである。

   さらに清盛が「軍事貴族」としては異例の立身を遂げたのは、皇統の分裂の時代はまさに暴力を生業とするものが前面に出ざるをえなかったからであり、時代のなせるわざであった。そして清盛が軍事警察権という軍事貴族の領分を越えて政治の中枢に携わらねばならなかったのは、一つは彼の主人である後白河が、貴族層全般からは中継ぎとしてしか認知されず、彼が自己の王統を確立するためには、貴族中枢との対立を乗り越えて行くしかなかったからであり、一つには後白河に対立した鳥羽派の貴族の重鎮たちの相次ぐ死去により、清盛が執政として後白河を支えるしかなくなったこと、さらには、清盛自身が白河天皇の御落胤と称していたし貴族層全体にもそう認知されていたことにより、白河の曾孫にあたる後白河から見れば清盛は大叔父にあたり、白河・鳥羽王朝を継ぐ直系王朝として、貴族中枢と対立しても、自己の王統を確立しようとしている後白河にとって、正統王朝の始祖である白河の血を引く貴族であり、最大の軍事貴族の棟梁である清盛を自己の執政とすることは、もっとも理にかなったことであったからである。

   平氏の行動は全て「朝家を支える」貴族としてのものであり、その行動様式はすべて貴族としてのものであった。

   平氏が貴族としての行動様式を捨て、勃興しつつある「武士」の棟梁として行動するのは、諸国の源氏が蜂起し、都へと進撃しつつある1181年のことであり、清盛の死去にともない、畿内近国の軍事検断権を大将軍としての平重盛に集中し、幕府ともいうべき平氏政権を作ったときだけである。しかしこれも自己が支える高倉・安徳王朝を、それと対立する後白河、そして鳥羽王朝の貴族とそれをささえる武門貴族の攻撃から守るために、畿内近国の「武士」たちを、その軍事力として結集させるための臨時的措置であった。

   平氏の行動は、最初から最後まで、天皇を頂点とする貴族の政権である王朝国家を支えるためのものであったのである。

:05年8月刊の新版の「平氏の政権」の記述は旧版とまったく同じであり、ここで指摘した問題点は、そのまま新版にもあてはまる。

:この項は、前掲保立道久著「平安王朝」などを参照した。


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